聖座・典礼秘跡省から御返信が届きました。 クリック/タップ

長江司教が典礼聖省委員になったわけは、「誰か」の推薦による

過去に長江司教が典礼聖省委員であったことは、日本への「手による聖体拝領」導入関連の記事にて書きました。

なぜ長江司教が同委員に任命されたのか?という疑問を解くべく、過去のご発言等を調べてみたところ、日本基督教団出版局が発行している雑誌『礼拝と音楽』にて以下のように語られていました。1996年、80歳代当時の第二バチカン公会議に関するインタビューです。
 ※ 以後の引用文中の強調、注釈、補足(括弧[]内)は当サイト管理人によります。

長江 …(略)… [第二バチカン公会議の]会場になったサン・ピエトロ聖堂は広いし、天井も高いところです。あれだけの人数がいても声はよく通りましたね。発言者は自分の席ではなくて100人に一つ程度に備え付けられたマイクのところまで行くんです。まあ、マイクのところで発言したなんていうのは、四年間のうち一回、それもたった五分間だけでしたけれど。でも、全体会議で発言するというのはそれほど大した問題ではないんです

ー [聞き手: 石井祥裕(1)] 全体会議はある意味でセレモニーだったということですか。
長江 そう、大切なのはその発言者が属しているそれぞれの小委員会のほうなんです。そこでの発言や決定がむしろ実質的な決議なのです。

ー 司教は典礼委員会のメンバーだったんですよね。委員会へはどういうきっかけで加わられたんですか。
長江 私の発言を典礼委員会に関わりのある誰かが聞いて推薦してくださったようです。ふつう、委員に加わるためには、その人の属する司教団か、各委員会のメンバーの推薦が必要なんです。

ー 決めてとなった発言とはどういうものですか。
長江 はっきりとは覚えていないのですが、たしか「日本の典礼は、日本語でするのが本来であるし、それでなくては意味がない。ミサはみんなのためにあるのに、ミサの中で一番大切な福音と書簡の朗読さえ日本語でしないのは、全然意味がないのではないか」と。それが利いたんでしょうね。

ー 委員に選ばれた時はどんなお気持ちでした?
長江 いや、実は困ったなと。もともと私は典礼が専門ではありませんから(2)、典礼委員なんて考えたこともありませんでしたし・・・・・・。

ー そうなんですか。長江司教というと多くの方が典礼というイメージをお持ちだと思いますけれど。でも、司教がおっしゃったことは、宣教国の多くが思うことかもしれませんね。
長江 そうですね。同じような思いを抱いている人は少なくなかったかもしれませんね。

  『礼拝と音楽』第90号(1996年8月発行)(3) 「長江恵司教にきく 第2ヴァチカン公会議の思い出」、p.42

誰かが推薦してくださった」とのことですが、一体誰だったのかが気になりどころです。その後の典礼破壊が起こらなければ、スルーしていた内容でしょうが・・・。(「ミサの中で一番大切な福音と書簡の朗読」とのご発言については、あえて言及しません。)

ちなみに、『礼拝と音楽』第34号(1982年8月発行)では、土屋吉正神父がこのように語っています。(土屋吉正神父は、この雑誌に幾度も寄稿しています。)

第二バチカン公会議の典礼憲章が出たのは、一九六三年の十二月ですが、そのあとすぐ、その翌年一月にパウロ六世が『典礼憲章の実施に関する一般指針』を出し、さらに典礼憲章実施評議会という典礼に関する全教会的な諮問委員会が発足しました。日本からも、当時浦和の司教であった長江司教が、日本と東洋の教会からの代表として、カトリック教会全体の典礼刷新に参加することになった。

 『礼拝と音楽』第34号(1982年8月発行)「カトリック典礼聖歌の歩み (対談)」(4)、p.34

「日本と東洋の教会からの代表」として据えたのは果たして誰だったのでしょうか。


注釈

(1)  石井祥裕よしひろ: 記事によれば、当時オリエンス宗教研究所員、上智大学神学部講師 。2018年現在、『聖書と典礼』編集長、日本カトリック典礼委員会委員(オリエンス宗教研究所Webサイトより)。

(2) 長江司教のもともとの専門は教会法です。記事に掲載されている経歴は以下の通り。

1913年、東京に生まれる。東京大神学校哲学科修了。ローマ・ウルバノ大学で神学課程に入る。38年、司祭に叙階。教会法専攻で神学博士を取得。48年帰国し、東京大司教区秘書、カトリック関口教会主任司祭、東京神学校教授などを歴任。57年に浦和司教区の初代教区長に任命される。58年司教叙階。64年カトリック中央協議会典礼委員会委員長に就任。80年教区長辞任、現在に至る。

(3)  第二バチカン公会議特集号です。カトリック関係者の寄稿した各記事は、読んでいてなかなか厳しいものがあります。

例えば、第二バチカン公会議後に日本文化への適応として「ヨーロッパ式のひざまずく表敬をやめて深いお辞儀にかえた云々」と述べる宮越俊光氏(当時上智短期大学、清泉女子大学非常勤講師。その後、カトリック中央協議会にも勤務し、日本カトリック典礼委員会秘書にもなっている)による第二バチカン公会議解説文など。(イエズス様や聖パウロはヨーロッパ人だったのか?)

(4) 雑誌目次における題名は「対談・典礼聖歌のできるまで」。佐久間彪神父と土屋吉正神父の対談。両者が懇意な間柄だとうかがい知れる語り口による、リラックスモードでの対談ですが、内容は読んでいてなかなか厳しいものがあります。

例えば、『典礼憲章』における”actuosa participatio”を「行動的参加」(第14項他)と訳したのは佐久間神父様だというエピソードを自画自賛するなど。「あれは佐久間神父の大きな貢献だったよ、あの言葉はね。それ以前は、普通、『積極的参加』っていうふうに訳されていたんだけれど、積極性というものは精神的なもので、別に行動に表さなくてもいいとか言って逃げられてしまって。」(土屋吉正神父談)

なお、和田幹男神父様がご自身のサイトに掲載している邦訳(現在アクセスできないのでキャッシュでは「積極的参加」と訳出されています。