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「司祭の手」(テオドール・ゲッペルト神父様; 1963年カトリック新聞より)

叙階式にて聖別中の司祭の手

1963年3月10日付けのカトリック新聞に、教区司祭として邦人17名、イエズス会司祭として16名がこの度叙階されるとの記事が掲載されていました。この記事の横に、東京カトリック神学院長を務めていた頃のテオドール・ゲッペルト神父様(1904-2002; イエズス会士、上智大学名誉教授、経済学史)(1)による素晴らしい寄稿文が併載されていたので、転載いたします。「司祭の手」の尊さに関する文章です。

※ 念のために言うと、1963年当時の典礼様式等に基づいた文章です。しかしながら、「司祭の手」の尊さに関しては、典礼様式の違いは関係ないと思います。

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司祭の手  テオドル・ゲッペルト

 新司祭が叙階式の日に、まず自分の両親や兄弟姉妹、友人たちの頭上にその手をさし伸べて、最初の司祭的祝福を与えるのは感動的な瞬間であります。多くの国で、信者たちは新司祭の掌に接吻しますが、それは新司祭の掌が、叙階式の中でも最も感動的な、そして深い象徴的な部分で、塗られた聖香油の香りをまだとどめているからであります。

 司教が、特別な祈りと按手をもって受階者を叙階すると、新司祭は司教の前にひざまずき、両手を上向きにそろえて差し出します。すると新司祭の上に司祭職の恵みが注がれることを祈って全信者より、聖歌「ヴェニ・クレアトール・スピリトゥス(聖霊来たりたまえ)」が歌われている間に、司教は、聖香油を新司祭の掌に塗ります。新司祭は、それから手を敬虔に合わせて、補佐役の司祭に、手を縛ってもらいます(2)。このところで、司教は次のような、力強い意味を有する祈りをとなえるのです。「この手が祝福するものは、すべて祝福され、この手が祝別するものは、すべて祝別され聖化さるべし。我らの主イエズス・キリストの御名によりて」

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 司祭の手は、祝福を与えるために聖香油を塗られたのであります。祝福とはそれを受ける人びとの上に霊的にも物質的にも、神の特別な助けと好意を願い求めることで、特に霊的・超自然的賜物をめざしております。夕方、こどもたちに祝福を与えるという感動すべき習慣を有している両親も少なくありません。「父親の祝福は、そのこどもたちの家を堅く建てる」(集会書三・九)

 祝福を与えるために、その手が特に聖化され、強められた、司祭の祝福の力は、まことに偉大なものであります。「この手が祝すものは、すべて祝さるべし〔。〕」司祭は家や畑を祝福し、信者たちを祝福し、病人や臨終の人を祝福します。司祭は聖水を祝し、ろうそくやロザリオを祝します。私たちのキリスト信者としての生活には、司祭の手によって与えられる祝福が常に伴っているのであります。

 臨終の床にある一司祭が、若い神学生にこう申しました。「あなたが司祭になったら、司祭の手に与えられた力のことを決して忘れてはなりません。それで、あなたは、たびたび祝福を与えるようになさい。祝福を与えるのですよ」と。

 全教会、すなわち天上の教会と地上の教会が、司祭の祈りによって特別に結ばれていることを考慮するなら、私たちはもっとたびたびそしてもっと真剣に司祭に祝福を願うに違いありません。司祭の手は、神の祝福で満たされた力あるものなのであります。

×××

 司祭の手は常に聖化の道具であります。司祭の手は、私たちの上に神の恵みと賜物、特に秘跡の賜物を与えます。「彼らが祝別するものは、すべて聖化され祝別さるべし」

 洗礼の恵みと超自然的生命は、洗礼の水とともに、司祭の手から流れ出ます。キリストにおける新しい生活に必要な強さを象徴しかつ与えるため、司祭の手は、新たに神の子となった人々の頭と心臓の上に油を塗ります。

 告白の秘跡において、司祭の手は、罪の赦しを示す十字架の印をし「我汝を赦す」という赦しの宣告を、眼に見える形で表わすのであります。

 そして、私たちの死期が迫った時もまた、司祭の手は、私たちを力づけてくれます。聖香油で十字架の印をしるし、私たちの感覚器官のすべてを、その罪から解放し、強め、さらに、もし神の思召しならば、健康を回復させ、あるいは、私たちのキリスト教徒としての最後の霊的戦いにおいて、気力を与え、強めてくれるのであります。司祭の手は、私たちの遺骸や墓地をも祝福し、この祝福を通じて、私たちの霊魂のために、神の御慈悲を願い求めるでありましょう。

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 しかし、司祭の手が持つことができるまた与えることのできる最大の賜物は何といっても、私たちの主御自身の御体と御血であります。司祭はホスチアをはじめて手にした時、聖変化の言葉をとなえてから(自分の卑小さを顧みて)一体このようなことが本当であり得るのだろうかと疑懼〔(ぎく)〕の念に、ほとんど戦慄せんばかりになります。そこで、その手が神の恵みの奇跡、聖体を奉挙して、信者たちに示す力が与えられるよう、その手を強めてくれる神の恵みを必要とするのです。司祭の手は、奉挙の時、私たちの主御自身がその上に坐したもうて、御自分を信者たちにお示しになる玉座になるのであります。

 そして、ただ聖体を示すだけではなくこの手で「我らの主イエズス・キリストの御体」を、信者たちに毎日の糧として分かち与えるのです。司祭の手は主が御弟子たちに御自分の御体と御血を授与なさったときの主御自身の手に似たものであるはずであります。

 そうです。司祭の手は聖であり、清くなければなりません。「主の山に登るべきは誰ぞ? その手はきよく、その心汚れなき者これなり」(詩篇二三・四)。慰める力も、畏怖させる力も、ともに司祭、今なお罪深い人間の状態を脱し得ぬ者である司祭の手の中に置かれているのです。毎日、ミサ聖祭において、司祭は自分の手を洗い、神がその手をきよめ、その魂を罪とがからきよめたまわんことを主に願うのであります。

 司祭の手はきよくなければなりません。それは、祈りのために合わされた手、司祭自身のため、信者たちのため〔、〕教会のために歎願しつつ、神に向かって差し伸べられる手でなければなりません。司祭は神と人との仲介者であり信者たちのために、信者たちと共に祈らなければなりませんが、信者たちの祈りをたずさえて、これを神の玉座のもとに捧げるのは実に司祭の手なのであります。

 司祭に臨終の時が来ると、彼はもう一度その手を同僚の司祭に差し出して病者の聖香油を塗ってもらいます。それは、この世の生活の中で、司祭といえども触れることを免れなかった、もろもろの汚れやあやまちから赦されるためでありますが、掌は、叙階式の時に聖香油が塗られているので、そこには塗油せず、手の甲のほうに塗油してこの司祭の手が犯したすべてのあやまちや罪を、神が赦したもうように祈るのであります。

 ある聖なる司祭が、自分の教区と信者たちから遠く離れた土地で亡くなった時、信者たちは、その司祭を非常に敬愛していたので、その遺骸を自分たちの墓地に埋葬するため、運んで来ることにしました。信者たちは、その司祭が死んでも、自分たちと離れずにいてほしかったのであります。ちょうど夏の暑いときで、しかも長途の旅をして運ばれて来たため、司祭の遺骸が教区に帰り着いた時には、既にその顔は暑さのために損なわれていて、信者たちに見せることはできませんでした。ただその手、信者たちを祝福し、聖化し、キリストの御聖体を信者たちに示し、拝領させてくれた、司祭の手だけをこの司祭の最後の姿として、信者たちは見ることができたのです。司祭的力、司祭的愛、司祭的配慮と祝福を示すこの手を見ることができたのは、信者たちにとって最後の慰めでありました。

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 叙階式の日が来ると、私たちはもう一度、この驚くべき、意義深い式、新司祭の手に塗油が行われる式の目撃者となるでしょう。そして、その時、私たちは新司祭から、最初の祝福を受けることができるでしょう。その祝別された手の中に、主の真白な御聖体を見ることができるでしょう。

 私たちは繰返し、繰返し、新司祭のため、またすべての司祭たちのために熱心に祈らなければなりません。彼らの司祭的手が、常に清さと祝福と聖化と慰めの手であるようにと。

また、私たちは祈りの中で、いつの日かこの新司祭のようになって、祝福し、聖化し、御聖体の中にまします神ご自身を信者たちのもとにもたらすようになる若い人たちのことをも考えましょう。私たちは、これらの若い手が常に清く、罪に汚れず、いつか司祭の手となるために司教から塗油されるにふさわしいものであるように祈らなければならないのであります。  (東京カトリック神学院長)


教会において、「司祭」から 「真白な御聖体」を授けられることが常態となることを祈ります。 また、聖別された手で邪悪な行為をしないように、ということについても。

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…願わくは日々御身の尊き御体に触るる司祭らの手を潔く保ち給え。


注釈

(1) テオドール・ゲッペルト(Theodor Geppert)神父様について
https://www.editions-harmattan.fr/auteurs/article_pop.asp?no=2818&no_artiste=5768
http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20020715000499

(2) 「手を縛ってもら」うこと(新しい叙階式にはない動作)については、以下の画像参照。

叙階式にて聖別された司祭の手

聖別された司祭の手が、白布で結ばれている。結わえられた後、司祭の手はカリスとパテナに触れさせられて、ミサ聖祭を行なう権利が与えられるとのこと。
(『聖心の使徒』昭和31年(1956年)7月号、「写真でみる秘跡(六)品級の秘蹟」より。トップ画像も同号より。)