本ページには、レオ13世教皇聖下の回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum Novarum)(1891年)の日本語訳を掲載いたします。
掲載にあたっては、『レールム・ノヴァールム : 労働階級の境遇に関する教皇レオ十三世の回勅』(日本カトリック刊行会、1929年11月5日発行※)を底本とし、読みやすさのために旧字体や歴史的仮名遣いなどの表記を整えて、一部ルビも振っています。回勅本文に聖座が付与している段落番号も追記しました。底本情報(奥付)はページ末尾に記載しております。
※国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/1095692
なお原題は「ヴ」ではなくワに濁点の表記となっている。
Nihil obstat
Censor librorum
Imprimatur
die 27 Augusti A. D. 1928
✝ J. A. Chambon
Archiepiscopus Tokyensis.
例言
教皇レオ十三世の発せられた数多の教勅の中でも、本教勅は、取り扱われた問題そのものの性質にもよるが、その名特に著れ、発布後、既に約四十年の日子を経過した今日においても、依然、その当時と同様な力と剴切さとを有する貴重なる文書として、各方面から重要視せられている。
由来、種々の社会問題中、労働問題は、その解決が最も複雜で至難と考えられ、従ってこれに着手せられたのも、教皇レオ十三世を以てほとんど嚆矢というべく、カトリック教の立場から、本問題解決の規準を与えられた本教勅は、この問題に関心するほどの者の、是非熟読・玩索しなければならない大文字である。
しかるに、我が国にはいまだその訳文がなかったので、先年、公教青年会研究部の事業として、文学士小川竹男氏これが翻訳の任に当り、ラテン原文から、逐語的に忠実に訳出し、後、上智大学の土橋八千太師の厳密な校閲を経られた。今ここに上梓するのがすなわちそれである。
原教勅には、全文を通じて特殊の区分は施されていないが、今研究者の便宜にもと、かりに章に大別し、なお内容の意義に従ってこれを小別し、かつ欄外にも見出しを付した。これは主として、カトリック社会運動の第一線に立って働く人々を養成するパリの社会問題研究学校で研鑚発行した、本教勅の解説書により、傍ら、リルのカトリック青年指導司祭ティベルギアン師の注訳書を参照したものである。また、本文中丸弧括を施した部分は、原文にはないのを、邦文に移して意義の明確を期するため、またはその句の出所を示すために、付加したのであることを断っておく。
昭和4年10月20日
聖座と連絡を保ち、その寵遇を受くる尊敬すべき兄弟なる、カトリック世界のすべての総司教、首座司教、大司教、司教に。
レオ十三世
尊敬すべき兄弟諸君よ。(予は諸君に)問安と教皇按祝とを致す。
第一章 事態の説明害悪とその原因
教勅の対象=労働者の状態
革新に対する猛烈な欲望は、一度起こってより、久しきに亘って諸国を撹乱して来たが、ついに政治の領域から、これと関連した経済の範囲に移ったことは、当然の結果である。実に、産業の新発展、新方法によって進むところの科学、雇主と賃銀労働者との相互関係の変化、少数者に富の集中すること、大多救者の貧窮、労働階級のますます大なる自信とますます密接なる結合、及びこれらに加うるに、一般道徳の廃頽は、争闘の発生を惹き起したものである。
本問題は多くの論議の題目である
諸般の事情が、このことに重大な関係を有するかということは、多くの人が危懼の念を懐いていることで明らかである。すなわちこの事態は、学者の能力、賢者の討議、民衆の集会、立法者の熟慮、政府当局者の評議を煩わしている。そして今日一般の人々の心を、これほど深く悩ましている問題は外にない。
本問題に着手するのは教皇にとっては義務である
2. 尊敬すべき兄弟諸君よ。それで前にも虚偽の諸説を論破するの機会があった毎に、予は教会のためにまた共同の幸福のために、「政治上の主権」、「人間の自由」、「キリスト教的国家組織」、その他これに類する事柄に関して、諸君に発した教書によってなしたと同じ事を、今また同じ動機によって、労働階級の境遇についてなすべきであると思うのである[1]。この問題には、予は機会ある毎に、一度ならず触れたことがある。しかしながら本教書においては、教皇としての職務に対する良心が予を動かし、今ここに真理と正義とが要求する如く、争闘を解決するところの原理をはっきりさせるために、もっと明確・精細に全体の問題を取り扱わしめたのである。
問題の困難
本問題は正確にすることが困難で、着手することは危険である
この問題は解決するに困難でありまた危険を免れない。富者と貧者、物を交付する者と労働を交付する者とを、相互の問に拘束すべき権利・義務を規定するは困難なのであり、狡猾なる煽動者は、到る所に争闘を曲用して真理の判断を誤らせ、多衆を煽動して暴動を起させる故に危険なのである。3. 何はともあれ、最低の境遇の人々を、速やかにかつ適当に助けなければならないということは、すべての人が同意していると、予は明らかに了解している。何となれば、大部分の人は、不当にも、不幸かつ悲惨なる運命に苦しめられているからである。
現時の社会状態の叙述
一体、古き工匠組合は前世紀において滅され、それに代わるべき何らの保護も備えられず、公の制度も、法律も、祖先以来の宗教を棄ててしまった。従って、時と共に次第に労働者は、雇主の残酷と競争者の無制限な貪欲とに対して、孤立無援の立場に陥るに至った。一度ならず、教会の判決によって罪とせられながらも、強欲貪婪な人々により、別の形で、しかも相変らず行われているところの飽くなき高利は、害悪を増加した。これに加うるに、工業と商業とが、少数者の手中に帰するに至ったことを以てする。かくのごとくして、少数の金持及び大富豪は、無限に多数なる貧者に、ほとんど奴隷の軛と異ならない軛を置いている。
第二章 誤れる救済策=社会主義 その反駁 所有権と家族との保護
社会主義者の要求する私有財産の共産化
4. この害悪を癒すために、社会主義者は、貧しい人々の富める人々に対する嫉妬を起さしめて主張すらく、私有財産は廃止すべきである、しかしてその代わりに、各人の財産はすべての人の共有物となし、しかして都市を統轄しまたは全国を治める人々が、これを管理すべきであると。彼らはかく財産を個人から全体に移せば、諸物及び諸便益は、各公民に公平に分配せられるから、これによって現在の害悪から癒され得ると考える。
しかしながら、彼らの説は争闘を終結せしめるの力なく、(もしそれが実行された場合には)、労働階級自身がその害に苦しむであろう。その上、彼らの説は、正当な所有者に対して暴虐を行い、国家の権限を曲げ、社会を全く混乱せしめるが故に甚だ不正である。
所有権
労働者にとっては私有財産は:一、労働の目的であり
5. 何らかの有償的労働に従事する人のなす仕事の本来の動機、労働者が目ざす直接の目的は、物を得てそれを私権によって自分自身のものとして所有するにあるは、確かに容易に理解し得ることである。何となれば、彼が体力または勤勉を他人に用立てるのは、衣食に必要なものを得るためである。それ故に、彼は与えられたる労作から、単に賃銀を得るだけでなく、自分の欲するままに賃銀を使用するの、真正にして完全なる権利を得ることを欲するのである。
二、節約の結果であり
それでもし彼が約しく暮してその経費の幾分を貯蓄し、またその節約の結果を更に安全に保存するために、これを土地に投資するならば、実にこの類の土地は変形せる賃銀その物に外ならぬ。故に労働者がかくして購入した土地は、彼が労働によって得た賃銀と全く同様に、彼の権内にあるべきものである。しかるに動産・不動産を問わず、物の所有権というものは、全くこのことに存するのであることは容易に理解される。
三、その境遇を改良しようとする方法である
それであるから、社会主義者が私人の財産を全体の共有に移そうと努力することにおいて、彼らはすべての賃銀労働者の境遇を一層悪くする。実に彼らは、労働者から賃銀を処理する自由を奪い、かくして家産の増殖と諸便益の具備とに対する、希望と可能性とを奪うからである。
財産の私有は自然の権利である
6. しかしながら更に重要なことは、彼らの提出する対策は、明らかに正義に反することである。これ財産を自己のものとして私有するのは、人類が自然より与えられた権利であるからである。
その一、所有権は人類の理性的本性と連係す
実に人類と他の動物との大なる相違はこの点にある。動物は自己を支配することができず、二つの自然の本能に支配せられ統制せられている。そしてその本能は、一方には、動物の活動能力を常に間断なく働かせ、その動物の力を適当に発展せしめ、他方には、動物の個々の活動を刺戟して、活動の方向を定むるのである。彼らはこの本能の一つによって、自己及び生命の防護に、他の一つによって、自己の種族の保存にと導かれる。実に動物は、自己の手近にある現存の事物によって、容易にこの二つの日的を達する。動物は確かにこれ以上に出ることはできない。彼らは単に感覚と感覚された個々の事物とによって、動かされるのみであるからである。しかし人類の天性はこれと大いに異なっている。彼の内には全的にして同時に完全なる動物性の力がある。故にこの点から人は、すべての動物より確かに劣らざる程度に、物質的事物の便益を享楽する。しかし動物性は、いかに豊富に所有されていると云っても、決して人生の全部を表はすものではなく、人性よりは大いに劣等なもので、人性に仕え従うために生まれたものに過ぎない。吾人において秀でており、勝れているところのもの、すなわち人類を人類たらしめ、動物と全然異ならしむるところのものは、知すなわち理性である。この理性を有しているという理由のために、人間には、すべての動物に共通であるところの、単に物を使用するということだけでなく、確実かつ永久なる権利によって、これを所有することが必然に許されなければならない。使用によって消費されるものだけでなく、吾人が使用しても後に残るものを所有しなければならない。
その二、この関係の緊密性
7. 人間の本性をなお深く考えれば、このことは更に明らかになるであろう。人間は理性によって無数の事物を理解し、未来の事物を現在の事物と結合・連絡し、しかして自己の行動の主であるから、永遠の法則と万物をその至上の摂理によって支配する神の権との下において、己の判断を用いてよく自己を統制する。それであるから人類は、単に現在においてのみならず、将来において、大いに自分の利益となるであろうと判断するものを、選択するの権利があるのである。かかるが故に、人には土地の産物の所有権のみならず、土地そのものの所有権が必要である。何となれば、人は土地の産物から、将来に必要なる物が自己のために備えらるべきを見る故である。この人間の要求は、いわば永久に繰り返される。今日満足させられても、また明日は新たな要求が迫って来るものである。従って、自然は人に確実にして恒に持続し、供給の永久性が期待され得るところの或る物を与うべきであった。しかして生産の豊穣な土地以外に、何物もかかる供給の永久性を示すものはない。
所有権は国家の成立に先立つ
この場合に、国家の保護を求める必要はない。何となれば、人は国家よりも先にあるものであるからである。国家が成立するに先立って、人は自分の生命と身体とを保護する自己の権利を、当然に自然から受けた。
共同の受益は所有権に反しない
8. さて、神が土地を全人類の使用と受益とのために与えられたことは、決して財産私有を妨げない。神は実に人類に共同的に土地を与えられたと言う。それはすべての人に、土地の混交的所有権を(与えんと)欲し給うたという意味ではなく、寧ろそのいかなる部分をも、特殊の人の所有に割り当て給わずして、私有財産の限界は、人々の努力と諸国民の法律とに委ね給うたという意味である。かつ土地はいかに私人の間に分割せられていても、すべての人の共同利益に資することを罷めるわけではない。人類の中、何人といえども、土地が生ずるものによって養われていないものはないからである。この物を所有していない者は、その労働を以てその欠を補う。かくして、実に全人類の衣食を得る手段は、労働に存するものであって、その労働たるや、或る者は自己の土地に加える。或る者はその労働を或る骨の折れる職業に費やすが、その賃銀は土地の多様の産物からのみ由来するもので、かつ之と交換されるのであるということは断言することができる。
この権利に対する最後の結論
9. 以上のことよりして、更に私有財産が全く自然に適うものであるということが生ずる。生命を保存し、これを最大に完成するに要するところのものは、いかにも土地が極めて豊富にこれを生ずるが、人の耕耘と配慮とがなければ、土地は自身で(何も)産むことはできない。さて、人は自然の富を得るために、心の努力と体の力とを費やすから、彼は、彼が耕耘した所の物的自然の一部を、言わば自分の人格の或る形をその上に印象したものとして、自分自身に属せしめる。そして彼がその部分を自分自身のものとして所有することと、何人も彼の権利を決して侵犯すべきでないこととは、全く正常でなければならない。
10. 以上の議論の力は実に著明であるから、陳腐なる諸説を事新しく唱える若干の人が、これに反対するのは怪しむべきことと思う。いかにもこれらの人々は、土地の使用及び土地の種々なる産物を、私人に許与すべきものとする。しかし彼が家を建てている土地、または耕した土地を、所有権者として占有することは、全く正常であるということを否定する。彼らがこれを否定する時に、人はその労働から生じた諸物を奪わるるに至るということに気が付かない。耕作者の労力と熟練とによって耕された土地は、確かに大いにその状況を変じてしまう。森に覆われていた土地は物を産するようになり、痩せた土地は豊饒になる。かく土地を改良するに用いられた物は、土地に付着し、全くそれと混同して、その大部分は決して土地と分離し得ない。或る人が、他人の汗を流し(て耕し)た土地を所有し、その利を享くるということは、正義の許すところであろうか。結果がそれを惹起した原因に付随するように、労働の結果は、その労働をなした人々に属することは正常である。
この点に関して、慣習と人定法と神定法との一致
11. 故に一般の人類が、少数の反対説に全然動かさるることなく、熱心に自然を考察して、その自然の法則の中に財産分配の基礎を見出し、財産私有を以て、極めてよく人間性及び平和・静謐なる共存に適合するものであるとして、往古よりの慣習によって、これを是認し来たったのはもっともなことである。諸般の人定法は、それが正しいものである限り、自然法からその効力を得ているものであるが、その人定法も、今予が述べたこの権利を確認し、強力を以てこれを保護する。神定法の権威に至っては、他人の物を貪求することまでも、極めて厳重に禁じて、(この権利を)是認している。曰く「汝の隣人の妻を己がものとなさんと欲する勿れ。また隣人の家、畑、下婢、牛、驢馬、その他すべての物を、己がものとなさんと欲する勿れ。」(申命記5の21)と。
家長に欠くべからざる所有権
家族は国家に先立つ
12. 実に、各個人に内存するこの種の諸権利は、家庭的共同生活における人類の義務と結合連絡せしめて観察するならば、ますます有力なものであることが解るであろう。人が生活様式を選択するに際し、イエズス・キリストの童貞生活についての勧めに従うと、または結婚の絆によって拘束されると、いずれを選ぶとも個人の権にあり、その自由決定にあることは疑うべくもない。いかなる人定法も、自然的・原始的権利である結婚するの権利を、人より奪うことはできない。また最初に、「生めよ、殖えよ」(創世記1の28)と、神の権威によって制定された婚姻の第一の目的は、いかにしても制限することはできない。かくしてここに家族なるものが生ずる。家族はすなわち家庭的社会である。極めて小なるものであるが、しかも真正なる社会である。これはいかなる公民社会よりも古いもので、またそれ故に、国家とは少しも関係なき、それ自身の或る種の権利と義務とを有することは必然である。13. それ故に、吾人が天然に各個人に属するものであると証明したところの所有権は、家族の首長としての人に移さるべきである。
私有財産は家父に家族保護の任務を尽くさせる
かつ(家長の)人格が、家庭の共同生活においてますます拡大し(その義務が増す)に従い、この権利はますます有力となる。家父がその生める者共に生活必需品を与え、かつその養育に力を尽してこれを保護するということは、最も尊い自然法則である。また子供等は、実に父の人格の写しであり、かつその人格の継続とも言うべきものであるから、家父は、彼らがこの不確かな人世の行路に処して、廉恥を破らずに、悲愴なる運命から免れることのできるような財産を、子供等のために求め、かつ備えることを望むように自然から導かれている。さて、これを行うには、相続によって子供に伝えることができるところの生産的財産の所有によるの外に手段はない。
家族は公民社会と同等の権利を有す
既に述べた通り、家族も公民社会と同じく真正の意味の社会であって、その固有の権力すなわち父権によって支配せられるものである。それ故に、家族の直接の目的が規定するところの限界が守らるる限り、家族は、実にその保存と正当な自由のために必要なるものとを選択し、かつ使用する点では、公民社会と少なくとも同等の諸権利を有つものである。少なくとも同等といった所以は、思想上からも、事実上からも、家庭的共同生活は、公民的結合よりも先に存在するものであり、必然の結果、その権利と義務も先に存在し、また一層自然的であるからである。もし諸公民及び諸家族が、人類の共同生活及び社会に参与するものとなった時に、国家から援助を受けずして却って妨害を受け、またはその権利が保護せられずして縮小せられたりすることとならば、社会は望ましいものではなくして、寧ろ嫌忌すべきものであろう。
国家は家族の内部を尊重すべし
14. それゆえに、政府の権力が、勝手に家族の内部にまで侵入せんと欲するのは、大なるしかも有害なる誤りである。確かに、一の家族がたまたま非常な困窮の状態に陥り、かつ工面が付かず、いかようにするもそれより脱することの得ざる場合に、公の扶助を受けて、その窮迫を免かるることは正当である。何となれば、個々の家族は公民社会の一部分であるからである。しかして同様に、もしどこかで、家族の中において相互の権利の重大なる紛乱が存在する時には、公権は各人に対しその権利を保護すべきである。かくすることは、人民の権利を奪うことでなく、却って正常かつ適切なる保護を以てこれを保護し、これを固めるのである。しかし、公事を統ぶる者は、ここで止まることが必要である。この限界を越えることは自然が許さない。父権は決して国家によって廃止せられることも、それに吸収せられることもできないところのものである。何となれば、父権は人類の生命と本源を同じくするものであるからである。「子は父の一部である」。そして言わば子は父の人格の拡張である。精確に言えば、子供等は自身直接にあらずして、その生れたる家庭的社会を通じて公民社会に入り、かつその一員となるのである。しかしてこの理由により、子供等は「自然的に父の一部であり、その自由意志を用い得るようになるまで、引き続き両親の保護の下にある」(聖トマス神学汎論第2巻第2編第10問第12節)のである。それであるから、社会主義者は、親の監督権を軽んじて国家の監督権を導き入れることによって、自然の正義に背き、家族の結合を破壊するものである。
社会主義の不幸なる結果
15. しかして(社会主義者の提案の)不正義の外に、すべての階級の変化・擾乱はいかなるものであろうか、またいかに苦しくかつ厭うべき人民の奴隷状態が結果として来るであろうかということは、非常に明瞭である。そして嫉妬・讒謗・不和に道を開き、各個人の能力と熟練とに対する刺戟は取り去られ、富源は必然的に枯渇し、彼らが想像上で造る平等は、実にすべての人の平等的に憐むべきかつ何らの区別なく賤しき状態に外ならぬであろう。
上に述べたすべての事から、財産を共有物にすることに関する社会主義の説は、全然排斥すべきものであることは明らかである。何となれば、それはその助けんと思う人々を害ない、個人の自然の諸権利に反し、国家の権限と公共の安寧とを乱すからである。故に民衆の救済を謀る時には、私有財産を不可侵に保つことが、第一に動かすべからざる土台でなくてはならない。この土台を据えた上で、更に進んで(吾人の)求むるところの救済策は、これを何処に見出すべきかを説明しよう。
第三章 真の救済策 教会の社会に関する教義
教会を除外して人々の境遇を改善するは不可能なり
16. 予は確信を以て、また予の十分なる権利を行使して論弁に着手しよう。それは宗教と教会との助けをよらずしては、何らの解決を見出すことのできない問題が取り扱われるがゆえである。実に、宗教の保護及び教会の権内にある事物の管理は、特に予の権に属するから、もし予が沈黙すれば義務を怠ったと見られるであろう。実に、この重大な問題は、他の人々の活動と努力とを要求する。他の人々とはすなわち国家の当局者、雇主、及び富める人、しかして最後にここに問題となっている労働者自身である。しかしながら、予は狐疑することなく左のことを断言する。もし教会を度外に置いたならば、人々の努力は効果がないであろうと。
教会の教義とその慈愛ある行動
すなわち教会は争闘を全く調停するか、または確かにその辛辣性を消去してこれを緩和するに足るところの教訓を、福音の中から提供するのである。教会はまた人知を啓発するのみでなく、自己の紀律によって、各人の生活と道徳とを指導するに努めている。しかしてまた最も有益に数多の方法を設けて、労働階級の境遇の改善を促し、またできるだけ適切に、労働階級のためを計ろうと、すべての階級の考えと力とを糾合することを欲し、かつこれを熱望している。そして教会はこの目的を達せんがためには、国家の法律と権力とが適度にかつ合理的に用いらるべきであるとしている。
人はその境遇を耐え忍ぶべし
17. 公民社会において、すべての人が同等の平準に置かれることは不可能であるが故に、人々はその境遇を堪え忍ばなければならないということは、第一に確立さるべきである。社会主義者は、この(各人の平等という)ことのために努力すといえども、事物の自然に反する努力は無駄である。人々の間には、自然に多くの大なる相違が存在する。すべての人は才能同じからず、技能同じからず、健康同じからず、体力また同じくはない。これらの事物の必然的差異の結果、自然に別異なる境遇が生ずる。このことは私人の利益にも、団体の利益にも十分適っている。共同的生活は、多くのことを処理する色々な能力と各種の職分とを必要とする。人は最も強く各人の家庭的境遇の差異に動かされて、これらの職分を尽す。体の労働に関しては、人は(楽園に於ける)罪なき状態においてでも、全く無為であるべきではなかった。しかし、その時に意志が自由に心の楽として選択したところのものも、後には罪の償として煩労を感じつつも、これを身に負うべき必要が起って来た。「土は汝のために詛わる。汝は汝の生涯のすべての日の間苦しき労働により食を得べし。」(創世記3の17)。18. これと同様に、他の苦悩も地上においては終わりなきものであろう。罪の結果たる害悪は、つらく、苦しくして、堪え難く、かつそれは生命の終りまで、必然に人に伴うものである。かくの如く苦しみ忍ぶことは人類の分である。人がすべてのことをためし、試みてもこの類の不幸を取除くことは、いかなる力、いかなる策によってもできない。もし之ができると揚言し、窮境に在る民衆にすべての苦悩・煩累をのがれた生活、安息と永久の楽しみとに満ちた生活を約束する者あらば、それこそ民衆を欺き、瞞着を弄するものであって、その瞞着は、他日、現在の害悪より更に甚しい害悪として爆発するであろう。人生の事実をありのままに観察し、それと同時に既に述べた通りに、世の悩みの適当な緩和策を、他に求めるのは取るべき最良の策である。
一致の必要
19. 今述べている問題について最も大きな誤りは、自然が富者と貧者との間に頑強な決闘を強いて、一の階級は先天的に他の階級の敵であるごとくに考えることである。この考えは非常に道理と真実とに反するものであって、この考えと反対なことが最も真実である。人体において種々の肢が、相互に適合し、人が正当に均斉と呼ぶところの体形の調和が、それによって存在すると同様に、自然は公民社会において、この二つの階級が互いに和合的に一致し、自分の地位に適応して、相互の平衡を保つべきことを定めたのである。一の階級は他の階級を全く必要とするものであって、物資は労働なくして成立することはできず、また労働は物資なくして成立することはできない。和合は諸物の美と秩序とを生じ、これに反して、絶えざる争闘は、必然的に混乱と野蛮なる残虐とを生ずる。
一致を指示する教義
この争闘を防ぎ、その根を絶つのに、キリストの教えの力は実に驚くべく、また多方面に亘る。第一に、すべてキリスト教の教訓は、貧富両階級に、相互の義務、特に正義に由来する義務を警告して、大いに富者と貧者とを相近づかしめ、かつ結合するの力がある。しかしてその教訓の説明者であり、保管者である者は教会である。
労働者の義務
20. これらの義務の中で、次の事[原訳文:左の事]は貧者及び労働者に関するものである。曰く、自由にかつ公正に労働契約をなしたならば、それを完全にかつ忠実に履行すること、雇主の財産またはその身に何ら害を加えないこと、自分らの利益を防衛するために、暴力に訴えず、また決して暴動を起さないこと、また度外の望みと大きな約束とを巧みに投じても、その結果は無益の後悔に終り、財産の破滅を来すところの邪悪な人々に交わらないこと、これである。
雇主の義務
また次の事[原訳文:左の事]は富者及び雇主に関する。曰く、労働者を奴隷のごとく待遇すべきでないこと、キリスト信者たる資格によって高められた人間の品位を、彼らの上において尊重することは正当であること、また自然の道理とキリスト教哲学とによって見れば、賃銀労働は生命を維持するに正しい力を与えるものであるから、人にとって恥ではなく、寧ろ誉れであること、また人間を営利の道具として用い、または彼らを、いかほどの筋力及び体力があるかということのみで評価することは、真に賤しくかつ非人道的であること、これである。同様に、教会はまた労働者の宗教の務めと霊魂上の福利之が顧慮されなければならないことを教える。労働者が宗教上の務めのために、十分な時間を持ち得るようにすること、人を堕落の唆しや罪を犯すの誘惑に近づかしめないこと、また決して家庭の世話や節倹の精神から遠ざからしめないことは、雇主の義務であることを教える。同様に、力の堪え得る以上の仕事を課したり、その年齢や性に適しない類の仕事をさせたりしないことが雇主の義務であることを教える。
正当なる賃銀支払の義務
また、雇主の最も重大なる義務の内で、各労働者に相当な報酬を与えることが第一である。勿論、賃銀の額が衡平に基づいて決定されるためには、多くの考うべきことがあるが、一般に富者や雇主は、貧者及び哀れな人々を自己の利益のために圧迫すること、及び他人の窮乏の中から儲けを得んとすることは、神の法律も人の法律もこれを許さないことを記憶すべきである。人からその当然受くべき賃銀を掠め取ることは、神の怒りと復讐とを呼び求める大なる罪である。「看よ。汝等が欺きて……作人に与えざりし賃金は叫ぶ。彼らの叫は万軍の主の耳に人れり。」(ヤコボ五の四)。
あらゆる暴利的手段を避くる義務
最後に、富者は力により、または詐欺により、あるいは利子に関する狡獪手段によって、労働者の何らの利益をも害さないように、翼々として慎まなければならない。かつ、労働者が加害及び無力に対して十分防護されておらないこと、また彼らの財産が少なければ少ないほど、神聖視さるべきものであることによってますますそうである。
来世の思想
教会の教えによって友情を増す
これらの法則を遵守することは、それだけでもって、争いの力及び原因を絶滅せしめることができるではあるまいか。21. しかしながらイエズス・キリストを師とし、指導者とするところの教会は、なお大なるものを追及する。教会は明らかに一層完全なことを教え、極めて親しき接近と相互の友情とを以て、両階級を結び付けようと志す。
富の価値を評価すべき真の見解
現世のことは、後の世の生命すなわち不死の生命を考慮しなければ真実に理解し、評価することはできない。この不死の生命を除けば、直ちに徳の形体及びその真正の観念も消失するであろう。また、この字宙は人の研究の及ばない秘密となってしまうであろう。されば我々がこの自然の訓戒によって学んだことは、同時に宗教の理論及び全構成が主要なる基礎として依拠するところのキリスト教的教義である。すなわち我々がこの世を去るその時にこそ、真に生き始めるということである。神はこの世の滅ぶべき果敢ないもののために、人類を造られたのではなく、天国の永続するもののために造られたのである、神はこの地を流竄の場所として吾らに与えられたのであって、永住の場所として与えられたのではない。
富そのものは寧ろ障害である
富その他の物にして、人の宝とするところのものは、それを沢山に持って居ようと、(全く)持っていなかろうと、永遠の幸福に何らの関係はない。いかにこれを用いるかということこそ、最も重大な関係を有するのである。イエズス・キリストは、その豊かなる救贖を以てしても、ほとんどこの世の生命に織り込まれている種々の苦痛をば取去ることなく、これらを徳の刺戟物、功を樹てる材料に変ぜられた。かくの如く、血に染みたイエズス・キリストの足跡に従って歩まなければ、何人といえども、永遠の報いを得ることができないのは明らかである。「我等もし彼と共に忍ばば彼と共に王となるべし。」(チモテオ後2の11)。キリストはその自由意志を以て受けられた労苦と苦悩とによって、すべての苦悩と労苦との力を、驚くばかりに和らげ給うた。キリストは単に模範によってのみでなく、またその聖寵と約束された永遠の報の希望とによって、苦痛の忍受を一層容易にされた。「そは我等の短く軽き現在の患難が、我等に永遠重大にして無比なる光栄を準備すればなり。」(コリント後4の17)。
富の善用
22. かくのごとく、好運な人は、富は苦痛の不存在を生ぜず、永生の幸福に何ら益するところはなく、寧ろ障害になる事(マテオ19の23-24)、富者はイエズス・キリストの異常の威嚇に(ルカ6の24-25)戦慄すべきこと、かつ何時かは、財産の使用について審判者たる神に対して、最も厳重に勘定を払うべきであることを戒告される。
原則
異教哲学もこの資源の使用法に関して、最も大切なかつ優れた教理をば取り扱い始めたが、それを教会は十分完全とものにして吾人に与えた。しかして理論によって保持されているだけでなく、実行によって保持されるようにした。その教理の基礎は、金銭の正常なる所有が、金銭の正常なる使用とは別なことであるということに置かれる。財産私有は、少し前に述べたように人の自然権である。この権利を特に生活の社会において行使することは、単に許されることであるばかりでなく、また絶体的に必要なことである。「人が自己の財産を所有することは合法である。それはまた人類の生活に必要である。」(聖トマス神学汎論第2巻第2編第66問第2節)。もし財産の使用は、必然的にいかにあるべきかと問われるならば、教会は、実に何らの躊躇なく答える。「人は外物を自己自身のものと考えてはならない。否、他人と共有のものと考えなければならない。すなわち他人に必要な時には、容易くそれを分け与えるようにしなければならない。そこで使徒の曰く、「汝この世の富者に命ぜよ……快く施しかつ分け与えん事を」(チモテオ前6の17-18)と。」(聖トマス神学汎論第2巻第2編第65問第2節)。
適用
確かに、何人も自分自身または自分の家族に必要な使用に属するものの内で、他人を助けることを命ぜられない。しかのみならず、身分に相応し、地位を保持するに要するものの内から、他人に渡すことをも命ぜられておらない。「誰しも身分相応以下の生活をなすべき義務はない。」(聖トマス神学汎論第2巻第2編第32問第6節)。
慈善の義務
しかし、必要と身分相応とに対し十分な物が与えられた場合には、余分のものの中から、貧しい人々に与えることは義務である。「余れるものは施せ。」(ルカ11の41)。極端なる場合を除いて、それは正義の義務ではなく、キリスト教的な愛の義務であり、実に法律によってその実行を要求することは正当でないところのものである。
しかし真の義務である
しかし、神なるキリストの法律と判決とは、人の法律と判決とに先立つ。キリストは惜しまず与えるという習慣を、多くの方法で勧められた。「与うるは受くるよりも幸いなり。」(使徒行20の35)。また貧しい者に与え、または拒んだ慈善は、またキリスト自身に対して与え、または拒んだもののごとく看做わそうとすると仰せられた。「汝等が我がこの最も小さき兄弟の一人に為したるところは、事毎にすなわち我に為ししなり。」(マテオ25の40)。
神の賜は奉仕の手段である
上に述べたところを統括すれば、すなわち神の恵みによって、財産を他人よりも潤沢に受けた人は、誰でもその賜が、身体上のもの外的のものであっても、また精神上のものであっても、それを自己の完成に充てると同じく、また神の摂理の執事として、それを他人の利益に充てるために受けたのである。「才能ある者は、黙さないように大いに心を用い、財産ある者は、広い憐みの心が麻痺しないように配慮し、管理の術に長ずる者は、その術の使用と利益とを他人と共にするように、大いに努めなければならない。」(聖グレゴリオ大教皇『福音に関する説教』第9章第7)。
貧困の尊貴
23. 運命の恵みを享けない人々は、審判者たる神の前には、貧乏は決して不面目と考えられず、また労働によって食物を得ることを、恥ずべきでない事を教会から教えられる。主キリストは、事実により、このことを確実にし給うた。キリストは人々の福祉のために、「富める者にて在しながら貧しき者と成り給い」(コリント後8の9)、神の子、神自身でありながら、職人の子と見られ思われる事を欲し、かつ生涯の大部分を、職人の仕事に送ることを厭い給わなかった。「マリアの子にして職工にあらずや。」(マルコ6の3)。
24. この神の模範について深く考える人々は、人の真実の尊貴と卓越とは、その行いすなわち徳に存すること、かつ徳は賤しき人にも、貴き人にも、富める人にも、貧しき人にも、一様に得られるところの、各人に共通の財産であり、徳及び功が何人の上に見出さるるにせよ、この徳及び功にのみ、永遠の幸福の報いは従うべきものであることを、一層容易に理解することができる。否、実に神御自らの意志が、不幸な人々の方へ傾いているように見える。何となればイエズス・キリストは貧しい人を「福いなる者」(マテオ5の3)と呼ばれ、また彼は労苦及び悲嘆にある者に慰めを与えるために、これを愛を以て御自分の許に招かれた。(我に来れ、すべて労苦して重荷を負える者よ。我は汝等を回復せしめん。マテオ11の28)。かつ、身分の低い人、虐げられた人々を、特別の愛を以て包容された。これらのことを思い廻らすならば、容易に、好運の者においては慢心が抑えられ、悩める者においては沈んだ心が揚げられる。前者は親切に向かい、後者は節欲に向かう。かくして傲慢が望むところの隔たりは次第に短くなる。二つの階級が友情を以て握手し、その意志が結合されるということの行われるのは困難ではあるまい。
キリスト教的友愛
25. しかし、もしも彼らがキリスト教の教訓に従うならば、友情のみでは不足であって、兄弟の愛が彼らを互に結ぶであろう。彼らはすべての人が、神なる共同の親から生れたものであること、すべての人が、すべての善の同一の終極、すなわち人類並に天使を完全・絶対の幸福になし得る唯一の者たる、神それ自身に向かうこと、またすべての人は一様に、イエズス・キリストの御蔭で罪を贖われ、神の子の尊貴に回復され、明らかに兄弟の親しき結合によって、相互の間及び「多くの兄弟の中に長子たる」(ロマ8の29)イエズス・キリストと結合されていること、また自然界の諸の福利、神の聖寵の賜は、共同・無差別に一般人類に属すること、相応しくない者の外は、誰でも天国の財産の相続権を奪われないことを認め、かつ理解するであろう。「既に子たればまた世嗣たり。すなわち神の世嗣にしてキリストの共同の世嗣たるなり。」(ロマ八の一七)。
キリスト教哲学が声明する、義務と権利との概略は上[原訳文:右]の通りである。この思想が公民の共同生活に勢力を得たならば、すべての争いは、極めて短い時日の内に静まるべきものと思われないであろうか。
霊魂の教育者にして社会の改革者たる教会
智力
26. しかし、教会はその救済策を発見する道を示すことを以て満足せず、自分の手を以て薬を投ずる。教会は自己の紀律と教理とを以て、人々を陶冶し教育することに全力を注ぎ、司教・司祭の働きによって、その教理の最も健全なる教えを、できるだけ広く流れ亘らしめるように配慮する。
意志
しかして教会は、人々が喜んで神の教訓の紀律によって導かれ、支配されるように、その精神に滲徹し、その意志を動かすに努めている。このことは、有益な事物の総括及び原因が、全くこれに存するが故に、主にして最も重要なもので、教会のみがこのことにおいて最も大なる力を持っている。教会が人の心を動かすために使用する手段は、この日的のために、特にイエズス・キリストから教会に与えられたものであり、神より植えつけられた力を持つ。これらの類の手段のみ、適当に心の奥底に達することができ、かつ義務に従い、心の欲情を支配し、神と同胞とを無比・無上の愛を以て愛し、徳の進路を妨げるすべての物を勇敢に突破するように、人々を導くことができるのである。
教会は社会を改新す
27. このことについては、古の例を暫時心に想い起せば事足る。我等が想い起こすところの事柄及び事実は、何ら疑うべき余地がない。すなわち人類の公民的団体は、キリスト教の教訓に従って根本から改新せられ、その改新の力によって、人類は一層善き物事の方に向上し、寧ろ死より生命へ引き戻され、しかしてこれ以上の完全は、過去においてかつて存在せず、これから後の時代においても、存在しなかろうと思われるほどの完全に達した。終わりに、イエズス・キリストこそ、これらの恩恵の本源及びその究極の目的であった。すべてのものが彼より出でたるごとくに、すべてのものは彼に帰着せしめらるべきものであるからである。御言の托身と人類の贖罪との大なる神秘を、全地に教えた福音の光を、人々が確かに受けた時に、神にして人なるイエズス・キリストの生命は、諸国民に行き亘り、彼の信仰・教義・法律を、全人類に滲み込ませたのである。それで、もし人類社会が癒さるべきものとすれば、キリスト教の生命、キリスト教の制度に帰ることのみが、これをなすであろう。何となれば、衰退する社会については、もし人々がこれを回復せんと欲するならば、その本源に引き戻さなければならないということが、最も正しい勧告であるからである。すべての社会の完成は、それが構成された所以の目的のために働き、かつこれを追求し、社会を生んだその理由が、社会的運動及び行為を生むようにすることにある。それで、その目的から離れることは腐敗であり、目的に帰ることは治癒である。
我々は、真にこれを国家全体について言う。しかして同じく、これを極めて大多数であり、労働によって生活を保つ公民階級についても言うのである。
教会と人々の物質的利益
28. 教会の配慮は、全く霊魂に注意することに傾けられ、ためにこの世の滅ぶべき生命に関することを忽せにすると想ってはならない。教会は、特に労働者について、彼らが極めて悲惨なる状態から脱出して、それよりもよき運命に達することを欲し、これがために努力している。
間接には道徳の再興によって
しかして教会は、人々を徳に招きかつ教育することによって、この目的に対し少なからざる努力をなしている。キリスト教的道徳の完全に守られるところでは、その道徳は、自ら繁栄の幾部分を外的事物に生ぜしめる。その道徳は、すべての善事の根本かつ源泉なる神の思し召しに叶うからである。その道徳は、しばしば財産の豊富の中においてすらも、人を甚だ悲惨な状態に陥れる人生の二つの疫病、すなわち物の非常なる欲望と快楽の渇望とを検束する。(利欲は一切の悪事の根なり。チモテオ前6の10)しかして最後に、道徳は約やかな衣食に満足し、収入の小額なことを、節倹を以て補足するもので、単に少しの金銭のみならす、また極めて大なる財産をも空しくし、極めて大なる資産を蕩尽するところの種々の悪徳から遠ざかる。
直接には無数の慈善制度によって:その一、初代において
29. しかのみならず、教会は、貧者の窮乏を軽減するに有効であると見たる諸物を制定し、かつ維持して、貧者が幸福になるように、直接に配慮する。教会は、実にこの類の恩恵においても、常に勝れており、その敵からも賞讃を受けるほどである。初代のキリスト教徒の間には、相互の愛の力は、比較的裕福な人々が、しばしば貧者救恤のために、自分らの財産を捨てたほどであった。その結果「彼らの中には一人も乏しき者あらざりし」(使徒4の34)次第である。日々の慈善の事務を行うの職掌が、使徒達から助祭達に与えられていた。そもそも助祭の品級は、特にこの目的のために制定されたのである。しかして使徒パウロは、諸教会に対する配慮に忙しかったにかかわらず、なお施物を自ら貧しいキリスト信者に齎すために、難儀な旅行の事に当るのを躊躇しなかった。テルツリアノは、キリスト信者が各集会において自発的に寄付したこの類の金を、「信心の預金」と呼んだ。その埋由は「これらの金は貧しき人々、財産と両親とを失った少年・少女、老年の僕婢及び難船者を養い、かつ葬るために使用せられた」(護教論第2巻第39)からである。
その二、年を経るに従って
30. ここにおいて、次第に教会が貧しい諸家族の財産として、細心の注意を以て管理してきた基金が生じた。しかのみならず、憐れな人々を乞食の恥から免れさせて、これに助けを与えた教会は、貧者・富者の共同の親として、到る処に非常に大なる愛を喚起し、修道者の会を創設し、その他極めて多くの団体を有益に設立した。それらの団体の尽力によって、救済を得ないような類の艱苦は、ほとんどなくなった。
公の救助とキリスト教の博愛
今日においても、古代の異教徒と同様に、教会を、そのかくのごとき異常の愛のために非難する者が多い。彼らは、公の法律によって組織せられる慈善を以て、教会の愛の代わりにしようとする意見であった。しかしながら、人間のいかなる努力も、己を全く他人の利益のために献げる、キリスト教的愛の代わりとなる物を見出すことはできないであろう。この徳は教会にのみ属するものである。何となれば、イエズス・キリストの至聖なる御心から出たものでなければ、徳というものは何処にもなく、また教会から離れる人は、キリス卜より遠くさまようものであるからである。
第四章 国家=その目的 国家の干渉=方法と限界
国家は共同の利益を計るべし
31. しかして実に、ここに目的となっている事(労働問題の解決)に達するためには、人間の力の中にあるところの助けが、要求されるということは疑いがない。特に、この問題に関係あるすべての人々は、同じことを企図し、同じことを割合に応じて働き出さなければならない。このことは世界の支配者たる摂理と、幾分の類似がある。何となれば、通常我々は、事物の結果が種々の原因に依属する場合には、その結果は、これらすべての原因の協働から生ずることを見るからである。
それであるから、救済のいかなる役割を、国家から期待すべきかを探究することは、確かによいことである。ここでは国家とは、この国民または彼の国民が採用している国体を意味するのではなく、自然の正しき道理が適当と認め、しかして神の智慧の教訓が、是認するところのものを意味するのである。32. この神の智慧の教訓は、予が特に、国家のキリスト教的構成に関する同章の中に説明したところのものである[2]。かく国家統治者は、第一に国家の諸法律と諸制度とのすべての手段により、一般的かつ普遍的に努力をなすべきである。すなわち国家の形成と管理とによって、おのずから公共及び私人の隆昌を見るように、行なって行くことによってである。何となれば、これは賢明なる国家統治の任務であり、国家を統治する人々の本来の職務であるからである。今、国家をして隆昌ならしめるものは、主として風俗の純正にして、かつ秩序的に構成された家庭、宗教と正義との遵守、公共的負担の適度の賦課及び(その)公平な配分、商工業の発達、繁栄する農耕であり、かつ同種の他の事柄にして、いよいよ大なる努力を以て進めれば、公民がいよいよよく、いよいよ幸福に生活し得べき底の物があれば、またそれを含むのである。それであるから、これらのことの力により(労働者階級以外の)他の諸階級を益すること、及び同様に、最も多く貧者の境遇を改善することは、国家統治者の権力内にあり、しかもこれはその最もよき職権によってなし得ることであって、毫も不正当なる干渉の疑いはないのである。何となれば、国家はその職掌の性質よりして、公共のために謀るべきものであるからである。また、この一般的配慮から、便益が多く生ずれば生ずるほど、労働者の福祉のために、他の手段を行う必要は次第に少なくなるであろう。
国家は労働者の境遇改善を配慮すべし
33. しかしながら、その外になお考うべきことがある。それは本問題に一層深い関係がある事柄であって、国家の存在理由は、貴き者に対しても、賎しき者に対しても、共通なる唯一のものであるということである。疑いもなく、貧者も富者と同権を以て出生によって公民である。すなわち生命を有するところの真正の部分であって、それから家族の仲介を経て、国家の身体が成立する。しかも、彼らはすべての都市において、非常に大多数であるということは、付言を俟たない。国民の一部分のことを考えて、他の部分を無視することは、非常に不合理であるから、従って国家は労働階級の福祉・利益を保護するに当り、義務たる配慮をなすべきである。しからざれば、各人にその人の物を交付すべしと教える正義が犯される。このことについて、聖トマスは賢明に曰く「部分と全体とはある意味において同一であるごとく、全体に属するものは或る意味において部分に属する」(聖トマス神学汎論第2巻第2編61問第1説付2)と。故に国民のために善く謀るところの統治者の少なからざるかつ軽からざる義務の中で、第一に重要なものは、確かに、分配的正義と呼ばるる正義に違背せず、これを守って公民の各階級を公平に保護することである。
34. しかしながら、その幾分かが必然的に個人に帰するところの公益の全体に対して、すべての公民は何人も除外なく、何らかの貢献をすることが必要ではあるけれども、人々は同一のことを等しく貢献するを得ない。国体にいかなる変化があっても、公民の状態には永久に差別があるであろう。差別のない社会は、存在することもできないし、考えることもできない。国家のために尽瘁する人、法律を制定する人、裁判を行う人、最後に謀議及び権力によって、平和の時の政務や戦争の事務を処理するところの人が見出されることは、全く必然である。このような人は、最も直接にかつ勝れて、公共の福利に努力を捧げるから、その人々の役目は勝れたものであり、全国民の中で第一の格式を有すべきは、何人も疑わないところである。これに反し、あるいは産業に従事する人々は、この人々と同じ程度に、また同じ機能を以て、国家に貢献するものではないけれども、これもまたやや間接とはいいながら、大いに公共の福利のために尽くすのである。実に社会の福利は、その到達により、これに属する人々が一層善くなるようなものでなければならないから、主として徳に置かれなければならない。しかしながら「その使用が徳の行為に必要な」(聖トマス「主権者の指導」第1編第15章[3])肉体的・外的の福利が、豊富に備わることも、またよく組織された国家にはなければならないことである。そしてこのような福利を備えるためには、労働者の労働は非常に有力であり、また必要なものである。すなわち彼らは、あるいは田畑に、あるいは工場に、技能及び労力を働かすべきである。しかり、この点に於ける彼らの力及び能率は、非常に大きく、労働者の労働によるにあらざれば、国家の富は生じないことは、極めて真実である。故に政府が貧者について注意をなし、以て彼が公共の便益に貢献するところのものから、家とか衣服とか或る物を受け取り、安全に余り苦しくなく、生活に堪え得るようにすべきことは、公義の命ずるところである。また、いやしくも労働者の境遇に有益であるであろうと見られるすべてのことに、援助を与うべきであることは、当然の結果である。このような配慮は、誰をも害することはないのであって、寧ろこれはすべてのもののためになるのである。何となれば、かくまで必要な諸福祉を生ずる人々が、あらゆる点において悲惨な(状態に)おらないことは、全く国家の利益であるからである。
国家の干渉すべき時機
原則:公共団体或いはその成員の福利がこれを要求するとき
35. 既に述べたごとく、公民または家族は、国家に吸収さるべきものではない。自由を以て行動するの権利を、両者の各に許すことは、公共の福利に損害を与えず、何人の損害もなく、なし得る以上は公正である。しかしながら統治者は、公共団体及びその成員を保護するに努めなければならない。公共団体を保護しなければならない訳は、公共の安全の保護は、単に最高の法律であるばかりでなく、主権の全原因・全理由であるという具合に、自然は公共団体の保護を、最高権に委託したからである。公共団体の成員を保護しなければならない訳は、国家の行政は、本来、(行政の)委任を受けた人々の利益を目的とせず、(その人々の手に)委任された人々の利益を目的とすることは、哲学とキリスト教の信仰とが等しく認むるところである。統治の権能は神より出で、幾分神の最高主権に参与することである故に、一般の事と同様に、個々の事をも、[父]親のごとき配慮を以て考量して、神の権力の模範に従ってこれを行うべきである。36. それ故に、公共の事柄または個々の階級の事柄に、何らかの害が生じまたは将に生ぜんとし、これを癒しまたは防止することが、他の方法によってはできない時は、公権に頼ることが必要である。
適用:その一、公私の福利が干渉を要求するとき
平和と秩序とが保たれること、家庭共同生活のすべての紀律が、神の命令と自然の原理とに従って導かれること、宗教が尊崇せられ遵守せられること、完全な道徳が公にも私にも盛になること、神聖な正義が確守せられ、一階級が他の階級を害しても罪せられないことのないこと、諸公民が強健に成人して、必要ある場合にはその国を助け守り得ること、これらのことは公及び私の福祉のためである。それ故に、もしも労働者の退去または一致的労働中断によって、何らかの騒動が将に起らんとすること、労働階級の中に家族の自然的連鎖が弛むこと、信心の勤めに対する便益を十分に与えないために、労働者に対して宗教が妨害されることが起こる場合、工場内において、男女の混合その他罪を犯すの有害な諸の誘惑から、風俗の純朴を脅かす危険がある場合、または雇主階級が不公正な重荷を以て労働者階級を圧迫し、あるいは他の条件によって、人の身及び人としての品位を害する場合、過度の労働または性と年齢とに不適当な労働のために、健康が害せられる場合、これらの諸の場合においては、或る限度内において、法律の力と権威とを用うべきであると言うことは論を俟たない。その限度は、法律の力を要求する場合(の性質)がこれを決定する。すなわち法律は、害悪の治療、危険の除却が要求する以上のことを企図し、またはそれ以上に進んではならないのである。
その二、特に弱者と貧者との権利を保護することの必要
37. 実に、権利は何において存在するにかかわらず、神聖に尊敬せられなければならない。公権は加害を防ぎまたはこれを罰して、個人が自己のものを保持し得るように注意すべきである。ただし、個人の権利の保護に際しては、弱き人々及び貧しき人々の利益が、特に考慮せらるべきである。富者の階級は、種々の保護手段を以て保護されているから、公の保護を要することは比較的に少ないが、憐れな人々は、何ら自己の力によって守られず、主として国家の保護に頼るのである。この理由からして、貧しい多衆の中に数えられる賃銀労働者をば、国家は特殊の注意と配慮とを以て、抱擁しなければならない。
第五章 国家干渉の或る特殊なる場合
正営なる所有権の法律的保護
38. しかし、二三の更に重要な問題を特に述べる方がよい。主要なことは、私有財産は法律の権力と保障とによって、保護さるべきことである。現時(世人の)欲望が、かくのごとく激しきに際しては、民衆が義務に拘束されることは最も必要である。正義に反せざる限り、自己の境遇を改善するために努力するのは許されるが、他人からその所有物を奪い、また不合理な平等の仮面の下に、他人の財産を侵すことは、正義の禁ずるところであり、公益の理由もこれを許さないからできる。しかして確かに労働者の極めて大部分は、何らの不義を行わずして、正直な労働によって、己の境遇を改善しようとしている。しかしながら、邪説に感染し、革新を熱望して騒動を起し、他人をも暴力に誘おうと百方努める人々は、少なからざる数である。故に国家の権力者は、これに干渉して煽動者を制圧し、労働階級の道徳の悪化者たる奸策と、合法的財産の掠奪の危険とを防圧すべきである。
同盟罷業
干渉の理由
39. 長過ぎかつ烈し過ぎる労働と、賃銀を不十分なりとする見解とが、労働者の一致して仕事を罷め、故意の無為に身を委ねること(すなわち同盟罷業[ストライキ])の原因となることが稀でない。この習慣的でかつ重大な不都合は、公の力で癒すべきである。何となれば、この類の(労働の)廃罷は、単に、雇主にも労働者自身にも損害を蒙らせるのみならず、また商業と国家の利益とを害するからである。かつ(かかる場合には)、暴力と騷乱とに陥るのが常であるから、しばしば公共の安寧を危険に導く。
その方法
法律の権力によりこれについてあらかじめ備え、雇主と労働者との争闘を起こすと思われる原因を除いて、害悪が勃発することのできないように防ぐことは、大いに有力であり健全な手段である。
労働者の霊魂の生命について 日曜日の休息
40. 同様に、労働者の方にも、国家の力によって保護せらるべき物が多くある。第一に保護せらるべきは、霊魂上の利益である。現世の生命は、いかによいものであっても、それは吾人の生れた所以の究極の目的ではない。それは単に、真の完全な知識と善に対する愛とにより、霊魂の生命を完成するの道であり、手段[4]である。霊魂は、神の肖像と類似とを彫り込まれて持っているものである。人類は主権を以て、己よりも劣等の自然界を支配し、すべての地と海とを自己の便益に供すべきことを、(神に)命ぜられたのであるが、霊魂の中には、この主権が宿っているのである。「地に満ちてこれを従えよ、また海の魚と空の島と地に動くすべての生物とを治めよ。」(創世記1の28)。この点においては、すべての人は同等である。富者と貧者、主人と召使、君主と人民との間に、何らの異なるところもない。「蓋し万民の主は唯一に在す。」(ロマ書10の12)。何人も、神御自ら大なる尊重を以て取り扱い給う人間の尊厳を犯し、または天の永遠の生命に応ずる完徳への道程を妨げて、咎を免れることはできない。しかのみならず、人はこの点において、自分の気ままにその天性に不相応に行動し、霊魂の奴隷生活をなすを欲することはできない。何となれば、ここに論じているのは、全然人の自由であるところの権利についてではなく、神聖に守るを要するところの、神に対する義務についてであるからである。
41. 聖日における仕事と労働との休止は、以上のことの必然の結果である。しかしながら、何人も、これを無為なる懶惰を大いに享楽することと考うべきではない。まして多数の人々が望むように、不徳の助長者、金銭浪費の媒介者なる無為と考うべきではない。全く宗教によって聖別せられた仕事の休息と考うべきである。宗教と結びついた休息は、人を毎日の労働と用向きとから離し、その結果天の幸福を考え、永遠なる神に対する義務たる正しき礼拜を捧げることに呼び戻す。神が旧約において、主要なる法律を以て「汝安息日を聖日とする事を記憶すべし。」(出エジプト記20の8)と制定し、人を造り給える後、直ちに「第七日目に神その完成したるすべてのわざより休み給えり。」(創世記2の2)とあるごとく、神秘たる休息を取って、自らの行為によって教え給うた、聖日の休息の性質及び原因は、主としてこれであると知るべきである。
労働者の肉体的・外的利益
42. 肉体的・外的の福利の保護に関しては、何よりも第一に、人間を金儲けの道具として、むやみに妄用するところの貪慾な人々の残虐から、哀れな労働者を救わなければならない。過度の労働のために、精神が蒙昧となり[5]、身体が困憊のために倒れるほどに、多くの仕事を要求することは、正義(人道)の許さざるところである。人においては、その性そのものが有限である如く、その活動力も、或る限界によって画せられており、その限界以外に出ることはできないのである。その力は、働かし用いることによって鋭利にされる。しかしこれも、活動が時々止んで休息するという法則によってである。それ故に、日々の労働についても、それが力が許す以上に、多くの時間に引き延ばされないように、注意しなければならない。実に、休息の時間は、仕事の色々の種類、時と場所との諸事情、労働者の健康によって裁量すべきものである。地から石を切り出し、または地中深く蔵せられる鉄・銅及びその他の金属を掘り出すを仕事としている人々の労働は、比較的に烈しくかつ健康に障りあるものであるから、労働時間の短いことを以て、償わなければならない。また季節のことも考えなければならない。同じ種類の仕事が、或る季節には容易に堪え得るが、他の季節にはどうしても堪え得られず、または堪えるに非常な困難をしなければならない場合は、稀でないからである。
女子と子供との労働について
最後に、極めて強健な成年男子が為しかつ努め得ることも、女子や子供にそれを要求することは公平でない。特に子供については、年齢によって身体と智慧と霊魂とが十分に強まらない中に、工場に働かせることのないように、十分に注意しなければならない。早期の活動は、柔らかな草のごとき少年における、勃発する力を蕩尽する。それによって、すべての児童教育は亡ぼされるのである。同様に、或る種の仕事は、天性家庭の仕事をなすべき者たる婦人には、誠に不適当なものである。家庭の仕事は、大いに婦人の純潔を保ち、性質上、子供の教育及び家庭の繁栄に相応しいものである。
雇主と労働者との間の契約の条件たる日々の休息と日曜日の休息
一般に、労働によって消耗した力に平均するように、労働者に休息を与うべきである。蓋し、使用によって弱められた力は、休息がこれを快復しなければならない。雇主と労働者との間に約定された、すべての債務の中には、両種類の休息(毎日の休息時間と日曜日・祝日の休息)に注意すべき明示または黙示の条件が、常にあるものである。然らざれば合意は、徳義に叶わないであろう。人を神と己とに対して拘束する義務を怠ることを、他人に要求するのも、(自分が)約束するのも正当ではないからである。
賃銀の決定
43. 予はここで、十分重要な問題を取り扱う。この問題については、両極端のいずれかの誤りに陥らないために、正しく理解することが必要である。
正当なる賃金:その一、誤れる理論
すなわち賃銀の額は、自由な同意によって定められる。かくして雇主が契約した賃銀を支払えば、その約束を守ったものであって、それ以上の義務はないと見えそうである。そこで、雇主が賃銀の全部の支払いを拒み、あるいは労働者が、その義務たる仕事の全部を成し遂げることを拒む時にのみ、不正が行われるので、かかる場合にのみ、国家の力は、各人が自己の権利を侵害されないように干渉するのが正当であるが、その他は、いかなる場合にも不可であると思われている。
その二、正しき理論
44. 事柄の公平な判断者は、この議論に対して、容易に同意することができない。または悉く同意することもできない。それは、すべての部分について完全でないからである。極めて重要な一事が欠けているのである。労働とは生活の種々の需要、なかんずく自己の(生命の)維持に必要な事物を備えるために、活動することである。「汝額に汗して食物を得ん。」(創世記3の19)。従って人の労働には、自然によって生み付けられた、二つの標ともいうべきものがある。(第一に)確かにそれは個人的である。何となれば、活動力は人に付着するもので、しかしてこれを用い、かつ自巳の利益のためにこれを受けた人自身のものであるからである。次に、人の労働は必要である。それは労働の成果は、生命を維持するために、人に必要であるの理由に基づく。また生命を維持することは、事物の本性が命ずるところであって、この事物の本性には従わなければならない。今単に、労働が個人的であるという点だけから考えるならば、契約される賃銀の額を、もっと不十分に定めることは、全く労働者の自由であることは疑いない。彼は自由意志で労働を与えると同様に、自由意志で僅かの労働賃銀を受け、または何らの賃銀を受けずに満足することができる。もし個人性の理由に、必要性の理由が結合されるならば、大いに異なった判断にならなければならない。蓋し必要性の理由は、個人性の理由と、思想上においては分離ができるが、実際上は分離ができないものであるからである。実に、自己の生命を保持するのは、各個人に共通な義務であり、これを守らないことは罪である。従って生命を維持するために、必要なものを得る権利は必然生まれて来る。貧しい者には、労働によって得た賃銀を除いては、これらの物を得る手段はないのである。
その三、結論
45. さて、労働者と雇主とが、彼らの意に適う契約をなし、特に賃銀の額について、自由に同意するとせよ。しかしながら自然の正義に基づく或る一つのことが、常にその上にある。それは契約者の自由意志より更に大いにして、更に古いものであって、すなわち賃銀は、正直な行いのよい労働者の生活を、支えるに足らないものであってはならないということである。もしも労働者が必要に迫られ、または一層甚だしき困厄に対する恐れに動かされて、雇主や労働請負人から課せられる故を以て、己が欲しないにもかかわらず、承諾しなければならないところの、もっと苦しい条件を承諾するならば、それは力に屈することであって、正義はこれに反対して叫ぶのである。
国家干渉の条件
しかし、これらの場合及び各種の職業における類似の諸場合、すなわち幾何の時間働くべきか、工場において最も注意すべき健康の保護等については、殊に事情と時と場所との諸関係が、実に多様であるから、政府が不適当に干渉してはならない。これらの事柄を、次に述べようとする組合の判断に保留し、または労働者の利益が適当に安全であるべき他の道を取り、かつ必要な場合には、国家の保護と支持とを乞うことは、一層十分であるであろう。
所有者たらんがために働くことの利益
節約と家族の財産との保護
46. もしも労働者が、自己及び妻子を安楽に支えるに足るほど十分に多い賃銀を得る時、もし彼が利巧ならば、容易に節倹に努めるであろう。そして彼は自然が勧告するように思われるところに従い、費用を省いて幾分か余裕があるようにし、かくて多少の財産を持つことになるであろう。ここに論じている問題は、私有財産の権利が神聖でなければならないことが、採用され確立されなければ、有力に解決することができないのは、吾人が既に知ったところである。従って、法律はこの権利を保護し、多数民衆の中から、なるべく多くの人が財産を所有するを欲するように、できるだけ配慮すべきである。
社会的理由
47. このことができれば、多くの優れた利益が、その結果として生ずるであろう。まず第一には、確かに今よりもっと公平な財産の分配が生ずるであろう。社会的変革の力は、社会を二つの人民階級に分ち、両者の間に非常な大きな区別を作った。一方には、極めて富めるが故に、極めて権力ある階級がある。彼らは工業・商業の全部を単独に所有し、富を生ずるすべての機能を、自己の利便と利益とに導く。そして国家の支配において、少なからず勢力を占めている。他方には、困窮せる力なき多数の人々があって、その心がいら立って、常に騒擾を醸そうとしている。今、もしも民衆が土地の中に合まれている、或る物を得るの希望から努力の刺戟を受けるならば、至極の富と至極の貧との間の区別が、徐々になくなり、一つの階級が他の階級に近づくに至るであろう。
経済的理由
そのほか、土地の産する物に非常な増加を来すであろう。何となれば、人は自分が自身のものにおいて働くを知るとき、一層大いに熱心と努力とを致すものであるからである。更に、彼らは自分の手を以て耕した土地、単に食物のみならず、或る安楽を自身及び家族に与えることを期待する土地を、全く愛するようになる。この意志の熱心は、いかに多く国家の富を増大し、(土地の)成果の豊富を来すかは、何人といえども認めないわけにいかない。
特殊の理由
このことから第三に次の利益が生ずる。人は自分が(そこで)この世の光に触れた国には、容易に引き止められるであろう。もし本国が生活を営むにかなりの手段を与えるならば、他の地方とそれを交換しないであろう。
賦課の軽減
しかし私有財産が貢と税との過酷のために、涸れ尽されることのない条件においてに非ざれば、これらの便益に達することはできない。財産を私有するの権利は、人の法律からではなく、自然から与えられたものである。そして公権はこれを廃することはできず、ただその使用を制限し、公共の利益と調和せしむることができるのみである。それゆえに、国家が貢の名を借りて、公正以上に私有財産の中を奪うならば、それは不正であり、非人道である。
第六章 職業組合 その合法 好時機 目的 方針
職業組合の重要
48. 最後に、雇主と労働者とは、貧窮者に機宜に適した援助を与えたり、一つの階級を他の階級に接近させるような、種々の会を設けたりして、大いにこの問題(の解決)に力を尽くすことができる。これらの会の中には、相互扶助会、及び労働者、その寡婦孤児が、不時の出来事に遭い、病気に苦しみ、あるいは死んだ場合に、これを保護する種々の団体、少年・少女・青年・成人を世話する養育院が数えられる。49. しかしながら、労働者の組合は、主要の地位を占める。その他の(ほとんどすべての)ものは、その中に含まれる。(昔の)工匠組合の功績は、吾人の祖先の確知したところである。実にこれは、単に労働者に、種々の著しい便益を与えたばかりでなく、また工芸その物に、光栄と進歩とを生じた。これは数多くの記念物が証明する。今はその常時よりも時代は開化し、風俗は一新し、日常生活の要求するところのものが、数多くなっているから、労働組合が現代の要求に従うことは、実に必要である。
混成組合と分離組合
全く労働者のみより成っているか、または(労働者と雇主と)両階級の混じたものかのこの種の組合が、一般に組織されているのは、喜ばしいことである。これらがその数において、また活動力において、発達することは実に望ましいことである。
組合の存在権
これらについては、実に一度ならず述べたが、これらが非常に時宜に適するものであること、またこれらが存在の権利を有すること、またいかなる組織を採用し、何を行うべきかをここに示すことは善いことと思われる。
その起源は自然である
50. 人が自己の力の乏しいことを知れば、このことは人を刺戟して、他人の力を自己の力に合せるようにさせる。聖書の中に次の句がある。曰く「三人共にあるは一人あるに勝る。そはその協力のために報いを得ればなり。一人の人倒るる時、他の人に扶け起こさるべし。一人の者は憐むべきかな。その倒るる時、これを扶け起こすものなければなり。」(伝道書4の9-10)。またこういう言葉がある。「兄弟に助けらるる者は堅き城のごとし。」(箴言18の19)。人はこの自然の傾向によって、社会的の連絡・結合に導かれると同様に、(他の)諸公民と共に、他の種々の会を作ることを欲する。これらは小さくして完全ではないが、とにかく社会には違いない。
その私的性質
51. これらのものと彼の大いなる社会とは、その目的が異なるために、その間に多くの差異がある。公民社会の目的とするところは、一般の人に関係する。何となれば、その目的は公共の利益によって制限されるからである。各人が割合に応じて、その配分に与ることは正当である。従ってこれは公共社会と呼ばれる。「人々は一の国家を構成するように相互に交通する。」(聖トマス「神の礼拝と宗教との攻撃者に対する駁論」第2章)。これに反して、国家の内に組織される社会は、私的のものとせられ、また私的のものである。何となれば、その直接目的とするところは、単に会員にのみ属するところの私的利益であるからである。
これらの団体に対する国家の権利:その一、国家は勿論これらを保護すべきである
「私的社会とは、私的事務を行うために組織されるものである。例えば二三人の人が共同して商売するために組合をなす場合のごときである。」(同前)。今、私的社会は国家の中に存在し、それだけの数の国家の部分のごとくであるが、一般的にかつそれだけについて言えば、これらのものが存在しないように禁止することは、国家の権内にない。蓋し、私的社会に入ることは、自然法によって人に許与されたものであり、しかして国家は、自然の権利の保護のために組織されたもので、かつ破壊のために組織されたものではない。そしてもし国家がその国民に、結社を禁ずるならば、全く白身に逆らうことを行うものである。国家も私的結社も、人は天性団体を作るものであるという、この一つの原理から生れるものであるからである。
その二、ある場合は国家はこれらを解散すべきである
52. しかしながら、時として法律がこの類の団体に反対することが正しい場合が起こる。すなわちその定款に基づいて、それが良俗にも、正義にも、国家の安寧にも、明らかに反することを追及する場合である。このような場合には、実に公権はその権利を以て、これらの団体の組織されることを妨ぐべきである。また公権はその権利を以て、既に組織されている結社を解散すべきである。しかしながら、国民の権利を侵害すると見られないように、また公益の仮面の下に、道理の許さないことを制定することのないように、至大の注意をなすことが必要である。法律は正理に協う限り、従って神の永遠の法則に協う限り、従うべきものであるからである。(人の法律は、正理に従う限りにおいて、法律の価値がある。しかしてこの正理に従うという点で以て、その法律が、(神の)永遠の法律から派出したものであるということが明らかになる。それが道理に乖離する限りにおいて、不正なる法律と呼ばれる。しかしてこの場合には、それは法律の価値を有せず、寧ろ一種の暴虐である。「聖卜マス神学汎論第2巻第1編第13問第3節」)
種々なる団体=善良なるものと不良なるもの
宗教団体に対する国家の権利の適用
53. ここに予は、教会の権威とキリス卜教徒の仁愛とが生んだ信徒会(Sodalitates)・俗間司祭会(Collegia)・修道会(Ordines religiosi)を考える。現代に至るまでの歴史は、これらの会が、人類の福祉のために、いかに多くの事をなしたかを述べている。これらの会は、道理のみから判断すれば、正しい目的のために組織されたものであるから、自然法に従って組織されたものであることは明らかである。宗教に関する方面から見れば、これらの会が正当に従属するのは、教会のみである。従って、国家の統治者は、これに対して正当に何らの権利をも主張することができず、また正当にこれが管理を己に帰せしむることもできない。寧ろこれを尊重し、保護し、しかして必要な場合には、侵害に対してこれを防衛することは、国家の義務である。しかるに実際は、これと全く反対になっていて、特に現代においてそうであるのを見る。多くの場所において、国家はこの種の団体に暴力を加え、多様の不正を加えている。これらのものを、国法の羈絆を以て束縛し、法人としての合法の権利を奪い、その財産を掠めた。かかる財産については、教会がその権利を有し、団体の各員がその権利を有し、またこれらの会に或る一定の目的を定めた人々、及び団体が設立されたのは、その利益と救助とのためであるところの人々が、その権利を有した。それであるから、予は心に、かく不正・有害なるこの類の掠奪を悲しむことを禁じ得ない。人々が法律によって、結社の自由を有すると規定されている時代において、この平和・有益なるカトリック団体が、その道を塞がれ、しかして宗教に有害と同時に、国家に有害な企図を蔵する人々に、実に広く自由が許されているのを見るが故に、予は尚更悲しむのである。
二者択一
54. 実に種々の団体、殊に労働者の団体の多数なことは、今は他の時代よりも遙かに勝っている。この中の多数が、何処にその起源を有するか、何をなさんと欲するか、いかなる道を進むかは、ここで探求すべきではない。しかしながら、多くの証拠によって確かめられた意見は、多く秘密な首領がこれを支配し、しかしてこれらは、キリスト教の名及び国家の安寧と一致しない主義を用い、行うべき仕事全部を占領し、それに参加するを拒むものは、その罰として、非常な困窮に陥ることを強いられているということである。この事態の下にあって、キリスト教徒たる労働者は、三つに一つを選ばなければならない。すなわち宗教に危険を加うるの虞ある団体に加盟するか、あるいは自分らの間に団体を創立し、しかして勇敢に、かかる不正な容すべからざる圧迫から脱することができるように力を合わせるかである。人類の最高の善を、最も現実な危険に投げ打つことを欲しない人には、全くこの第二の方を選ばなければならないということに、いかにして疑いを抱くことができようか。
社会問題の解決に努力する信者に対する讃辞
55. 時代の要求するところをよく認めて、いかなる手段によれば、正しい道によって、労働者階級の状態を改善することができるかをためし試みる、我がカトリック信者の多数は、実に大いに賞讃すべき者である。彼らは労働者の保護に任じて、その家族的並びに個人的繁栄を増し、また雇主と労働者とが相互に結ばれている綱を、公平を以て統制し、両階級の人々の中に、義務の記憶と福音の教訓の遵守とを支持し、かつ強固にすることに努力する。福音の教訓は、人を不節制から呼び戻し、適度を越えることを禁じ、人と物との極めて種々なる状態の中に、国家内の調和を保護するのである。この原因に基づき、しばしば勝れた人々が、意見を交換し、力を合わせ、いかなる手段が最良であるかを相談するために、一所に会するのを見る。また或る人々は、色々な種類の労働者を、適当な組合に糾合することに努力し、助言と資金とを以てこれを援助し、正しくして有益な仕事が欠けないように配慮する。司教達は熱心を添え、後援を与え、信徒の霊の世話に任ずる(俗間・律修)両種聖職者の多数は、司教達の権力と指導とによって、これらの団体員の霊的利益のために熱心に配慮する。また最後に、巨富を有するカトリックで、進んで賃銀労働者の提携者ともいうべきものとなり、多額の金を以て組合を設立し、かつこれを広く弘めることに努力する人もないではない。それらの会の助けで、労働者はその労働によって、単に現在の色々の便益を得るばかりでなく、また、将来の尊い安息を求めることが容易にできるであろう。かく多種にしてかく熱心なる努力が、公共の利益にいかほどの貢献をなしたかは、極めてよく知られていて言を俟たない。この故に、今この種の団体が引き続き発達して、賢明な組織によって構成されさえすれば、その前途誠に有望であると思う。
組合の目的
国家に対する勧告
国家は、これらの合法的に組織した国民の諸団体を保護すべきであるが、その内部の事務や生命の秩序に、立ち入るべきでない。生命の活動は、内的原動力によって動かされるが、外部からの打撃によって、実に極めて容易に打ち壊されるものであるからである。
定款に必要なる多様性
56. 実に、行動における一致と意志の和合とが成立するためには、賢明なる組織と紀律とが必要である。それ故に、団体を組織することが、国民の自由なる権利であることが確かである以上は、目的とするところに最もよく役立つと思われる紀律と法則とを、自由に選択する権利がなければならない。予は今述べた団体の組織と紀律とが、その個々の部分においていかなるものであるべきかと言うことを、或る確定の規則で決定することができるとは考えない。それは寧ろ各民族の天性、経験と実行、事業の性質と能率、商業の範囲、その他細心に考慮すべきことと時とに関する付随条件によって定めらるべきものであるからである。
固有の目的
57. これを要するに、一般的かつ永久的の規則は、次のように定むべきである。曰く、労働者の団体は、その団体の各員の体と心と家産との福利の増進を、できるだけ追及するに存するところの目的を、最も便宜にして最も容易な手段によって達せしめるに適当なる方法を、各員に与えるように、組織管理せらるべきであると。
完全なる目的
信心と道徳との完全を主要の目的として、これに志さなければならないこと、団体の紀律がこの目的によって、最も有力に指導されなければならないことは、誠に明白である。さもなければ他の形に慢性し、宗教について何らの顧慮をしない種類の団体に、多く優るところがなくなるであろう。なお、組合の力によって物を沢山に得たところが、霊魂がその食物の不十分のために、その健康が危険に陥ったならば、労働者に何の利益があろうか。「人全世界を贏くとも、もしその魂を失わば何の益かあらん。」(マテオ16の26)。主キリストは、キリスト教徒が異教徒と区別されるために有すべき特徴として、これを教え給うた。「これ皆異邦人の求むる所なり。……先ず神の国とその義とを求めよ。しからばすべてこれらのものは汝に加えらるべし。」(マテオ6の32-33)。
宗教教育とその躾との必要
されば神の与え給うた諸原理に従って、各人が神に対する己の義務及び永遠の福祉のために、何を信ずべきか、何を望むべきか、何を為すべきかをよく知り、諸説の誤謬及び種々の腐敗手段に対して、特別の注意を以て保護せられ得るために、宗教教育に重大の地位を与えなければならない。労働者は、神の礼拝、信心の熱心、また特に聖日の尊重の実行に振作されなければならない。万民の共通の母なる聖会を敬い愛することを学び、またその教えに従うべきこと、また霊魂の汚れを清め、聖徳を得るための神定の手段たる秘蹟を度々受くべきことを、学ばなければならない。
組合の定款 組合員相互の開係
58. 団体の法則の基礎を宗教の上に置けば、平静なる共存と繁栄する諸状態とが、結果として生ずるように、団体員相互の関係を確立することは困難でない。
権利の尊重:その一、内部の管理において
団体の事務は共同の利益に適うように、また(事務の)相違が一致を害さないように割り当つべきである。事務を賢明に分かち、明確に定めることは、何人にも害を加えないということのためには、極めて重大である。共同の資金は、扶助の程度が各員の窮乏の度によって定められるように、厳正に管理しなければならない。
その二、雇主と労働者との関係において
雇主の権利・義務は、労働者の権利・義務と適当に合致しなければならない。
争議・休業・病気・突発事故・老齢に対する用心
もし或る階級が、自分が或ることにおいて他の階級から害せられたと思うならば、団体の規則において、その団体中の賢明にして廉直な人々が相会して、その裁決によって争議を解決すべき旨を命ずるより望ましいことはない。いずれの時にも、労働者に仕事が間違いなく潤沢にあるようにし、しかして基金が多くあって、単に予期せざる工業上の突発事故に際してのみならず、病気・老齢及び不幸が、或る人を圧迫する場合にも、各人の必要に対して、これを補助するようにすべきである。
貧者の利便と福祉
59. 人々が進んでこのような規則を採用するならば、貧しい人々の利便と福祉とは、十分に考慮されるであろう。
一般の繁栄
かつ、カトリック信徒の団体は、国家の繁栄に対し、少なからざる影響を持つであろう。過去の出来事から、未来の出来事を予見することは軽率ではない。各時代は前の時代を押し付けて進むが、(各時代の)事蹟の類似していることは不思議である。何となれば、これらの事蹟は、人類の創造に際して、御自身に対して定め給うた目的に向かって、事物の継続と系列とを、統制・転向し給う神の摂理に支配されるからである。
労働者の運命はその手にあり 初代キリスト教徒の模範
公衆好感の快復
昔、教会が成長しつつあった時代においては、キリスト教徒の大部分が、施物を乞うたり、または労働したりして生活したことが、教徒の恥とされたことを我らは聞いている。しかしながら、彼らは富と勢力とを持っていなかったが、富める人々の寵しみと、勢力ある人々の保護とを受ける事を得た。彼らは勤勉にしてよく働き、平和であり、正義の模範及び特に愛の模範に固着しているものと見ることができた。かような生活と道徳との光景には、あらゆる偏見も消失し、悪意の人々の誹毀も沈黙し、古代迷信の作り話もしだいしだいにキリスト教の真理の前から退却した。60. 現代においては、労働階級の状態について争いがある。その争いを道理によって解決すると否とが、いずれにしても最も国家に重大な関係がある。しかも、キリスト教徒たる労働者が組合に結合し、賢明なる指導者を用い、彼らの父と祖先とが、自身並びに社会の福祉を得ながら進んだ共の同じ道を行くならば、これらの争いは労働者によって、道理に基づいて容易に解決されることである。なるほど、人間において偏見及び貪欲の力は大である。しかしながら、曲がった意志が徳の感情を麻痺させていない以上は、国民は彼らが勤勉にして節制であることを知り、また彼らが利得よりも公平を先とし、義務の厳守を何事よりも先とすることがよく知られるから、国民の好感は自ら彼らの方に傾くであろう。
労働者境遇の改善
61. このことから次の利益が生じ来るであろう。すなわち、全くキリス卜教の信仰を棄て去ったか、または信仰に反する生活をしている労働者に、健全なる生活の希望と、それに達する大いなる可能性とが豊富になるであろうということである。これらの人々は、たいてい自分らが、偽りの希望と事物の仮装的外形とに欺かれたことを知っている。彼らは、貪欲な雇主から、常に非常に非人道的に待遇され、自分らが労働して、どれだけの利潤を生ずるかということ以上に評価されていないと感ずる。しかしてまた、彼らが巻き込まれている組合の内には、慈悲と愛情との代わりに、傲慢・不信なる貧窮の永久の件侶たる、内部の不和が存在することを感ずる。魂は破られ、肉体は痩せて、かかる屈辱的な奴隷状態から逃れたいと思う者が、何ほど多いであろう。しかし、人に対する気兼ねや貧窮の恐れに妨げられて、これをあえてしないのである。今カトリックの団体が、もし躊躇する人々を困難から救い出し、己の懷に呼び入れ、覚醒する人々を、自己の助けと保護との中に受取るならば、すべてこれらの人々の福祉に、いかに有益であるかは驚くべきものである。
結論 社会的協力 愛
人各々その義務を尽さんことを
すべての人皆着手すべきである
62. 尊敬すべき兄弟諸君よ、この極めて困難な問題について、何人がいかなる方法で骨を折るべきであるかを諸君は見る。すべての人は、自分の役割に取り掛からなければならない。しかも既にかくも重大な不利益が、治療の遷延のために、ますます癒すべからざるものとなることのないように、最も速やかにすべきである。国家を統活する人々は、法律・制度の保護を利用し、富者及び雇主は、その義務を記憶し、直接利害関係ある労働者は、道理に従って努力をなすべきである。そうして最初に述べた通り、独り宗教のみが、害悪を根本的に追い出すことができるのであるから、第一にキリスト教的道徳が回復さるべきであって、そのことなくしては、最も適当と考えられる賢明の武器も、福祉に達するにあまり役に立たないであろうという事は、すべての人の熟慮すべきところである。63. 教会に関しては、共の働きが、いかなる時でも、いかなる態様においても、欠けることを許さないであろう。その行動の自由が多く与えられれば与えられるほど、多くの助けが生ずるであろう。公の福祉を謀るの任に在る者は、特にこのことを理解すべきである。聖職者はすべて、心の力と勤勉の力とを尽さなければならない。尊敬すべき兄弟諸君よ、諸君が教権と模範とによって命ずる時、彼らはすべての階級の人々に、福音から取った生活の教訓を勧説することを止めず、できるだけのすべての力を以て人々の福祉のために努力し、そして諸徳の主にして王なる愛徳を己の身に保ち、他の人々にも、最も貴き者にも、最も賤しき者にも、(この徳を)喚起するように、最大の努力をしなければならない。
福音的愛の中に
蓋し、我々の望む福祉は、主として愛の豊かな発露から期待すべきである。愛とはキリスト教的の愛を意味するもので、この愛こそは、全福音を要約した律法であり、他人のために、常に喜んでその身を捧げるもので、世人のためには、この世の誇りと自己を法外に愛することに対する、最も確かな解毒剤である。この徳の務めとその神的の姿とは、使徒パウロが次の言を以て言い表している。曰く「愛は堪忍し、情けあり、己のために謀らず、何事をも忍び、何事をも怺うるなり。」(コリント前13の4-7)。
64. 尊敬すべき兄弟諸君よ、諸君個々に対し、並びに諸君の権に属する司祭及び信徒に対し、神の恩恵の保証と予の好意の証拠として、大いなる愛を以て、主において教皇掩祝を与える。
1891年すなわち予が即位第14年5月15日
ローマ聖ペトロ大聖堂において
教皇レオ十三世
昭和4年11月1日印刷
昭和4年11月5日発行
編集兼発行者 カトリック刊行会(東京市牛込区若宮町二十七番地)
同代表者[6] 山本信次郎
発行所 日本カトリック刊行会(東京市牛込区若宮町二十七)振込口座東京七四九六六番
脚注
- したがって、この回勅に時折付される表題「労働者階級の状態について」は、まったく正当なものである。この文の数行後で、教皇は『レールム・ノヴァールム』の主題について、より包括的な定義を与えている。我らはそれを表題として用いている。(聖座の回勅ページ脚注1)の日本語訳)
- 回勅『インモルターレ・デイ(Immortale Dei)』(聖座Webサイトの同回勅英訳リンク )
- Thomas Aquinas, On the Governance of Rulers, 1, 15 (Opera omnia, ed. Vives, Vol. 27, p. 356).(聖座の回勅ページ脚注28)より)。
- 原訳文では「器械」だが、英語のmeans相当語の翻訳ミスだと思われる。
- 原訳文では「闇昧」だが、修正した。
- 原本の奥付では「右代表者」。
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