奇妙な一つ目絵画と典礼改革

拙ブログ記事に何度か登場した故佐久間たけし神父(「マリアさまのこころ」を作詞・作曲した方)。同神父が1961年に創立した荻窪教会公式サイトに、久々にアクセスしてみました。すると、サイト全体が大幅にリニューアルされていました。

奇妙な絵画

同サイト内の「荻窪教会について」というページを開いてみると、この画像に出くわしました。

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一つ目がついている雲のような形状から、両手が伸びています。
BARTHOLOMAI」(バルトロマイ)の文字が印刻された白い服を着た人物は、荻窪教会(教会堂名: 聖バルトロマイ)と思われる建造物を両手で持って、掲げています。この人物は「SUSCIPE!」(受け取り給え!)の言葉と共に、一つ目雲に対して教会を捧げているかのようです。

荻窪教会の画像東京大司教区サイトより)


東京大司教区の荻窪教会紹介ページや同教会ブログを見てみると、この絵画は初代主任司祭であった佐久間神父が描き上げた「『聖バルトロマイ』の絵」とのことでした。

2011(平成24)年11月12日、創立50周年の記念ミサが、岡田武夫大司教や歴代主任司祭を迎えて盛大に行われた。また初代主任司祭の佐久間彪神父の描く、教会の保護の聖人「聖バルトロマイ」の絵がプレゼントされ、教会内に飾られた。

   東京大司教区公式サイト 「カトリック荻窪教会 歴史

絵画の右下部分には「2011 ecclesia catholica OGIKUBO 1961」(2011 カトリック荻窪教会 1961)と書かれています。「2011」は教会創立50周年の2011年、「1961」は教会が創立された1961年を意味しているのでしょう。

荻窪教会ブログより



佐久間神父が描いた一つ目雲は、一体何を表しているのでしょうか。全てを見通す神の目(All-seeing eye of God)でしょうか? それとも・・・。



※ 御像のない十字架については、以下の通り。

建設当時、佐久間彪神父様は、聖堂内の内部を自らのアイデアで装飾された。荻窪教会のシンボルとなっている祭壇に天井から吊り下げられている大きな十字架は、木製の十字架へ真鍮の金メッキをした鋲を使うという斬新なものだ。中世のヨーロッパの教会のクリスト・ジェンマー(復活の輝き)を象徴する、金の板に宝石を散りばめた十字架からヒントをえたという。

  東京大司教区公式サイト 「カトリック荻窪教会 歴史

典礼改革モデル教会


荻窪教会には、第二バチカン公会議を受けて、上野教会、初台教会と共に「典礼改革のモデル教会」に選ばれた歴史があります(1)

荻窪教会は1962年の第二バチカン公会議が開かれ現代社会における教会のあるべき姿を示したことを受けて、それまでラテン語で行われていたミサを、全部日本語で行うという典礼改革のモデル教会となって「特別の研究、実験を重ねて日本の全教会のために大きな貢献をした」(25周年誌での当時の白柳誠一大司教のお言葉)

  東京大司教区公式サイト 「カトリック荻窪教会 歴史

また、過去の記事でも引用した『礼拝と音楽』第34号(1982年8月発行)の「カトリック典礼聖歌の歩み (対談)」でも、佐久間彪神父とイエズス会の土屋吉正神父はこのような証言をしています。
文語か国語か

土屋 典礼委員会が最初踏み出した時の状況は非常にむずかしくて、例えば一般的な傾向としては、文語体でないと祈りにならないというような考え方が非常に強かった。けれども、せっかく典礼を国語化するならば、生活から離れた文語の典礼文や歌では、本当の典礼の国語化の意味が十分に出せるわけがない。典礼の国語化の問題は、結局は典礼の口語化の問題になってくるのは当然です。それで、典礼委員会 [注: 土屋神父は典礼(司教)委員会の秘書を務めた] では文語も作るけれども口語も認めてもらいたいということを主張し、最初から両方作ったんですね。

佐久間 それが奉献文(アナフォラ)でしたね。

土屋 そう、奉献文。やっぱり、ミサの中心部分から始めるべきだということで、典礼委員会は全力をあげて奉献文を国語化するということに取り組んで、随分いろいろ苦労したものです。まず、国語典礼文の起草委員会が出来ましたね。

佐久間 そう。

土屋 1967年の秋に発足したこの起草委員会は、まずローマの典礼文に着手、最初からまず、口語のものを作ったのですが、文語でなければ祈りにならないというような考え方の人が多かったので、まあ両方作ってみることになったんです。

佐久間 まあ、おもしろいことに文語体は自然に淘汰されてしまって今、使っているところはないね。

土屋 そうなんですね。おもしろいくらいでしたね。あの時は、今でも覚えているけれども、ちょうど4つの奉献文と20ほどの叙唱が一冊にまとめられ、本になって出た時、文語体の奉献文も立派な本に成り、従来の典礼書は赤い表紙が多かったので、赤い布表紙で製本されました。口語のものは、すぐ区別が付くように緑色の表紙で出たんです。ところが、圧倒的にこの口語のものが売れてあとで皮肉を言われたんです。(笑い)

佐久間 交通整理だね。

土屋 赤は危険信号、要注意。(笑い)

佐久間 黄色を作れば良かったね。まず、ちゃんとした奉献文を出すその前に、試しに使ってみる段階があったんですね。


実験的段階

土屋 そうですね。それは随分、長く感じましたね。

佐久間 それを東京教区でまず、東京教区の典礼委員会が中心になって三つのモデル教会を決めた。上野、初台、荻窪と。そしてちょうどその変革の時期に、佐久間が荻窪にいたので、実際に土屋と二人でそれをやってみたんだね。あのころは、その大いに意気が上がって、そして、生きがいを感じたね。

土屋 全く。で、また信者の人たちがよく協力してくれましたね。

佐久間 協力した。あのころ、祭壇も対面祭壇に変えてね。

土屋 そうでしたね。荻窪教会が初めて対面祭壇になった時、私も初めて佐久間神父から呼ばれて荻窪教会へ典礼の話に行ったことを覚えている。

佐久間 そうね。

 『礼拝と音楽』第34号(1982年8月発行)「カトリック典礼聖歌の歩み (対談)」、p.35
 ※ 文の強調(太文字化、マーカー)、注意書きは当サイト管理人によります。
余談ですが、「文語が自然に淘汰されてしまっ」たのではなく、上からの指導によって使われなかったのでは?と想像してしまいます。

世田谷教会の三角オブジェ

前々回前回の記事にて書いた世田谷教会。
トリエント・ミサが献げられていた時代には、祭壇奥の三角形のオブジェ?はありませんでした。

世田谷教会サイトより


「今日のミサ (対面式)」の写真が撮影された時期は不明ですが、女性信徒がベールを被っていないので、1980年代以降かもしれません。

世田谷教会の歴史 参考
1946年  今田健美師が中西邸に間借りし教会発足 

1948年  聖堂落成献堂
1971年  今田健美師、浅草教会へ異動。佐久間神父着任。
1975年  ルルド祭壇寄贈される(白百合女子大学より)
1976年  新祭壇設置


今田師の次に着任したのは、荻窪教会から異動してきた佐久間神父でした。

 今田師の後任は志村辰彌師のはずであったがご病気で入院されたので、荻窪教会主任司祭でありかつ白百合女子大学教授でもあった佐久間 彪 師が、白柳大司教の代理として「代理主任司祭」という肩書きで”当分の間”世田谷教会の司牧に当たることになった。そして佐久間師の着任とともに、1965年に閉幕していた第2バチカン公会議による変革の影響はいち早く世田谷教会に浸透する事となった。

そして、東京教区典礼委員でもあった主任司祭佐久間師のご指導のもとで、司祭と信徒がひとつになって、日本人に親しまれる典礼のあり方を考え実践するよう、司教様からの御委託を受け、特に主日のミサについて、典礼のモデル・実践教会として、色々な試みを行うお許しを頂いてき、心をこめたミサをささげることが出来るよう三十三年間、皆で努力してまいりました。
 2003年4月20日、三十三年間の長きに亘り、私達をお導き下さいました主任司祭 佐久間 彪 師が定年を迎えられ、4月20日の復活祭を最後に退任されました。

 世田谷教会Webサイト  「カトリック世田谷教会の沿革」より

佐久間神父が一体何だったのかは分かりかねますが(単なる進歩主義者、フリーメイソン、メイソンの影響にある工作員)、彼の描いた絵画のように、現在の日本の教会はフリーメイソンに対して「SUSCIPE!」(受け取り給え!)と言って、献げているかのように思われます。


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あわれみの御母、われらのために祈り給え。


本記事においては、荻窪教会や世田谷教会の所属信徒の感情を損ねようとする意図はありません。


(1) 典礼のモデル教会に加えて、市谷の援助修道会も「典礼のモデル聖堂のようなもの」になっていたとのことです。

雑誌『世紀』 座談会「典礼の現代化を考える」にて(1968年発行)。

メンバー
荻窪教会委員: S氏
教理委員会専門委員 援助修道会シスター: 景山あき子
鹿島田教会主任 国語典礼文起草委員: 古谷功
典礼委員会秘書 上智大学神学部助教授: 土屋吉正

司会
東京大学大学院: 小柳義夫
※ 肩書は雑誌掲載データによる

小柳 [略] 修道会で、やはり典礼のモデル聖堂のようなものになっている市谷の援助修道会の景山さんのほうから、今までどういうことをしてきたかということと、今どうなっているかということをお話いただきたいのですが。

景山 修道会のモデルということにはならないと思いますが、東京教区の典礼委員会の許可はいただいておりますので。どのくらい前からいただいているのか存じません。わたしがヨーロッパにいる間だと思いますから、四年くらい前からのことだと思います。

わたしたちが最初何でいただいたかと申しますと、高田先生の作曲なさったキリアーレ「やまとのささげうた」、それから、今は全国で試みられている「主の祈り」や対話句などの通常式文を作曲してくださいましたが、あのようなものを試してみようというのが始めだろうと思います。それで始めてどういうところが歌いにくかったとか、どういうところがよかったとか、そういうことを報告させていただいたのです。それを見ながらお直しになるところはお直しになったりなど、参考なさったのだと思います。

歌はそれだけなのですが、そのほかにたとえばカノンが日本語になった、そういうような時にも試みをさせていただける場所にしてくださったのです。

 『世紀』九月号(1968年9月1日発行)座談会「典礼の現代化を考える」、p.24
 ※ 文の強調(太文字化、マーカー)は当サイト管理人によります。


また、当該座談会によれば、荻窪教会では公会議前から典礼改革に意を注がれていたとのことです。

S氏  公会議の始まるずっと前から、特に佐久間神父さんが国語化というか、典礼の改革ということに、ずいぶん意を注いでおられました。モデル教会になる以前からいろいろな努力がなされたわけです。一つはミサの祈りの唱え方の問題ですね。もう一つは聖歌といいますか、[略] やはり正しいテンポで歌おうじゃないかということで、まず聖歌の正しい歌い方から始まったわけですね。

 上記座談会、p.23