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ローマ公教要理 秘跡の部

 秘跡の部 索引ページ

目次

第一章 秘跡一般について 1-12
 13-2425-32
第二章 洗礼の秘跡 1-12
 13-2425-3637-4849-6061-76
第三章 堅信の秘跡 1-12
 13-26
第四章 聖体の秘跡 1-12
 13-2425-3637-4849-6061-7273-81
第五章 悔悛の秘跡(〔告解の秘跡、ゆるしの秘跡〕) 1-12
 13-2425-3637-4849-6061-7273-79
第六章 終油の秘跡 1-16
第七章 叙階の秘跡 1-12
13-2425-34
第八章 婚姻の秘跡 1-12
13-2425-34

IMPRIMATUR:
Kyoto, 14 aprilis, 1973
+ Paulus Y. Furuya
Episcopus Kyotoensis

岩村清太・訳編
昭和48年〔1973年〕7月20日初版発行
昭和56年〔1981年〕3月19日第2版
訳者 岩村清太
発行人 財団法人 精道教育促進協会


第一章 秘跡一般について

1 主任司祭はとくに秘跡に関する教えに留意すべきこと

 司牧者の認識と配慮とはキリスト教教義のすべての部分に及ばねばならない。しかし神のご命令によって必要とされ、また救霊の恩寵にきわめて豊かな秘跡に関しては、特別の能力と努力とが必要である。それは、司祭の正確な、そして度重なる教えによって、信者がこのすぐれた聖なる事柄にふさわしく、恵み豊かにあずかることができ、また司祭自身「聖なるものを犬にやってはいけない、真珠を豚に投げ与えてはいけない」(マテオ7・6)という神の禁令にもとらぬためである。

2 秘跡(Sacramentum)という意味について

 秘跡一般についてのべるのであるが、まず秘跡という語の意義および内容の説明からはじめ、それがもつあらゆる意味をのべてはじめて、いまここでもつべき意味を容易に捉えることができよう。まず信者たちに、世俗の著作者は秘跡という語を、教会の著作者と違った意味にとっていたことに注目させる必要がある。世俗の著作者たちは、秘跡という語を「他人に奉仕するという宣誓からくる義務」と解していた。たとえば国家に忠誠な奉仕を約束する兵士たちの宣誓は「軍隊のSacramentum」といわれている。これが彼らがこの語の与えていたごく普通の意味である。しかし神的事柄を書き伝えるラテン教父たちは、この語を、隠されたある神聖なものを表わすために用いている。ギリシャ人は同じものをいい表わすために奥義(Mysterium)という語を用いていた。聖パウロがエフェゾ人にあてて書いた「神は、そのみむねの奥義Sacramentumをわれわれにお知らせになった」(エフェゾ1・9)という言葉、またはチモテオ書に見られる「敬虔の奥義Sacramentumこそたしかに偉大なものである」(チモテオ前3・16)という言葉、また知恵の書の「彼らは神の奥義Sacramentumを知らない」(知2・22)においてもSacramentumという語はこの意味に解すべきである。すなわち以上引用したこれらの文や他の多くの文中においてSacramentumという語は隠弊され〔た〕かくれた神聖なものを意味している。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 66, a. 1 参照。
※ サイト管理人注: Sum. Theol = Summa Theologiae = 『神学大全』

3 現代の教父たちによる秘跡の意味解釈について

 それゆえ、ラテン教父たちは、恩寵を生じ同時にそれを表わす、いわば眼前におき感覚に訴えるあるしるしはまさに秘跡(Sacramentum)とよび得べきものだと考えたのである。聖グレゴリオ大教皇は、それらのしるしが秘跡(Sacramentum)とよばれるのは、ひそかに救霊のために作用する神的な力を有形の物体のおおいの下に含んでいるからだとしている。(1) この語が教会にとり入れられたのは最近だと考えてはならない。聖ヒエロニムスや聖アウグスチヌスの著作を読むものは、初代教会の著作家たちが、ここで問題としていることについて語る時、最もしばしば秘跡(Sacramentum)という語を用い、時として象徴、神秘的なしるし、聖なるしるしという言葉を用いていたことにすぐ気づくであろう。(2)  秘跡という語について以上いわれたことは旧約の秘跡(Sacramentum)にも適合することであるが、しかしこれらは福音と恩寵によって廃止されたのであるから、司牧者たちはそれについて何もいう必要はない。

訳注
(1) S. Gregorius, in I Reg. c. 16 参照。
(2) S. Hieronymus, in Amos c. 1; S. Augustinus in Joan. tr. 80 seq.; S. Cyprianus, ep. 55 参照。

4 秘跡の定義

 いままでにのべた秘跡という語の説明に加えて、そのものの本質について吟味し、信者たちに秘跡とは何かを教えねばならない。なぜなら秘跡は疑いもなく義と救霊とを得るために必要な事柄の一つだからである。秘跡を説明するための適切な、すぐれた説明はたくさんあると思うが、しかし教会博士、神学者たちがこぞって借用している聖アウグスチヌスの定義ほど明瞭なそして完全なものはない。聖アウグスチヌスは、「秘跡とは聖なるもののしるしである」といい、あるいは同じ意味のことを別の言葉で「秘跡はわれわれの聖化のために制定された、不可視的な恩寵の可視的しるしである」といっている。(1)

訳注
(1) S. Augustinus, lib. 10 de Civ. cap. 5 et epist. 2; Sum. Theol., III, q. 60, a. 2-3 参照。

5 しるしとは何か

 しかしこの定義をより明確にするため、司牧者はこの定義を各部分に分けて説明せねばならない。まず、われわれの感覚で知覚されるものに二種あること、その一つはあるものを表わすためのものであり、いま一つは他のものを表わすためではなくもっぱらそれ自体のためにあるということ。そして自然が生み出すほとんどすべてのものはこの第二の範疇に属しているということである。第一のものの中には、言葉、文学、徽章きしょう、形像、ラッパ、その他多くのこういった種類のものが数えられる。たとえば言葉からその意味を取り去った場合、言葉の存在理由もまたなくなるであろう。それゆえ、言葉は厳密にしるしといえるのである。聖アウグスチヌスによるとしるしとはわれわれの感覚に示される対象のほかに、それを通していま一つ他のものを知らせるものである。(1) たとえばわれわれは地上に足跡を見つける時、すぐにだれかがそこを通り、足跡を残したと判断する。

訳注
(1) S. Augustinus, lib. 2 de doct. christian. cap. 1 参照。

6 秘跡はしるしである

 このようなわけであるから、秘跡が他のものを表示するものであることは明らかである。(1) 実際に秘跡はある形または相似によって、神がその不可視な御力により霊魂になしたもうことを表わしている。この真理をより明らかにするために一つの例をとろう。洗礼において一定の荘厳な言葉と同時に水をそそぐということは、われわれの霊魂が聖霊の御力によって、内的に罪のすべてのしみや汚れから洗い清められ、天の義の貴重な賜物を豊かに与えられ飾られるということを表わしている。その時と所とで後述するように、この体の洗浄は、同時にそれが示しているものを霊魂の中に生ずるのである。

訳注
(1) S. Augustinus, ibid. lib. 3 参照。

7 聖書も同じく教える

 さらに、聖書も明らかにしるしとしてみるべきことを教えている。使徒聖パウロはローマ人への書簡においてすべての信ずる者の父アブラハムに命ぜられた旧約の秘跡、割礼についてのべ、「そして彼は、割礼のしるしを、無割礼の時もっていた信仰の義の判として受けた」(ロマ4・11)といっている。また他の箇所では「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けたわれわれがみな、彼の死において洗礼を受けたのであることを、あなたたちは知らないのか」(ロマ6・3)とのべているが、彼がここで洗礼を「われわれが、その死における洗礼によって、イエズスとともに葬られた」(ロマ6・4)ことのしるしとみなしていることは容易に理解される。信者たちが秘跡はしるしであるということを知ることによって受ける利益は小さなものではない。なぜならそのような知識を通じて彼らは、秘跡が意味し、含み、同時に生ずるものが崇高なそして聖なるものであることを容易に理解するであろうし、また秘跡の聖性を知ることによって、われわれに対する神の無限のご好意への謝恩と礼拝の念をいっそう深めるであろうから。

8 しるしの種類について

 つぎに、定義の第二の部分、「聖なるもの」という語を説明しよう。その説明をたやすくするため、聖アウグスチヌスがしるしの多様さに関して鋭くまた精密にのべたことをより深くつっこんで再び取り上げよう。それ自体のほかに、他のあるものを認識させる(すでにのべたように、これはすべてのしるしに共通する点であるが)自然的とよばれるしるしがある。たとえば煙を見る時、直ちに火のあることがわかる。このしるしは自然的とよばれるが、その理由は、煙が火を知らせるのは人間の意志によるのではなく、ただ煙を認めただけで、まだそれを見ずとも、その下に実際の、おこった火があることが推察されるからである。自然から生じない、しかし互いに話すため、考えを他人に伝え、さらに他人の意見や計画を知るために、人間が作り出し定めた他のしるしがある。この種のしるしはかなりのものは視覚に、大多数は聴覚に、その他は感覚に訴えるというふうに種々多様である。だれかにあることをわからせようと思う時、われわれは、たとえば旗幟きしをあげたりするが、明らかにこのしるしは視覚に訴えるものにほかならない。これに反し、われわれを魅するだけでなく、ほとんどの場合、何かの合い図に用いられるラッパ、弦楽器の音は聴覚に訴えるものである。また魂内部の考えを表わすためにきわめて大きな力をもつ言葉もこのような意味においてしるしであるといえる。

9 新、旧約にみられる神定のしるしについて

 しかしいまのべた人間の意志、慣習によるこれらのしるしのほかに、さらに神ご自身からくる他の種のしるしがある。そしてそれが一種ならずあることは周知のとおりである。それらのあるものは、律法の清めの式、たねなしパン、その他モイゼの律法による礼拝儀式のための多くの規定のように、あることを意味するためあるいは告知するためにだけ制定されたものであり、他のものは、あることをあらわすだけでなく、その表わすものを生ぜしめる力をもつものとして制定されている。そして新約の秘跡は明らかに後者に属する。すなわちわれわれは、これらのしるしが人間によってではなく、神によって制定され、示している聖なる事柄を生ずる効力をもっていることを固く信じている。

10 定義中の「聖なるもの」とは何か

 しるしが多くの種類に分かれているように、聖なるものの種類も一様ではない。教会の著作者たちは、秘跡の定義中の「聖なるもの」という言葉を、われわれを聖化し、あらゆる徳をもって霊魂を飾り美しくする神の恩寵の意に解している。彼らは、この聖なるものという呼称は、われわれの霊魂を神のために聖別し、神に一致させる恩寵にこそ与うべきだと考えたのである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, cap. 6; Sum. Theol., III, q. 60, a. 2 参照。

11 さらに定義を説明する

 秘跡とは何かということをさらによく理解させるため、秘跡は義と聖性とを意味すると同時に生ずる力を神から与えられている感覚的なものであることも教えなければならない。聖人の御絵や十字架、またそのような類のものは聖なるもののしるしではあっても決して秘跡でないことがすぐにうなずける。(訳注、これらは示しても生ずる力を欠いているから) また前述したように洗礼における外的洗浄が聖霊の御力による内的聖化を示すと同時に効果づけるということをすべての秘跡に適用することによって、たやすくこの定義の正しさを説明できるであろう。

12 秘跡は多くのものを示す

 神のご制定によるこれらの神秘的なしるしは、神ご自身の意志により、ただ一つだけでなく同時に多くのことを意味している。各々の秘跡は聖性と義のほかに、聖性それ自体と密接なつながりをもつ他の二つのこと、すなわち聖性の源であるキリストのご受難、また聖性の目的である永遠の生命、天国の至福をも象徴している。そしてこの特性はすべての秘跡に共通である。それゆえ教会博士たちは各々の秘跡は、三つの異なった意味、すなわち一つは過去のことを想起させ、他は現在のことを指示しかつ表わし、第三には未来のことを予告すると教えている。彼らの説は聖書に基づいたものではないと思ってはならない。使徒聖パウロは「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けたわれわれがみな、彼の死において洗礼を受けたのであることを、あなたたちは知らないのか」(ロマ4・3)とのべて、洗礼が主イエズス・キリストのご受難とご死去を思い起こさせるしるしであることを明白に教えている。またさらに「われわれは、その死における洗礼によって、イエズスと共に葬られたのである。それは、御父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、われわれもまた、新しい生命に歩むためである」(ロマ6・4)とつけ加えているが、この言葉からして、洗礼が、われわれの霊魂の中にそそがれて新しい生命をはじめさせ、そしていとも容易にかつ喜びをもってすべての信心の義務を果たさせる力を与える天的恩寵のしるしであることは明らかである。さらに聖パウロは「われわれがキリストと一体になって、その死にあやかるならば、その復活にもあやかるであろう」(ロマ6・5)と書いて、洗礼が、他日われわれに与えられる永遠の生命の明白なしるしであることを教えている。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 60, a. 3 参照。