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ローマ公教要理 秘跡の部 第四章 1-12 | 聖体の秘跡の聖さ、呼称

 秘跡の部 目次

第四章 聖体の秘跡

1 聖体の秘跡の聖さについて

 恩寵の最も確かな手段として救い主キリストがわれわれに与えられた聖なる奥義の中で、いとも聖なる聖体の秘跡にくらべうるものは何もない。それゆえかほどの聖性を有する、あるいはむしろ聖性の作為者かつ泉そのものをふくむこの秘跡に対して敬意と敬虔を欠く信者が受けねばならぬ罰ほど重いものはほかにない。このことをよく悟っていた使徒聖パウロはわれわれにはっきりとした忠告を与えている。彼は「主の御体をわきまえない」ものはいかに大きな罪を犯すかということを示したすぐ後で、「そのためあなたたちの中には弱いもの、病気のものが多く、また死んだものも少なくない」(コリント前11・30)とつけ加えている。従って信者たちがこの天来の秘跡に対して神的礼拝をつくすべきことを理解し、恩寵の豊かな効果をひきだし、そして神のいとも正なる御怒りをさけうるよう、司牧者は最大の配慮をもって聖体の御稜威みいつをきわだたせうるすべてのことを教えるべきであろう。

2 聖体の制定の理由と時について

 そのため司牧者は、コリント人に向かって主から学んだことを伝達すると公言した使徒聖パウロの手順に従い(コリント前11・23)まずこの秘跡の制定について説明すべきである。福音書からしてつぎのようにして制定されたことが明らかである。すなわちこの世にいるご自分の人々を愛し、最後まで彼らに愛を示された主はこの世から御父のもとに移るべき時がきたのを知り(ヨハネ13・1)その愛の感ずべき神的保証を与えるため、また常にご自分の人たちから離れることのないように(マテオ28・20)、測りえない決定をもって、全自然の秩序と条件を超えたものを完成されたのである。弟子たちといっしょに過越しの子羊を食して過越を祝われた主は(ルカ22・15)かたどりの代わりに実在をおこうと思召され、パンをとって神に感謝しつつ、祝してこれをさき、弟子たちに与え、こうおおせられた。「これをとって食べよ。これはあなたたちのために与えられる私の体である。私の記念としてこれを行なえ」 食して後、また同じように杯をとり、おおせられた。「この杯は私の血における新しい契約である。これを飲むごとに、私の記念としてこれを行なえ」(マテオ26・26、マルコ14・22、ルカ22・19、コリント前11・24・25)と。 (1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, de Eucharistia, cap. 2; Sum. Theol., III, q. 73, a. 5 参照。

3 なぜエウカリスチア(Eucharistia)とよばれるか

 この感ずべき秘跡の優越性や尊厳さを一語で表わすことの不可能なことを確信していた聖なる著作家たちは、それを示すために多様の呼称を用いた。そしてある時にはこれをEucharistiaとよんでいる。この語は、すぐれた恩寵または感謝という言葉で訳されるが、その意味するところは正しい。すなわちそれは、あるいは聖書の中に「神の恵み、永遠の生命」(ロマ6・23)と書かれている永遠の生命をかたどり、あるいは恩寵そのものにましまし、またすべての賜物の源である主キリスト(ヨハネ1・14)を含んでいるからである。(1)  なおそれが感謝とよばれるのはこれに劣らず適切なことである。なぜならこのいとも潔いホスチアを捧げることによって、われわれに与えられるすべての恵み、とくにこの秘跡によって伝達される恩寵のかくもすぐれた賜物に対する日ごとのかぎりない感謝を神に捧げるからである。そのうえ、この名称はその制定において主キリストがなされたこととも非常によく合致する。すなわち主は、「パンをとり、感謝して、これをさきたもうた」(マテオ26・26-27、マルコ14・22、ルカ22・19、コリント前11・24)からである。ダヴィドは、この奥義の偉大さを静思して、「主は不思議なみ業の記念をとどめる。主は慈愛とあわれみ、主は恐れるものに糧を与える」(詩 110・4)という賛歌を歌う前に感謝の賛歌をさきだたせて、「主のうるわしさと光栄とは、そのみ業の中に輝く」(詩 110・3)とのべている。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 73, a. 4 参照。

4 なぜこの秘跡を一致(Communio)あるいは平安と愛の秘跡というか

 またしばしば犠牲(Sacrificium)という名でもよばれているが、その奥義についてはもう少し後でよりくわしくのべることにしよう。そのほか一致(Communio)とも名づけられている。これは明らかに使徒聖パウロの「われわれが祝する祝聖の杯は、キリストの御血にあずかること(Communicatio)ではないか。われわれがさくパンはキリストの御体にあずかることではないか」(コリント前10・16)という文に由来している。なぜならダマスコの聖ヨハネが説明しているように、「この秘跡はわれわれをキリストに合致させ、その御肉と神性にあずからせ、またわれわれ同志を同じキリストにおいて一致和合させ、いわば一つの体とするからである。(1)  またそこからして平安と愛の秘跡とよばれるようになったのである。以上のことはわれわれに、他人に対して敵意を抱くものはどんなにキリスト信者に不相応なものであるか、また、とくに日々のミサのいけにえによって、なによりもまず平安と愛とを保つことを公然と明言する信者たちにとって、憎しみ、不和、不一致は最も恐るべき疫病であり、絶対になくすべきものであることを教えている。(2)

訳注
(1) S. Ioannes Damascenus, lib. 4, orth. fid. cap. 4, Sum. Theol., III, q. 73, a. 4 参照。
(2) S. Augustinus. tract. 26 in Joan; Conc. Trid., sess. 13, de Eucharistia. 参照。

5 なぜ旅路の糧(Viaticum)また聖さんといわれるか

 聖なる著者たちは、また聖体を旅路の糧(Viaticum)という名でよんでいる(出12・39、マテオ15・32、マルコ8・3)。それは聖体がこの世を遍歴するわれわれを支える霊的食物であり、あるいはまた永遠の栄光と至福への道をわれわれのために確保するからである。(1) それゆえ、信者はこの秘跡を授からずしてこの世から旅立たないというならわしが、古くから教会の中に守られているのである。(2) 昔の教父たちは、使徒聖パウロの手本にならって(コリント前11・20)時として聖体に聖さん(Coena)という名を与えている。それはこの秘跡が最後の晩さんの、聖なる救いの奥義において主キリストによって制定されたからである。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 73, a. 4 参照。
(2) 教会法第864-850条 参照。

6 聖体は飲食した後で捧げたり拝領したりできないこと

 とはいっても飲食物をとった後で聖体を捧げたり、授かったりすることは許されない。古代の著者によると飲食していないものだけ聖体を授けるというならわしは、使徒たちによって有益にとりいれられ、常に保持され守られてきたのである。(1)

訳注
(1) 教皇パウロ六世はヴァチカン第二公会議の第三会期をとじる説話の中で、聖体拝領に関する断食をつぎのように規定された。水以外の流動物と固形物は聖体拝領の一時間前までとることができる。アルコールも節度を保つならば飲むことができる。これは信者だけでなく、司式司祭にも適応される。

7 聖体は真の秘跡である

 言葉の意味について説明して後、つぎに聖体が真の秘跡であり、教会が常に認めあがめて来た七つの秘跡の中の一つであることを教えねばならない。(1) すなわちこの秘跡が御血の聖変化において「信仰の奥義」とよばれていることからして、また聖体を真の秘跡の例に絶えずおいた教会の著作者たちのほとんど無数の証言はいうまでもなく、この秘跡の性質、本質の中に、聖体の秘跡としての確証を見出すのである。実際、聖体には外的な感覚に触れるしるしがあり、恩寵を意味し結果づけている。最後にそれがキリストによって制定されたことについては福音史家(マテオ26・26、ルカ22・19、マルコ14・22)や使徒聖パウロの(コリント前11・24-25)証言からして疑いの余地はない。さて、これらすべては聖体が真の秘跡であることの証明であり、他のいかなる証拠も必要としないであろう。(2)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, de Eucharistia 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 73, a. 1 参照。

8 聖体の中には秘跡と名づけられる多くのものがある

 しかし、司牧者はこの奥義の中には教会の著作者たちが秘跡と名づけた多くのものがあることを注意して考察せねばならない。彼らは時として聖変化、拝領、またしばしば聖体の中に蔵せられた主の御体、御血そのものを秘跡とよびならしている。たとえば聖アウグスチヌスは、この秘跡は可視的外観と不可視的な主イエズス・キリストの御体と御血という二つのものから成り立っているとのべている。(1) われわれが、この秘跡は拝むべきであるというのは、この意味すなわち主の御体と御血という意味においてである。しかし、これらすべてが厳密に、秘跡でないことは明らかで、根本的に、そして実際に秘跡という名をとるのはパンとブドー酒の形色である。

訳注
(1) S. Augustinus,  de catech. rudibus, lib. 5, c. 16; Conc. Trid., sess. 13, cap. 6 et can. 6 参照。

9 聖体は他の秘跡と区別される

 今言ったことによって、聖体がいかに他のすべての秘跡と異なっているかが容易にわかる。他の秘跡はその質料の適用、すなわちそれらが授けられる時にはじめて秘跡である。たとえば洗礼は、ある人に水をそそぐ時はじめて秘跡になる。しかし聖体のためには質料の聖変化で十分であり、たとえ聖体器の中におさめたままであっても真の秘跡であることに変わりない。さらに、他の秘跡においては用いられた質料や要素は決してその本質を変えない。洗礼の水、堅信の香油は秘跡に用いられてもはじめの水や油の本質を失わない。しかし聖体では聖変化以前にパンとブドー酒であったものは聖変化の後では本当に主の御体と御血そのものになるのである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 13, de Euch. cap. 2 et can. 4; Sum. Theol., III, q. 73, a. 1 ad 3 参照。

10 パンとブドー酒という二つの質料は二つの秘跡を構成しない

 パンとブドー酒は聖体の秘跡全体を構成する二つの要素であるが、しかしそこには多くの秘跡があるのではなく、教会が教えるとおりただ一つの秘跡しかない、というのがわれわれの信仰である。さもなければラテラン、フロランス、トリエントの諸公会議によって常に伝えられてきたとおりの七つの秘跡の数はもはや保たれないであろう。また、この秘跡の恩寵によって一つの神秘的な体が形成されるのであるから、それを結果づける秘跡も一つでなくてはならない。しかも個体としての一つではなく、一つのことを示すための一つでなければならない。たとえば食物と飲物とは二つの異なったものであるが、しかしただ一つのこと、すなわち体力の回復のために用いられる。そのようにこの秘跡の二つの異なった形色は、霊魂をささえ、その力を回復させる霊的食物を表している。「私の肉は真の食物であり、私の血は真の飲物である」(ヨハネ6・55)と主がおおせられたのもそのためである。つぎに信者たちがこの聖なる奥義を目で見ると同時にこれらの神的事柄を黙想することによってその霊魂を養いうるように、この秘跡の意味していることを熱心に説明すべきである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 74, a. 1 参照。

11 この秘跡の意味することについて

 ところで聖体は三つのことを表わしている。その第一は過去のこと、すなわちキリストのご苦難である。それに関して主御自ら「私の記念としてこれを行え」(ルカ22・19)とおおせられ、また使徒聖パウロは「あなたたちは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主がこられるまで、主のご死去を告げるのである」(コリント前11・26)と証言している。

 第二は現在のことで、霊魂を養い保つためにこの秘跡によって与えられる天来の神の恩寵がそれである。われわれは洗礼において新しい生命に生まれかわり、堅信において、サタンと戦いキリストのみ名を公言しうるよう強められ、そして聖体の秘跡によって養われささえられるのである。

 第三は未来に関することでわれわれが神の約束によって、天の祖国において受ける永遠の喜びと光栄である。過去、現在、未来という時間の差異によって明らかに区別されるこれら三つのことは聖体の聖なる奥義によって意味されている。すなわち秘跡は異なった形色から成り立っているとはいえ、それら三つの各々をあたかもただ一つのものを示すかのように表わしているのである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 74, a. 1 参照。

12 聖体の質料であるパンについて

 つぎに司牧者はこの秘跡の質料について知らねばならない。それは彼ら自身正しく聖体を聖別しうるためであり、また信者にそれが何を象徴するかを教え、そしてそれが意味しているものに対する努力と熱情をひきおこさせるためである。この秘跡は二つの質料をもっている。その一つは純粋の小麦粉から作ったパンで、いまはこれについてのべ、第二のものは後で見ることにしよう。福音史家聖マテオ、聖マルコ、聖ルカは主キリストがパンをとり、それを祝して「これは私の体である」(マテオ8・3、マルコ14・22、ルカ22・9)とおおせられながら、さかれたと教えている。聖ヨハネ福音書において救い主は、「私は天からくだったパンだ」(ヨハネ6・4)とおおせられご自分をパンとよばれた。しかし多種類のパンがある。あるものは小麦から、あるものは大麦から、またその他の野菜や果実から作られるというようにその材料において種々にかわり、またあるものはパン種を含んでいるのに対し、他はそれを入れていないというように品質を異にしている。主のみ言葉は、聖体のパンは小麦から作られた種なしパンでなければならぬことを示している。なぜなら普通のいい方では、ただ単にパンという場合、小麦から作られたパンを意味しているからである。旧約聖書中のかたどりもまたこのことを裏づけしている。すなわち神は聖体の秘跡のかたどりである旧約の供えのパンを小麦粉で作るように命じたもうたのであった(レビ 24・5-6)。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 74, a. 3 参照。