第十章 第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます
目次
- 1 第九条に関する説教の必要性
- 2 教会(Ecclesia)とは何か
- 3 教会という語に含まれている奥義
- 4 聖書におけるキリスト教共同体の名称
- 5 戦闘の教会と勝利の教会
- 6 戦闘の教会と勝利の教会は一つである
- 7 戦闘の教会には善人と悪人がいる
- 8 見える教会は善人と悪人を含む
- 9 戦闘の教会に含まれない人々
- 10 教会という語の種々の用法
- 11 教会の特徴について、まず教会は一であること
- 12 ローマ法王〔教皇〕は見える教会のかしらである
- 13 キリストのほかに見えるかしらが必要である
- 14 教会が一であると言われる他の理由
- 15 第二の特徴は聖であることである
- 16 教会はカトリック(普遍的)である
- 17 使徒継承の教会
- 18 教会は信仰や道徳に関する事柄において不謬である
- 19 旧約聖書における教会の表象
- 20 教会に対する信仰の必要性
- 21 教会に対する信仰の内容
- 22 神に対する信仰と教会に対する信仰
- 23 諸聖人の通功
- 24 諸聖人の通功と秘跡
- 25 功徳を分かち合うこと
- 26 罪人は教会の恵みにはあずからない
- 27 無償の恩恵とその他のたまものは全教会のためのものである
1 第九条に関する説教の必要性
司牧者は第九条を説明するに当たってどれほどの配慮をしなければならないか、それは特につぎの二点を見ればすぐに分かる。まず聖アウグスティヌスの言うところによると、預言者たちはキリストについて述べる場合よりも一層くわしくまたはっきりと教会について述べている。それは、御託身の奥義よりも教会についてより多くの人々が誤ったりだまされたりするのを予見していたからである。実際、人まねをするさるのような行動をする不信仰者の絶えることはなく、かれらは悪意と傲慢から自分たちだけがカトリックであり、カトリック教会は自分たちの間に、しかも自分たちの間にだけあると断言する。
さて、教会に関する真理を固く心に刻み込んでいる人は、恐るべき異端の危険も容易に避けることができる。なぜなら信仰に反する罪を犯した人がすべて異端者ではなく、教会の権威を無視し不信仰な主張を頑固に述べ続ける人が異端者であるからである。したがってこの箇条で信ずべきこととして示されている事柄を信じているかぎり、異端の疫病にかかることはありえない。であるから信者たちがこの奥義を知ることによって敵の術策に対して身を固め信仰を堅持していくことができるよう、司牧者はあらゆる努力をすべきである。
ところで、この箇条はまえの箇条と関連がある。すでに説明したように、聖霊はすべての聖性の泉であり与え主であって、教会はかれからその聖性を受けているのである。
2 教会(Ecclesia)とは何か
エクレシア(Ecclesia 教会)という語はラテン人がギリシャ人から借りた語で、かれらは福音が各地に広められたあと、聖なる事柄を示すためにこの語を用いている。つぎにこの語の意味を説明することにしよう。
エクレシア(教会)は「呼出し」を意味する。著作家たちはあとで、この語を集会や会合を表わすために用いた。その場合、そこに集まっている人々が神のまことの民であるか、あるいは誤った宗教の人々であるかは問題ではない。使徒行録では、エフェゾの町の書記が市民を静めたあと、「もしこれ以上要求するところがあるなら、正式の集会で決められるであろう」(使19・39)と言っている。ここで正式の集会(Ecclesia)と言われているのはディアナ女神を礼拝していたエフェゾ市民のことである。神を知らない人々だけでなく、時としては悪人や不信仰者の集まりもエクレシアと呼ばれている。ダヴィドは、「罪人のむれ(Ecclesia)を厭い、悪人と共に坐らなかった」(詩26・5)と言っている。
しかしその後、聖書は一般にこの語をキリスト者の共同体つまり信者だけの集団を表わすために用いるようになった。その場合のエクレシアとは、無知と誤謬の闇から出てまことの生ける神に仕えるため、信仰を通して真理の光と神の知識へと呼ばれた人々のことである。以上のことを一言で言うと聖アウグスティヌスが書いているように、教会とは全世界に散らばっている信者のことである。(1)
3 教会という語に含まれている奥義
教会という語には重大な奥義が含まれている。実際、教会を意味する「呼出し」には神の恩恵の寛大さとすばらしさを感じとることができるし、また教会が他の共同体と非常に異なっていることも示されている。一般の共同体は人間的な考えと配慮によるものであるが、教会は神の英知と計画によって制定されたものである。神は内的には人々の心を開く聖霊の霊感をもって、外的には司牧者および説教者の活動や奉仕をもって、私たちをお呼びになった。そして昔、律法の下にあった信仰者の団体がシナゴーガ(Synagoga)つまり集会と呼ばれていたことから分かるように、私たちが呼出された目的は永遠の事柄の知識とその所有にあるのである。聖アウグスティヌスは、「その名称がかれらに与えられたのは、本能的に集団生活をする動物のように集団をつくって地上の滅びるものを求めているからではない」(2)と教えている。キリスト者の民が、シナゴーガではなくエクレシアと呼ばれるのは、地上の滅びるものを軽んじてただ天の永遠のものだけを求めているからである。
4 聖書におけるキリスト教共同体の名称
そのほかにもキリスト者の共同体を示すために、奥義に富んだ多くの名称が用いられている。たとえば聖パウロは、神の家(ティ①3・15参参照)、神の建物(コ①3・9参照)と呼んでいる。かれらはまたティモテオに向って、「もし私の行くのが遅れるとき、真理の柱であり、基であり、生ける神の教会である神の家において、どのように行わなければならないかを知らせる」(ティ①3・15参照)と書きおくっている。ここで教会は家と呼ばれている。それはいわば一つの家庭のように一人の家父によって治められ、またすべての霊的善をみんなで共有しているからである。教会はまたキリストの羊の群とも呼ばれている。キリストはその牧者でありまた牧場の門である(ヨ10・1~10参照)。さらに、教会はキリストの花嫁とも呼ばれる。聖パウロはコリント人に向かって、「あなたたちを清いおとめとしてキリストにささげるために、ただひとりの夫のいいなずけと定めたからである」(コ②11・2参照)と言い、またエフェゾ人には、「夫よ、キリストが教会を愛し、そのために命をあたえられたように、あなたたちも妻を愛せよ」(エ5・25)と言っている。そして結婚について、「この奥義は偉大なものである。私がそういうのは、キリストと教会とについてである」(エ5・32)と書いている。最後に教会は、エフェゾ人への書簡(1・23参照)やコロサイ人への書簡(1・24参照)にみられるように、キリストの体と言われている。これらの名称の一つ一つは、私たちをご自分の民とするためにお選びになった神の無限の寛大さと慈愛を思い起こさせ(ぺ①2・9~10参照)、それにふさわしいものになるよう信者たちを励ますのに大いに役立つ。
5 戦闘の教会と勝利の教会
以上のことを説明したあと、教会の部分を一つ一つ数えあげ、その相違を指摘しなければならない。それによって信者たちは、神に愛された教会の本性、その特性、たまもの、恩恵を一層よく把握し、聖なる神のみ名を絶えずたたえるようになるであろう。
教会にはおもに二つの部分がある。その一つは勝利の教会と呼ばれ、他の一つは、戦闘の教会と呼ばれる。勝利の教会とは、至福な霊たちと、世間や肉、最大の敵、悪魔に勝ち、この世の生活のわずらわしさから解放され、平和のうちに永遠の至福を享受する幸せな人々の集団のことである。一方、戦闘の教会とはまだこの地上に生活している信者の集団のことである。これらが戦闘の教会と呼ばれるのは、世間、肉、サタンという恐るべき敵と絶えず戦っているからである。
6 戦闘の教会と勝利の教会は一つである
とはいっても二つの教会があると考えてはならない。先述したように、これらは一つの教会の二つの部分である。その一つは他に先んじてすでに天の祖国に達している。他の部分は日ごとに前者のあとに従って歩み続け、ついにいつか私たちの救い主に出会い、永遠の至福を得て憩うのである。
7 戦闘の教会には善人と悪人がいる
戦闘の教会には善人と悪人という二種類の人がいる。悪人は、善人と同じ秘跡にあずかり同じ信仰をもっているとはいえ、その生活と道徳の点で善人と異なっている。教会における善人とは、信仰を告白し、秘跡にあずかるだけでなく、恩恵の霊と愛のきずなによって互いに結ばれ一致している人々のことである。「主は、ご自分のものを知っておられる」(ティ②2・19)と言われているのは、かれらのことである。
だれがこの善人の数に入るかは、いくつかのしるしをもとに推測することはできても、確実に知ることはできない。したがって救い主キリストが私たちをゆだね、また私たちに従うようにお命じになった教会とは(マ18・17参照)善人だけの教会であると思ってはならない。なぜならそのような教会は識別するのが困難であり、そのためだれの判断に従ったものか、まただれの権威に従ったものか、だれも確実に知りえなくなるからである。実際聖書(マ3・12、13・3~52、コ①5・1~11など参照)や教父たちの著作に書かれているように、教会には善人と悪人とが含まれている。聖パウロが、「体は一つ、霊は一つ」(エ4・4)と言っているのも、その意味である。
8 見える教会は善人と悪人を含む
この教会は、どこからでも見える、山の上につくられた町に、たとえられていて(マ5・14参照)、すべての人々に知られている。実際すべての人が教会に従わなければならないのであるから(マ18・17参照)、すべての人に知られるのは当然である。
そして、この教会は、福音書にある多くのたとえ話が示しているように、善人と悪人とを含んでいる。たとえば天の国つまり戦闘の教会は海に入れられた網に似ている(マ13・47~52参照)。あるいは毒麦をまかれた畑(マ13・24~30)、麦ともみがらとが一緒にある麦打場(マ3・12参照)あるいは愚かものと賢いものとが半数づつ〔ママ〕いた十人のおとめ(マ25・1~13参照)に似ている。 しかしずっと昔の、清い動物と一緒に汚れた動物も収容していたノアの箱舟にも、この教会のかたどりと表象をみることができる(創7・2、ぺ①3・20参照)。たしかにカトリックの信仰は悪人も善人と同じように教会に属していることを教えて来たが、その同じ信仰はまた、両者の教会への所属の仕方が異なっていることも教えている。実際、悪人が教会に属しているのは、麦打場にもみがらと麦とが一緒にあるようなものであり、あるいは、生きた体に死んだ手足が付いているようなものである。
9 戦闘の教会に含まれない人々
以上のことからして、ただつぎの三種類の人々だけが教会から除外されていることになる。それはまず末信者、つぎに異端者と離教者、さいごに破門された人々である。
未信者とは決して教会に入信したことはなく、教会のことも全く知らず、またキリスト者の共同体のどの秘跡にもあずからなかった人々のことである(コ①5・12参照)。異端者と離教者は教会から離れていった人々で、かれらは逃亡兵がその軍隊に属さないのと同様に、教会には属していないのである。しかしかれらは教会の権能の下にあり、教会がかれらを裁き、罰し、破門できることはたしかである(ティ①1・19~20参照)。最後に、破門された人々とは、教会の裁きによって教会から除名され、改心するまで教会の交わりに受入れられない人々のことである(マ18・17、コ①5・4参照)。
その他の人々は、たとえ罪人であっても、たしかに教会に属している。司牧者は以上のことを絶えず信者たちに教え、たとえ教会の長上たちの生活が人々をつまずかせるようなものであっても、かれらはやはり教会に属するものであること、またそれによってかれらの権威も決して減少するものではないことを確信させるようにしなければならない。
10 教会という語の種々の用法
教会という語は、普遍教会の一部を示すために用いられることもある。たとえば聖パウロは、コリントの教会(コ①1・2、コ②1・2参照)、ガラツィアの教会(ガ1・2参照)、ラオディキアの教会(コ4・16参照)、テサロニケの教会(テ①②1・1参照)という言い方をしている。個人の信者の家庭を教会と呼ぶこともある。たとえば聖パウロは、プリスカとアクィラの家の教会に挨拶するように頼んでいる(ロ16・3~5参照)。また別の箇所で、「アクィラとプリスカと、その家の教会から、主において、ねんごろによろしく」(コ①16・19)と書いている。フィレモンヘの手紙でも同じような言い方をしている(フィ1~2参照)。
時として教会という語は教会のかしらや司牧者を示すことがある。キリストは、「もしその人たちのいうこともきかないならば教会にいえ」(マ18・17)と命じているが、ここでいう教会は教会のかしらたちを意味している。また説教を聞いたり、聖なる事柄を執り行うために信者たちが集まる場所も教会と呼ばれる。しかしこの箇条でいう教会は、善人だけでなく悪人をも含む集団を示し、また上長だけでなくかれらに従うべき人々をも意味している。
11 教会の特徴について、まず教会は一であること
つぎに、教会の特徴を説明しなければならない。それによって信者たちは、自分たちが生まれ育った教会において神からどれほどの恵みを受けたかを知ることができるであろう。
使徒信経によると、教会の第一の特徴は一であることである。「私の牝鳩はただひとり、私の完き者は、ただひとり」(雅6・9)と言われているとおりである。あちこちに散らばっているこれほど多くの人々が一であると言われるのは、聖パウロがエフェゾ人に書き送っているように、「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(4・5)であるからである。実際、教会のかしらおよび指導者は一人で、それは目に見えないキリストである。かれは永遠の御父によって全教会のかしらとして立てられたのであり、全教会はその体である(エ1・22~23参照)。教会の目に見える頭も一人で、それは使徒たちの頭ペトロの正統な後継者としてローマの教座を引継ぐ者である。
12 ローマ法王〔教皇〕は見える教会のかしらである
教会の一致を確立し保っていくためには、見えるかしらが必要である。この点についてすべての教父たちの考え、意見は一致している。聖イエロニムスはこの点をはっきりと理解し、ヨビアヌスにつぎのように書き送っている。「かしらを決めることによって離教の機会を取除くため一人の人が選ばれる」。(3) かれはまた聖ダマスス教皇にあてて、つぎのように書いている。「ねたみは消え去り、ローマ式の偉大さを望む野犬もなくなるように。私は、漁夫の後継者で十字架の弟子としてのあなたに話している。私はキリスト以外のかしらには誰にもつかず、ペトロの教座にすわるあなたと一致しており、この岩の上に教会が建てられていることを知っている(マ16・18参照)。これ以外の家で小羊を食べるものはすべて不浄のものになる。またノアの箱舟に入っていないものは洪水が来て滅ぼされてしまう」。(4)
聖イエロニムスよりずっと以前に聖イレネウスも同じことを述べている。(5) 聖チプリアヌスは教会が一であることについて、つぎのように言っている。「主はペトロにこうおおせられた。『ペトロよ、私はあなたに言う。あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を建てよう』(マ16・18参照)。そして復活後使徒たちに向かって、『父が私をおおくりになったように私もあなたたちをおくる・・・・・・聖霊を受けよ』とおおせられて(ヨ20・21~22参照)かれら全部に同じ権能をお与えになった。しかし単一性を表わすため一つの教座を制定し、ご自分の権威をもってこの単一性がただ一人に基づくようにされた」。(6)
かれに続いてオプタトウス・ミレビタヌスはこう言っている。「あなたは無知を口実にすることはできない。あなたはローマの司教座がまずペトロに与えられ、かれは使徒たち全部のかしらとしてその教座についていたことを知っているからである。こうなったのはみながかれ一人において教座の単一性を保ち、他の使徒たちがそれぞれの教座を立てないようにするためであった。したがってこの唯一の教座に対してほかの教座を定めるものは離教者であり、犯罪人である」。(7)
バシリウスはこう書いている。「ペトロは土台としてすえられた。かれは、『あなたはキリスト、生ける神のみ子です』(マ16・16)と言い、主はかれが岩であると言われた。かれは岩ではあるが、キリストのような岩ではなかった。キリストは不動の岩であり、ペトロはキリストによる岩であった。神はご自分の尊厳を他のものにお与えになる。かれは司祭であり、ほかの人を司祭にする。かれは岩であり、ほかのものを岩にする。そしてご自分のものをそのしもべたちにお与えになるのである」。(8)
最後に、聖アンブロシウスも同じように教えている。「神のご好意は大きい。かれは私たちが償うはずのものを償われただけでなく、さらにご自分のものをお与えになった」。そしてその少しあとでこう続けている。「キリストの慈愛は深い。かれはご自分のほとんどすべての名称を弟子たちにお与えになった。たとえばかれは、『私は世の光である』(ヨ8・12)とおおせられたが、ご自分の栄光のもとになるこの光を弟子たちにお与えになった。『あなたたちは世の光である』(マ5・14)。『天からくだったパンは私であって、このパンを食べる人は永遠に生きる』(ヨ6・5)。『私たちは多数であっても、一つのパンである』(コ①10・17)。『私はほんとうのぶどうの木で、私の父は、裁培者である』(ヨ15・1)とおおせられ、また『私はよいぶどう畑として、由緒正しいさし木を植えた』(イエ2・21)と言われた。岩はキリストである。『かれらについて来た霊的な岩から飲んだが、その岩はキリストであった』(コ①10・4)。そしてかれはこの名称もご自分の弟子に与えることを拒まれず、ペトロが岩のもつ固さつまり信仰の堅固さをもつようにされた」。(9)
13 キリストのほかに見えるかしらが必要である
もしだれかが、教会は一人のかしら-人の花婿で満足しており、それ以外にだれも必要としないと異端をとなえたとしても、それに対する答えは、容易である。主キリストは各秘跡の制定者であるだけでなく、その内的授与者でもある。たしかに、洗礼を授け罪をゆるすのはキリストであるが、そのキリストは秘跡の外的授与者として人間をお立てになった。それと同じように、ご自分の霊をもって治める教会のために、ご自分の権能をもつ代理者および役務者をお立てになったのである。実際、見える教会には見えるかしらが必要であり、そのため私たちの救い主は意義深いみことばをもってご自分の羊の世話をペトロにゆだね、かれを信者全部のかしらおよび司牧者と定め(ヨ21・15~17参照)、またその後継者もかれと同じように全教会を治め導く権能をもつように定められた。
14 教会が一であると言われる他の理由
さらに、聖パウロがコリント人に書き送っているように霊は一つで、この同じ一つの霊が、霊魂が全肢体に生命を与えるようにして信者たちに恩恵を分かち与える(コ①12・11~13参照)。聖パウロはエフェゾ人にこの一致を保つようにすすめ、こう書いている。「平和の結びによって霊の一致を守るように努めよ。体は一つ、霊は一つである」(エ4・3~4)。人間の体は多くの肢体で成り立っていても、一つの霊魂に養われ、それが目には見させ、耳には聞かせ、その他の感覚にもそれぞれに固有の働きをさせている。これを似たような仕方で教会というキリストの神秘的な体も多くの信者から成り立っている(エ4・3~16、コ①12・12~30参照)。
また聖パウロが同じ箇所で指摘しているように、私たちが召されている希望も一つである(エ4・4参照)。私たちはみな同じもの、つまり永遠の幸福な生命を期待している。最後に、私たちが守り宣告すべき信仰も一つである(エ4・5参照)。「あなたたちの間に分裂がないように」(コ①1・10参照)と聖パウロは言っている。またキリスト教信仰の秘跡である洗礼も一つである(エ4・5参照)。
15 第二の特徴は聖であることである
教会の第二の特徴は聖であることである。それは聖ペトロの、「あなたたちは選ばれた民族、王の司祭職、聖なる民である」(ぺ①2・9)ということばに示されている。
教会が聖であると言われるのは、神のために聖別され神にささげられているからである。実際、たとえ物質的なものであっても、神をまつる祭儀に供せられまた予定されているものは、聖なるものと呼ばれるのが常であった。旧約においてはたとえば器具・祭服・祭壇があり、また最初に生まれたものはいと高き神にささげられていたところから聖なるものと呼ばれていた。
教会には多くの罪人がいるのに、それでも聖なるものと言われていることに驚いてはならない。信者たちが聖であると言われるのは、かれらが神の民とされ信仰と受洗によってキリストに自分をささげているからである。かれらは多くの罪を犯し約束したことを守らないとはいえ、やはり聖なるものである。それはある芸術に身を打ち込んでいる人が芸術の法則を守らない場合でもやはり芸術家と呼ばれるようなものである。聖パウロはあるコリント人を肉欲的な人ときめつけ、きびしくとがめながらも(コ①5・1~13参照)、かれらを聖なるもの、聖とされたものと呼んでいる(コ①1・2、コ②1・1参照)。
教会が聖であると言われるのは、キリストの体として聖なるかしら主キリストと一致し(エ4・15~16参照)、全聖性の泉であるキリストから聖霊のたまものと神の慈愛の富が注がれるからである。そのため聖アウグスティヌスは、「私の魂を見られよ。私は敬虔な者」(詩86・2)というダヴィドのことばを説明して、つぎのように言っている。「一人の人であるこのキリストの体は地の四方から声をあげ、そのかしらと共にまたそのかしら下にあって、『私は聖なるものである』と言うのを恐れないように。なぜならかれは聖性の恩恵、洗礼と罪のゆるしの恩恵を受けているからである」。その少しあとでかれはこう続けている。「もしキリストにおいて洗礼を受けたすべてのキリスト者が、『キリストの洗礼を受けたあなたがたはみな、キリストを着ている』(ガ3・27)という聖パウロのことばどうりキリストを着、またかれの体の肢体になりながら、自分は聖なるものではないと言うならば、聖なる肢体をもつかしら自身を侮辱することになる」。(10)
さらに、教会が聖であるのは、教会だけがみ旨にかなういけにえを伴う礼拝と、救いをもたらす秘跡をもっているからである。神は恩恵をもたらす効果的な手段としてこの秘跡をお用いになり、真の聖性を及ぼすのである。したがってまことの聖人はこの教会外にはありえない。このように教会がまことに聖であることは明らかである。教会はキリストの体であり、キリストがそれを聖化し、その御血をもって洗い清めてくださったからである。
16 教会はカトリック(普遍的)である
教会の第三の特徴はカトリックつまり普遍的であることである。教会がカトリックであると言われるのは、聖アウグスティヌスが述べているように、「日の出るところから日の沈むところまで、ただ一つの信仰の輝きをもって広がっている」(11)からである。また教会は政治的な国家や異端者の集団のように一国の領土あるいは一民族に限られず、それが野蛮人であれスキチア人であれ、奴隷であれ自由人であれ、男であれ女であれ、すべての人を愛をもって抱擁するからである。そのため聖書には「・・・・・・あなたは屠られて、その血によってすべての民族とことばと民と国から、神のために人々をあがなわれたからである。あなたはかれらを、私たちの神のために、地上を、司る司祭の王国とされた」(黙5・9~10)と書かれている。ダヴィドは教会について、「私に求めよ、そうすれば、私は、異邦の民を、遺産としてあたえ、地の果てまでも、領土として与えよう」(詩2・8)と歌っている。また、「私は、私を知るものの中に、ラハブとバベルとを数える」(詩87・4)と付け加えている。
またアダムの時から今日までの信者だけでなく世界の終りまでの未来の信者すべてが、使徒たちと預言者たちとを土台にして建てられた(エ2・20参照)同じ教会に属するのである。かれらはみな、二つのものを一つにし(エ2・14参照)近くにいるものにも平和を告げた(エ2・17参照)キリストを角のおや石として建てられ、かれに基礎をおいている(エ2・20参照)。
教会が普遍的であると言われるいま一つの理由は、むかし人々が洪水に滅ぼされまいとして箱舟に入ったように、永遠の救いを得ようと思うものはみな教会に入り、それに属さなければならないからである。そのためこの特徴は、まことの教会と偽の教会とを見分けるためのもっとも確かなしるしであるというべきである。
17 使徒継承の教会
まことの教会であるか否かは、使徒たちから啓示を受継いでいるかどうかによって知ることができる。たしかに教会の教えは新しい真理ではなく、また今はじまったものでもなく、むかし使徒たちから伝えられ全世界に広まったものである。したがって不敬虔な異端者たちの言うことは使徒たちの時代から今日まで教えられて来た教会の教えに反しており、まことの教会の信仰から非常にかけ離れていることはたしかである。そのため、(ニケア公会議の)教父たちはどれがカトリック教会であるかを識別させるため、神の導きのもとに、「使徒継承」ということばを加えたのである。実際、教会を導く聖霊は使徒たちの後継者である役務者を通してお導きになる。この聖霊はまず使徒たちに与えられ、その後、神の無限の慈愛によって常に教会の中にとどまられるのである。(12)
18 教会は信仰や道徳に関する事柄において不謬である
この教会だけが信仰と道徳に関する事柄を教えるに当たって誤ることはできない。それは聖霊によって導かれているからである。そして教会という名を横取りするほかのすべての教会は悪魔に唆かされており、教義や道徳についてきわめて有害な誤りに陥ることは必至である。
19 旧約聖書における教会の表象
旧約聖書の表象は、信者たちの心を活気づけるためまたすばらしい事柄を思い起こさせるために大きな力をもっている。使徒たちも同じような目的のためにこれらの表象を用いている。したがって司牧者も教えを説明するために非常に有益なこの手段をないがしろにしてはならない。
さてその表象のうちノアの箱舟はとくに深い意味をもっている(創6・14以下参照)。この箱舟はもっぱら神の命令によって建造されたもので、それが教会そのものを意味していることは全く疑いない。神が教会を制定されたのは、洗礼によってそこに入るものはだれでも永遠の死の危険から安全に守られるようにするためで、その外にいるものは箱舟に入らなかったものと同じように自分の罪に押し流され滅びる。
いま一つの表象はあの壮大なイエルザレムの町で、聖者はしばしば聖なる教会を示すためにこの表象を用いている。すなわちこの町においてのみ神にいけにえをささげることができたが、それと同じようにまことの礼拝と神によみせられるまことのいけにえは教会においてのみ捧げることができるのである。
20 教会に対する信仰の必要性
最後に、なぜ教会に対する信仰が信仰箇条に加えられているのかを説明しなければならない。たしかに、人はだれでも理性と感覚をもって、教会つまり主キリストに身をささげ聖別された人々の集団がこの地上に存在していることをはっきりと見ており、ユダヤ人やトルコ人もそれを疑ってはいないのであるから、それを納得するために信仰は必要でないかもしれない。しかし神の聖なる教会に含まれる奥義のある部分はすでに説明し、また他の部分は叙階の秘跡のところで説明するが、この奥義を理解するためには信仰に照らされた心が必要であり、理性だけでそれを納得することはできない。このように、この箇条は他の箇条に劣らず私たちの理解の機能と力とを越えるものである。そのため教会の起源・役割・尊厳は人間理性によって知ることはできず、信仰の目によって見られるものであることを告白するのである。
21 教会に対する信仰の内容
教会の制定者は人間ではなく永遠の神ご自身で、かれが不動の岩の上に教会をお建てになったのである(マ16・18参照)。ダヴィドは、「いと高きものがそれを固められた」(詩87・5)と言っている。そのため教会は神の遺産・神の民と呼ばれる(詩33・12、47・5、ぺ①2・10参照)。教会の権能も、人間ではなく神から与えられている。したがって人間的な手段を用いてそれを得ることは出来ない。また教会が天の国のかぎをもっていること(マ16・19参照)、罪をゆるす権能(ヨ20・23参照)、破門する権能(コ①5・4参照)、まことのキリストの体を聖別する権能(ル22・19参照)が与えられていること、さらに教会の市民は地上に永住の都をもたず未来の都を捜していること(へ13・14参照)もただ信仰によって理解できるのである。
したがって私たちは教会は一・聖・公・使徒継承であることを信じなければならない。
22 神に対する信仰と教会に対する信仰
私たちは御父と御子と聖霊の三つのペルソナが私たちの信仰の究極であるという意味で三位一体を信じる。しかし教会に対する信仰の場合は違う。聖なる教会を信じるとはいっても、聖なる教会を信仰の究極としているのではない(訳注、Credo Ecclesian〔教会を信じる〕とは言っても、神に対する信仰の場合のようにCredo in〔小辞 inの意味については本書の第九章4を参照〕とは言わない)。このような違った表現法は、万物の創造者である神とその被造物とを区別し、教会において与えられるすばらしいたまものすべてを神の慈愛に帰するものである。
23 諸聖人の通功
聖ヨハネはかれの書簡の中で神の奥義について説明し、その説明の理由をつぎのように述べている。「あなたたちを私たちに一致させるために・・・・・・私たちのこの一致は御父と御子イエズス・キリストとのものである」(ヨ①1・3)。この一致は、この箇条で取扱う諸聖人の通功において行われる。教会の司牧者たちは、この箇条を説明するに当たって聖パウロおよびその他の使徒たちの熱心さをまねるようにしてほしい。なぜならこれは教会に関すら説明の続きで、非常に豊かな実をもたらす教えであるだけでなく信経に含まれている奥義の応用の仕方を示しているからである。実際あらゆる探求や考察は、これほど崇高で幸せな諸聖人の通功に加わり「聖徒たちの遺産にあずかるにたるものとされた父に、喜びをもって感謝」(コロ1・2)しつつ常にそこにとどまるためのものである。
24 諸聖人の通功と秘跡
したがって、この箇条は前に述べた、一・聖・公・使徒継承の教会に関する箇条の一つの説明であり、そのことを信者たちに分からせなくてはならない。教会を導かれる聖霊は一つであるところから、教会に与えられるものはすべて共同のものである。
諸秘跡の実はすべての信者に属する。そしてすべての信者は諸秘跡をいわば聖なるきずなとしてキリストに結ばれ、また互いに一致する。とくに教会に入る門ともいえる洗礼の秘跡においてそうである。
この諸聖人の通功は秘跡による交わりであると解釈すべきで、このことは教父たちが信経に加えた、「唯一の洗礼を信じる」ということばによって示されている。ここでは洗礼だけが言われているが、しかし洗礼は他の秘跡、とくに聖体へとつながっている。つまりこの交わりは、私たちを神に一致させ恩恵をもって神の本性にあずからせるすべての秘跡によって実現されるのであるが、とくに御聖体の秘跡はこの交わりを完成する。
25 功徳を分かち合うこと
教会にはもう一つの交わりがあり、それについても考察しなければならない。ある人が敬虔な聖なる業によって得るものはみな、すべての人のものとなり、自分の利を求めない愛によって(コ①13・5参照)すべての人に益するものとなる。聖アンブロシウスは「私は、主を畏れる者、あなたの命を守る者の仲間」(詩119・63)という詩篇の箇所を説明して、こう教えている。「肢体が体全体の善にあずかっているように、神をおそれるものはすべての善業にあずかる」。(13)そのためキリストはどのように祈るべきかをお教えになったとき、「私のパン」とは言わず「私たちのパン」と言うようにお命じになり(マ6・11参照)、私たちに自分のことだけでなくすべての人の救いと幸せを考えるように諭されたのであった。
各自の善を与え合う交わりは、聖書ではしばしば人間の体の肢体という、もっとも適切なたとえをもって説明されている(ロ12・4~7、コ①12・12~26参照)。体には多くの肢体がある。しかし肢体は多くあっても一つの体を構成しており、すべてが同じ働きをするのではなくそれぞれに固有の働きをしている。またすべての肢体が同じ尊厳をもっているのではなく、また同じような利用価値をもち同じように目立った機能を果たすのでもない。
さらに各肢体はそれぞれ自分自身のために働くのではなく、体全体のために働く。またすべての肢体は互いに密接に結ばれ、ある一つの肢体が苦しむと他の肢体も自然的なつながりと感応のために、ともに苦しむ。それと反対に一つの肢体が楽しむとその喜びは全肢体に及ぶ。同じようなことが教会にもみられる。教会にはあらゆる国の人々、ユダヤ人、ギリシャ人、自由人、奴隷、貧しいもの、金持などいろいろな肢体があるが、しかし洗礼を授かることによってキリストをかしらにいただく一つの体になる。 さらにこの教会では各自に固有の役割が与えられている(ロ12・6~8、コ①12・27~31、エ4・7~16参照)。ある人々は使徒であり、ある人々は教師であるが、みなが全部のために側いている。こうしてある人々は指導し教える立場にあり、ある人々は受け、従う立場にある。
26 罪人は教会の恵みにはあずからない
神から与えられるこれほどのたまものと恵みは、愛をもってキリスト教的生活をおくった、神に愛される義人だけが受ける。
しかし死んだ肢体すなわち罪の奴隷になり神の恩恵を失った人々も、この体の肢体としての恵みは失わない。死んでいるので、義人や信仰者が受ける霊的恵みは受けない。とはいえかれらは教会の中にいるので、霊によって生きている人々に助けられ失った恩恵と生命を回復することができる。このように教会から全く切り離された人々なら受けることのできないある恵みを罪人が受けることはたしかである。
27 無償の恩恵とその他のたまものは全教会のためのものである
全教会のためのたまものとは、人々を神に愛されるものにし義人にするたまものだけでなく、無償の恩恵もそうである。それには知識、預言、ことばや奇跡のたまものなどがある(コ①12・7~10参照)。これらのたまものは善人だけでなく悪人にも与えられ、個人の利益のためではなく公の利益のためつまり教会を発展させるために与えられる。たとえば病気を治す恩恵は、その本人のためではなく病人のために与えられている。またまことのキリスト者が所有しているもので、本人と他の人々との共有でないものは何もないと考えるべきである。かれらは困っている人々を困窮から救うことを心がけ努力しなければならない。富をもちながら、兄弟の乏しさを見てもそれを助けようとしない人に神の愛がないことは明らかである(ヨ①3・17参照)。
したがってこの聖なる交わりにあずかっている人々は明らかにある程度の至福を味わっており、つぎのように言うことができる。「あなたの天幕は慕わしい、ああ万軍の主よ!私の魂は、主の門に恋いこがれる」(詩84・2)。また「あなたの家に住むものは幸せ」(詩84・5)。
訳注
(1) S. Augustinus, in Ps. 149 参照
(2) S. Augustinus, in Ps. 77 et 81.
(3) S. Hieronymus, lib. 1 contra Jovianum.
(4) S. Hieronymus, ep. 57.
(5) S. Irenaeus, lib. 3 Adv.Haer. et ep. 57
(6) S. Cyprianus, de Unitate Ecclesiae.
(7) Optatus Milevitanus, in init. lib. 2 ad Parmenianum.
(8) S. Basilius, Homilia 29.
(9) S. Ambrosius, lib. 9 in Lucam. cap. 9.
(10) S. Augustinus, in Ps. 85.
(11) S. Augustinus, contra Cresc.
(12) S. Ambrosius, in Ps. 118 et sermo 8.
(13) S. Augustinus, Sermo 23.