司教協議会へ嘆願書を提出しました(7/17 着)

ローマ公教要理 秘跡の部 第一章 25-32 | 執行者の不相応、秘跡の効果

 秘跡の部 目次

第一章 秘跡一般について

25 執行者の不相応は秘跡の効力に関係しない

さてこれらの執行者は、その聖なる職能の行使にあたって彼ら自身のことではなく、キリストの役割を果たすのであるから、彼らが善人であれ、悪人であれ、キリストのご制定によってカトリック教会が常に用いている質料と形相とを用い、また教会自体がその執行においてなしていることをしようという意向さえもっているならば、真の秘跡を執行し授けるのである。それゆえ秘跡を授かるものが自分でこれほど偉大な善を拒み聖霊に反抗することをしないかぎり何ものも恩寵の実を妨げえないのである。(1) これが常に教会の明白な信仰であったことは、聖アウグスチヌスのドナトゥス派に対する論争においてきわめて明瞭に証明されている。(2)

また聖書の証言として使徒聖パウロのつぎの言葉に耳を傾けよう。彼は「私は植え、アポッロは水をそそいだ。しかし成長させたのは神である」(コリント前3・6)といっているが、ちょうど木が植えるものの悪徳のために少しも害を受けないのと同じく、罪ある人の手によってキリストに合体させられた人をも、この他人の罪過のためになんらの霊的損害を受けえないのである。たとえば、聖ヨハネ福音書をもとに聖父たちが教えているように、イスカリオスのユダは多くの人々に洗礼を授けた。しかしそれらの人々のうちだれも、洗礼を受けなおしたいということは、どこにも記されていない。それは聖アウグスチヌスに、つぎのような有名な一文を書かせている。「ユダは洗礼を授け、ユダのあとに決して洗礼を授けなかった。ヨハネもまた洗礼を授け、そしてヨハネのあとで洗礼を授けた。それは、ユダが授けた洗礼はキリストの洗礼であったのに対し、ヨハネが授けたものはヨハネの洗礼であったからである。もちろんわれわれはヨハネによる洗礼以上に、ユダによるイエズス・キリストの洗礼のほうを当然、重んじるのである」と。(3)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, can. 11, 12; Sum. Theol., III, q. 64, a. 5 参照。
(2) S. Augustinus, cont. Crescent. lib. 5, cap. 20 参照。
(3) S. Augustinus, tract. 2 in Joan. 参照。

26 汚れた良心を持ちながら秘跡を授けることについて

しかしこういったからといって、司牧者および秘跡の執行者は、良心の清さや生活の潔白さをあと回しにし、秘跡の授与にあたっての典式を規定どおり守りさえすれば十分であると考えてはならない。確かにこの点は注意深く配慮すべきではあるが、しかしこの聖務に関するすべてを含んではいないのである。秘跡は内包する神的力を決して失わないが、しかし汚れた良心をもってそれを授けるものには死と永遠の不幸をもたらすということを常に忘れてはならない(列上16・7、歴上13・9-10)。再三再四繰り返しいってもいい過ぎることはないが、聖なる事物は清くまた深い信心をもって取り扱わねばならない。(イザヤ12・11) 預言者ダヴィドの詩編にはつぎのようにある。「しかし主は悪人に語られる、なぜ潜越にも私の掟をのべ、私の契約を口にするのか」(詩50・16)と。罪に汚れた人に神のことを語ることさえ許されないとするならば、多くの罪を意識し、なおそれでも不浄の口で聖なる奥義を繰り返し、汚れた手にとり、触れ、人に与え、授けることを恐れないものはどれほど大きな罪を犯すことであろうか。聖ディオニジウスが「悪人は象徴(彼は秘跡をこうよんでいる)に触れることすら許されない」と書いているとおりである。(1) それゆえ秘跡の執行者は聖なる奥義の度重なる執行や授与によって、神の御助けのもとに日をより豊かな恩寵を授けうるため、何よりもまず聖性を身につけるよう、秘跡の授与に際しては清くあるよう、また信心を増すよう励むべきである。

訳注
(1) S. Dionysius, de Eccl. Hieros. cap. 1 ; Sum. Theol., III, q. 64, a. 6 参照。

27 二つの主な効果について

以上のことを説明した後で、秘跡の効果について教えねばならない。なぜなら、それによって前述した秘跡の定義がいっそう明確になるであろうから。秘跡の効果はとくに二つあげられる。その中で主となるものはもちろん、教会博士たちが成聖の恩寵とよびならわしている恩寵である。使徒聖パウロが「キリストが教会を愛し、そのために命を与えられたように、あなたたちも妻を愛せよ。(キリストが命をすてられたのは)水をそそぐこととそれにともなう言葉によって教会を清め、聖とするためである」(エフェゾ5・25-26)といって、きわめて明白に教えているその恩寵である。しかし実際に、どのようにしてこれほどの奇しき、驚くべきことが秘跡によって行なわれるのであろうか。聖アウグスチヌスがいみじくもいっているように、「水は身体を洗いそして心を清める」というようなことがどうしておこりうるのであろうか。(1) それは人間の理性および理解力によっては把握できないことである。なぜなら感覚的なものはすべて、その本質からして、霊魂にまで入りこむ力をもたないということは不動の原則だからである。しかしわれわれは信仰の光によって、自然的なものが自力によってなしえないことをなし遂げる全能の神の御力が、秘跡に内在していることを知っている。(2)

訳注
(1) S. Augustinus, tract. 80, in Joan.
(2) Conc. Trid., sess. 7, can, 6-8; Sum. Theol., III, q. 62, a. 1, 2, 5 参照。

28 初代教会に見られる秘跡の効果

それゆえ、信者たちが秘跡の効果に関して疑惑をいだいたりすることの決してないように、かぎりなく慈悲深くまします神は、秘跡の授与をはじめられるにあたって、秘跡が心の中に及ぼす効果を奇跡の表示によってお示しになった。すなわち秘跡の効果は感覚には深く隠されていても内的には実際にもたらされるということをわれわれに納得させようと望みたもうた。多くの例をあげることはさけるが、救い主がヨルダン河で受洗された時、天は開け、神の霊が鳩の形で現われた(マテオ3・16、マルコ1・10、ルカ3・22)。これはわれわれが救いの水によって洗われる瞬間に恩寵がわれわれの霊魂の中に注入されることを知らせるものである。しかしこれは秘跡の授与というよりもむしろ、洗礼の意味に関することであるからそのままにしておこう。それにしても聖霊降臨の日に、使徒たちが信仰を宣布しキリストの御栄えのために危険をおかす勇気と力とを与える聖霊を受けた時、突然、天から激しい風が吹いているような音が聞こえ火のような舌が表われ、分かれて、各友の上にとどまったということが記されている(使2・2-3)。このことからして、堅信の秘跡においては肉と世間そしてサタン、すなわち、われわれの永遠の敵に対して勇敢に抵抗し反対するための同じ聖霊とその力とが与えられるということがわかる。このように教会の誕生の時代には、秘跡に対する信仰が十分に固められ強められるまでかなり長い間使徒たちがこの秘跡を授ける度ごとにこの種の奇跡が繰り返されていたのであった(使8・17、19・6)。

29 新約の秘跡は旧約のそれにまさる

それゆえ、成聖の恩寵という秘跡の第一の効果に関して以上のべたところから、新約の秘跡が、かつて旧約の秘跡がもっていたよりもすぐれた、より大きな効力をもっていることが明白に認められる。旧約の秘跡は弱い不完全な要素(ガラチア4・9)であって、汚れたものを霊魂においてではなく肉体において清めていたのであり(へブライ9・13)ただわれわれの今日の奥義によってなされることの単なるしるしとして制定されていたのである。しかし永遠の聖霊によって、汚れのないご自分を神にささげられた(へブライ9・14)キリストの脇腹から生じた新約の秘跡は、活きる神に奉仕させるためわれわれの良心を死の業から清めるのである。すなわちこれらの秘跡はその意味する恩寵をキリストの御血の力によって効果づける。それゆえこれを昔の秘跡と比較してみると、新約の秘跡はより大きな効力をもつということに加えて、その中により豊かな結果、より高い聖性を見いだすのである。

30 三つの秘跡によってしるされるしるし(character)

秘跡の第二の効果はすべての秘跡に共通のものではなく、洗礼、堅信、叙階の三つだけに生ずる。それは、霊魂にしるされるしるし・・・(character)である。(1) 使徒聖パウロは、「神はわれわれに油をそそいだ、神はわれわれの上に判をおし、われわれの心に手金として霊をお与えになった」(コリント後1・21-22)とのべ、この「判をおし」という言葉によって、あるものを示し知らせる特徴をもつしるし・・・(character)を明示している。実際にこのしるし・・・は霊魂に刻まれ決して消えることなく永久に残る紋章のようなもので、聖アウグスチヌスはこれに関してつぎのように書いている。「キリスト教の秘跡は、兵士たちにしるされる有形のしるしよりも弱いといえようか。しかしながらこのしるしは一度武器をすてた兵士が軍隊に復帰したとしても、また新しくしるすことはない。ただ前のしるしを認め、それを承認するだけである」と。(2)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 7, can. 9; Sum. Theol., III, q. 63 参照。
(2) S. Augustinus, lib. 1, cont. epist. Parm. cap. 18 参照。

31 しるし(character)の効果について

このしるし・・・は、信者を、聖なるものを授かりあるいは果たすにふさわしいものにし、また他のものから区別する標識となる。実際洗礼のしるしには、この二つの効果が共に見られる。(1) すなわち一方ではわれわれを他の秘跡を受けるにふさわしいものとし、他方、信者を信仰をもたない未信者から区別している。同じようなことは堅信と叙階のしるし・・・についてもいえる。前者はイエズス・キリストの兵士として、そのみ名を公言し擁護するために、またわれわれの心の内なる敵に対し、また天空にある悪霊(エフェゾ6・12)に対して戦うために、われわれを武装させ用意させる。またそれと同時に新たに生まれた嬰児のような(ペトロ前2・2)新受洗者から区別する。叙階の秘跡のしるし・・・は、秘跡を執行し授ける権能を与え、またその権能を帯びたものと信者たちとの区別を示す。それゆえこれら三つの秘跡がしるし・・・を与えること、そして決して再授さるべきでないということはカトリック教会の不易ふえきの真理として信ずべきである。以上が大体秘跡に関して教えるべき事柄である。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 63, a. 2 参照。

32 秘跡の利用を勧める理由

これらの説明にあたって、司牧者たちはとくにつぎの二点をめざして全力を尽くさねばならない。その第一は、この神的かつ天来の賜物がどれほどの賛美、敬意に値するものであるかということを信者たちにさとらせることであり、第二は、すべての人の救霊のためにかぎりなく慈悲深い神が準備したもうたこれらの賜物を、熱心に信心をもって利用するように信者たちを導き、とくに悔俊、聖体の秘跡のきわめて有効な利用をしばらくの間でも欠かすことを、彼らの霊魂にとって非常に大きな損失とみなすほど、キリスト教的完徳への望みを燃えたたせることである。これらのことは、われわれが秘跡の神聖さと効用についていままでのべたこと、すなわち秘跡が、最高に完全なものしかなしえたまわない救い主によって定められたこと、秘跡が授けられる時には聖霊の全能の力がわれわれの心の底にまで入って働きたもうこと、また秘跡が霊魂を癒すために霊妙かつ確かな効能をもっていること、主キリストのご苦難の無限の宝をわれわれに伝達するものであることを信者に繰り返し教えることによってより容易になしとげられるであろう。最後にキリスト教という建物は、「角の親石」(ペトロ前2・6)というゆるぎない土台の上に建てられているとはいえ、神のみ言葉の宣布と秘跡の利用とによってささえられないかぎり、大破損をまぬがれないことを深く恐れるよう教えねばならない。なぜならわれわれが霊的生活に受け入れられるのは秘跡を通してであり、それと同じくわれわれが養われ、成長し続けていくのもこの食物としての秘跡によるからである。