バチカン教皇儀典室: 「跪いての舌での聖体拝領」を主張する文書

 聖座の公式Webサイトには、正統な聖体拝領の所作(ひざまずいての舌での拝領)を主張する内容の英文が掲載されております(1)。おそらく日本語の全訳文を掲載しているサイトはないように思われますので、以下掲載いたします。

翻訳元ページのURL http://www.vatican.va/news_services/liturgy/details/ns_lit_doc_20091117_comunione_en.html

※ 以下日本語訳は、英語の専門家による翻訳ではないことをご了承願います。
※ 甲括弧〔〕でくくった箇所はサイト管理人による補足です。
※ 写真は元サイトからの転載です。


教皇儀典室(2)  OFFICE FOR THE LITURGICAL CELEBRATIONS OF THE SUPREME PONTIFF

跪いての舌での聖体拝領  Communion received on the tongue and while kneeling

聖体拝領

 聖体授与の最古の慣わしは、おそらく、信徒の手のひらに聖体を授けるというものでした(3)。しかし典礼の歴史は、この慣習の変更がかなり早い時期に起こったことを明らかにしています。

 教父たちの時代から、舌の上へ聖体を授ける方法が支持されました。手のひらでの聖体拝領はいっそう制限されるようになり、そして統合されました。この慣習の動機としては2つあります。a) 第1には、聖体の小片がこぼれ落ちるのを可能な限り避けるためです。b) 第2には、信徒たちの、聖体の秘跡におけるキリストの現存への信仰を深めるためです。

 聖トマス・アクィナスも、聖体を舌でのみ拝領する慣習に言及しています。彼は、叙階された司祭のみが主の御体に触れるにふさわしいと主張しています。

 それゆえに様々な理由から、なかでも聖体の秘跡への敬意を引き合いに出して天使的博士はこう記しています。「…聖別されたもの以外のいかなるものによって触れられることのないようにという、この秘跡にたいする崇敬の念である。ここからして、コルポラーレもカリスも聖別されるのであり、同様にこの秘跡に触れるために司祭の手も聖別されるのである。ここからして、他のなんびとも、たとえば(ホスチアが)地面に落ちたという緊急必要な場合、あるいは他の緊急必要な場合を除けば、触れることは許されないのである」(『神学大全』 Summa Theologiae, III, 82, 3)(4)

 何世紀にもわたって教会は、神聖さと最大の敬意とともに、聖体拝領の瞬間を常に特徴づけてきました。この崇高な秘跡の神秘について理解を促す外的なしぐさを、力の及ぶ限り、絶えず発展させることを教会自身に強いてきたのです。愛情深い、司牧的な心遣いによって、教会は信徒が正しい心持ちで聖体を拝領するように取り計らってきました。拝領しようとしている神の現存を信徒が内面的に理解し、熟慮する必要性は、信徒に求められる内的な態度の中でも際立ったものです。(『教皇聖ピオ十世のカテキズム』、628 & 636を見よ(5)。)西方教会は、聖体拝領者にふさわしい献身のしるしの一つとして、跪きを定着させました。教皇ベネディクト十六世の使徒的勧告(6)『愛の秘跡』(Sacramentum Caritatis)の66項で引用されている、聖アウグスティヌスの誉れ高い言説はこのように教えてくれます 。「誰もまず礼拝することなしにこの肉を食べてはなりません。礼拝しなければ、わたしたちは罪を犯すことになります」(『詩篇注解』Enarrationes in Psalmos 98, 9)。跪きは、聖体のキリストを拝領する前に必要な礼拝を表し、それを深めるのです。

聖体拝領

 この観点から、当時のラッツィンガー枢機卿は断言しました ―「聖体拝領がその深みに達するのは、聖体礼拝によって支えられ、抱かれているときです」(『典礼の精神』(7)) 。この理由により、同枢機卿は「聖体拝領の時に跪く慣習は、数世紀も続く伝統により支持されています。それはとりわけ表現力豊かな礼拝のしぐさであり、聖別された〔聖体の〕形態のもとにある私たちの主イエズス・キリストの真理、現実、そして実体の光において完全にふさわしいことです」と主張しました(2002年7月1日付の典礼秘跡省書簡「This Congregation 」にて引用)。

 教皇ヨハネ・パウロ二世は、最後の回勅『教会にいのちを与える聖体』(8)Ecclesia de Eucharistia)の61項でこう書き記しています。「聖体に対して、ふさわしい敬意を払わなければなりません。また、そのいかなる要素、それに必要ないかなることもおろそかにしてはなりません。それによって、私たちは、私たちがこのたまものの偉大さを本当に自覚していることを表すのです。私たちは、途切れることのない伝統によって、このようにふるまうことを命じられています。一、二世紀の時代からずっと、キリスト教共同体はこの『宝』を守るよう心がけてきました。愛に駆られながら、教会は後に続く世代のキリスト者たちに、この聖体の神秘に関する信仰と教えを一片の欠けるところもなく伝えるよう、心を砕いてきました。この神秘に対してどれだけ気を配っても配りすぎるということはありません。『なぜなら、この秘跡のなかに私たちに救いをもたらす全ての神秘が含まれているからです』(9)。」

 前教皇の教導に続き、教皇ベネディクト十六世は2008年の「キリストの聖体の祝日」の典礼より、跪いている信徒の舌の上に直接置く形で、主の御体を授けるようになりました。


サイト管理人による備考

(1)  本文書の発表時期: 2013年5月?(Internet ArchiveのWayback Machineにより推測。ページURLによると2009年11月17日のようにも思われますが。)

 

(2)  教皇儀典室: 「教皇の執行する典礼および諸儀式を準備し、定めどおりに進行する責任を負う」組織。ーカトリック中央協議会公式サイト「バチカンの組織」(https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/vatican/) より
 
(3)  前回の記事でも引用したような、初代教会に関する私的啓示を参照すると、最古の儀式でも舌での拝領だったのではないかと考えられます。なぜなら、尊者アグレダのマリア(1602-1665)や福者アンナ・エンメリック (1774-1824)の啓示内容には「手の上に聖体を授かっていた」という言及がないからです。彼女たちがこの世に生きていた時代においては、舌での聖体拝領が通例であり、もし手による聖体拝領の様子を彼女たちが幻視したのであれば、異例の所作として特別に言及すると思われます。
 

人間は、何かを書き記すときに当然のことだと認識している物事をことさらに描写しようとは思わないものです(例えば、或る人が食事している様子をルポルタージュする場合、「鉛筆を持つように箸を右手で持って…」のような箸の使い方の通常動作の描写を省くように)。彼女たちも、幻視した「通例の」舌での聖体拝領の所作を特別に言及しようとは思わなかったのではないでしょうか。

もちろん、私的啓示は信ずるべき教義ではありませんが…。

(4)  稲垣良典訳『神学大全 44』創文社、2005年、pp.108-109
 
(5)  日本では『公教要理詳解』の書名にて財団法人精道教育促進教会より出版されています。JGさんのサイト「護教の盾」にも全文が掲載されております。ページリンク: 628636
 
(6)  原文では回勅 Encyclicalと書かれておりますが、リンク先のページにも記載されている通り、使徒的勧告に訂正しました。
 
(7)  濱田了訳『典礼の精神』サン パウロ、2004年、p.100。The Spirit of the Liturgy (Ignatius Press, 2000), p. 90と聖座の元英文中に記載有り。
 
(8)  カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳『教会にいのちを与える聖体』カトリック中央協議会、2003年、p.86 ※一部の表記は改めました。
 
(9)  聖トマス・アクィナス『神学大全』Summa Theologiae, III, q. 83, a. 4c.