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ローマ公教要理 秘跡の部 第八章 1-12 | 婚姻とは何か、婚姻の制定者、婚姻の秘跡は非解消、婚姻の義務はなし

 秘跡の部 目次

第八章 婚姻の秘跡

ジャン・ポール・ラベル 河井田研明 共訳

1 なぜ主任司祭は、キリスト信者が婚姻の本質と聖性とを知るように注意深く配慮しなければならないか

 司牧者にとって最大の希望が信者の幸福と完徳をはかることにあるとすれば、「私の望むところは、あなたたちすべてが私のようになることである」(コリント前7・7)とコリント人に書き送った使徒聖パウロの望みこそ、それであるに違いない。すなわちこれは、みなが貞潔な生活を送るように希望するとの意である。実際この世においては、信者にとって現世の憂いから解放され、情欲を緩和し、これを制して信心と天国のことに潜心する霊魂をもつこと以上に大きな幸福はないであろう。けれども同じ使徒は「人はそれぞれ神から賜を受けている。ある人はこれを他の人はそれをというように」(コリント前7・7)とも言っている。第一、婚姻には種々の大きな天の賜がともなっているので、カトリック教会はこれを秘跡の中に数えているのであり、主は婚宴にあずかることを望みたもうたのである。司牧者が信者に対し、婚姻について教えなければならない理由はここにある。とくに聖パウロや、使徒の頭である聖ペトロがその著作の多くの箇所で、婚姻の尊厳性についてばかりではなく、その義務についても詳細に書きしるしているところをみれば、このことはさらによく理解されるであろう。聖霊の神感を受けた両使徒は、信者が婚姻が聖なるものであることを知り、かつこの聖なる身分、状態を汚れなく保つならば、いかに大きな利益がキリスト教会に及ぶものであるかということをよく理解していたし、さらに彼らは、この点に関する無知とあやまちとがいかに教会に害を与えるものであるか、そしてまたいかにそれが教会の上に最大かつ最も多くの墜落をもたらすものであるかを予測し得たのである。ここでまず婚姻の本質と特性についてのべよう。悪徳はしばしば美徳の外見の下にかくされている。したがって信者も婚姻のもっている外面的な偽りの姿にまどわされて、そのため恥ずべき劣情によって自分の霊魂を汚すことのないように注意しなければならない。

 けれどもこれについて説明する前にまず婚姻という言葉のもつ意味を考えてみなければならない。

2 婚姻の種々なる名称について [1]

 婚姻はラテン語でマトリモニウム(Matrimonium)と呼ばれるが、これはマーテル(Mater)という語からきたものである。というのは、母はとくに母となるために結婚するからである。あるいはこれはマートリス・ムーヌス(Matris munus)すなわち母としての任務という語からきたものである。というのは母の任務は、その子を宿し、これを生み、これを教育することにあるからである。

 また婚姻は、コンユジウム(Conjugium)すなわち夫婦の結合ともよばれるが、これは合法的な妻、軛によって夫に結びつけられているようなものだからである。(1)

 最後に、婚姻はヌプシェ(Nuptiae)ともよばれる。これは「ヴェールを被る」の意である。聖アンブロジウスによれば、それは結婚する若い娘がつつしみのためにヴェールを被るからであるという。(2) また妻は、このヴェールを被る習慣によって、その夫に対して尽くさねばならない服従と従順との徴としようとしているようにも思われる。


(1) S. Augustinus, lib. 19 contra Faustinum, cap. 26; P. L. XLII, col. 365.
(2) S. Augustinus, lib. 1, de Abraham, cap. 9 in fine; P. L. XIV, col, 454, n. 93.

訳注
[1] Sum, Theol., Suppl., q. 44, a. 2.

3 婚姻とは何か [1]

 ここでほとんどの神学者が一致して婚姻に与える定義をのべよう。すなわち婚姻とは、生涯継続するところの、合理的な男女当事者間の夫婦としての結合である。

 この定義の含むすべての部分をよりよく理解するためには、司牧者は次のこと、すなわち完全な婚姻には当事者間の内的な同意、言葉で表示された外的契約、契約から生ずる義務ときずな、婚姻を既交婚となす関係という諸条件が必要であることを教えなければならない。この中で婚姻の本質と本性とを示すものは、ただ「結合」という言葉によって表わされる義務ときずなのみである。ここで「夫婦としての結合」という言葉を使うのは、金銭あるいはその他の何であれ、婚姻以外の関係における相互援助を義務づける男女間の契約は、婚姻の契約とは異なるものだからである。

 つぎに「合法的な当事者間の」という語句が出てくる。なぜなら法によって禁じられた人は婚姻を結ぶことができないからであり、彼らの結んだ婚姻は有効なものとはならないからである。四等親以内の血族間においてあるいは、男子十四才、女子十二才の法定年令に達しないものの間においては、婚姻は合法、かつ有効に成立しえない。[2]

 定義にはさらに、「生涯継続するところの」という語句が加えられている。これは夫と妻とを結びつけるきずなの不解消性を表わしている。

訳注
[1] Sum. Theol., q. 44, a. 1, 2, 3; Sum. Contra Gentiles, lib. III, cap. 124.
[2] 今日〔旧〕教会法では、カノン一〇七六、§1で直系血族間の、§2で傍系三親等内の婚姻を無効としている。またカノン一〇六七 §1は法定年令を男子十六才、女子十四才に定めている。

※ サイト管理人注: [2] 現行の教会法では、第1091条第1項で直系血族間の、第2項で傍系4親等内の婚姻を無効としています。第1083条第1項における法定年令を男子満16歳、女子満14歳とする規定は旧教会法から変更なしです。

4 婚姻の本質は根本的にはどこにあるか [1]

 したがって、婚姻の本質自体がいまのべられたきずなの中にあるということは明らかである。ところで若干の有名な神学者たちが「夫婦結合は男女の同意の中にある」という時、彼らは婚姻の本質は同意であると主張しているようにみえるが、実はこれは同意が婚姻成立の与件であるということを言っているのである。これはフローレンス公会議(エウゼニオ四世)に出席した教父たちの教えたところであった。実際、同意がなく、協約がないところには、いかなる義務も、いかなるきずなも生じないからである。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl. q. 45, a. 1 参照。

5 婚姻のためには、いかなる同意が必要であるか。またそれはどのように、表明されなければならないか [1]

 しかし、この同意は現在形の言葉によって表明されることが必要である。婚姻は単なる贈与でなく、相互契約であり、したがって当事者一方の同意のみでは、この契約成立には不十分であり、当事者双方の同意が要求される。この際、相互の心からの同意を表わすために言葉が必要となることは明らかなことである。もし、婚姻が純粋に内的な同意によって成立しうるものとすれば、あるいはその成立にいかなる外的徴をも必要としないものだとすれば、たとえばつぎのような例が生じてくるであろう。すなわち非常に遠く離れ、かつ異なった国に住む二人の人間が、結婚する意志をもちさえすれば、二人の間にはこの時から、婚姻が現実的に成立することになり、手紙によって、あるいは仲介者によって、彼らの一方がその意志を他方に知らせる前にすでに現実的、かつ堅固な婚姻が存在することになる。これは理性にも、教会の慣習にも、教会の規定にも反することである。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl. q. 45, a. 46, 47 参照。

6 未来形で表明された相互同意は、婚姻を成立させない [1]

 しかしながら、さらに重要なことは、この相互同意が現在形で表現されなければならぬということである。同意が未来形でなされれば、それは単に婚姻を約束するにとどまり、決してそれを成立させるものとはならないからである。第一、未来に属するものは、まだ存在しないものであり、堅実性、安定性をほとんどもたないか、あるいはまったく有しないと考えなければならないからである。したがって、ある女と結婚を約束しただけのものは、彼女に対して婚姻に関する諸権利をまだ決して得ていない。なぜなら彼はこの約束を果たしていないからである。一たび交わされた約束は直ちに果たさなければならぬということはない。しかしそれを果たさねば、彼は自分のいった言葉を守らないという罪を犯すことにはなる。

 婚姻の契約によって一度他の人間に結び合わされたものは、今後たとえ、彼がこの契約の交換を後悔した場合でも、最早この契約に変更を加えたり、無効にしたり、廃棄したりすることはできない。それゆえ、婚姻の義務は単なる約束ではない。それは男と女とが互いに自分の身体を与え合う真の譲渡である。したがってこの譲渡は現在形の言葉で表現されなければならない。そしてこの言葉は夫婦を解消できない関係に結びつけるものであるから、永久的にその効力をもつ。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 45, a. 3 参照。

7 もし慎みの余り、あるいはその他の障害によって同意が言葉で表明されない場合には、(承諾の)徴や、うなずきによってこれに代えることができる [1]

 ただしこの言葉は、当時者の内的同意を明白に表わす徴や、うなずき・・・・によってこれに代えることができる。たとえば、若い娘がつつしみの余り、何もこたえず、その両親が彼女に代わってその面前で語るような場合には、沈黙していてもさしつかえないのである[2]

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 45, a. 2 参照。
[2] 現在は、当事者(配偶者)が話しうるかぎり、言葉で同意を明示すべきであるとされているが(カノン一〇八八)、うなずき・・・・による同意の表現も本人がこれをおこなうかぎり有効とされている。けれども他人が本人に代わって同意を表明することは許されていない。

※ サイト管理人注: [2] 現行の教会法の第1104条においても、旧教会法第1088条と同様の規定となっています。

8 真の婚姻を成立させるためには、肉体的結合を必要としない [1]

 主任司祭はいままでのべられてきたことから、信者につぎのことを教えなければならない。すなわち婚姻は本質的には、配偶者二人を結びつける義務、あるいはきずなの中に存すること、いまのべられたような形で同意が表明されるならば、それは真の婚姻を成立させるに十分であり、この他に身体的結合を必要としないことこれである。教父たちによれば、人祖は、罪を犯す前、すなわち肉体的結合を結んでいなかった時も、実際に婚姻において結ばれていたことは確かであるという。それゆえ教父たちは、婚姻は肉体的結合の中にではなく、当事者双方のとり交す同意の中にあると主張する。この教義は聖アンブロジウスが、その著「童貞性について」(1)の中で繰り返しているところである。


(1) S. Ambrosius, De Institutione virginis, cap. 6; P. L. XVI, col. 311-317.

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 46, a. 2 参照。

9 婚姻の二重の性格について [1]

 以上を説明した後では、婚姻が二重の性格をもっていることに注意を向けさせねばならない。つまり婚姻は自然的結合と考えることもできる。そしてこの秘跡としての性格は、単なる自然的なものとしての性格よりも優れた、超自然的効果を生ずる。恩寵は自然を完成するものだからである。(「霊的なものが先にあるのではなく、むしろ動物的なものが先にあって、霊的なものは後にあるのである。」(コリント前15・46))

 論理的順序に従い、われわれは婚姻はまず、それが自然にもとづいて制定され、自然的義務を生ずるものとしてとりあげ、つぎにそれを秘跡としてとりあつかいたいと思う。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 41, q. 42 参照。

10 自然的面からみた婚姻の制定者はだれか [1]

 信者には、まず婚姻が神によって制定されたものであることを教えなければならない。実際創世記には、つぎのようにしるされている。「神は男と女とを造り、彼らを祝福していわれた、『生めよ、殖えよ』と。(創1・27-28) なお「人がひとりでいるのはよくないことである。彼にふさわしい助け手を造ろう」(創2・18)とあり、その少し後で「アダムは自分に合う助け手を見つけなかった。すると主なる神は深いねむりをアダムの上におこされたので、アダムはねむったが、神はアダムのあばら骨を一つとり、そのところを肉でふさがれた。主なる神は人からとったあばら骨に形をつけて女につくりあげられた。それをアダムのところへ連れてこられたら、アダムはいった。『こんどこそ、これは私の骨の骨、私の肉の肉である。これを”女”と名づけよう、男から取ったものだから』[2]と。このために、男は父母を離れてその妻と合い、二人は一体となる」(創2・23-24)と書かれている。ところでこれらの言葉は、マテオ福音書における救世主のみ言葉によれば、神ご自身が婚姻の造り主であることを示している。(マテオ19・5-6)

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 41. a. 1, 3; Sum. Contra Gentiles, lib. III, cap. 122 参照。
[2] ヘブライ語では男を「イシュ」、女を「イッシヤ」という。

11 婚姻は自然的契約としても、またとくに秘跡としても解消されえない [1]

 また、神は婚姻をただ造られたというばかりでなく、トリエント公会議(1)の教えるところによればこの上に、この結合が永続的で解消することのできないきずなであることをもつけ加えられたのである。「神がお合わせになったものを人間がこれを離すことはできない」(マテオ19・6)と救世主ご自身言われている。婚姻が自然法によって、解消されえぬものだということは実に当然なことであるが、ましてそれは、秘跡でもあるから当然である。この秘跡としての性格が婚姻の自然的諸特性に最高度の完成を与えるのである。けれども、子供の教育と婚姻の他の諸目的もまた婚姻のきずなの解消とは両立しないものである。


(1) Conc. Trid., sess. 24, in principio.

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 41, a. 1; q. 49, a. 2, 3; q. 67; Sum. Contra Gentiles, lib. III, cap. 123 参照。

12 すべての人が婚姻を結ぶ義務を負っているのではない [1]

 「生めよ、殖えよ」と言われた主のみ言葉は、婚姻制度の目的を教えるためであって、すべての人に婚姻を義務として課するものではない。人類はすでに現在見られるように増加したので、いまや人間は単にいかなる法によっても女と結婚するよう強制されていないばかりでなく、かえって聖書の中で童貞であることは高く賞賛され、強くすすめられており、それは婚姻者の身分よりもすぐれたものであり、より完全で、より聖なるものとされているのである。わが主イエズス・キリストは、「これが理解できるものは理解せよ」(マテオ19・12)とのみ言葉によってこのことを教えられたのである。聖パウロはいっている。「処女たちのことについて私は主の命令を受けなかった。けれども主のあわれみにより信頼に値するものとして、私の助言をのべる」(コリン卜前7・25)と。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 41, a. 2 参照。