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ローマ公教要理 秘跡の部 第五章 25-36 | 痛悔は感情とは別、痛悔のために特に必要なもの、痛悔の効果

 秘跡の部 目次

第五章 悔悛の秘跡 〔(告解の秘跡、ゆるしの秘跡)〕

25 痛悔とは罪をいみ嫌うことである

 いま問題となっている、罪に対する嫌悪は痛悔ともよばれるが、それは悲しみの激しさを表わすために最も適した名称である。物体を石あるいは他の、より固い物体で打てばこなごなになるように、痛悔という言葉は、高慢によってかたくなにされたわれわれの心が痛悔によって打ち砕かれることを意味している。それゆえ痛悔という語はただ神の恩寵および無垢の喪失をわれわれに感じさせる悲しみにだけ用いられ、決して親や愛児の死、またはその他の災禍によってもたらされる他の悲しみのためには用いられない。

26 痛悔のその他の名称について

 罪に対する嫌悪はまた、他の名称によっても表わされている。ある時には、「心の痛悔」とよばれている。それは聖書が心をしばしば意志と見なしているからであり(創6・9、ヨブ1・5、詩4・3、19・5、マテオ15・18)、また心臓が身体の運動の源であるのと同じく、意志が霊魂の他のすべての能力を規制し、支配するからである。教父たちは痛悔を「心の悔恨」とよび、痛悔に関する著作の中では好んで「心の悔恨について」と書いている。(1) それは膿を出すためにメスで潰瘍を開くように、罪の致命的な膿を排除するために、いわば痛悔のメスをもって心を開くからである。それゆえ、預言者ヨエルは、痛悔を「心を裂くこと」とよんでおり、「あなたは、心をあげて、私に立ち戻れ、断食、涙、嘆きをもって、そして心をひき裂け」(ヨエル2・12-13)と言っている。

訳注
(1) S. Joannes Chrysostomus, de compunctione cordis; S. Isidorus, de summo bono, lib. 2, c. 12 参照。

27 痛悔のあり方について

 犯した罪に対する悲しみは、より以上のものを考えることができないほどに最高かつ最大のものでなければならない。このことはつぎの考察によって容易に示すことができる。すなわち完全な痛悔は、子としての恐れからくる愛の行為であるから痛悔と愛が同じ方法によることは明らかである。そしてわれわれが神を愛する愛は、最大の愛であるから、痛悔もまた最も激しい霊魂の悲しみの伴うのが本当である。また神は最高に愛すベきおかたにましますのであるから、その神からわれわれを遠ざけるものもまた最高にいみ嫌らわれるはずのものである。

 それに加えて、聖書も愛と痛悔との激しさを表わすために両方に同じ表現を用いている。たとえば愛について聖書は「心をつくして主なる神を愛せよ」(申6・5、マテオ22・37)と言い、痛悔に関しては、主は預言者ヨエルの口を通じて「心から私に立ち戻れ」(ヨエル2・12)とよびかけておられる。

 また、神が愛すべき善の中で最高の善にましますとすれば、罪は人間が嫌悪すべき悪の中で最大の悪である。従って神が至高に愛せられるべきお方であることをわれわれに認めさせるその理由は、また罪に対して至高の憎悪を抱くことをわれわれに義務づけるのである。主はつぎのみ言葉をもって神に対する愛はすべてのものに先立つべきであり、生命を保つためにさえ罪を犯すことは許されないことを教えられた。「私よりも父や母を愛する人は、私にふさわしくなく、私よりも息子や娘を愛する人もふさわしくない」(マテオ10・37)と。さらに「自分の生命を救おうと思う人はそれを失い、私のために生命を失う人はそれを受けるのである」(マテオ16・25)と。さらに、「神を愛する尺度は、尺度なく愛することである」(1)という聖ベルナルドの言葉どおり、愛には限界がないように、罪に対する嫌悪も限りがないことに注意すべきである。

 罪に対するこの嫌悪は、ただ最高であるだけでなく、非常に激しく、そこからして完全なもので、無気力、怠慢を決して含んでいてはならない。申命記には「あなたは、自分たちの神である主を捜し求め、見つけることだろう。心をつくし、魂をつくして主に立ち返るという条件のもとに」(4・29)と書かれており、エレミア書には「あなたたちは私を捜し求めそして私に見いだす。あなたたちが、心をあげて私を捜し求めるからである。私はあなたたちに姿を表わす、と主は言われる」(29・13-14)とある。

訳注
(1) S. Bernardus, lib. de diligendo Deo, circa medium.

28 痛悔は感情とは別である

 しかし、痛悔はたとえいまのべたように完全でないものも、真のそして有効な痛悔でありうる。というのはしばしば感覚的なものが精神的なものよりも、より強い印象を与えるのが普通で、たとえばかなり多くの人は罪の醜さよりも子供の死に対して深い悲しみを感じる。(1) 涙は悔悛において非常に望ましく勧むべきことではあるが、深い痛悔に必ずしもそれが伴わないのはこの理由による。このことに関する聖アウグスチヌスのつぎの言葉は有名である。「霊魂から離れた肉体のために泣き、神から離れた霊魂のために泣かないあなたにはキリスト教的愛の情はないのです」と。(2) 先にあげた主のつぎのみ言葉の意味するところもまたそのとおりである。「のろわれよコロザイン、のろわれよベトサイダ、おまえたちの中で行なった奇跡をチロとシドンとで行なっていたら彼らはずっと前から荒布を着、灰をかぶってくい改めたことだろう」(マテオ11・21)と。このことをさらに裏づけるためには、ニニヴェ人(ヨナ3・5、マテオ12・41)、ダヴィド(サムエル後12・13、詩50・6)罪ある女(ルカ7・37、48)および聖ペトロ(マテオ26・75)など、多くの涙を流して神の御慈悲を乞い願い、罪のゆるしを得た有名な例を思い出せば十分であろう。

訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 3, a. 1-2 参照。
(2) S. Augustinus, sermo 41 de sanctis.

29 大罪は個々に痛悔すべきこと

 また信者たちに、各々の大罪についてそれぞれの痛悔の悲しみをおこすように教え、勧めねばならない。(1) エゼキアスは痛悔をつぎのように描いている。「私は御身のみ前に私の霊魂を苦しめつつ、私のすべての年を思い返そう」(イザイヤ38・15)と。すべての年を思い返すということは、心の底から罪を嘆くためにそれらを一つ一つ悔いることである。エゼキエル書には「もし悪人が犯した罪から身をひくならば、生きのびるであろう」(18・21)とあり、聖アウグスチヌスは「罪人は、所、時、事柄、人によってその罪の性質を吟味せねばならない」(2)と同じ意味のことを言っている。

訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 2, a. 6 q. 3, a. 3 参照。
(2) S. Augustinus, lib. de vera et falsa religione, cap. 14.

30 ある時には一般的な痛悔でたりること

 しかし、信者たちは、これらのことをなすにあたって、神の無限の全善と寛仁とに対する信頼を決して失ってはならない。すなわちわれわれの救いを切に望みたもう御者は、ゆるしを与えるのに決して待たせたもうことはない、それどころか神は罪人が勇気を出して罪を全般的にいみ嫌い、そして他の時にもしできれば、各々の罪を記憶に思いおこし、いみ嫌おうとの心をもって神に立ち帰るならば父親のやさしさをもって罪人を抱擁したもうのである。それゆえ、神は御自ら預言者エゼキエルを通じて「悪人でも、悪をすてるなら、その悪のために滅びることはない」 (エゼキエル33・12)とおおせられ、われわれに希望することを命じられたのである。

31 痛悔のためにとくに必要なもの

 以上のべたことからして、真の痛悔にとくに何が必要であるかが容易に推測できる。そしてこれらの必要事は、信者たちにどのようにして悔悛の徳をもつことができるかを知らせ、また彼らが完全な悔悛からどれほど遠ざかっているかを識別するための確かな規則をもたせるために、正確に教えねばならない。

 第一に必要なことは、犯したすべての罪を憎み、悲しむことである。もしただある罪だけを痛悔するならばその痛悔は偽りであり、ごまかしであって、有効な悔悛ではない。なぜなら使徒聖ヤコボが書いているように、「律法をことごとく守ってももし一つのことを犯せばその人はすべてに罪を犯した」(ヤコボ2・10)からである。

 第二に痛悔は、告白しまた償いをするという意志を伴わねばならない。この二つについては後でそれとしてのべることにしよう。

 第三は、告白者がその行ないを改めるという堅い、真剣な決心をたてることである。預言者エゼキエルはつぎの言葉をもってそれを明瞭に教えている。」もし悪人が犯した罪から身をひき、私の掟を守り、正義と公正とを実行するなら、その人は生きるので、再び死ぬことはない。彼が犯した罪はすべて忘れられるであろう」(エゼキエル18・22-21)と。またその少しあとには「悪人が犯した悪をやめ、正義と公正とをふみ行なうなら、彼は自分を救うのである。」(18・27)とのべ、さらに少し間をおいて「あなたたちが、私にそむいて犯した罪を、すべて取り除け、新しい心、新しい魂をつくりあげよ」(18・30)とつけ加えている。主キリストも同様に、姦淫している時につかまった女に「行きなさい、これからはもう罪を犯さないように」(ヨハネ8・11)とおおせられ、また池のほとりでいやされた中風者に向かって「どうだ、あなたはなおった、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ8・14)とお命じになっている。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 2, a. 3 参照。

32 痛悔には過去の罪を悲しむことと、将来への決心をたてることが必要である

 さらにものの道理からして、痛悔には二つのこと、すなわち犯した罪に対する悲しみと将来に決してそれを犯さないとの決心がとくに必要である。すなわち何かの侮辱を加えた友人と仲直りしようと思う人はだれでも、その友人に対して不正であり侮辱的であったことを悔やみ、また今後、何事においても友情を傷つけることのないように注意して慮るはずである。しかしこれら二つのことは必然的に、従順を伴わねばならない。なぜなら、服すべき自然法および神定法あるいは人定法に従うということは当然なことだからである。それゆえもし告白者が暴力あるいは欺瞞によって他人から何か奪ったものがあるならばそれを返し、また同様に言葉や行ないをもってある人の品位を侵害したものは、その人への奉仕または善業によって償わねばならない。聖アウグスチヌスの「罪は奪われたものが返されないかぎりゆるされない」(1)という言葉は周知のところである。

訳注
(1) S. Augustinus, 6, epist. 54.

33 ゆるされようと思うならまずゆるすべきこと

 しかし、痛悔のために必要な事柄の中で不要なものとしてなおざりにしてならないことは、他人から受けたすべての不義を消しゆるすということである。救い主は、それについてつぎのように注意され、教えておられる。「あなたたちが他人の過失をゆるすなら、あなたたちの天の父も、あなたたちをゆるしてくださるであろう。しかしあなたたちが他人をゆるさなかったら、父もゆるしてくださらないであろう」(マテオ6・14、18・33、マルコ11・25)と。

 以上が信者たちが痛悔において守らねばならないことである。司牧者はこれらのことから痛悔をより完全に、より絶対的なものとするための他の心構えを容易に引き出しうるであろう。しかし、それら補足的心構えを真の、かつ有効な悔悛に不可欠のものと考えてはならない。

34 痛悔の効果について

 ところで司牧者は信者たちに救霊に関する事柄を教えるだけで十分だと考えてはならない。それに加えてあらゆる配慮と努力とをもって信者たちに彼らに定められた通りにその生活と行ないとをさせるよう努むべきである。そのために、しばしば痛悔の力や効果を説明することはきわめて有益であろう。というのは、多くの他の信心業たとえば貧者に対する慈善、断食、祈り、その他このような聖にしてかつすぐれた業はそれらをなすもののあやまちによって時として神からしりぞけられることがあるが、痛悔は確かに神にとって快く、よみせられないことは決してないからである。預言者ダヴィドが「神は痛悔しへりくだる心を軽んじたまわない」(詩50・19)と言っているとおりである。

 それどころかわれわれが心の中にこの痛悔を抱くやいなや神は直ちに罪のゆるしを与えたもうのである。同じ預言者はこのことを他の箇所でこういっている。「私は言った『主に罪を告白しよう』そしてあなたは私の罪とがをゆるされた」(詩31・5)と。また主から司祭たちのところにおくられ、そこに到着する前に癩病からいやされた十人の癩病者の中にこの真理のかたどりを見ることができる。そこからしていままでのべてきた真の痛悔が、主から直ちにすべての罪のゆるしをかち得るほどの大きな力をもっていることが理解できる。(1)

訳注
(1) Sum.Theol., suppl., a. 5 参照。

35 痛悔を増すためには

 信者たちに痛悔をおこす方法を教えることは彼らの心を刺激するのに非常に効果的であろう。すなわち彼らに、しばしば良心を糾明し神によってまた教会の掟によって命じられたことを忠実に守ってきたかどうかを吟味するよう勧めるべきである。そしてもしだれかが、自分はある過ちを犯していると認めたならば直ちにそれを告白し、へりくだって神にゆるしを求めるよう、また告白し償いをするための時間を乞い願うよう、とくに犯したあとを深く悔やんでいるこの同じ罪にふたたび陥らないための恩寵の助けを願うように教えねばならない。

 最後に司牧者は信者たちに、われわれにとって最大の恥辱と不名誉となり、また最悪の不幸と損害をもたらす罪に対する深い憎しみを抱かせるよう努力すべきである。実際罪は、われわれに最大の善を授け、さらにそれ以上の善を約東し求めさせてくれる神のご好意からわれわれを遠ざけ、そして永遠の死、終わりなき責苦、無限の罰に処するのである。

36 告白の必要について

 これまで痛悔についてのべてきたが、つぎに告解の秘跡の第二の部分、告白にはいることにしよう。司牧者がこれを説明するにあたってどれほどの配慮と正確さとをもってすべきかは、ほとんどすべての熱心な信者が、今日教会の内に神の大いなるお恵みによって聖性、敬虔さ、信仰が保たれているのは大多分に告白のおかげによると確信していることによってもわかる。人類の敵が不義の使いや仲間を利用してカトリックの信仰を根本から破壊しようとして、このいわばキリスト教的徳の城砦を全力をあげて攻撃したことはなんら驚くにあたらない。

 それゆえ、まず告白の制定がわれわれにきわめて有益であったばかりでなく、必要でさえあったことを教えねばならない。というのはすでに確認したように痛悔によって罪は消されるのであるが、しかしそのためには犯した罪の大きさに等しくつりあうほどの悲しみを伴う激しく強い熱烈な痛悔でなければならぬことはすでにのべたとおりである。しかし少数のものしかこれほどの段階に到達しえず、従ってこの方法によって罪のゆるしを得られる人もまたきわめて少ないということになる。そこでいともあわれみ深い主がより容易な方法をもってすベての人々の救霊に備えたもうたのは当然といえる。そしてそれは教会に天国の鍵を与えるという感ずベき決定によって実現されたのである。(マテオ16・19、18・18、ヨハネ20・3、21・15)(1)

訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 6, a. 1 参照。