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【座談会】 日本カトリック百年の歩み

『世紀』二月号 (昭和37年(1962年)2月1日発行、中央出版社)、 pp.17-33より

出席者
海老沢有道     (立教大学教授)
J・ロゲンドルフ (上智大学教授)※イエズス会司祭
佐藤直助                (上智大学教授)
鈴木成高                (早稲田大学教授)
 ※ABC順。括弧内の肩書は当時のもの。

目次
百年記念は三年前
英米とフランス
キリシタンにたいする偏見
学校と修道院
プロテスタントと知識階級
聖書のほん訳
各国人宣教師の来日
時代を画した岩下神父
キリスト教の土着化
日本の近代化とキリスト教


百年記念は三年前

編集部 今日はお忙しいところをお集まりいただいてありがとうございました。今年はキリスト教宗教が復活して百年記念になるので、今まで年間のカトリック教会の歴史を振返ってみたいと思います。それで今日は一応カトリックとしてロゲンドルフ神父様と佐藤先生、それからカトリックのシンパとして鈴木先生と海老沢先生においでを願ったわけです。それはいわば客観的というか、佐藤先生とロゲンドルフ神父様が客観的に見てないということになると申訳ないのですが、カトリックでない立場から客観的にキリスト教を見ていただきたい。鈴木先生の奥様はカトリック信者であり、海老沢先生はキリシタン史の研究家で、今も講師をしておられますが聖心の専任教授でもあられましたので……。
 まず百年間のカトリックの歩いてきた途というものを簡単に振返って、その中からいろいろな問題を取り上げて、それについていろいろとご自由にお話を願いたいと思います。それでいかがでございましょう、佐藤先生、何か……。

佐藤 どうして今年百年というのですか、ほんとは三年前ですが。

海老沢 ジラール神父が来日したのは一八五九年です。

ロゲンドルフ その翌年メルメ神父により函館ではじめて教会ができ、それから横浜にも教会ができた、それを大ざっぱな日付にしてしまいました。

佐藤 横浜教区は今年百年のお祝いをいたします。

編集部 日本全国百年でないわけですか。

ロゲンドルフ それは三年おくれ。

海老沢 ええ、正式には横浜が初めての教会ですが……。

ロゲンドルフ なるほどジラール神父はまずフランス使節団の一員として来ました。

編集部 正式に横浜の教会が建設されたのは…。

海老沢 今年の一月十二日になるのです。でも日本の再布教という意味では、琉球の那覇にフォルカード神父様ですね。一八四四年になるわけです。

ロゲンドルフ その時分から日本の教区は聖母のみ心に献げられていたのです。佐藤さんは、その辺の専門家ですから……。

佐藤 細かい内容よりもキリスト教と日本文化との問題に中心をおいて……。

英米とフランス

ロゲンドルフ たとえばこういうようなことを出発点にしていいのではないでしょうか。結局、どうしてプロテスタントがあれほど進歩して、文化に貢献したか、それにくらべてカトリックはどうしてそれほど表面に出なかったかということが一つの問題です。

佐藤 キリシタン時代のときには日本も世界史的になってないから、外国人の宣教師がいらっしゃっても、御自分の国のバックがなかったんですけれど、幕末、明治になりますと、国の背景というのが非常に大きくなったんじゃないですか。国の背景というものが非常に強く関係したために、そこから割り出してゆくと、プロテスタントの方は、日本の国策に合った国のために、たいへん有利になっているということも、一つの原因です、全部ではないのですが。

ロゲンドルフ つまり、プロテスタントは英・米・独などの進歩的な強国で、カトリックはフランスで、その当時のフランスといえばプロシアに負けたばかりの弱い国であるとか……。

佐藤 もう一つは、日本とロシアとの利害関係が非常にデリケートであって、そしてロシアの方に加担したというとおかしいんですけれど、協力したのがやはりフランスなんですよ。そのために、プロテスタントが非常に発展するときに、他方でフランスの神父様がブレーキをかけられておったということは、確かなんです。

ロゲンドルフ フランスの公使は幕府の味方だったんですね。つまり賊軍ですね、官軍ではない。

佐藤 その辺は非常に強いんですけれど、フランスは幕府の中でやったけれど、明治政府で働いていた人は、決して旧幕臣がみな排斥されたんじゃなくて、尊重されて使われたわけです。それでフランス式のものが初期においては取り入れられるのです。ですけれど、その後の国際情勢というものから、フランスというものが日本とは利害相反する立場になった。ロシアの方に付いておりましたので非常に窮屈になっちゃったんです。たとえばトラピストがまいりましてもね、まるでスパイみたいに扱われましてね、そして場所が津軽海峡という重要な要塞地帯でありまして、たいへんだったんです。

キリシタンにたいする偏見


ロゲンドルフ
 そして、キリシタンに対する偏見も大変なものだったそうですね、それが非常な障害物になったんじゃないか。

海老沢 それはやはりそう言えますね。

ロゲンドルフ マルナス〔管理人注: パリ外国宣教会司祭(1859-1932)〕は『日本におけるキリシタンの復活』という本の中で、農民の間のキリシタンに対する反感がどんなものだったかを述べています。あるフランスの神父様が明治十六年に大分あたりの農家の人々に数週間公教要理を教えたところ、十二人が洗礼をうけることになった。しかし、神父様はこれらの善良な百姓たちが唯一つのことを恐れていることに気がついた。つまり、彼らはこれから入ろうとする美しい道が、もしかすると村人たちのいうような恐ろしいキリシタンの教えなのではないかと思っていたのですね。神父様は勇気を出して、なるほどカトリックはキリシタンと同じ教えである、しかしキリシタンの教えは世間でいわれているような「外道仏」のものではないのだといってきかせたのです。それをきいてみんなため息をついてしばらくは言葉もなかったのですが、やがてその中のひとりが言ったそうです、「ひとの評判どころか、私たちの財産も、いや、生命もどうなろうと構いません。私たちはキリシタンになった以上、恥をもってでなく、誇りをもってキリシタンであると名乗りましょう。」
 全く、当時の日本でキリシタンに対する偏見は強かったようですね。

海老沢 それは幕府が民間に徹底的に邪宗門観を教えておりましたから、それがどうしても布教の妨害になりました。ですから、プロテスタントの伝道でも、自分たちは昔のキリシタンじゃないということを宣伝した、そうしなきゃ聞き手がなかった。

ロゲンドルフ キリシタンをもっと公平に見るようになったのはずっと後なんですね。

海老沢 極端にいうと、今でも残存しているといえますからね。

学校と修道院


佐藤
 もう一つ、プロテスタントが非常に教育事業で活躍できたのも原因の一つですね。プロテスタントの方はわかりませんけれど、カトリックの修道会がフランスからたくさん参っておりますね。その場合に、プロテスタントの場合、カトリックと違って修道院がないんですから、すぐに学校を初めから開く。カトリックの場合には、修道院の建物造りというような恰好にならざるを得ないと思うのですね。これは私のただ素人の考えですけれどね。修道院を造るということ、もちろんたくさんお金があれば、修道院も学校もいっしょに造るということになるけれど、そういうふうに行かない。ところが一方プロテスタントでは、直ちに学校を造って、直接人財養成に結び付いてくるんじゃないですか。

ロゲンドルフ 私の意見はやや違います。カトリックは学校を造るために、まず大きな修道院を造らなければならないというわけではない。雙葉を建てたサン・モール会とか、白百合を経営するセン・ポール・ド・シャルトルとかいう修道会は、すでに明治五、六年に日本にはいってきた。幼きイエズス会もそうです。ところでこれらの修道会が普通の学校を開いたのは大分あとのことです。明治の間にできたのは暁星だけでしたね。そのほかにはカトリック学校は一つもなかったということは結局布教政策の根本的なあやまりであったと思っていいのではないでしょうか。青山学院、明治学院、関西学院と同時に上智学院とかいろいろの学院ができていたら、カトリックもある程度までちがう形で伸びていたかも知れません。日本国民が無我夢中で西洋文明を研究していた時期にこそ教会は学校をたてなければならなかったのです。学校さえたくさんあれば、自然と知識階級にまで影響を及ぼせるようになったんじゃないかと思います。

佐藤 結局明治になってやってきたのはパリの外国ミッション会だけであった結果がこうなったということになるが……。

ロゲンドルフ やはり教育修道会が全然派遣されなかったことが、明冶時代に教会が発展せず、ことにカトリシズムと知識階級との出会いが行なわれなかったことの一つの原因になるでしょう。

海老沢 私も違う意味でそう思うのです。確かにカトリックが知識層にはいってきたというのは、イエズス会とか、聖心会あたりの高等教育機関がおかれた明治の末からであって、大正になってからでなくては実を結ばなかった。明治時代にうまく行かなかった訳は二つあると思います。一つは、復活キリシタンというのは、そういっちゃ悪いんですけれど、あまり知識のない、そういう人たちが何万とおって、神父さんも少ないと、どうしてもそれの司牧に主力が注がれて、中央の知識階級に新しい布教活動が十分できなかった事情がある。それから、さきほどの話に出たようなフランスと旧幕府関係、そして明治時代の、社会の要求するものが英米文化であったということ、フランス語を通して文化を摂取するというより、やはり英語を通して文化を摂取するという明治時代の要求というものがあって、プロテスタントに幸したのであって、カトリックの方はそれに置き去りを食った。そういう客観的な情勢との二つが挙げられる。

佐藤 やはりそういう国際関係がどうしてもフランスに不利だったんですよ。ですからフランスに関係を持つと、ある意味で排斥されるというような形になっていると思うのです。ですから、ロゲンドルフ神父さんのおっしゃることは、正しいと思います。もう一つ、日本で岩倉さんが明治四年に外遊しましたね。岩倉具視やなんかが外国の事情を知るために外遊していたときに、どうしても教育制度はフランスのものだということで、こっちにすぐフランスのものを取りいれるように連絡して、教育制度がフランスになっちゃったんです。ところが馬関攻撃のときの、賠償金をアメリカが受け取るわけがないということで、その金を日本に返してよこした、日本はすっかり感激してしまった。その金を文部省の方に回してもらって、学校制度はフランスでも、教育の内容の方はアメリカの教科書の翻訳みたいになってしまった。ですから、日本人は案外ちょっとした三十万ドルかいくらかを返されたぐらいですっかりアメリカびいきになってしまったんです。

プロテスタントと知識階級


ロゲンドルフ
 鈴木先生は土佐出ですが、先生の御祖先の方々は自由民権運動を盛んにやったんじゃありませんか。その運動にはプロテスタンティズムの影響があったような気がするんですが、カトリックはどうだったんでしょうね。その点で、知識人とキリスト教との出会いなどについてどう考えますか。

鈴木 今の問題になっております点は、私は非常に疑問を持っておりましてね。その近代日本というものを考える上に、プロテスタントの日本の知識階級に与えた影響はきわめて大きい。プロテスタントの中から日本の知識階級の指導者が非常に多く現われてきた。ところが、それに対応するようなカトリックのものがなくて、今に至るまでその傾向はあるんですね。これはいったいどこから来たものかということが、私にはわからないのです。つまりカトリック国そのものの事情とか、国際関係、政治関係、それは佐藤さんからお話があった。なるほどそういうようなことは考えてみたことはなかったのです。しかし、それはあり得ることだと思いますしね。やっぱりそういうこともおると思いますがね。

明治以後の日本人のキリスト教へのはいり方はどうも知的ですね。信仰的というよりは知的である。いい方は、よくないかもしれませんけれど、それは明治のキリスト教の指導者は、キリスト者としてりっぱだったに違いないと思いますけれど、それ以上に知的な影響力が大きいのです。信仰的な影響力より知的な影響をあたえた。これは、ちょうど日本に、イギリスの功利主義が入ったり、ダーウィンの進化論、ドイツのイデアリズムがはいったのとパラレルにキリスト教がはいったというふうに、ヨーロッパ的なものがドッと何もかも無判別にはいった、それと平行してキリスト教がはいってくる。その流れの中で、キリスト教も一つの知的なものとしてはいってきたというようなはいり方もたぶんにあった。そういう形ではいってきたキリスト教は、知識階級には非常に影響したんですが、大衆層には必ずしも影響しなかったという面があったのではないですか。

さっき出たように、キリシタンに対する偏見が長年あるということもあったでしょう。信仰が解放されても、そういう偏見が残っている〔。〕そういう偏見は知識階級でなく大衆層に深い、そしてそれが都会でなく農村において深い。ところがそういう人たちがカトリックとプロテスタントを判別するということはできない。そういう大衆層というものが、カトリックとか、プロテスタントとか区別なしに、一応キリスト教というものに対して何が近づかないというような、特にカトリックに対してプロテスタントはいいというような考えを持っているはずはない。結局明治以後のキリスト教は、都会の知識階級に入った。それは知的なはいり方である。必ずしも信仰的なはいり方でない。そういうことがいえると思うのですね。

ロゲンドルフ そういう意味で、前に申しましたように布教方針がまずかったとはいえませんか。結局布教とか、伝道とかいうようなことは、知的な土台があればよろしい。しかし、まず必要なのは信仰そのものなんですね。その点で古き世代の神父様方は、全力を尽くしたに違いないですね。海老沢先生がいわれたように、再発見したキリシタンを司牧するという仕事で手がいっぱいで、知的な布教を考えるどころではなかった。そういうわけで、日本の教会は信仰生活の面で有機的に伸びることができたんです。しかし、文壇や教壇に立てるような知識人の信者がいなかったことは何といっても不幸でした。ボアソナードとかロエスラーとか、外国人の信者はいたけれども、結局はふたりとも政府の顧問であって、野に立つ文化人との接触はなかったんですね。キリスト教を反ばくした井上哲次郎の例の本に対しても、結局はフランス人のリギョール神父が反論をかくことになったのです。

鈴木 内村さんなんかの場合をみても、キリスト教の受け取り方は、儒教精神、儒教的な教養とキリスト教が一致するということをいっておりますね。やはり儒教的な教養を持った知識階級として受け取っている。自分の持っている知識教養というものとキリスト教との間を埋めてゆくという形で受け取っておりますね。それで一般の大衆層、これはカトリック信者が案外多いのですね。ところが知的なものがなく、素朴な信仰形態で受け取っておりますね。そして徳川以前のキリシタン時代には、日本のキリスト教信徒は非常に多いのです。
 ザビエルの宣教から短期間の間に日本の信者たちの数が、当時の人口から考えますと、非常に多いのです。

ロゲンドルフ 海老沢先生いかがですか。

海老沢 統計のないころなのでいろいろな説がありますね。

鈴木 ところが、それに比べますと、明治以後のキリスト教徒の数は割と小さい、あんまりふえていないという感じがするのですね。それはやはり日本全体の人口の割合の中における知識階級の関係を現わしているんじゃないかという気がするんです。明治以後の日本の社会がプロテスタントを受け取ったのと、徳川時代の日本の社会がカトリックを受け取ったのは、非常に違いがある。

ロゲンドルフ そのときの信者の中には多くの知識人もいました。京都の諸大名の中にも知識人が多かったようですね。

鈴木 プロテスタントは、非常にインテレクチュアルに働いている。カトリックはセンチメンタルに働いているということの違いじゃないでしょうか。日本への働き方は、どうもそういう違い方があるようです。それは日本の受け取り方にもあるような気がしますね。

ロゲンドルフ 宗教心は頭のことだけで気持は全然入らないとはいえません。

佐藤 日本のカトリック信者は、神学的な関心なしですね。
 日本のプロテスタント信者、特に青年信者は、バルト神学というようなことで、神学的な受け取り方ですね。

ロゲンドルフ 外国で現われる新しい神学は、さっそく日本に紹介されて、熱心に研究されたわけですね。バルト神学とか、ブルトマンとか。つまり知識的な面に興味が旺盛だということは、今でも日本のプロテスタントの特徴ですね。

鈴木 どうもそうじゃないかと思います。

海老沢 必ずしもそうはいえないと思〔い〕ますけれどね。割合カトリックから見ると、そのとおりですね、知的の方が強いと……。

鈴木 ごく最近は知りませんが、戦争直前ぐらいには、日本のキリスト教青年層というものが非常にバルチアンが多かった……。

ロゲンドルフ それはごく小さな一部分じゃないか。東京のクルセードを見ると正反対の場面もあります。それはセンチメンタリズムともいえますね。英語でいえばリヴァイヴァリズムですか、信仰復興主義といいますか、そこでは感情的な説教をしたり、信仰告白したりするのです。

海老沢 お言葉を返すようですが、知的受け入れ方というのはごく小数のようです。明冶の十年代までは非常にセンチメンタルな受け取り方ですね、明治十六年前後のいわゆるプロテスタントのリヴァイヴァル信仰復興運動ですね。欧化政策時代のちょっと前ですが、聖霊降臨を叫び、実に感激して、しまいには気違いみたいになってしまうという調子でした。欧化政策はともかくとして、それを越えて、その次の反動時代にはいって、信仰的に深められるとともにはじめて知的な、神学的なものを迫求して行くようになったと思います。それまでは必ずしもそうでなかったのです。また現在もロゲンドルフ神父様がいわれたような面から入る人々もおりますが、一概にはいえないと思います。

ロゲンドルフ 内村先生のようなすぐれた指導者を見ますと、必ずしも知的な場面ばかりではない。彼の思想は多分に感情に基づいていて終末論的なところが強い。第一次大戦中、アメリカが戦争に参加したことを終末論的な調子で非難し、関東大震災で京浜地方がやられたときには、実に終末論的な調子で、これは東京市民の犯した罪の罰であるなどと、まるで予言者のように語り、激しい文章で書いたわけですね。又、田中耕太郎先生の例の「破門」のときも、内村光生はちょっと理屈では考えられないような態度をとりました。

聖書のほん訳

佐藤 カトリックの場合は、非常に聖書の翻訳なんかに窮屈なところがある。慎重さがありますね。プロテスタントも慎重にやっているけれど、その場合に日本にはいりましたプロテスタントは、さっそくに聖書翻訳に夢中になって努力したんですね。カトリックの方は公教要理という当てがいみたいなものをわたされますから、非常にありがたいのですが、聖書やなんかに対する、知的なものに対する関心が薄いということはいえますね。ラゲ神父様の聖書翻訳は後ですね。

海老沢 四福音書が二八年から三十年、全訳が四十三年です。

ロゲンドルフ 旧約は最近できたばかり。

佐藤 プロテスタントの聖書引用ということが知識層をつかまえるのにたしかに影響しておりますね。

鈴木 プロスタントは非常に都会に多い、農村にはほとんどいない。ところが九州なんかカトリック信者は農民漁民でしょう。非常に違うんです。これを見ると、プロテスタントは知識階級に浸透して、農村に浸透しないのですね。

佐藤 私の郷里は宮城県ですが、明治三十何年かに飢饉がございました、そのときに救援物資を教会で働いて出したわけなんです。そうしますと一村信者になってしまった。しかし苦しい時が過ぎると、やめた人が続出しました。その後の神父様の苦労は、昔の信者をなんとかして元に戻すというようなことです。日本人というものは、さっきの三十万にありがた涙をこぼすのと同じように、ものを困った人に出しますとね、案外感激して、その宗教にはいりますけれど、またやめるのも多いんですが、全部やめるんじゃないんですから、蔵王山の麓の方の永野とか宮あたりにはその時の古い信者がおるんです。

ロゲンドルフ 今の聖書翻訳の件に戻りますが、土着化という言葉をよく使いますが、カトリックが明治の知的な雰囲気に土着化しなかったという一つの表われは、賛美歌の翻訳がずいぶんおくれたことです。今使っている聖歌集ができたのはわずか四、五十年前だったと思います。プロテスタントの方はずっと前に一流の文化人の協力を得て立派な賛美歌を作っていますね。カトリックの賛美歌の翻訳や祈祷書は、文章もまずかったのではないでしょうか。明治初期にはなるべく正確な漢語でむずかしい新語を作ろうとした。こうして出来上った用語はもうその当時からどうもしっくりしなかったし、今でも一向に通じないんですね。もちろんその時分電車とか、汽車とか新語もいろいろ作られた。しかしカトリックで作ろうとした天主とか、托身、聖体、玄義などは今でも世間では通用しません。非常に綿密に非常に良心的にやろうとした努力があだになってしまって、カトリックは形式主義で、舶来の宗教のような印象を与えることがずいぶんあったと思います。
 私、たびたび考えるんですが、日本人は外来の新語が好きだから、キリシタンから受けついで長崎の信者が使っていたガラシアとか、コンタツとか、コンヒサンとかいう言葉をそのまま使っていた方がよかったのではないでしょうか。

海老沢 私もそう思います。ことに「デウス」ということは、天主でもいけないし、神としてもおかしいんじゃないですか。そこはキリシタン時代は非常によかったと思いますね。

ロゲンドルフ 「コンテンツス・ムンヂ」は日本文学の一つの古典だと姉崎先生がいっておりましたね。

佐藤 村岡典嗣先生も極力賞めておりましたね。

ロゲンドルフ しかし、明治時代にそういう古典的なものはないのです。あるとすれば山口の宣教師ヴィリヨン神父の書いた『鮮血遺書』……〔。〕

海老沢 「やまとひじりちしおのかきおき」と読むんですよ。

佐藤 芝居の外題みたいですね。

各国人宣教師の来日


鈴木
 こういうことはないでしょうかね。最初キリシタンがはいってきたころは、カトリシズム文化の非常な興隆期でしたね。バロック文化の……、明治のキリスト教がふたたびはいってきたころ、カトリックはどうでしょう、沈滞期ということはないでしょうか。その時期のカトリシズムのあり方……。

ロゲンドルフ なるほど十九世紀は、ヨーロッパのカトリシズムは、ドイツではビスマルクのクルトゥールーカンプ(文化闘争)の時期で、イタリーではリゾルジメント(解放統一運動)の時期でした。又、フランスでは十九世紀末になるとロア・コンブと関係のある反カトリックのいろいろの運動が起ってきている。そして、イギリスやオランダでも唯今ほど文化の中心にカトリックの影響は感じられなかったものです。アメリカも今でこそ人口の四分の一がカトリックで、一年に十万人改宗しますが、十九世紀にはカトリシズムは知られていなかったのです。そういうふうに十九世紀の文化的雰囲気において、二十世紀の中ごろの具合と比べると、むしろ日本から見れば沈滞しているのじゃないかとい今印象を受けたのは、むりがないと思いますね。

佐藤 聖心を賞めるようになりますが、日本でカトリックと比べてプロテスタントの方が知的な高い社会に結び付いているように考えられがちなんですが、それはやっぱりアメリカ、英語というものとくっつくと、さっき海老沢さんがおっしゃったが、それは確かだと思います。今までフランスだけがはいっておったところに、英語を話す聖心会がはいりましてから、だいぶ社会的なカトリックのふえ方、接近する層が違ってきているんじゃないか。日露戦争後にまいりました聖心会ですから、全部それで蔽ってしまうのもおかしいのですが、その後雙葉も、それから白百合も非常に格上げになったというと、威張ることになりますが、英語に結びつくと日本では…。

ロゲンドルフ 考えてみますと、日本のカトリシズムで、アメリカの修道会、ことに男子の修道会はメリノールがはじめてなんです。メリノールはたしか昭和八年じゃないでしょうか、日本へ来たのは。
 とにかく今世紀の初めにドイツ系の修道会がそろそろ入ってきたんです。日露戦争前後にドイツのフランシスコ会やドイツの神言会が相次いで来朝しています。ドイツのイエズス会が上智学院を創立しにきたのは明治四十一年でした。ローマ法王〔原文ママ。聖ピオ十世教皇聖下〕からの直接の命令で大学を造ることになったのです。われわれとしては、むしろ高等学校から始めた方がよかったと思いますけれど、とにかくローマからそういう命令があって、ホフマン先生が方々を歩き回ってひとの意見を聞いてみますとね、ほとんどみんなが、お前たちは三、四十年ぐらい遅れてきた、いまは大学を創立する時期ではないといったそうです。大学をつくるべきだったのは明治初期だったということです。

佐藤 イエズス会が日本にくるようになったについて、山口鹿三先生という、カトリックの元老みたいな、会津の人ですがその方が、なんでもオーマンネルという、後で枢機卿になられた人が、日本の政府に、日露戦争の時、捕虜の扱い方がたいへんていねいだった、親切だったというので、お礼に参ったとき、日本に今まで中等程度の学校だけしかない、今度は高等教育をやらせる修道会が来るようにということで、なんかそういう修道会も日本に派遣してくださいということを日本の朝野から頼まれたんです。それで聖心会とイエズス会が日本に来るようになった。その場合に、さっきの鈴木先生のいうことにまた関係してまいりますけれど、国際的なものが非常にデリケートであったということは、そのオーマンネル司教様が日本にいらっしゃるときに、東京の司教様がフランス人の司教様であったので事前に何も連絡をしていなかったようです。そして泊まられたのも帝国ホテルです。そして直接日本政府とお話し合いになった。ですから、私どもの常識からいえば、大司教様がいらっしゃるときに、日本の司教様が全然お知りにならないということは考えられないのですが、それが私が聖心の五十年史を書くときに山口鹿三さんの手紙やなんか出てくる、ついて来た秘書神父様の手紙もあって判ったのです。だいじなものと思って手紙類を写真として入れました。五十年史に。

ロゲンドルフ 『イエズス会』という本で大泉神父も上智大学の創立についてそういうふうなことをいっています。しかし、なにかそういう日本における布教方針が変わったため、高等教育を重視する意味で派遣されたようですね。

佐藤 日露戦争は一つの転機になるんじゃないかと思います。そこからフランス一色に塗りつぶされておった日本布教が今度はどこでも開くというような途がローマ法王庁の方に見えてきたんじゃないかと思いますが、それは資料で断定するのではなくて、ただそうじゃないかというのです。それまで長い間一手に日本の布教を担当されたパリ外国宣教会に全然連絡がないというのも、われわれには解せないのです。

ロゲンドルフ とにかくそれ以来大いに変わったんです。一番変わったのは方々の教区で学校を建て始めたことです。純心、信愛、雙葉、白百合、南山など、そのころやっとできました。

佐藤 いちばん初めは、明治三十七年に四国にスペインのドミニコ会が参りました。

ロゲンドルフ ところが、昭和の初めになりますと、問題は全然別のものになってしまったんですね。そろそろ軍国主義的な雰囲気になるし、外国人に対する排他的な雰囲気になるし……。

佐藤 前にカトリック宣教師の超国家性と特定国家性というのを書いたことがあるのです。そのときに、キリシタン時代には、初めの五十年間はイエズス会だけでの宣教で、その後フランシスコ会、ドミニコ会、オグスチノ会がはいってきた。幕末からカトリックの宣教師がはいってきてから五十年ぐらいは、フランス語を母語とするパリ外国宣教会だけで、他は来なかった。

ロゲンドルフ しかしそのころはドイツ人が圧倒的に多かったと思います。フランシスコ会も、神言会も、イエズス会も、又、聖霊会、札幌のフランシスコ会などにも大勢のドイツ人の聖職者がいましたね。

佐藤 それでもイエズス会と申しますと、英語を話すイエズス会です。日本人にはドイツ人というよりは英語を話す外国人の方が通用するんじゃないんですか。

時代を画した岩下神父

ロゲンドルフ カトリックの第二の時期の誇りとも申すべき二人の人物は、岩下神父と吉満先生じゃありませんか。

佐藤 学校としてのカトリックの働きというのは……。

ロゲンドルフ 日本の知識人との出会い、接触ができたのは、その二人なんです、その時代には……。

佐藤 一昔も二昔も前ですが、そのときすべての人を相手にして戦って論陣を張ったのはリギョール神父様で、その手助けが前田長太さんです。

ロゲンドルフ 鈴木先生、学生の時分岩下神父などご存じだったんでしょう?

鈴木 もちろん書かれたものは少ないのですが、しかしそれを努めて読みましたがね。

ロゲンドルフ それがはじめてだったんじゃないですかね、力トリックのものが知識層にはいったのは。

鈴木 もっとも私たちは、岩下さんの友達の人たちに教わった、天野さんとか、和辻さんとか、みな同級生ですね。そういうことから来る親近ということもあったかもしれませんけれど、とにかく読みましたね。

ロゲンドルフ 吉満先生はずっと若いんです。若い時分におなくなりになった。

鈴木 しかし影響があったのですね。

ロゲンドルフ 先生の文章は非常にむずかしい、もう少し分りやすければよかったという人もいます。

鈴木 しかし学生たちが喜んで読んでおりましたよ。

海老沢 カトリックが日本の知識人のなかにはいって行ったのはやはり前田長太さんでしょうね。

鈴木 いつごろですか。

海老沢 明治ニ十六年、教育と宗教の衝突事件で、前田さんの名が一般の知識人に知られたわけです。リギョール神父と共著で「国家―宗教」を出して発禁になりました。それまでリギョール神父の協力者として翻訳やなんかしておりますが、その後は仲々活動しております。明治時代だけであの人の著訳書は何十種類あるかもしれません。リギョール神父様の翻訳も多いが、自分の著作もある。それが教育と宗教の衝突事件そのものがそうであったように、日本の歴史的条件の中に消えて行ってしまうわけですね。ですから、前田さんなども、紬局それと同じように、明治末には単なる西欧文化の紹介者になっておるのだろうと思います。

そして、ようやく大正になって岩下神父さんが出てきて、はじめてインテリとの接触が始まった。ですから、岩下神父はカトリックの日本の布教における大きな金字塔ですね。あそこから時代が変わってくるわけです。吉満さんもそうですが、岩下神父様の影響下に吉満さんが出てくるんじゃないですか。ですから、岩下神父が時代を画すわけです。もっともその前の明治末から大正にかけての教学研纂和仏協会がありますね。改宗したケーベルが参加しています。

鈴木 それは大いにありますね。ケーベルさんを通して、カトリック精神というものではないにしても、カトリックに対するシンパシーというものですね。なんとなくできたという。しかもそれが知識階級に入った。それはたしかにあったと思いますね。話が違いますか三木露風はカトリックの信者ですか。

海老沢 そうですね。

鈴木 どうでしょうかね、文化的に見て。

ロゲンドルフ 詩の中に観想生活に対する関心をきれいに現わして、トラピストを世間に知らせたのは三木露風ですね。総理大臣になった原敬という人も洗礼を受けていた、後ほどあまり守らなかったのですが………。

佐藤 後藤新平もカトリックには縁があるのです。後藤新平の同原が大河原の伝道師をやっておった細淵という人です。それがいっしょに習ったんです。

ロゲンドルフ 原敬は、殺されるまで自分の書斎に聖母マリアの御絵を掛けていたんです。それはある尊敬する神父からもらったものでした。

佐藤 原敬は南部盛岡の人です。函館を通るときはいつもベルリオーズ司教様を訪ねたそうです。函館の司教座聖堂は度々焼けるのです。その度毎に寄付のお世話になった。ベルリオーズ司教様のお世話になったから、ベルリオーズ司教様のいうことはよく聞いたということです。
 最後まで原敬は、ベルリオーズ司教様を非常に尊敬していた。後藤新平もらしいのです。

海老沢 いつごろですか。

佐藤 細淵さんの話ですがはっきり記憶していません。カトリックでは岩下神父とか、吉満さんとか、そういう方とは違いますけれど、戸塚神父様の影響も非常に大きいのです。戸塚神父様はご自分でものを書くよりは自分は翻訳で行こうという方です。

ロゲンドルフ その文章は実に名文です。

佐藤 今信者に喜ばれるのは「信心生活の入門」というので、実にりっぱな文章です。

鈴木 戸塚神父は教団の内部には影響力があったでしょうね。しかし教団の外にまでは影響力がなかったと思いますね。戸塚さんの名まえを知らないですね。岩下さんとはだいぶ違うですね。

ロゲンドルフ 教会外の影響……。

佐藤 インテリで信者になった人の導き手は戸塚神父様……。

鈴木 私の友人の信者は、戸塚さんの影響を受けておりました。ところが未信者はだれも知らない。岩下さんのことはみんな知っておりました。つまり日本カトリックの日本社会に対する影響力は、そういうふうにちょっと違うんですね。

ロゲンドルフ そこで、半分以上は戦後の話になりますけれど、岩下神父の友人であった故カンドウ神父も外部に影響を及ぼした。それが始まったのは昭和七、八年ごろからですが、師は戦後ふたたび日本に戻ると、朝日新聞、朝日グラフに寄稿したり、講演や研究グループを通して大いに活躍したのです。

佐藤 そこまで話がひろがると、田中耕太郎先生なんかやっぱり……。

鈴木 それは、まあそうですね、しかし全体としてやっぱりプロテスタントは教派内部でない文化全体に対する影響というものがあるのです。
 カトリックは非常に乏しいということはいわなければならない。

キリスト教の土着化


ロゲンドルフ
 教科書とか、百科辞典とか、あるいは聖書の翻訳とか、その方面でプロテスタントはいちばん働いたんですね。西洋史の教科書などではいくらか一方的に書かれておるかもしれませんが、しかし一般国民の知っている知的なものといえば、プロテスタントの知識人、執筆者の……。

鈴木 それは弁解になるかもしれないけれども、ちょっと責任感を感じます。日本の西洋史の教科書、これは全部プロテスタント的だといわれても仕方がないものをたしかに感ずるのです。宗教改革の取り扱い方、これは日本の西洋史家は、実はランケから出発している。そしてランケは非常にプロテスタント的なのです。これを日本の歴史家が学問的に抜け出すことができない。ランケの作った体系を日本の歴史家はとても抜け出すことはできないのですね。
 話は別ですが、この問題に戻して、久山君〔久山康〕の「現代日本とキリスト教」でしたかね、キリスト教の日本における土着化ということを神父様がちょっとおっしゃいましたが、非常に問題にしておりますね。つまり日本社会の中に根を下すということですね、それができるかできないか。難しいというわけです。それを非常に問題にしますが、私は、カトリックは案外それができていると思うのです。

ロゲンドルフ 私もそう思いたいんですね。つまり、ことにカトリックの家庭生活を見ますと、――佐藤先生の家庭はその一例ですが――そこでは日本人の季節感に応じて、カトリックの聖暦年といっしょに生きていくわけです。カトリックは実にあったかい信仰で、日本人の持つ最も美しいところが、多くのカトリック信者の中に生きているに違いないんですね。その意味でカトリックは土着化しつつあるといえます。

鈴木 土着化ということは、伝統的な生活の中に同化されるということですが、それをカトリックはなんとはいうことなしにできていると思うんですがね。ところがプロテスタントの方は、伝統的生活に対して否定的というか、破壊する方向に発展したんですね。ところが日本の近代化は、伝統生活をこわすことが近代化ということで来たから、プロテスタントの影響は近代化という点で強かった。カトリックは、そういう役割を果たそうとしなかった、また果たすべきもんでないとも思いますね。そこに非常に違ったものが出てきたんじゃないかと思います。これは大切な点じゃないでしょうか。なんかプロテスタントとカトリックは、伝統というものに対する態度に非常に違ったものがあるのではないか。日本の場合は、明治時代の伝統が動揺していたわけです。その中でプロテスタントは非常に影響があった。カトリシズムはそういう破壊的影響を与えないで、伝統の中に生きるという違いがありますね。だから今になってプロテスタントは土着化していないんじゃないかという疑問が起こってきて……。

ロゲンルドフ とにかくまあ土着化しているというところもあるし、これからますます土着化するというところもあるが、しかし、他方では外国人の宣教師が圧倒的に多い。そしてその中には日本語がたどたどしくて、日本人の考え方になじめない人もいるので、どうかカトリックは異国のもののように思われる場合もあるのではないでしょうか。

鈴木 そんなことはございませんよ。それは日本人は日本人の牧師さんよりは外国人の神父さんがりっぱだと考えていますからね。そういっておりますからね。そういうことはないと思いますね。

海老沢 私も最近ジャンヌという神父様の本を読みましたが……。

ロゲンドルフ スクート会のイエネス師ですか。

海老沢 ええ。その方のキリシタン史や、ファン・エッケン師の現代教会史ができましたね。あああいう方々の序文とか、執筆態度を見ますと、日本の歴史的風土というもの、それを理解するということが布教の先決の問題だということを強く示されていると思うんですが、非常に結構だと思いますね。どうしても生活というものの中に信仰がはいってゆかなければ意味をなさないと思います。

ロゲンドルフ ほんとうの信仰にならない。

海老沢 カトリックが、それを強く打ち出され、歴史的反省の上に布教を進めてゆくことは、結構なことだと思います。

ロゲンドルフ 美術、建築などの方面でできるだけものを日本的にしようと考えるのは多くの場合に、日本の信者より外国の神父のようです。教会は日本の伝統を尊重するよう努力します。しかし、カトリシズムが、先程親切にいわれたように土着化しているとすれば、どうしてまだカトリシズムに対するいろいろの偏見があるのでしょうか。
 カトリックは非常に独断的、形式的で、それになにか中世紀的、封建的だとよくいわれるでしょう?

日本の近代化とキリスト教


鈴木
 そうですね、つまり中世紀的、封建的という気持はあるかもしれませんね、というのは、日本人はどうも近代というものを過信して過大評価していますからね、そこから来るもんだと思いますね。

ロゲンドルフ そうでしょうね。それは先生のお書きになった「現代日本における伝統と近代」という、たしか新潮社から出たものがありますがね、そこでもおっしゃっておられますね。日本国民一般について全然そんなことはいえませんけれど、知識階級の多くは伝統を無視するからこそ宗教に対して無関心ですね。文化の担い手であるはずの知識人が文化の土台である宗教をけいべつしているような気がします。

鈴木 それは日本では昔からそういうことがあるようにも思いますね。日本の近代化はセキュラリゼーション〔世俗化〕ですからね。非宗教的な考え方を一層極端にしてしまったということもありますね。知識階級ほど信仰一途ということになりにくい。近代化ということは科学主義化ということですからね。そういうような傾向を非常に強くしていたということがあると思いますね。だからヨーロッパですと、信仰という立場に知識階級ができている。日本のは信仰なしに出てきたもんですから、知識階級がそうだということは大いにあると思いますね。

ロゲンドルフ 庶民はそうじゃありませんね。

鈴木 庶民にはないですね。しかし庶民には新興宗教というものがはいり込んでいますよ。

佐藤 来世とかなんとか、そういう狙いじゃなくて、やはり現実的な金儲けとか、ご利益主義が現実宗教じゃないでしょうか。

鈴木 それもありましょうが、大きな空虚がありましょう。戦後の日本では、知識階級はマルキシズム、庶民は新興宗教ということになるので、それは裏からいえば、ほんとうの宗教がないというのかもしれませんね。そんな気がするのですがね。

海老沢 それとやはり明治以来の国民教育のあり方ということですね。宗教を排し、実利主義的教育しか行なわれなかったことが、一方では宗教に対して否定的な考え方、唯物論を盛んにする素地にもなり、一方では正しい宗教的精神を把握できず新興宗教的考え方に陥るわけですね。

ロゲンドルフ それは、いつか創文社から出た現代宗教講座ですね。たしか東北大学の堀一郎先生がよくいっているのですね。つまり明治以来の学校教育・軍隊教育は庶民の心に根ざすあたたかい宗教心を全く無視してその代りに国家主義の理論に基づく冷静な修身を教え「臣民」を育てる、イデオロギー的な教育だけだったのです。

佐藤 明治になりましてから、やはり復古主義になって、神道主義になりまして、一つの運動みたいに神社を造った。たとえば湊川神社は明治元年になって造られた。普通の人は、古い時代に湊川神社があったと思うが、光圀の時代はお墓しかなかった。明治になってから何もかも神社にした。

鈴木 それは信仰に結びついているかというと、全然そうじゃないと思いますが、二、三年前にマルセルが来た。ぼくは直接聞いたんじゃないですが、日本を見てあるいてあの人は感覚が鋭い人だと思いますが、結局日本人の精神生活の中に一ばん生きているのは神道じゃないかといったんだそうですが、僕はそんなことはないと思うんですがね、しかしマルセルはそういったというのです。

ロゲンドルフ マルセル氏がいおうとしたのは次のようなことではないでしょうか。神道というのは別に八百万の神々を信仰するというわけではない。しかし、その道の中に現われる日本固有の自然観というか、自然に対して親しみを感じて、われわれヨーロッパ人のように自然を対象にするのではなく、自然との融合を強調するという意味でしょう。天皇に対する崇拝にしても、別に政治的の意味ではなくて、なんかそういう捨てにくい気持としてあった。いわば自然観として残っているのではないか。マルセルは、そういう意味でいったのかも知れません。禅の自然観も神道のこういうような場面に基づいているのではないかと思います。

海老沢 そうでしょうね、禅的な考え方褝の自然観が日本人の中に生きていますね。

佐藤 神社造りは、明治になってからものすごい勢いでできた、楠公を神社に祀るとか古い神社はいわゆる神代史にある神々を祀るのが普通なんです。明治になってからむやみやたらに神社造りをやっちゃった。
 ほんとに日本人に湊川神社はいつからあるのかといってもまさか明治とは思っていないでしょう。

ロゲンドルフ 仏教は神道より国民の中に生きていますね。

鈴木 そうなんです。ところがマルセルは日本の文化は仏教文化ではない。神道文化だといったんだそうですがね、意外でした。

ロゲンドルフ それは自然観の問題でしょう。しかし無常観というのは強いですね。あれは仏教的な気持なんです。まあ一つはいえるでしょう。外人の考えるほど禅が生きているわけじゃありませんね。いつか北欧を旅行したとき、講演会のあといろいろ質問があったが、むこうの人は、日本では日曜日の朝お寺から鐘の音が聞こえて、みんながお経を小脇に抱えてお寺へ行って、坐禅をすると思うんですね。

鈴木 そうしなければならないのですが、全然そうしないのですね。

編集部 カトリック教会はだいぶ土着化しているというお賞めまでいただいたのですがそれと同時にいろいろな問題点を御指摘いただいて、現在われわれのおかれている位置がかなりはっきりしてきたように思います。結論は出ないかもしれませんが、今後の教会の歩みにとって、非常な参考になると存じます。今日は有益なお話をうかがわせていただきありがとうございました。


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