私たちの主イエズス・キリストの御体である御聖体を、聖母のような(1)、また『キリストにならう』(キリストに倣いて)の「子」のような、敬虔で且つ熱心な心持ちで拝領したいと願うのは、カトリック信徒の切なる思いではないでしょうか。
そのように心を高めるためには、まずは身体の動作に気を払うことが肝要だと思います。口角を上げると明るい気持ちになる、背中を丸めると気分が沈むというように、身体のしぐさが心理に影響するということは世間一般にも知られています(世には「身体心理学」なる学問もあるようです)。
神が人類を創造した際に、「跪く」という動作を、被造物である人類が畏敬の念で以てご自身を愛する心情を引き出すしぐさとして定めたのではないか。聖書にも「すべての被造物がイエズス様に対して膝をかがめて『イエズス・キリストは主である』と宣言する」(2)との旨が書かれているではないか…。
もちろん、これは一平信徒の私見です。しかしながら、跪く所作が排斥され、そればかりか一部の教会では跪きが非難の対象にさえなっている日本において、聖堂が祈りの場ではなく、騒がしい集会場に成り果てている現状。すなわち、三位一体の神を礼拝するのではなく、自分たちの楽しみを求める人間中心主義が横行しているさまをみるに、この私見は全くの的外れではないと考えてしまいます。
以上、身体心理学的な私見を述べましたが、次に続く投稿にて聖体拝領の所作に関する聖座(バチカン)および高位聖職者の見解を紹介いたします。跪いての舌での聖体拝領が回復されることを願います。
バチカン教皇儀典室: 「跪いての舌での聖体拝領」を主張する文書
サラ枢機卿「手による聖体拝領は教会に対する『悪魔的攻撃』の一つ」(英The Tablet誌より)
(1) 私的啓示ではありますが、以下ご参照。
「ミサの終わり近く、聖体拝領台に近づくにあたり、三度も恭しく跪き、愛に燃え、秘蹟の中の御子を拝領し、心から歓迎されます。拝領後、引きこもり、大事な用事のない限り、三時間一人きりでおられます。この時間、聖ヨハネは聖母から光が太陽光線のように照射しているのを見ることがしばしばありました。」
― 尊者アグレダのマリア 『神の都市』、p.327
「真夜中後、聖母は跪いてペトロの手から聖体を拝領された。」
― 福者アンナ・カタリナ・エンメリック 『キリストのご受難を幻に見て』第5版、光明社、2007年、p.267
(2) 「イエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、(ここで一同ひざまずく)すべての舌が父なる神の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』といいあらわすためである。」
― 「枝の主日」朗読箇所; 使徒聖パウロの、フィリッピ人への書簡の朗読(2ノ5-11)、フェデリコ・バルバロ訳編『毎日のミサ典書』第12版、ドン・ボスコ社、1967年、p.363