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ローマ公教要理 秘跡の部 第二章 25-36 | 代父母、幼児洗礼、成人洗礼

 秘跡の部 目次

第二章 洗礼の秘跡

25 その場合に保つべき順序について

 このように差別なしにすべての人に洗礼を授けることが許されているとはいっても、執行者の間になんの順序もおかなくていいと考えてはならない。たとえば婦人は男子がいれば授けてはならない。しかし洗礼を授けることになれている助産婦は、この秘跡の授け方を知らない男子がそこにいて、男子がこの任務にはるかに適当であるとはいえ、彼女自身がこの任にあたったとしてもとがめらるべきではない。(1)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第742条(2)―第744条参照。

※ サイト管理人注: 以降、現行の教会法の洗礼に関する規定(第849条 ー 第878条)と異なる内容もございますことをご承知おき願います。

26 代父や代母は必要か

 右にのべた洗礼を授けうる種々の執行者のほかにカトリック教会の非常に古いしきたりによって、聖にして有効な洗い清めに立ち会う他の人々がある。(1) これは今日われわれが代父(代母)とよび、昔の教会著作者たちが一般に受取人、保証人または証人とよんでいる人々である。ほとんどすべての平信者がこの聖職務を果たしうるのであるから、司牧者は、それをふさわしく果たすためにとくに何が必要であるかを説明せねばならない。とくに洗礼において秘跡の執行者のほかに代父、代母または保証人を加えるのはなぜか、その理由を明らかにすべきであろう。すなわち洗礼がわれわれを神の子として誕生させる霊的再生であることを考えるならば、このような定めは誰にとっても納得のいくことであろう。聖ペトロはそれについて「新たに生まれた嬰児のように、それによって救いに成長するために、まじりのない霊的な乳をのぞめ」(ペトロ前2・2)と教えている。この世に生をうけた嬰児は成長し、知識や技芸を教わるために、乳母や教師の援助と配慮を必要とする。同様に洗礼の泉から霊的生命をはじめる人々は、彼らにキリスト教の掟を教え、すべての徳の実行をしつけ、しだいにキリストに成長せしめ、ついに神の恩寵と共に完全な(キリスト信者)となることを可能にしてくれる、信仰と賢慮の人を必要としている。しかし、小教区の信者全体の司牧にたずさわる司牧者は、信仰のことを個人的に子供たちに教える十分な暇をもたないのであるから、なおさら代父代母の必要があるわけである。聖ディオニジウスはこの慣習が非常に古いことを証言して、こういっている。(2) 「われわれの聖なる師は ―彼は使徒たちをこうよんでいる― 両親が、自分たちに代わって神のことを教える師となり、また霊父として救霊の守護者として子供の一生を指導してくれる人々に、子供たちを委ねるという聖なる慣例を是とした。」と教皇ヒギヌスも同じことをのべ、この教えを確認している。(3)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第762条参照。
(2) S. Dionysius, de Eccl. Hieros. c. 2.
(3) Sum. Theol., III, q. 67, a. 7 参照。

27 霊的親族関係について

 それゆえ聖なる教会は賢明にも、授洗者と受洗者との間にはいうまでもなく、代父、代母とその名付け子およびその生みの親との間にも親族関係が存在すると定めている。すなわちそれらの人々の間には合法的な婚姻はありえず、たまたまかれらの間に婚姻が契約されたとしても、その婚姻は無効である。(1)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第763条、第768条参照。この掟は相当の理由があれば免除される。 (※)

※ サイト管理人注: この掟に関しても現行の教会法では変更されているようですが、詳細については教会法専門などの聖職者にご確認願います。

28 代父、代母の務めについて

 ついで代父、代母の義務について教えねばならない。なぜならこの聖職務はとくになおざりにされがちで、単なる名目的なものとなり、その中に聖なるものが含まれているなどとは考えようともしないからである。代父、代母は霊的子供たちが永久に自分の配慮に委ねられていること、また彼らを信者生活のあらゆる実践にしつけ、一生を通じて洗礼の日におごそかに約束した通りに生きさせるため全力を尽くすという特別なまた厳格な契約を結んだことを忘れてはならない。(1)

 聖ディオニジウスは証人(代父、代母)につぎのようにいわせている。「私はこの子供が宗教を理解できる年令に達する時、善に反するすべてのことを否み、またいま神に約束したことを公言し履行するように、彼らに熱心に勧告することを約束します」と。(2) また聖アウグスチヌスも同様にいっている。「私は、洗礼において子供を受けたあなたがた男女に、まずこのことを注意させたい。すなわちあなたがたはあなたがたが聖なる泉から受けたものの、神のみ前における保証人になったということである」と。(3) 実際、ある義務を負わされたものが決してあくことなく熱心にそれを遂行し、また他人の師あるいは指導者と自らを公言するものが、自分の指導保護に委ねられたものにその奉仕と援助とが必要なことを知っているかぎり、決して彼らを見棄てないということは全く当然のことではなかろうか。  代父、代母がその霊的子に与うべき教えとはどんなことだろうか。聖アウグスチヌスは、彼らの義務について語りながらつぎのように簡明に説明している。(4) 「彼らは子供たちに、貞潔を保持し、正義を愛し、愛をもつこと、何よりもまず使徒信経、主祷文、天主の十戒およびキリスト教の主な基礎を言い聞かせ悟らせるべきである」と。(5)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第769条参照。
(2) S. Dionysius, de Eccl. Hieros. c. 2.
(3) S. Augustinus, serm. 163.
(4) S. Augustinus, supra.
(5) Sum. Theol., III, q. 67, a. 8 参照。

29 だれでも代父、代母になれるか

 以上のとおりであるから、この聖なる庇護の役割をだれにでも委ねてならないことは容易に察せられる。とくに忠実にまた熱心にそれを履行することを欲しないもの、それを適切に果たしえない人に委ねてはならない。生みの父母は代父、代母にはなりえない。それは霊魂の教育が肉身の教育といかに異なっているかを示すためである。つぎにこの聖職務を異端者、ユダヤ教徒、未信者に決して委ねてはならない、というのは彼らはその虚言によって信仰の真理を不明瞭にし、またキリスト教のすべての信心を破壊しようと考え、努力しているからである。(1)

訳注
(1)〔旧〕教会法第765条―第767条参照。
  Sum. Theol., III, q. 67, a. 8 ad 2 参照。

30 代父、代母の数について

 トリエント公会議は多数の代父、代母をおくことを禁じ、ただ一人の代父または代母、多くて二人、すなわち一人の代父、一人の代母をおくよう定めている。それは、一方には多数の師は子供の指導と教化に混乱をもたらす危険があり、他方には霊的親族の過度の増加によって社会の発展が制約されることのないためである。(1)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第762条参照。

31 洗礼は救霊に必要である

 この秘跡に関するいままでの説明は信者にとって非常に有益なことではあるが、しかし最も大切なことは、主がすべての人々に洗礼を受くべきことを掟として定めたもうた(マテオ28・19)ということである。すなわちこの秘跡の恩寵によって神に再生しないものは、その親が信者であろうと異教徒であろうと、永遠の不幸と損失のためにしかこの世に生まれてこないという厳重な掟である。(1) それゆえ司牧者は「まことに、まことに私はいう、水と霊とによって生まれない人は、天の国にははいれない」(ヨハネ3・5)という聖書のみ言葉を度々説明すべきである。(2)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 68, a. 1-2 参照。

32 幼児の受洗について

 この掟はただ成人のためだけでなく、幼児にもおよぶのである。教父たちの教えや証言はこのような教会の教えを使徒からの伝承であるとしている。実際主イエズス・キリストが洗礼の秘跡とその恩寵とを幼児に拒絶したもうたと考えることができようか。主は「子供たちをとめるな、私のところに来るのを邪魔するな、天の国は、このようなものたちのものだから」(マテオ19・14)とおおせられているし、また同じ主は彼らを抱き、按手して彼らを祝福されたではなかったか。聖パウロはある一家族全部に洗礼を施した(コリント前1・16)と書いているが、この家族の一員であった子供たちも同じくこの救いの水で清められたと考えるのが当然ではなかろうか。

 洗礼の表象であった割礼もまたこのような慣習(幼児洗礼)を肯定している。(1) 周知のとおり割礼は生まれて八日目の子供に施していた(創21・4)。さて肉の体を脱がせるための人の手による割礼(エフェゾ2・11)が彼らに有益であったとするならば、キリストの霊的の割礼である洗礼が(コロサイ2・11)彼らに効果を生じるのは明白なことである。最後に、使徒聖パウロが教えているように、「もし、あの一人の罪のために、あの一人によって死が支配したとすれば、まして、恩寵の豊かさと義の恵みを受ける人々は、一人のイエズス・キリストによって、生命の支配を受ける」(ロマ5・17)のである。それゆえアダムの罪による原罪を受けついだ幼児たちはいま、「生命において王となるために」主キリストによって恩寵と義とを受けるのである。そしてそれは彼らにとって洗礼なしに絶対に不可能なことである。だからこそ司牧者は、幼児に洗礼を授くべきこと、また受洗後はごく幼少の時代からキリスト教の掟によって、真の信心の実践しつけねばならぬことを教えるべきである。なぜなら智者(サロモン)がいみじくもいっているように「子供に行くべき道を教えよ。そうすれば年をとっても道をそれないであろう」(格22・6)からである。(2)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 70, a. 1 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 68, a. 9-10 参照。

33 幼児も恩寵を授かる

 洗礼を授かる幼児が実際に信仰の秘跡を受けることは疑いをいれない。それは彼らが知的同意をもって信ずるからではなく、親が信者ならば親の信仰を、もしそうでないならば諸聖人の教会の信仰(これは聖アウグスチヌスの言葉であるが)を帯びているからである。(1) 子供たちは、いわば彼らを推せんする人々によって、また聖霊との一致に彼らを入らしめるそれらの人々の愛徳によって洗礼に臨まされているからである。

訳注
(1) S. Augustinus, in Enchir. c. 42.
  Sco. 4, dist. 4, quaest. 2 参照。

34 幼児の洗礼をおくらせてはならない

 危険なしにそれをなしうるならばできるだけ早く子供を教会に連れて行き、盛式の儀式をもって洗礼を受けさせるよう信者たちに強く勧めねばならない。なぜなら子供たちは洗礼以外に他の救霊の手段をもっていないからである。それゆえ、必要以上に長く、子供たちにこの秘跡の恩寵を与えずにおく人は、どれほど重大な責を負わねばならないであろうか。とくに幼児は年齢のか弱さからして、数限りない生命の危険にさらされていることを忘れてはならない。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 68, a. 3 参照。

35 大人が洗礼を受けるには

 すでに完全な理性の働きをもっている、いわゆる未信者の大人に対してとるべき態度は全く異なっている。そしてそれは初代教会からの慣例によるものである。まず彼らにキリスト教の信仰の真理を教え、最大の熱心さをもってその信仰を奉ずるように勧め促し励まさねばならない。そして彼らが主に向かうようになったならば、教会によって規定された期間以上に受洗をのばさぬよう勧告すべきである。なぜなら聖書には「主に立ち戻るのを遅らせず、それを明日にのばすな」(集5・7)と書かれてあり、また完全な改心は洗礼による再生にしか存しないからである。それに加えて洗礼は他の秘跡への門戸のようなものであるから授洗をおくらせればそれだけキリスト教のいわば精髄である他の秘跡の利用と、それからくる恩寵を得損っているからである。またこの秘跡自体から得る最大の恩寵を欠くことにもなるからである。周知のように洗礼の水はこれまで犯したすべての罪のしみや汚れを消しとり去ることはもちろん、同時にわれわれを神の恩寵をもって飾り、その恩寵の御助けと力によってわれわれに以後悪をさけさせ義と無垢とを保持するキリスト教的生活を確保させるのである。

36 大人への授洗をおくらせることについて

 とはいえ、教会の慣習としては大人にその改心の直後に洗礼を授けず、反対にある期間それをのばすよう定めている。それは大人の場合にはおくらせたとしても子供たちを脅かす前述したような危険はないし、また大人は理性の働きをもっているのであるから、不慮の事故が受洗を全く阻止したとしても、受洗を望み決心し、また過去の生活を悔やむことによって恩寵と義化に到達することができるからである。かえってこの遅延はある有利な点をもっている。教会は誰も虚偽や偽善をもってこの秘跡に近づかぬよう最大の配慮をする責任を負わされているのであるが、洗礼をのばすことによって、それを望むものの真摯さをただし、よく見ることができるからである。これこそ初代教会の公会議が、カトリックの信仰に改宗するユダヤ人に対して、受洗の前に数か月間、洗礼志願者の列にとどまり、彼らが後で信ずべき信仰の教えとキリスト教的生活の諸原則について、より完全に学ぶよう規定した理由なのである。またご復活または聖霊降臨という定められた大祝日に盛式の儀式をもっておごそかに洗礼を受けることによって、この秘跡に対してよりいっそうの信仰の念を表わすのである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 68, a. 3 参照。