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ローマ公教要理 秘跡の部 第四章 49-60 | 聖体拝領によって小罪はゆるされる、聖体拝領の義務

 秘跡の部 目次

第四章 聖体の秘跡

49 聖体によって恩寵を受ける

 「恩寵と真理とはイエズス・キリストによって、われわれの上に来た」(ヨハネ1・17)のである。それゆえ「私の肉を食べ、私の血を飲む人は私におり、私もまたその人のうちにいる」(ヨハネ6・56)とおおせられた御者を清く聖なる心をもって受けるものに恩寵が与えられるのは当然である。すなわち信仰と信心の念をもって聖体を拝領するものが、神の御子を自分の中に受け奉り、いわば活きた肢体としてその御体に接木されるということは、だれも疑いえないところである。聖書にも「私を食べる人は、私によって生きる」(ヨハネ6・51)と書かれている。これについて、聖チリルスはつぎのような注釈をしている。「神のみ言葉はご自身を肉と合わせたもうことにより、その肉を生かすものとされた。それゆえ彼が、生かす祝別においてパンとブドー酒とをもって与えたもうその聖なる御肉と尊い御血によってわれわれは体に合わされることはふさわしいことであった」と。(1)

訳注
(1) S. Cyrillus, lib. 4 in  Joann. cap. 12, 14.

50 大罪の状態にあるものは聖体によって生かされない

 聖体が恩寵を与えるとはいっても、この秘跡を実際に有益に拝領するためには、あらかじめ恩寵をもっている必要はないと考えぬよう注意させねばならない。自然の食物が死んだ体になんの役にも立たないのと同じく、聖なる奥義も霊によって生きていない霊魂に無益であることは明らかである。聖体の秘跡がパンとブドー酒との形色を備えているのは、この秘跡が失われた霊魂の生命を回復させるためではなく、むしろ生命の保存のために制定されたことを示すものである。それゆえ、第一の恩寵は(聖体を拝領しようと思うものはみな、自分自身への裁きを飲食することのないよう(コリント前11・29)この恩寵を持っていなければならない)聖体拝領によっては与えられず、もし与えられるとすれば望みの聖体拝領によってである。なぜなら、聖体はすべての秘跡の目的であり、またその外にあっては恩寵を受けることのできない教会への一致と結合との象徴だからである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, cap. 7 et can. 11; Sum. Theol., III, q. 79, a. 3 参照。

51 霊的食物の作用について

 つぎに、自然の食物は身体を養うだけではなく、日々それを成長させ、味覚に楽しみや喜びを与えるが、同様に聖体の食物は霊魂を支えることはもちろん、さらにそれを強め、霊的な事柄の喜びをもってよりいっそう活気づける。この意味で、聖体の秘跡が恩寵を与えるといったのは真に当をえたことといえる。また、そこからしてこの秘跡は、あらゆる甘美な味わいをもっていたマンナに比べられうるのである。(ヨハネ6・49)(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 73, a. 3 et q. 76, a. 1 ad 1 参照。

52 聖体拝領によって小罪はゆるされる

 聖体によって、普通、小罪とよばれている軽い罪が許されることは疑いえないところである。情欲のはげしさのために霊魂が失ったものが何であるにせよ、それが軽少なことに関する小さな罪であるかぎり、聖体の秘跡はこれらの小さな罪を消し、失ったものを回復させる。自然の食物は(上にあげた例を続けていうと)自然のエネルギーの消耗によって毎日失われていくものを回復させ、とりもどさせる。それゆえ、聖アンブロジウスはこの天来の秘跡についてのべ「この日々のパンは日々の弱さのための薬である」といっている。(1) しかしいま言ったことは、霊魂が考えや望みなどによって愛着していない罪にだけ適用できる。

訳注
(1) S. Ambrosius, lib. 4 de sacramentisc. 6.

53 聖体は未来の悪から守る

 またこの聖なる奥義は、われわれを罪からまぬがれしめ清く完全に保ち、誘惑の激しい攻撃から無傷に守り、欲情の致命的な毒に感染し腐敗するのを防ぐ天来の解毒剤である。そのため聖チプリアヌスの伝えるところによると、昔信者たちがキリストのみ名のために暴君たちによって体刑や死刑を宣告された時、彼らがこの救霊の戦いにおいて、苦しみに耐えかね打ち負かされることのないよう、司教は彼らに主の御体と御血の秘跡を授けるならわしがあったのである。(1) 聖体はまた、肉の欲情を制し、おさえる。すなわち心の中に神に対する愛の火を増すことによって、必然的に邪欲の火を消すのである。(2)

訳注
(1) S. Cyrillus, lib. 1 epist. 2 ad Cornelium 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 79, a. 6 参照。

54 聖体は永遠の光栄を準備する

 最後に一言でこの秘跡のすべての利益および恩寵を表わすとするならば、聖体の最大の効果は永遠の光栄を得させることであるといわねばならない。「私の肉を食べ、私の血を飲む人は永遠の命を有し、終わりの日に、その人々を私は復活させる」(ヨハネ6・54)とあるとおりである。実際、聖体の恩寵によって、信者たちはこの世にありながらすでに良心の最高の平安と静けさとを享受している。なお聖体によって力づけられた彼らは、灰の下で焼かれたパンによって強められ神の山ホレブに至るまで歩いた(列上19・6)エリアのように、この世から旅だつ時が来るとき、永遠の至福と光栄へと上り行くのである。

 司牧者は、聖体の秘跡の種々の効果を含む聖ヨハネ福音書の第六章を解説することによって、聖体のこれらすべての恩寵をより詳しく説明できるであろう。またわれわれは主キリストの感ずべきみ業をたどりながら、主のご在世中、その家に主を迎えたり(マテオ8・6、9・10)また「その衣服のふさに触れて」(マテオ9・20、14・36)健康を回復したりしたものを幸福者だと思いがちであるが、しかし不滅の光栄に輝きたもう主を心の中に受け、すべての傷をいやされ、その霊魂をあふれるほどの賜物で飾っていただくわれわれはより幸福であり、しあわせであることを示すこともできるであろう。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 79, a. 2 参照。

55 聖体にあずかる三つの方法

 つぎにいまのべた聖体のすばらしい効果を受けるものはだれか、また信者たちにこれらのすぐれた賜物を渇望させるために、この秘跡にあずかる方法は一つならずあることをわからせる必要がある。さて、われわれの先祖たちは、たとえばトリエントの公会議に見られるように正しくかつ賢明に、聖体を拝領するための三つの方法を区別している。(1) すなわちあるものはただ秘跡だけを受けている。汚れた口や心で聖なる奥義を受けることを恐れない罪人たちがそれで、彼らについて使徒聖パウロは「ふさわしい心をもたず主のパンを食べ、その杯を飲むもの」(コリント前11・27)と言っている。聖アウグスチヌスは、彼らについて「キリストにとどまらず、また、キリストも共にとどまりたまわないものは、肉的にかつ可視的に御体と御血の秘跡を歯で粋くとはいえ、しかし疑いもなく彼は、霊的に御肉を食べているのではない」と書いている。(2) このような心構えで聖体を授かるものは、それからなんの効果も引き出さないだけでなく、使徒聖パウロの証言によると「自分自身への裁きを飲食する」(コリント前11・29)のである。

 またあるものは、ただ霊的に聖体にあずかる。それは「愛によって働く信仰」(ガラチア5・6)に燃え、熱心な望みと願望とにより、この天来のパンを食べる人々である。彼らはそこからすべてではなくとも、最も有益な効果を引き出す。

 最後に、秘跡的かつ霊的に聖体にあずかる人々がある。彼らは、使徒の教えに従って前もっておのおの自分を調べたもの(コリント前11・28)、婚宴の衣服をつけて神の食卓につらなったものであるから(マテオ22・11)、先にのべた効果を豊かに受けるのである。それゆえ、主の御体の秘跡を拝領するための準備をすることができるのに、霊的に聖体拝領することで満足しているものが、この広大な、天来の賜物を欠いていることは、いうまでもない。(3)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, cap. 8 参照。
(2) S. Augustinus, tract. 26 in Joann.
(3) Sum. Theol., III, q. 80, a. 1 参照。

56 聖体拝領の準備の必要なこと

 これから、聖体拝領前にどのような準備をなすべきかについてのべることにしよう。この準備の必要性を明らかにするためまず救い主の御手本を示さねばならない。主は使徒たちにいとも聖なるその御体と御血との秘跡をお与えになる前に、彼らがすでに清かったにもかかわらず、彼らの足を洗いたもうた。(ヨハネ13・5) それによって主はわれわれがこの聖なる奥義を授かるにあたって、霊魂の最高の完全さ、清らかさになんら欠けるところのないよう、あらゆる配慮をなすべきことを教えようとされたのである。

 つぎに、最良に整えられ準備された心をもって聖体を拝領する時には天的恩寵の豊かな賜物を受けるが、それと反対に必要な準備なしに受ける時には、そこからなんらの効果を引きだしえないばかりか、かえって最大の損害と不幸をまねくということを信者たちにわからせねばならない。最良のもの、最も有益なものは、時宜を得て用いられる場合はきわめて有益であるが、これに反して時宜を逸する場合には有害であり危険であるという特徴をもっている。それゆえ、神のこれらの尊い広大な賜物が、十分に準備した心には天国の光栄を得るための最も有力なたすけとなり、ふさわしくない心には永遠の死をもたらすということは驚くにあたらない。そのことは「契約の櫃」の例によっても明らかである。イスラエルの民にとってこの上もなく貴重なものであり、また主の無数のお恵みをもたらしていた「契約の柩」は、奪われてフィリスチン人のものとなるや、彼らにとって、この上もない恥辱をともなう病苦、災害のもととなったのである。また、食物は胃が丈夫な場合には身体をささえ強めるけれども、胃の調子が悪い場合には重い病気を引きおこすのである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, cap. 7 参照。

57 どんなに準備するか

 第一に必要な心構えは、食卓の区別を知ること、すなわちこの聖なる食卓と普通の食卓、この天来のパンと普通のパンとの区別を知ることである。すなわち天使たちが天において賛美し(詩96・7、ヘブライ1・6)、そのご命令によって天の柱をふるえさせ(ヨブ26・11)その栄光をもって天地を満たし(イザヤ6・3)たもう主の御体と御血とがそこにましますことを信ずることである。実にそれこそ使徒聖パウロが勧めた、主の御体をわきまえる(コリン卜前11・29)ことであり、われわれは好奇的な探求によってこの奥義の本質をきわめようとするよりも、むしろその深遠さを賛美すべきである。

 きわめて大切な第二の心構えは、一人一人が他人との平安を保っているか、実際に真心から隣人を愛しているかどうかを自問することである。聖マテオはこう書いている。「だから、あなたが祭壇にそなえものを捧げようとする時、兄弟がなにかあなたに対して含むところがあるのを思い出したら、供物を、そこ、祭壇の前において、まず兄弟のところに行って和睦し、それから帰って、供物を捧げなさい」と(マテオ5・23)。

 第三にわれわれはある大罪によって汚されていないかどうかをよく吟味し、もし、そのような気がかりがあるならば、痛悔と告白とによってゆるしを得なければならない。トリエントの公会議は「良心に大罪を有するものはだれでも、たとえ痛悔の心をおこしたと思われても、聴罪師がそこにいるならば、告白によって清められずして聖体を拝領することは許されない」と宣言している。(1)

 第四に沈黙して各々の心をふりかえり、主のかほどの神的なお恵みを受けるにいかに不相応なものであるかを黙想せねばならない。そして、主キリスト御自ら「イスラエルのだれにも私はこれほどの信仰を見たことがない」(マテオ8・10)と証言したもうた百夫長の言葉をわれわれのものとすべきである。すなわち「主よ、私はあなたをうちの屋根の下にむかえる値うちのない人間です」(マテオ8・8)と。また聖ペトロとともに「主よ、そうです。あなたがご存じのとおり、私はあなたを愛しています」(ヨハネ21・15)といえるかどうか自問しよう。ここでわれわれは、婚礼の服を着けずに主の婚筵の席にでたものは、暗い牢獄に投げ入れられ永遠の罰に処せられたことを記憶すべきである。

訳注
(1) Conc. Trid., sess, 13, can. 11 et 13.

58 体の準備について

 霊魂の準備だけでなく、身体の準備も必要である。聖体拝領のためには断食しなければならない。(1) すなわち聖体拝領する前日の夜中から聖体を受ける時まで、何も飲食してはならない。(1) またかほどに偉大なこの秘跡の尊厳さからして、ちょうど、ダヴィドがそなえのパンを司祭から受けるため、自分も従者も三日間、妻にふれていないことを誓った例にならって、結婚した人が、ある日数の間、夫婦関係をもたないことが望ましい。(2)

 以上のことが大体、この聖なる奥義を有益に授かるために必要な準備である。その他の心構えは、ここに指摘した心構えに容易に関係づけられ、また、そこから引き出されうるものである。

訳注
(1) 教会法第858条。Sum. Theol., III, q. 80 a, 8 参照。しかし現在、義務とされている規定は本章第六項の訳注 (1)参照。
(2) このことは義務ではなくより熱心な準備のための勧告である。

59 聖体拝領の義務について

 ある信者たちが必要とされる準備があまりにつらく、むずかしいという口実のもとに、この秘跡を授かるのを怠らぬよう、聖体拝領の義務がすべての人々に課せられていることに注意させねばならない。そして教会は、少なくとも一度毎年ご復活祭のころに聖体を拝領しないものは、教会から除外するよう規定している。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, can. 9; 〔旧〕教会法第859条(1) 参照。

60 いつ、幾度、聖体を拝領すべきか

 といっても信者たちは、この掟に従って毎年一度、聖体を拝領するだけで十分であると思ってはならない。むしろ聖体はよりしばしば拝領すべきものである。しかし、毎月、毎週、あるいは毎日拝領したほうがよいかどうかについては、確定したまた一般的な規則はない。最良の規定は、聖アウグスチヌスの「毎日、聖体拝領しうるように生活せよ」という格言である。(1)

 それゆえ、司牧者は、信者たちが毎日その身体に必要な食物をとるように、毎日、この秘跡をもってその霊魂を養い育てることもおろそかにせぬように繰り返し勧めねばならない。なぜなら、霊的食物は自然的食物が体にとって必要であると同様に霊魂にとって必要だからである。そのためには、前述したような、聖体拝領による広大な神的恩寵を思い出させることもきわめて有益であろう。またつぎの例を引用することもできよう。イスラエル人は体力を回復するために、毎日マンナを食べなければならなかったが(出16・15)、われわれもこのように、たびたび、この秘跡を拝領せねばならないと聖父たちは強く勧めている。「あなたは毎日罪を犯す。毎日聖体を拝領せよ」といったのは、ただ、聖アウグスチヌスだけではない。このことについて書いた教父たちを真剣に吟味するものはだれでも、彼らがみな同じ意見であることを容易に確信するであろう。(2)

訳注
(1) S. Augustinus, lib. 50, homil. 41.
(2) S. Augustinus, sermo 28 de verbis Domini.