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日本カトリックの歩みと展望 ー宣教再開百年記念に際してー

伊藤庄治郎(※)

 『世紀』一月号 (昭和37年(1962年)1月1日発行、中央出版社)、 pp.10-13(第四章)より

※ 当時横浜教区、カトリック山手教会主任司祭。 本記事掲載誌『世紀』発行年の1962年4月より新潟教区司教。
(秋田の聖母像の涙に立ち会われ、後に公式声明「秋田の聖母像に関する司教書簡」を出された司教様でもある


 迫害後は再び宣教師が来日し、最初の聖堂を設立しその塔上に金色に輝く十字架を立て、宣教再開の第一歩を踏出してから百年の歳月が流れた。この一世紀にわたる日本カトリックの歴史をふりかえってみるならば、切支丹時代のような急激な発展ではなく、それは遅々たる歩みであるが、正常健全な発展を示しているといえよう。余りにも急激な発展は人々の耳目をひき、迫害の機会を与えるものである。また僅かな司祭の数で数十万の信者にカトリシズムを深く理解させ、キリストの神秘体の健全な肢体として養成することは不可能であったであろう。それにもかかわらず、あのような多数の殉教者を出したことは、彼等の信仰の純粋性を物語るものである。さらにまた教会が地下に潜入した後も教会の勝利を信じ、一人の牧者も持たずに二百年間も信仰を守り通したことは正に驚異すべき事実である。この迫害と復活の歴史を通じて、日本人はカトリックのもつ強じんさと偉大さを認識し、それはそのまま信仰の遺産として日本のカトリック教会が所有する霊的財宝となり、日本教会の隠れた土台を築いているものである。
 復活後の教会がパリー外国宣教会だけの手に全面的に委ねられたことは摂理的な意義をもつことである。切支丹時代において宣教は皆修道会に属した宣教師によって行なわれた。彼等はこの国土に神の国の樹立ということ〔を〕目ざしたにしろ、自会の発展、名声ということを考慮の中に入れたことも事実であろう。さらにまた当時の布教は布教者の国の世俗的勢力と結びつけられて考えられる状況の下にもあった。一六二二年の布教聖省の設立と修道会でない宣教会の出現は、布教に関する二つの禍根を絶つに役立った。布教聖省は、布教を世俗的勢力から引離し、経済的にも独立した体勢にもっていった。また宣教会は修道会と全く異なった新しいアイデアによって創立されたのであった。布教地にその国人による教会を設立し、彼等が独立出来るならば、他の布教地に移るのである。その使命を果たしたものと考え、パリ外国宣教会の創立者パリュウ司教の一六六九年十二月六日の書簡はこの事実を明白に物語っている。
 「われわれの遣わされたのは、単に各個人の改宗のためでないことを、よく宣教師等に徹底せしめよう。われわれの使命には、教会のあらゆる任務を満たす邦人聖職者を養成し、司祭を叙階し、教会を建設し、絶えず欧州に依頼して必要な援助を請う必要なき自治自足の状態に至らしめるにある」。
 日本に来たミッション会の宣教師達はこの創立の意を体して、急激な集団的改宗よりも個人伝道に重きを置き、立派な後継者をつくることを最初から念願したのである。ここらに復活後におけるカトリックの布教活動がプロテスタントのそれに比してはなばなしい感じを与えない理由であろう。かつて岩下師が「カトリシズムの日本化は日本人がカトリックになったとき自然に行なわれるのであって、外から無理に聖堂を神社スタイルにすることではない」といわれたが、布教の根本的な在り方は、その国民の霊魂の中に超自然的種子をまき、その国土に根をおろすことである。そうするならば彼等のもっている文化の中に自然にカトリシズムが溶け込み、パン種のように徐々にそれをキリスト教化するものである。このことが実現するために、日本教会の中枢部の中に日本人が入っていかなければならない。この遠い準備はパリー外国宣教会の布教方針を是認した国として聖座によって、先ず布教地である日本にカトリック国と同じ司教区制度を設けることによって行なわれた。やがて長崎が邦人地区として誕生し、首座大司教区である東京がこれにつぎ、今次大戦を契機としてすべての教区が日本人教区長に委ねられた。戦争が終わってもローマの方針はかわらず、日本人教区長はその地位にとどまった。ただし未だ独立の出来ない邦人教区と外国宣教団体の援助とを両立させるために新しい宣教地区制度を設けた。これは邦人地区を幾つかに分割して宣教団体に一時的に委任する制度である。(この制度の日本における成功はナショナリズムの盛になった布教地に採用されつつある)。
 ローマのこの一連の処置は、日本教会が邦人化に耐える伝統と能力とをもっていることを証明するものである。ピオ十一世の早坂司教祝別に際しての言葉もこの事を裏書している。
 「予がこの小人数の教区を邦人教区に昇格させるのは、日本の教会を深く信頼し、大きい期待をかけているからである。三百年の長い迫害に多数の殉教者を出したばかりでなく、その間一人の司祭もなしに、キリストの信仰を守り通した信者の群があった。この事実は世界のキリスト教史に見られない強い信仰の証明となるからである」。
 邦人のみによる教階制度の確立の成功はカトリシズムがこの国土に深い元根をおろしつつあることを意味し、嵐が来てもたおれず、やがて大樹となる前表であろう。
 終戦のころに比較するならば信者数は三倍四倍にも増加しているであろうが一億に近い日本総人口にくらべるならば微微たるものであり、その改宗も遅々として進まないと嘆く声も聞こえる。しかし少数の改宗者であるが故によく教育することが出来、よい信者を作ることが出来る。その証拠に神学生や修道女数の信者数に比較し極端に多いことはこの事実を証明している。これは教会の土合を作るためによいことではなかろうか。
 アメリカの比較的小さい司教区であるコロンバス教区の教区民の数しかない日本カトリック教会の中に一人の枢機卿、二つの大司教区、九つの司教区、最近ではプロテスタントよりも多い学校施設と社会事業施設、十以上の観想修道会と数えきれぬ活動修道会が、ぎっしりと詰っているということを考えて見るがよい。それは驚きに値する。彼等は黙っているだけであろうか。表面上余りはなばなしい変化を見せていないかも知れない、しかしその内部において燃えている。いつか爆発するときが来るであろう。
 日本はアジアの中にあり、アジアが切離して考えらない地理的還境のもとにある。敗戦当時すべてを失い、世界の四等国になったと考〔え〕られた日本は、それから僅か十五年たった今日では、アジアの中で唯一の先進工業国と数えられ、その経済成長率では世界で第一といわれ、現在の国際収支の赤字でこれをおさえなければならないとさわいでいる。この事実は一体何を物語っているのであろうか。聖フランシスコ・ザベリオが発見したように日本人は総明さと勤勉さとの素質をもっているようである。若し彼等が、このような素質の中に位格的な唯一の神の信仰を植えつけられたならば、それは必ずやすばらしい国民となるであろう。そして隣接するアジア諸国にも影響を与えずにはおかないであろう。シーン司教が筆者へあてた手紙の一節が思い出される。
「日本人はその本性から指導者である。私が受けたすべての報告によれば、日本人は東洋の指導者と定められているように見える。若しそうであるならば、日本人が信仰の恩恵に浴すること、われわれの信仰の大なる親によって照らされた思想の伝播がいかに重大なことか!」。
 またカール・アダムは「カトリシズムの本質」の日本版の序文の中で、次のように書いている。
 「その時にこそ、ただ宮殿や茅屋のうちのみならず、東洋の学園や講堂のうちまで教会が進入して、その宣教の重心は狹隘なる欧州の一角から太平洋の長汀曲浦に移され、かくて世界伝道の決定的幕が切って落される瞬間が近づくのである。この第二幕の光に照らして見るとき、教会の西欧における活動は、あたかも単なる序幕にすぎなかったかの如く映ずるであろう。」  (横浜教区司祭)
誤字は訂正した。括弧〔〕は当サイト管理人による付加。「パリ外国宣教会」の表記ゆれは原文ママ。