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ローマ公教要理 秘跡の部 第二章 1-12 | 洗礼とは何か、質量である水について

 秘跡の部 目次

第二章 洗礼の秘跡

1 洗礼に関するひんぱんな教えの有益なこと

これまでのべてきた秘跡一般に関する説明からして、カトリック教会が各々の秘跡について信ずべきこととして教えていることを理解することが、キリスト教教義の把握と信心の増加にいかに必要であるかがわかる。さらに、注意深く聖パウロを読むものはだれでも、洗礼に関する完全な知識が強く信者たちに求められていることを結論せざるをえないであろう。彼はしばしば、しかも霊にみちたおごそかな言葉で、この奥義の記憶を新たにし、その神聖さを思いおこさせ、それを通じて御主のご死去、御葬り、ご復活をわれわれに観想させ、これにあやからせようとし(ロマ6・3、コロサイ2・12-13)、われわれの眼前においてくれる。それゆえ司牧者は、この秘跡についてすでに十分に努力し学んだと決して思ってはならない。

2 いつ洗礼について話すか

司祭は、昔教会が、非常に深い信心とおごそかな儀式とをもってこの秘跡を授けるのをならわしとしていた聖士曜日および聖霊降臨の前日に、またその他の日にそれについて説明する機会をもつべきである。最も好都合なのは、ある人に洗礼を授けるにあたってかなりの信者がその式に参列している場合である。その際、この秘跡に関するすべての点を並べ立てずに一、二の点だけにとどめたとしても、信者たちは聞いている真理を洗礼式の中に実際に目で見、非常な注意と敬虔さとをもって注視しているのであるから、教えることもきわめて容易であろう。そして各人は、他人になされることを目の前にし、自分の洗礼の日に自分が神とどのような契約を結んだかを思い出し、はたしてその生活や態度においてキリスト信者という名が要請しているとおりにふるまっているかどうかを自問するに至るであろう。それゆえ教うべき事柄を明瞭に説明しうるよう、まず洗礼という語自体の意味を与え、つぎにこの秘跡の本質および実体についてのべることにしよう。

3 洗礼という語の意義について

この “Baptismus”あるいは “Baptisma”という語は周知のとおりギリシャ語に由来するもので、聖書の中では秘跡の場合の洗浄を意味するだけでなく、あらゆる種類の洗い清め(マルコ7・4)、時としてはご苦難をも意味している(マルコ10・38、ルカ12・50、コリント前15・29)。しかし教会著作家たちは、一般の身体の洗い清めではなく、もっぱら秘跡においてなされ、規定された言葉をともなう洗い清めをさしている。使徒たちも主キリストの制定に従いしばしばこの意味において用いている(ロマ6・3)。

4 教父たちは洗礼をどんなによんだか

教父たちは洗礼に他の名称を与えている。たとえば聖アウグスチヌスは授洗者がキリスト教の全き信仰を公表するところから「信仰の秘跡」と呼んでいる。(1) 他の教父たちは洗礼においてわれわれが公表する信仰がわれわれの心を照らすところから、洗礼を「照明の秘跡」とよんでいる。使徒聖パウロもヘブライ人に「光を受けてのちのあなたたちは、あれほどに戦い苦しんだ前の日々を思い出すがよい」(へブライ10・32)といっている。聖パウロがここでいう時とはヘブライ人が洗礼を受けた時を意味している。またわれわれが洗礼によって古いパン種から清められて、新しいパン粉となるところから(コリント前5・7)、金口聖ヨハネは洗礼志願者にした説教の中で洗礼を「浄化」とよび、あるいはイエズス・キリストの「墓、接木、十字架」ともよんでいる。その理由はロマ書中に見いだすことができる(ロマ6・3)・聖ディオニジウスは洗礼を「聖なる掟の原理」と名づけているが、(2)それは明らかにこの秘跡がキリスト教団体にはいる「門」のようなものであり、またこの秘跡によって神の掟に従いはじめるからであろう。以上が洗礼の名称に関する説明である。

訳注
(1) S. Augustinus, ep. 25 参照。
(2) S. Dionysius, de Eccl. Hieros. 参照。

5 洗礼とは何か

洗礼の定義としては、教会著作家たちの書中に多く見いだすことができるが、最も正しくかつ適切と思われるのは、ヨハネ福音書中のみ言葉、また聖パウロのエフェゾ人への書簡の言葉から引き出されるそれである。救い主は「まことに、まことに私はいう、水と霊とによって生まれない人は、天の国にははいれない」(ヨハネ3・5)とおおせられ、使徒聖パウロは教会についてのべながら、「水をそそぐこととそれにともなう言葉とによって教会を清め、聖とする」(エフェゾ5・26)といっている。それゆえ洗礼を「水と言葉による再生の秘跡」と定義づけることは正しくまた適確なことといえる。われわれは自然にはアダムから怒りの子として生まれるが洗礼によってイエズス・キリストにおいて慈悲の子として再生する。すなわち「しかし彼を受け入れて、そのみ名を信じた人には、神の子となる権利を授けた。それは、血統ではなく、肉の意ではなく、人の意ではなく、ただ神によって生まれた人々である」(ヨハネ1・12-13)とのべられている通りである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 66, a. 1 参照。

6 秘跡としての洗礼

洗礼の本質を説明するための表現はいろいろあろうが、しかし教うべき点は、この秘跡が主のご制定による(マテオ28・19)おごそかな言葉を必然的にともなう洗い清めによって授けられるということである。それは教父たちが常に教えたところであり、また聖アウグスチヌスが最も明白に証言しているところである。すなわち彼は「言葉は要素に合わされ、しかして秘跡が存在する」といっている。(1) この点について信者たちが、普通一般に誤っていわれているように、洗礼盤の中に入れてある洗礼水そのものが秘跡であると信じることのないように細心の注意をもって教えねばならない。実際には、ある人に水をそそぐと同時に主のご制定による言葉をのべるにも多くの聖書からの証明を見いだすことができる。秘跡一般に関する説明のところでいったように、秘跡はすべて質料と形相とから成り立っている。それゆえ司牧者はつぎに洗礼の質料と形相とについて教えねばならない。

訳注
(1) S. Augustinus, tract. 80 in Joan.

7 洗礼の質料について

この秘跡の質料あるいは要素は自然水であって、海水、河川沼の水、井戸や泉の水など、何の形容もなしにただ水といえるものすべてである。(1) 救主は「まことに、まことに私はいう、水と霊とによって生まれない人は、天の国にははいれない」(ヨハネ3・5)とおおせられている。聖パウロは「水をそそぐこととそれにともなう言葉とによって教会を清め、聖とする」(エフェゾ5・26)と教え、また聖ヨハネはその第一の書簡において、「地において証明するのは三つ、霊と水と血である。この三つは一致する」(ヨハネ一書5・8)と書いている。またそのほかにも多くの聖書からの証明を見いだすことができる。(使8・16、10・47、ヘブライ10・22)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, can. 2; Sum. Theol., III, q. 66, a. 4 参照。

8 聖マテオ聖福音書中の火の洗礼とは何か

洗者聖ヨハネは、「私は、あなたたちの悔い改めのために、水で洗礼を授けるが、私の後でおいでになる方は、私よりも勢力のある方で、私はその方のはきものをもつ値打ちさえもない、彼は聖霊の火とによって、あなたたに洗礼をお授けになるだろう」(マテオ3・11)といっている。しかしこれは決して洗礼の質料と解すべきものではない。それはあるいは聖霊の内的働き、あるいは聖霊降臨の日に示された奇跡すなわち聖霊が火の形で使徒たちの上に天から降った(使2・3)奇跡をさしていると解すべきである。主キリストは「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたたちはまもなく聖霊で洗礼を受けるだろう」(使1・5)とそのことを預言されたのであった。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, can. 1参照。

9 旧約における洗礼の表象

主が同様に表象や預言者の托宣をもって洗礼を示されたことは聖書の中に見られるとおりである。たとえば「人の悪が地上にはびこり、あらゆる心の思いが絶えず悪いことにばかり傾いた」(創6・5)ので地を清くするために用いられた洪水(創6・17)が、洗礼の水の象徴であり表象であったことは、聖ペトロがその第一の書簡において証言しているところである(ペトロ前3・21)。また聖パウロはコリント人にあてた手紙において紅海の渡渉としょうは同じような意味をもつと教えている(コリント前10・1)。そのほか、詳しいことははぶくが、シリアのナアマンの洗身(列下5・14)やヨハネ福音書中の羊門の泉の奇跡的な力(ヨハネ5・2)、その他この種の多くの事の中にこの奥義のかたどりを容易に認めうる。また預言の部の中にも明らかな表象が見られる。預言者イザヤが、非常な熱情をもって、すべて渇いたものをよびよせた水(イザヤ55・1)、エゼキエルが神殿から出ているのを霊において 見た水(エゼキエル47・2)、また罪人と月のものの中にある女を清めるものとしてダヴィドの一族およびエルザレムの住民たちのために用意されたとザカリアが告げているあの泉(ザカリア13・1)は、洗礼の救いの水を象徴し、かつ示していたのである。

10 なぜことさらに水を用いるのか

洗礼に水を用いるということが、どれほどこの秘跡の性質および力を示すに適しているか、聖ヒエロニムスはオチェアヌスヘの書簡の中で多くの理由をあげて説明している。(1) しかしここでは、司牧者は信者たちにとくにつぎのことを説明せねばならない。まずこの秘跡は、永遠の生命をえるために例外なくすべての人に必要であるところから、その質料としてどこでも見いだされ、きわめて容易にえられる水を選ばれたことは真にふさわしいということである。それに加えて、水は身体の汚れを洗うところからして、罪の汚れを消すというこの秘跡の効果を非常によく表わしている。最後に水は、物体を冷やす特性をもっているが、人は洗礼の水によってその情欲の激しさを大方消してもらうのである。(2)

訳注
(1) S. Hieronymus, ep. 85 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 66, a. 3 参照。

11 なぜ水に聖香油を加えるのか

緊急の授洗のためには天然の、混じりけのない水で十分であるが、しかし盛式に授ける場合の洗礼水には自然水に聖香油が加えられている。これは使徒たちからの伝承によって常にカトリック教会において守られてきたことで、さらにいっそうよく洗礼の効果を表わしている。また緊急の場合には、秘跡が必要としているような水であるかどうか疑わしい水でも用いることができるが、たとえその場合でも自然水以外のもので授けられた洗礼は無効であるということを明確に知らせねばならない。

12 信者はみな洗礼の形相を知っておくべきこと

洗礼を形成する二つの事柄の第一すなわちその質料について説明したのち、司牧者は同じ熱心さをもって秘跡の第二の、絶対に不可欠な部分である形相について教えねばならない。なぜならかほどに聖なる奥義に関する知識は、それ自体、神の事柄の知識が通常もたらす大きな喜びを信者たちに与えるだけでなく、とくにその知識はほとんど日常の必要事だからである。それゆえこの部の説明においてはそれ相当の配慮と熱心さが要求される。実際、あとでもっと詳しく説明するように、信者の中のあるものは、往々にして普通の婦女子でも、洗礼を授けねばならないことがしばしばおこりうる。そのため信者すべてに例外なく、この秘跡の本質を構成するすべての事を正確な方法で教えておく必要があるのである。