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ローマ公教要理 使徒信経の部 第十二章 | すべての人は死に、復活する

 使徒信経の部 目次

第十二章 第十一条 体の復活

1 この箇条の重要性

この箇条は私たちの信仰の真理を確証するために非常に大きな力をもっている。それは聖書が体の復活をただ信ずべきこととして信者たちに示しているだけでなく、さらに多くの論証をあげて立証していることによって分かる。このようなことは信経の他の箇条ではほとんどみられなかったことであり、したがって体の復活は私たちの救いの希望の確固とした基礎になっているのである。聖パウロはつぎのように論じている。「死者がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかった。そして、キリストが復活しなかったら、あなたたちの信仰はむなしい・・・・・・」(コ①15・16~17)。そのため司牧者はこの箇条を説明するに当たって、この教えを覆そうとした不信仰者に劣らぬ労苦と努力を払わなければならない。あとで述べるように、体の復活に関する知識は信者たちに多大の利益をもたらすからである。

2 人間の復活ではなく、体の復活と言われるわけ

この箇条では人間の復活が体の復活と言われていることにとくに注目すべきである。それは理由のないことではない。使徒たちはここで霊魂の不滅を確証しておく必要があると考えたのである。聖書の多くの箇所から霊魂の不滅ははっきりしているにもかかわらず、霊魂は体とともに死に体とともに生き返ると考える人のないように、ただ体の復活だけがこの箇条で言われているのである。たしかに聖書ではしばしば体(Caro 訳注 この語は聖書的な意味での「肉」とも訳せる)は人間全体を意味している。たとえばイザヤは「すべての肉(Caro)は草のようである」(イ40・6)と言い、また聖ヨハネは「みことばは肉体となった」(ヨ1・14)と言っている。しかしこの箇条では体だけを指している。人間を構成する霊魂と体の二要素のうち、体だけが腐敗してその成因である地のちりに返り(創3・19参照)、霊魂は不滅のまま残ることを教えている。そしてだれも死なないかぎりよみがえることはないのであるから、的確にいって、霊魂は復活するとはいえない。

体(Caro)という語が使われているのは、使徒たちの時代にとなえられていたイメナヨやフィレトの異端を反駁するためである(ティ②2・17参照)。かれらは聖書で言われている復活は体の復活ではなく、罪による死から恩恵の生命にうつる霊的復活のことであると主張していた。さてこの箇条で言われていることばはまさにこの誤謬を排斥し、ほんとうの体の復活を確認しているのである。

3 体の復活に関する聖書の教え

つぎに司牧者は、旧新約聖書および教会史にみられる実例をあげてこの真理を明らかにしなければならない。旧約聖書ではエリア(列①17・17~24参照)やエリゼオ(列②4・32~37参照)がある人々を復活させ、また新約聖書では、主キリストをはじめ(マ9・18~25、ル7・11~15、ヨ11・1~44参照)使徒たち(使9・36~41、20・9~12参照)や他の多くの人々が死者をよみがえらせている。このような多くの人々の復活は、この箇条で言われている教義を確証するものである。多くのものがよみがえったことを信じるならば、すべての人が復活するということも信ずべきである。実際、これらの奇跡からそのおもな結論として体の復活に対する信仰が引き出される。

司牧者は聖書について並みの知識をもっているならば、容易にそこから復活に関する多くの証言を取出すことができるであろう。旧約聖書で有名なのは、ヨブ記のもので、かれは自分の肉で神を眺めるだろうと言っている(ヨブ19・26参照)。またダニエル書では地のちりの中に眠っている人々のうち、あるものは永遠の生命に、あるものは永遠の辱かしめのために目覚めると述べている(ダ12・2参照)。新約聖書では、マテオは主が復活についてサドカイ派と論争したと伝えている(マ22・23~32参照)。また福音書記者たちは最後の審判の叙述の中で体の復活があることを教えている(マ25・31~46、マル13・24~27、ヨ5・28~30参照)。さらに聖パウロがコリント人への書簡(コ①15・12~58参照)やテサロニケ人への書簡(テ①4・13~18参照)で入念に論じていることも参考にすべきである。

4 体の復活を説明するためのたとえ

体の復活をたとえ信仰をもって固く信じていても、それが自然法則や人間理性に反するものでないことを、たとえや論証をあげて説明することは非常に有益である。たとえば死者はどのようにして復活するのかという質問に対して、聖パウロはこう答えている。「愚かなものよ、あなたがまくものは、まず死ななければ新たに生かされることはない。あなたがまくものはのちに生まれる体ではなく、麦であっても他のものであっても、ただ種粒だけである。神はその種におぼしめしのままに体を与える」(コ①15・36~38)。そして少しあとで「〔体は〕朽ちるものとしてまかれ、朽ちないものによみがえる」(15・42)と付け加えている。

そのほかにも多くのたとえがあるが、聖グレゴリウスはつぎのようなたとえをあげている。「太陽は毎日いわば死ぬようにして眼前から消え去り、そしてよみがえるようにしてそれを再び取りもどす。種はくさって死に、芽を出してよみがえる」。(1)

5 体の復活を証明するための論証

さらに教会の著作家たちは、体の復活を証明するために十分と思われる論証をあげている。

まず霊魂は不滅であるが、人間の一部であるところから人間の体と一つになろうとする自然的な傾向をもっており、永久に体なしに存在することはその本性に反することあるいは無理なことは、永続することはできない。したがって霊魂がふたたび体に合わされることは理にかなったことだと言える。そこから体の復活という結論が引き出される。私たちの救い主ご自身サドカイ派との論争に当たって、このような論証を用い、霊魂の不滅から体の復活を結論づけておられる(マ22・23~32参照)。

つぎに神は悪人には罰を、善人には報酬を与えることをお定めになったが、悪人の中の多くのものは当然の罰を受けるまえに死に、また善人の中の大部分のものも徳の報いを何ら受けることなく他界する。さらに霊魂が体とふたたび合わされ、こうして人間が行なった善悪の道具となった体も霊魂と一緒に賞罰を受けるのは当然である。この考え方は聖ヨハネ・クリゾストモスがアンティオキアの人々への説教においてくわしく述べている。(2) また聖パウロも復活について述べながらこう言っている。「私たちがキリストに希望をかけたのが、この世のためだけであるなら、私たちは、すべての人の中で、もつともあわれなものである」(コ①15・19)。このことばは霊魂の弱さを示しているのではない。霊魂は不滅であるので、たとえ体が復活しないとしても来世において至福を享受でできるからである。したがってこのことばは人間全体について言われていると解釈すべきである。実際、体がその労苦に対してしかるべき報いを受けないとすれば使徒たちのようにあれほどの労苦と不幸とを耐え忍んだ人々はもっとも哀れな人々である。

聖パウロはテサロニケ人への書簡の中で一層はっきりとつぎのように教えている。「あなたたちがすべての迫害と患難とを忍んで示している忍耐と信仰とを、私たちは神の諸教会の中で誇りとしている。それは神の正しい審きのしるしである。あなたたちは、そのために苦しんでいる神のみ国にふさわしいものとされるであろう。あなたたちを苦しめるものに苦しみを返し、そして、苦しめられているあなたたちに、主イエズスが現われるとき、私たちとともに安息を報いてくださるのは神の正義である。主がその能力の天使たちとともに天からくだり、炎の中で、神を知らない人々と主イエズスの福音に服従しない人々とに仇をうたれるときである」(テ②1・4~8)。

これに付け加えて言うと、人間は霊魂と体が離れているかぎりあらゆる善をそなえた全き幸福を味わうことはきない。実際どの部分も全体から離れるならば不完全であり、体と離れている霊魂も同様である。したがって霊魂が何ひとつ欠けるところのない完全な幸福をもつためには体の復活が必要である。司牧者はこれらの理由をあげ、あるいは似たようなほかの理由をあげてこの箇条を説明することができる。

6 すべての人は死に、復活する

さらに復活するのはだれか、この点について聖パウロの教えをもとに説明しなければならない。かれはコリント人に向かってこう書いている。「すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る」(コ①15・22)。つまり善人も悪人もそれぞれ違った状態で復活する。「善を行なった人は命のために、悪を行なった人は〔永遠の〕罰のためによみがえる」(ヨ5・29)。

すべての人が復活すると言ったが、それは最後の審判以前に死んだ人々、またそのとき死んだ人々をも指している。聖イエロニムスによると、一人の例外もなくすべての人が死ぬことは教会の教えであり、もっとも道理にかなった教えである。(3) 聖アウグスティヌスも同意見である。(4) 聖パウロがテサロニケ人に書き送ったつぎのことばもこの教えに反するものでない。「・・・・・・そしてキリストにおいて死んだ者が、まずよみがえり、それから生きている生きのこりの私たちはかれらとともに雲の上に連れていかれ、空中で主をむかえる」(テ①4・16~17)。聖アンブロジウスはこの文を説明してこう言っている。「天に取上げられることによっていわば眠るようにして死に、霊魂は体から離れるがまたすぐ体に合わされる。私たちは取上げられることによって死ぬ。そして主の御前に出、その現存によって霊魂を返される。死者は主とともにありえないからである」。(5) 聖アウグスティヌスは「神国論」の中で同じ考えを述べている。(6)

7 復活した体は以前の体と同じである

復活する体は各自がそれぞれもっていた体であり、腐敗し、ちりにもどったあの同じ体である。このことを確信することは非常に大切であるので、司牧者はこの点についても注意深く説明しなければならない。聖パウロは、「この朽ちる者が朽ちないものを着、この死ぬ者は不滅をまとわねばならない」(コ①15・53)と教えている。「この」という語は明らかに、私たちが今もっている体を指している。ヨブも同じことを預言している。「・・・・・・私はこの肉で神を眺めるだろう。・・・・・・この私自身が眺めるだろう、他人ではない、私自身の目で見るだろう」(ヨブ19・26~27)。

同じことは復活の定義そのものからも結論できる。ダマスコの聖ヨハネによると復活とは「人間が死ぬ以前の状態への呼びもどし」(7)である。さらに今しがたあげた体の復活の理由を考えるならば、この教えに関する疑いなど全くありえないであろう。

8 体の復活の理由

私たちは体は復活すべきであると教えた。それは各自がその体で行なった善悪に従って報いを受けるためである(コ②5・10参照)。したがって人は、神あるいは悪魔に仕えるために用いた同じ体をもって復活しなければならない。それはその同じ体も一緒に、あるいは勝利の栄冠と報酬を、あるいは罰やきびしい責め苦を受けるためである。

9 復活した体は地上にいたときの欠陥はもたない

体は単によみがえるだけでなく、人間の本性に属するものはもちろん、その人の顔立ちや容姿も元通りにされる。このことについて聖アウグスティヌスはすぐれた証明をしている。「そのとき体にはいかなる欠陥もないであろう。ふとりすぎ〔て〕肥満していた人々は体の厚み全部をとるのではなく、普通の大きさを越える分は余分のものとみなされる。それとは反対に病気や老衰によって体に生じたものはキリストが神の力をもって治してくださるであろう。やせすぎの人の場合も同じであろう。なぜならキリストは私たちに体だけでなく、この世の生活の苦難のために奪われたものも返してくださるからである」(8) かれはまた別のところでこう言っている。「人は自分がもっていた毛髪全部をもって復活しないであろう。しかし『あなたの頭の髪の毛は数えられている』(マ10・30参照)というおことばのとおり、神の英知が必要と考えた分量をもって復活するであろう」。(9)

私たちの肢体はとくに人間性の十全性のために必要であるので、全部元通りにされるであろう。生まれながらの盲人、あるいはある病気で盲目になった人、びっこ、片輪の人、その他どんな不具者でも五体そろった完全な体で復活するであろう。もしそうでなければ、自然に体と一致しようとする傾向をもつ霊魂の望みは決して満たされないであろう。しかし私たちは復活によって霊魂の願望は満たされると固く信じているのである。

さらに復活が創造と同様に神のおもな御業の中に数えられることは明らかである。したがって神が創造されたときすべてが完全であったように、復活においても同様であると言うべきである。

※ サイト管理人注: 日本語訳の原文を尊重するため、文中の表現はそのままとしております。

10 殉教者の体について

同じことは殉教者についても言える。殉教者たちの体について聖アウグスティヌスはつぎのように説明している。「かれらは肢体をなくしたままの姿ではない。肢体がないことはやはり体の欠陥である。そうでないとしたら首を切られた人は首のないまま復活することになるかもしれない。しかしかれらの肢体につけられた刃傷は残り、キリストの御傷のように金や宝石にまさる光に輝くであろう」。(10)

11 悪人の体も完全な形で復活する

「同じことは悪人の体についても言える。わざと肢体を切断したものも完全な体で復活する。それはもっている肢体が多ければ多いほど苦しみも大きいからである。したがって肢体が元通りにされるのはかれらの幸福を増すためではなく、かれらの不幸と苦しみとを増すためである。さて賞罰は肢体に課されるのではなく、その肢体が合わされている人格に課される。したがって悔い改めた人々は報賞のために肢体を取りもどし、悔い改めようとしなかった人々は苦しみを増すために肢体を取りもどすのである」。(11)

司牧者はこれらのことを熱心に黙想するならば、信者たちの霊魂を信仰の努力へと駆り立て燃えたたせるための材料や話には事欠かないであろう。こうして信者たちはこの世での苦しみや悩みの中にあって、義人や敬虔な人々に約束された幸福と栄光に満ちた復活を熱望するようになるであろう。

12 復活後の体の状態

復活した体は実体としては死以前の体と同じではあっても、その状態は非常に異なっている。その相違全部について述べることはやめるとして、復活した体と死以前の体との最大の違いは、死以前の体は死の法則のもとにあったが復活後の体は善人悪人を問わず不滅のものであるということである。これは聖書が預言しているように、キリストが死に勝って得た、すばらしい本性の回復である。聖書は、「永久に、死を、去らせられる」(イ25・8)と言っている。また「死よ、あなたのたたりはどこにあるのか」(ホ13・14)とも言っているが、聖パウロはこのことばを説明して、「最後の敵として倒されるのは死である」(コ①15・26)と言っている。

さらに聖ヨハネは、「死はもうない」(黙21・4)と書いている。死の国を覆した主キリストの功徳が、死をもたらしたアダムの罪よりもはるかにすぐれていることはしごく当然のことであった(へ2・14参照)。また神がその正義をもって、義人は永久に至福の生活を享受し、一方悪人は永遠の罰を受け、死を求めながら見いださず、死を望んでも死がかれらから逃げる(黙9・6参照)ようにされるのは正しいことである。そしてこの不滅性は善人、悪人に共通である。

13 復活した聖人たちの体

復活した聖人たちの体は以前もっていたものよりもはるかにすぐれた、あるしるしつまり光り輝く姿をもつであろう。教父たちは使徒たちの教えに従って、つぎのような四つのおもな特徴をあげている。

その第一は受苦不能性(Impassibilitas)である。これは苦しみ、悩みあるいは不都合なもの一切に影響されないというたまものつまり特徴である。きびしい暑さや寒さを感じることはなく、また水に対する恐怖もない。聖パウロは「体は朽ちるものとしてまかれ、朽ちないものによみがえる」(コ①15・42)と言っている。神学者たちが不朽性(Incorruptio)とは言わずに受苦不能性と言ったのは、それが栄光の体に固有のものであることを示すためであった。つまり受苦不能性は断罪された人々の体にはなく、かれらの体は不滅ではあっても暑さ、寒さやその他の種々の苦痛を感じるのである。

つぎに輝き(Claritas)があり、これによって聖人たちの体は太陽のように輝く。救い主はマテオ聖福音書でこうおおせられている。「義人たちは父の国で太陽のように輝く」(13・43)。そしてご自分のご変容をもってそれを証明し(マ17・1~9参照)人々の疑いを取り除かれた。聖パウロはこの特徴を表わすためにあるときは栄光ということばを用い、あるときは輝きということばを使っている。「かれは私たちの卑しい体を、光栄のかたどりに変えられるであろう」(フ3・21)。また、「・・・・・・賎しいものとしてまかれ、光栄あるものによみがえる」(コ①15・43)とも言っている。イスラエルの民は砂漠でこの栄光の表象を見た。かれらは神のみ前に出て語り合ったモイゼの顔が、イスラエルの子たちが見つめることのできないほど輝いているのを見たのであった(出34・29~35参照)。

さてこの輝きは霊魂の大きな幸福が体に反映した光であって、霊魂が享受している至福への参与である。それは霊魂が神の至福にあずかって幸福になるのに似ている。しかしこのたまものは受苦不能性のようにすべての人に平等に与えられると思ってはならない。聖人たちの体はみな同じように受苦不能ではあってもその輝きは同じではない。聖パウロはこう言っている。「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きはちがい、この星とあの星の輝きもちがう。死者の復活もそうである」(コ①15・41~42)。

第三の特徴は敏捷さ(Agilitas)と呼ばれるもので、それによって体はいま煩わされている遅鈍さから解放され、霊魂の望むところへどこへでも、比類のない早さでいともたやすく移動することができる。この教えは聖アウグスティヌスの「神国論」(12)や聖イエロニムスの「イザヤ書注解」(13)でも示されている。これについて聖パウロは、「〔体は〕弱いものとしてまかれ、強いものによみがえる」(コ①15・43)と言っている。

第四の特徴は精敏さ(Subtilitas)と呼ばれ、それによって体は霊魂の支配に完全に服従し、これに仕え、その望みにすぐに従う。このことを聖パウロは、「〔体は〕動物的な体としてまかれ、霊の体によみがえる」(コ①15・44)と言っている。以上が大体この箇条で説明すべきおもな点である。

14 体の復活の奥義から得られる利益

これほど深遠な奥義を知ることによって信者たちはどれほどの利益を得ることができるかを自覚できるよう、まず、これらのことを知恵ある人、賢い人に隠して小さな人々におあらわしになった神(マ11・25参照)に深く感謝すべきことを教えなければならない。実際、知恵者とたたえられあるいはすぐれた学識者といわれた人々で、どれほど多くのものがこれほど確かな真理に対して全く盲目であったことであろう。主が、この奥義を望むことさえできなかった私たちにお示しになったのは、かれの偉大な慈愛と寛大さとを永遠に賛美させるためである。

またこの箇条の黙想から得られる大きな利益としては、血縁や友情によって私たちと結ばれている人々の死に際して、自分自身あるいはほかの人々を容易に慰めることができることである。聖パウロは死者のことで悲しんでいたテサロニケ人を慰めるため、この教えを述べている(テ①4・13参照)。

未来の復活という教えはさらに、その他のあらゆる苦しみや不幸にある私たちを力づけてくれる。たとえば聖なるヨブの場合がそうで、かれはいつか復活して、主なる神を見るという唯一の希望をもって苦悩に耐えていた(ヨブ19・26~27参照)。

最後にこの奥義は、正しい完全な生活、全く罪の汚れのない生活をするようどれほど努力しなければならないか、それを信者たちに納得させるために非常に効果がある。信者たちは復活によってこれほど莫大な富が与えられることを思うとき、必ず修徳と信心とに励むはずである。一方、人々に心の欲望を押さえさせ罪をさけさせるためには、最後の日の裁きのために復活するとき(ヨ5・29参照)悪人がどれほどの苦しみと責め苦を課されるかをしばしば思い起こさせることほど効果的なものはない。

訳注
(1) S. Gregorius, Moral., lib. 14, cap. 28, 92.
(2) S. Johannes Chrysostomus, Homilia 49 et 50 参照
(3) S. Hieronymus, ep. 152 参照
(4) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 20, cap. 20 参照
(5) S. Ambrosius, in I epist. ad Thess., cap. 4
(6) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 20, cap. 20 参照
(7) S. Johannes Damascenus, de fide orthod. lib. 4, cap. 18.
(8) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 22, cap. 19.
(9) S. Augustinus, Euch. cap. 86.
(10) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 22.
(11) ibid.
(12) Idem, de Civ. Dei, lib. 13, cap. 18など参照
(13) S. Hieronymus, in cap. 40 Isaiae 参照