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ローマ公教要理 秘跡の部 第二章 61-76 | 洗礼式、受洗者に名まえをつけること

 秘跡の部 目次

第二章 洗礼の秘跡

61 洗礼水はいつ祝別するか

 まず洗礼に用いられる水を準備せねばならない。洗礼水は自然水に聖香油を混ぜて祝別されるのであるが、この祝別はいつでもは行なわれない。昔からのならわしによって、このためには一年中で最も聖にして最もおごそかな一定の祝日がえらばれる。聖なる洗い清めの水を祝別するのは、これらの祝日の前夜であり、また初代教会においては、緊急の場合を除いてこれらの日にしか洗礼を授けていなかった。教会は、日常われわれをおびやかす生命の危険のために、このような授洗の習慣は保持しなかったが、しかしご復活と聖霊降臨の大祝日にだけ洗礼水を祝別するならわしはいまも厳粛に保っている。(1)

訳注
(1) 第二ヴァチカン公会議典礼憲章第70章参照。

※ サイト管理人注:典礼憲章第70章「洗礼水は、復活節以外には、認可されたより短い式文によって洗礼の儀式の中で祝別〔祝福〕することができる。」 (1968年発行の日本司教団秘書局訳(中央出版社)は「祝別」、2013年発行の改訂公式訳(カトリック中央協議会)では「祝福」の訳出となっています。)

62 洗礼式はなぜ教会の外ではじめるのか

 洗礼水の祝別についで洗礼直前の他の儀式を説明せねばならない。まず受洗者は教会の門に連れて行かれる。そしてそこからはいってはならない。彼らは最も恥ずべき奴隷のくびきを打ち破り、主キリストおよびその最も義なる王国に自己を全く奉献してはじめて神の家に入るにふさわしいものとなるのである。

63 秘跡中の応答はなぜか

 その時、司祭は彼らに教会から何を望むかと尋ねる。その答えがあって後、司祭は洗礼において奉ずべきキリスト教の信仰を彼らに教える。この教えは、要理問答の形式で行なわれる。この慣例は疑いもなく救い主が使徒たちに「あなたたちは諸国に弟子をつくりに行き、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼を授け、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えなさい」(マテオ28・19、マルコ16・15)とおおせられた御掟からきている。この御言葉からして、聖なる御教えの少なくとも主要な点を明らかにせずして、洗礼を授けてはならないことがわかる。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 71, a. 1 参照。

64 どのようにして行なうか

 さてこの教えは一連の質問によって要理問答の方法で行なわれるので、受洗者が成人であればその本人自身が、もし幼児であれば、その代わりに代父がこれに答えおごそかに保証を約束する。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 71, a. 4 参照。

65 抜魔式について

 つぎに抜魔式が行なわれる。(1) その式は祈りと聖なる定式とから成り、悪魔を追い払い、その力を弱め、これに打ち勝つことを目的としている。そのため司祭は、昔の蛇を追い出し、失っている生命の息を吹き入れるために三回、受洗者の顔に息をかける。(2)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 71, a. 2 ss 参照。
(2) 衛生および慎みからして、一九四四年一月十四日付の典礼聖省の決定により省略できる。

66 塩を用いるわけ

 抜魔式のほかに神秘的な、しかし固有なそして明白な意味をもつ他の儀式が加えられる。受洗者の口に塩を入れるのがそれで、これは明らかに、彼が信仰の教えと恩寵の賜物とを受けることによってその罪の腐敗から救われ、聖なるみ業の実行に味をおぼえ、好んで神の英知をもって身を養うようになることを意味している。

67 十字架をしるすのはなぜか

 つぎに額、眼、胸、肩、耳に十字架のしるしをする。それは受洗者の感覚が、神を迎え入れその掟を悟り守りうるよう、十字架のしるしによって開かれ強められることを示している。

68 鼻と耳につばきをつける意味

 その後、鼻と耳につばきがつけられ、それからすぐに洗礼盤のところに導かれる。(1) 主がつばきで泥をつくって目に塗られ、シエロの池に洗いに行かせられた聖書中の盲人が直ちに視力を回復したように、洗礼の水には霊魂を天の光で照らし、救霊の聖なる教義を悟らせる力があるのである。

訳注
(1) 衛生および慎みからして、一九四四年一月十四日付の典礼聖省の決定により省略できる。

69 受洗者は悪魔と訣別する

 以上のことを終えて後、洗礼盤のところに来る。そこでまたキリスト信者に課せられる義務の概要を教える他の定式が行なわれる。司祭は受洗者に三度にわたって「悪魔と、そのすべての業、そのすべての栄華を捨てますか」と尋ねる。各質問ごとに、受洗者自身あるいは、代父、代母が受洗者の名において「はい捨てます」と答える。このようにキリストへの奉仕に身をささげるものは、まずおごそかにかつ真剣に、悪魔と世間とを放棄し、以後絶えずこれらを最も残酷な敵と承なすことを約束せねばならない。

70 受洗者の信仰宣言について

 つぎに司祭は受洗者を洗礼盤の前に立たせ「あなたは全能の神を信じますか」と質問する。そしてその受洗者は「はい、信じます」と答える。受洗者はつぎつぎに使徒信経の他の箇条についてただされ、おごそかに自分の信仰を宣言する。そしていまのべた二つの約束をともなう宣言の中にキリスト教のすべての徒と義務とが含まれていることは明らかである。

71 受洗の意思をただす

 洗礼を授ける時が遂にきたいま、司祭は受洗者に洗礼を望むか否かを尋ねる。それに対する受洗者自身の、あるいは子供の場合にはその代わりを果たす代父、代母の肯定の返事を聞いてはじめて、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって救いの水を受洗者にそそぐ。人間が望んで蛇に従い、罪に定められたように(創3・6)、主は自分からすすんで、神の掟に服従し、永遠の救霊を探求する善意の兵士だけしかその味方に加えようとされないのである。

72 頭に聖香油で塗油する意味

 洗礼が終わると、司祭は受洗者の頭の頂に聖香油を塗る。それは彼がこの日以来、頭にましますキリストにその肢体として一致しその体の一部となり、キリスト(Christus)が、注油された香油(Chrisma)からしてそうよばれるように、彼もキリスト(Christus)に一致しているところからキリスト信者(christianus)とよばれることを知らせるためである。聖香油の意義については、聖アムブロジウスがいっているとおり、その時に司祭が誦える祈り中によく示されている。(1)

訳注
(1) S. Ambrosius, lib. 1 de sacram. 参照。

73 白衣は何を示すか

 その後、司祭は「白衣を受けなさい、永遠の生命を得るために、われらの主イエズス・キリストのさばきの庭に立つ時までこれを汚れなく保ちなさい」と唱えながら新受洗者に、白衣を着せる。まだ着物を着ない幼児には、同じ言葉をのべながら小さい白布をその頭におく。教会博士たちは、この象徴は受洗によって再生したわれわれがめざしているご復活の光栄と洗礼によって罪の汚れから清められ飾られた霊魂の輝きと美、また新受洗者が終生保持すべき無垢と完全さとを表わしていると教えている。(1)

訳注
(1)  S. Ambrosius, de iis qui mysterio initiantur c. 8 参照。

74 燃えるローソクの示すもの

 つぎに、ともしたローソクを手にとらせる。それは洗礼によって彼が受けた、愛に燃えたつ信仰、善業の実践によって保ち増大すべき信仰のかたどりである。

75 受洗者に名まえをつけること

 また受洗者に名をつける。この名は、その顕著な信仰心と徳のために聖人の位に列せられた人から借りねばならない。名まえが似ていることは、受洗者にとって完徳と聖性への刺激となるであろう。またその聖人にならうことはもちろん、その取り次ぎを祈り霊魂、肉体の救いのための保護者と仰ぐためである。それゆえ、子供たちに好んで異教的人物の名、とくに不道徳であったものの名をつけるような人々はきびしく非難さるべきである。そのことは彼らがどれほどキリスト教的信仰心に欠けているかをよく表わしている。彼らはこれら不道徳者の追憶を楽しみとし、これらの不敬な名によって絶えず信者たちの耳を驚かそうと願っているほどである。

76 洗礼の中に見られる奥義の要約

 もし司牧者が、洗礼の秘跡について以上のべたことを説明するならば、この事柄に関する教育において信者は本質的なものを何も欠くことはないであろう。いままでわれわれは洗礼の名の意味は何か、その本質はいかなるものであるか、それを構成する部分は何であるかを説明してきた。まただれによってそれが制定され、だれがそれを授けることができ、また授くべきか、新受洗者の弱さを力づけるためにどんな人を教師とするかについてのべた。洗礼はだれに、またどのような心構えの人に授くべきか、その効力と効果とはどんなものであるかについても説明した。最後にその授与にともなう定式や儀式も必要な範囲において説明した。司牧者がこれらのことに関する信者の教育を決してなおざりにしてならない主な理由は、信者たちがこれらの真理を常に意にとめ、洗礼の時におごそかにかつ神聖に約束したことに忠実にとどまり、また彼らが公言するキリスト信者という聖なる名にふさわしい生活をしうるためにである。