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司祭の手は聖別されるが、平信徒の手は非聖別

 ※ 画像のドミニコ会の神父様との面識はございません。

過去の東京教区ニュースに、司祭叙階式にて「聖香油を両手に塗布される」神父様の様子を撮影した写真が掲載されていました。

2009年11月1日発行、第267号 http://tokyo.catholic.jp/info/news/15558/

神父様方は、叙階式のときの手の聖別の「意味」についてどのように認識していらっしゃるのだろうかと常々思います。彼らは、それは「単なる儀式」につき、聖なる意味(意義?)は存在しないと思っているのだろうか…とも。

以前カトリック系サイトで、聖体拝領に関する或るイエズス会司祭のコラムを読んだときには驚愕しました。一部の信徒が「臨時の聖体奉仕者」から御聖体を受けずに、司祭から拝領しようと「さりげなく行列変更する」理由について、憶測でこのように記されているのです。

「司祭からの方が有難味がある〔と思っている〕」(1)

この文章では、司祭の手の聖別については一切言及されていませんでした。

臨時の聖体奉仕者」の任命式前に、彼ら・彼女らに「司祭の手の聖別」について何らかの解説がなされるのだろうか、とも同じく疑問に思っています。

神の子羊
ここで、教皇儀典室による「跪いての舌での聖体拝領」を主張する英語の文書(拙訳掲載記事はこちら)にも引用されている、聖トマス・アクィナスのお言葉を再掲いたします。

コルポラーレもカリスも聖別されるのであり、同様にこの秘跡に触れるために司祭の手も聖別されるのである。ここからして、他のなんびとも、たとえば(ホスチアが)地面に落ちたという緊急必要な場合、あるいは他の緊急必要な場合を除けば、触れることは許されないのである。
(『神学大全』 Summa Theologiae, III, 82, 3)

なお、東京教区の聖イグナチオ教会は、御復活祭のミサ聖祭のなかで「聖体奉仕者任命式」を実施しています (2)。教会発行印刷物やWebサイトにおいて、いまだに「臨時の」とも付加していません。実際に、ほぼ常駐しているのですが・・・。

聖イグナチオ・デ・ロヨラ、イエズス会司祭達の回心のために祈り給え。



(1) 臨時の聖体奉仕者を励ますコラム。「受けるご聖体は等しく<キリストの体>であるのだから。司祭も奉仕者もキリストを与えるべくお仕えしているのである 。…〔略〕…『与えられるご聖体がキリストだ』ということ。ここが大切である。奉仕者は生活者として、長年磨かれた人である。
 だから、自分の列から人が去って行っても忍耐をもって、堂々とご聖体配りをするのが望ましい。『忍耐は試練に磨かれた徳を生み、その徳は希望を生み出す』(ロマ書5:4)のです」、「聖体奉仕者は何人かが自分の列から逃げるとしても、それをこらえて奉仕するのが望ましい」とのこと。
 ※ あえてリンクはしません

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司祭の手「司祭の手」(テオドール・ゲッペルト神父様; 1963年カトリック新聞より)