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ローマ公教要理 秘跡の部 第三章 1-12 | 堅信の制定者、質量、形相

 秘跡の部 目次

第三章 堅信の秘跡

1 堅信に関する教えの重要さについて

 堅信の秘跡について入念に説明することは常に必要であったが、しかし神の聖なる教会において多くの信者がこの秘跡を全くなおざりにし、それが生ずるはずの恩寵の効果をえようと努めるものがごくわずかしかいない今日においてはなおさらそうである。それゆえ、司牧者は信者たちに、堅信の本質、その効力、優越性について、それを授ける主な時である聖霊降臨の日に、あるいは都合のよい他の日を選んで教えねばならない。(1)  そして信者たちにこの秘跡をなおざりにしないことはもちろん、最大の信心と敬虔さとをもって受くべきことを心得させるべきである。それは彼らのあやまちに神のこの大いなる恩寵が彼らにむなしく授けられるという不幸をきたさないためである。

訳注
(1) 〔旧〕教会法第790条参照。

2 なぜ堅信とよばれるか

 まずその語自体から説明すると、この秘跡を堅信とよぶのは、洗礼を授かった信者が「われなんじに十字架のしるしをなし、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、救かりの聖香油をもってなんじに堅信を施す」という荘厳な言葉をもって、司教から聖香油の塗油を受ける時、この秘跡の効果を何ら妨げるものがないかぎり、新しい力によって強められ、キリストの完全な兵士となるからである。(1)

訳注
(1) この秘跡は多くの名称でよばれているが、教会は、ルカ3・21-22、使2・3-4、Conc. Aur. cap. 3 などからして堅信とよんでいる。

3 堅信は新約の秘跡である

 カトリック教会は常に堅信を真の、そして独自の秘跡として認めており、教皇メルキアデス(1) 、その他多くの初代の、聖なる教皇たちも明白にそのことを教えている。聖クレメンスはこれ以上明確を期しえないほどの言葉をもってつぎのように断言している。「すべての人は直ちに神に生まれ変わり、司教によってしるされるよう、すなわち聖霊の七つの賜物を受けるよう急がねばならない。もしやむをえずしてではなく、軽蔑によってあるいは勝手にこの秘跡を授かるのをなおざりにするものは、主キリストのご命令のもとに聖ペトロおよび他の使徒たちが教えているとおり、完全な信者たることは不可能である」と。(2) 同じ精神に駆られてキリストのためにその血を流した教皇ウルバヌス(3)、ファビアヌス(4)、エウゼビウス(5)、および歴代の教皇は、彼らの教令からしてもわかるように同じ信仰を教えている。

訳注
(1) Melchiades, in ep. ad Episc. Hisp. cap. 2 et de cons. dist. 5, c. Spiritus 参照。
(2) S. Clemens, ep. 4 ad Julian. et Jul. Episc.
(3) Urbanus Papa, in ep. 1 ad omnes christianos cap. 7 参照。
(4) S. Fabianus, in ep. ad omnes orient. cap. 1 参照。
(5) Eusebius, in ep. 3 ad Episc. Tus. et Camp. 参照。

4 この秘跡に関する教父たちの証言

 それに加えて、聖なる教父たちも一致してこれを証言している。アテネの司教アレオパギタの聖ディオニジウスは、どのようにして聖香油を準備するか、またどのように用いるかを説明して「司祭たちは受洗者にその清さにふさわしい衣を着せ、司祭のところに導く。司教は聖にして全く神的な香油をもって受洗者をしるし、いとも聖なる一致にあずからしめる」とのべている。(1) カイザリアのエウゼビウスは、つぎのように断言してはばからないほどの力をこの秘跡に帰属させている。すなわち「異端者ノヴァトゥスは、洗礼を受けた時、病気で聖香油のしるしを受けなかったため聖霊を得ることができなかった」と。(2) しかし、この点に関する最も明確な証言は、聖アンブロジウスが新受洗者について書いた著書の中に(3) 、あるいは聖アウグスチヌスがドナトゥス派のペチリアヌスの手紙に対して書いた書に見られる。(4) 両者とも、この秘跡の真理についてはなんらの疑いもありえないとし、聖書の多くの引用によってそれを教え説明している。聖アンブロジウスは、使徒聖パウロの「あなたたちがあがないの日のためにしるしを受けたその神の聖霊を悲しませるな」(エフェゾ4・30)という言葉を、またいま一人は、詩編の中の「頭にかけたすぐれた香油のように。それはひげに流れくだり、アアロンのひげに流れくだる」(詩132・2)という句、および聖パウロの「希望はあざむかない、それは、われわれに与えられた聖霊によって、われわれの心に神の愛がそそがれたからである」(ロマ5・5)という言葉は堅信の秘跡に関するものだと確信している。

訳注
(1) S. Dionysius Areopagita, de Eccl. Hier. c. 6, 1. 参照。
(2) Eusebius Caesar., lib. 6, Hist. Eccl. c. 41 参照。
(3) S. Ambrosius, in lib. de iis qui myst. init. 参照。
(4) S. Augustinus, lib. 2 cont. litt. Petil. c. 104; lib. 15; de Trin. c. 26 参照。

5 堅信は洗礼と異なる

 たとえ教皇メルキアデスが洗礼は堅信と密接に結ばれているといったとはいえ、これらは同一の秘跡ではなく、かえって互いに非常に異なっているのである。すなわちそれぞれの秘跡によって与えられる恩寵の相違およびこれらの恩寵を表す目に見えるしるしの相違は、秘跡がそれぞれ異なったものであることを明らかにしている。洗礼の秘跡によって人は新たな生命に再生するが、これに対してすでに再生したその人は堅信の秘跡によって幼年期にもっていたものを捨てて、一人前のおとなとなる。(コリント前13・11)自然的生命において誕生と成長との間に差異があるのと同じく、霊的に再生せしめる力をもつ洗礼と、霊魂に完全な力を与え成長せしめる堅信との間にもそれほどの差異があることは容易に理解される。

 それに加えて、霊魂が新しい困難に遭遇するような時、別の新しい秘跡を必要とする。すなわち信仰によって霊魂を教化するために洗礼の恩寵を必要としたように、われわれ信者の霊魂は、責苦の恐れ、死の危険、あるいは強迫などのために真の信仰公言からはずれることのないよう他の恩寵によって強められる必要があることは明白なことである。(1) これこそ堅信の聖香油によってなされるところであり、その点からしてこの秘跡は洗礼と異なった秘跡であると結論できる。それゆえ、教皇メルキアデスは適確な表現をもってこの相違をのべ、つぎのように書いている。「人は洗礼において軍隊に編入され、堅信によって戦闘のために武装される。聖霊は洗礼の泉において無汚のための豊かさを与え、堅信において恩寵を保持するための完全さを与える。われわれは洗礼において生命に再び生まれ、そして受洗の後、戦うために強められる。洗礼において洗われ、堅信において強化される。再生はそれ自体によって洗礼を授かるものを平和の中に救い、堅信は戦闘のために武装させ、準備させる」と。(2) 以上のことは多くの公会議によって教えられているばかりでなく、とくにトリエントの公会議によって決定されているところである。(3) したがってこれらの点に関する反対意見が認められえないことはもちろん、疑いをもつことすら許されない。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 72, a. 9 参照。
(2) Melchiades Papa, ep. ad Episc. Hisp. de const. dist. 5. 参照。
(3) Conc. Trid. sess. 7 de confirm. 参照。

6 堅信の制定者はだれか

 秘跡の制定者がだれであるかを信者たちに教えることがいかに大切であるかはすでにのべたが、堅信の制定者に関する説明はこの秘跡の神性さをよりいっそう感じさせるために重要である。それゆえ司牧者は、主キリストがそれを制定されたということだけでなく、教皇ファビアヌスの証言によると聖香油の用い方とカトリック教会が堅信を授けるにあたって用いる言葉をも定められたということを教えるべきである。(1) 堅信を真の秘跡と信ずる人々に、以上のことを確信させることは容易であろう。なぜならすべての秘跡は自然の力を超えており、したがって神以外のものによって定められえないからである。(2) これからこの秘跡を構成する部分について、まずその質料について説明しよう。

訳注
(1) S. Fabianus, in init. ep. 2 ad Episc. orient. 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 64, a. 2; q. 72, a. 1 参照。

7 堅信の質料について

 堅信の秘跡の質料はChrismaとよばれる。この語はギリシャ語に由来しており、世俗の著作者たちはどんな種類の香油にもこの語を用いているが、しかし教会の著作者たちは、油と香とからなり、司教のおごそかな祝福によって作られたものだけに通常この語を適用している。(1) このように二つのもの(物体)がいっしょに混ざってこの秘跡の質料となっている。このように、異なった要素から成っているということは、受堅者に与えられる聖霊の賜物の多様性と堅信の秘跡の卓越性を十分に表わしている。教会および公会議が(2) この質料がまさに前述したとおりであると常に教えてきたことは、聖ディオニジウスや最も権威ある多くの教父たちの著作によって知られる。(3) とくに教皇ファビアヌスは、使徒たちが聖香油の使用を主からおおせつかり、それをわれわれにまで伝えたのだと証言している。(4)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 72, a. 2 参照。
(2) Conc. Laod. c. 48; Conc. Carthag. 2, c. 3. c, 36 参照。
(3) S. Dionysius, de Eccl. Hier. c. 2, 4 参照。
(4) S. Fabianus, in 2 ep. ad Episc. orient. de constitut. d. 2, c. lit. vestris 参照。

8 油は何を示すか

 実際、聖香油ほど堅信の効果を表すのに適切な質料はありえない。油はもともと濃くて長もちし、またしみ込み広がる。このことは「アアロンのひげに、その服のえりに流れくだる(詩132・2)香油のように聖霊によって頭たるキリストからわれわれの上にあふれ広がる豊かな恩寵を表わしている。すなわち「神はあなたに油をそそぎ、あなたのともがらのだれにもまさって、あなたに、喜びの油をそそがれた」(詩44(8))、「われわれはそのみちあふれるところから恩寵につぐ恩寵をうけた」(ヨハネ1・16)のである。

9 油に混ぜられる香は何を意味するか

 非常に快いかおりをもつ香は堅信の秘跡によって完全になった信者たちが身につけ、そして彼らをして聖パウロとともに「われわれは神に立ちのぼるキリストのよいかおりである」(コリント後2・15)といわしめるすべての徳の芳香を意味している。香のいま一つの特性は、それが塗られた物を腐敗させないことである。これは堅信の秘跡の効力を最もよく表わしている。堅信によって与えられる天来の恩寵によって保護された信者たちの心は、確かに罪の伝染から守られるからである。

10 司教による祝別はなぜか

 司教はおごそかな儀式をもって聖香油を聖別する。聖性と殉教の光栄によって著名な教皇ファビアヌスは、主が最後の晩餐において使徒たちに聖香油の使用を命じたもうた時、このようにするよう教えられたのだと伝えているが(1) 、なぜそうしなければならないかその理由は道理によって説明できる。(2) 他の大部分の秘跡の場合、キリストは御自ら質料を選ばれ、これに聖化の力を賦与された。主は「まことに、まことに、私はいう、水と霊とによって生まれない人は、天の国には入れない」(ヨハネ3・5)とおおせられて、洗礼の質料として水を指定されたばかりでなく、御自ら洗せられたもうことによって水に聖化の力を与えられた。それは聖ヨハネ・クリゾストムが「水は主の御体に触れて聖化されなかったならば、信じるものの罪を消すことはできなかったであろう」といっているとおりである。(3) しかしこの堅信の質料は主の使用または適用によって聖別されていないので聖にして敬虔な祈禱によって聖別されねばならず、しかもその聖別はこの秘跡の通常の執行者である司教だけに属するものである。

訳注
(1) S. Fabianus, in ep. cit. supra 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 72, a. 4 参照。
(3) S. Joannes Chrysost., hom. 4 in Matth. 

11 堅信の形相について

注 編者注(七八頁)参照。
七八項 編者注 この秘跡に関する変更については、使徒憲章 Divinae Consortium naturae (一九七一年八月十五日)参照。            本憲章によれば、この秘跡の形相となる言葉は「賜である聖霊のしるしを受けなさい。」である。

 つぎに、この秘跡を構成するいま一つの部分すなわち聖なる塗油にともなう言葉を説明すべきである。そしてこの秘跡を授かる信者たちに、この言葉が唱えられるのを聞く時、天来の恩寵のじゃまをするものを全くとりのぞくため信仰、敬虔、信心の念をおこすようにさせねばならない。この秘跡の形相となる言葉はつぎのとおりである。「われなんじに十字架のしるしをなし、聖父と聖子と聖霊とのみ名により、救かりの聖香油もて堅信を施す」。(1) そしてこれが真の形相であるということは、道理によっても容易に示すことができる。(2)

訳注
(1)  Conc. Florent. in doct. de sacram. 参照。
(2)  Sum. Theol., III, q. 72, a. 4 参照。

12 真の形相であることの説明

 実際、秘跡の形相とは、その秘跡の本質、実体を説明するすべてのものを含むものである。さて、堅信においてはつぎの三つのことに注意せねばならない。第一に主要因としてこの秘跡に作用する神の権能、つぎに聖なる塗油によって救霊のために信者に与えられる霊と魂の力、最後にキリストの兵士として戦いにのぞむものにしるされるしるし・・・である。そしてその第一のものは、「聖父と聖子と聖霊とのみ名により」という言葉で、第二は「われなんじに十字架のしるしをなす」(1) という言葉で十分に示されている。これらの言葉が堅信の秘跡の真の形相であるということが、たとえなんらかの道理で証明されえないとしても、この教義を教職を通して常にわれわれに教えてきたカトリック教会の権威は、この点に関するいささかの疑いも許さないのである。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 72, a. 4 参照。