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ローマ公教要理 秘跡の部 第五章 49-60 | ひんぱんな告白の勧め、悔悛の秘跡の執行者、告白の秘密

 秘跡の部 目次

第五章 悔悛の秘跡 〔(告解の秘跡、ゆるしの秘跡)〕

49 罪を忘れた時は告白を繰り返す必要はない

 とはいえ、告白者がすべての罪を完全に告白するという意向をもちながらある罪を忘れたり、あるいは良心の吟味を少しなおざりにしたためにその告白に欠けるところがあったとしても、その告白をしなおす必要はない。ただ忘れた罪を思い出したならば、つぎの告白の時にいい表わせば十分である。ただこのような場合、良心の糾明をあまり表面的に、なげやりにしたのではないか、あるいは罪を思いおこそうとの意志も見られないほどに、罪を思い出すのにぞんざいでなかったかどうかを吟味すべきである。もしそうだとするならば絶対に告白しなおすべきであろう。

50 告白のあり方について

 つぎに告白は明瞭、簡単、真剣であるよう配慮すべきである。ある人々がするように、その罪を告白するというよりもむしろ自分の行為を正当化するための技巧を加えたものであってはならない。告白はわれわれ自身が知っているとおりの自分を司祭に示し、確実なことは確実なこととして疑わしいことは疑わしいこととして告げる告白でなければならない。それゆえ、あるいは罪を言わなかったり、あるいは告白とは関係のないことをいうような場合、その告白が前述したあり方を欠いていることは明らかである。

51 告白は慎み深く思慮深くあるべきこと

 また罪の告白にあたって、慎み深く、思慮深くあるように特に勧むべきである。すなわち話しすぎてはならない。とはいってもそれぞれの罪の種類や事情に関することは簡単にかつ控えめに打ち明けるべきである。

52 告白は代理人を通じてまたは手紙ですることはできない

 つぎに、告白者も司祭も、告白における二人の会話は密かに交わされるようとくに心がけねばならない。それゆえ、代理人や手紙を通じて告白をすることはもはや秘密裡に行なわれえないところからして許されない。(1)

訳注
(1) ここでは代理人を問題としているのであって通訳を通じての告白に関してはつぎの規定がある。「通訳によらなければ告白できないものが、通訳を通じて告白を欲する場合は、濫用とつまずきが避けられるかぎり、通訳の使用は禁じられない。この場合は第889条第二項の規定に従う」〔〕教会法第903条

53 ひんぱんな告白を勧める

 しかし、信者たちが最大の配慮をもって努力すべきことは、ひんぱんな告白によってその霊魂を清めることである。もしある人が大罪を犯したならば、多くの危険に生命を脅かされている彼であるから、直ちに告白するにこしたことはない。たとえ長く生命を保つことができたとしても、体や衣服の汚れを洗い落とすのにあれほど熱心なわれわれが、霊魂の輝きを醜い罪の汚れから守るために少なくとも同じ程度の熱意をもたないとは真に恥ずべきことではないだろうか。

54 悔悛の秘跡の執行者について

 つぎに告解の秘跡の執行者についてのべることにしよう。教会の規定からして明らかなように(1)、この執行者とは罪をゆるすための通常の、あるいは委任による権能をもつ司祭である。(1) すなわちこの聖職を遂行するものはただ聖職の権能だけでなく、さらに裁治の権能をもっていなければならない。その明白な証拠は聖ヨハネ福音書の中に見られる主のみ言葉である。「あなたたちが罪をゆるす人々はその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされないであろう」(ヨハネ20・23)と。さて、この権能はすべての人にではなく、ただ使徒たちにだけ与えられたのであり(2)、司祭たちは使徒たちのこの聖職を受け継いでいるのである。そしてそれはきわめて道理にかなったことである。なぜならこの秘跡において与えられるすべての恩寵は頭としてのキリストからその肢体へと伝えられるからであり、したがってキリストの真の御体を聖別する権能を有しているものだけがキリストの神秘体に、すなわち信者たちに悔悛を授けるべきである。とくに信者たちが告解の秘跡によって聖体を拝領するのにふさわしいものとされることを思う時、なおさらそうである。

 初代教会において司祭の裁治の権能がどれほど必要とされていたか、教父たちの古い規定からして容易に知ることができる。すべての司教や司祭は、他の小教区において、緊急の場合を除いてその小教区の裁治者の許可なしに、何らの聖務を執行することを禁じられていたのである。聖パウロ自身、信者たちを教義と秘跡との天の食物によって養い、強めるための「長老を町々に立てる」(チト1・5)ことをチトに命じて、そのことを規定したのであった。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 6; 〔旧〕教会法第871~900条参照。
(2) Conc. Trid., sess. 23, cap. 4 et can. 6 参照。

55 緊急の場合、司祭はみなだれでもゆるしうる

 しかしながら、ある人が死の危険に瀕し、そのための権能をもった司祭がいない場合、教会はそのようなことのために霊魂が滅びることのないように、すべての司祭にすべての種類の罪をそれに必要な権能がどんなものであっても、破門さえもゆるす権能を常に認めてきた、とトレント公会議は教えている。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 7; 〔旧〕教会法第892条第二項、第523条; Sum. Theol. suppl., q. 8, a. 2, 6 参照。

56 さらに聴罪司祭に必要なことについて

 この秘跡の執行者は、絶対に必要とされる聖職の権能、裁治の権能のほかに、学識、経験、賢慮を備えていなければならない。なぜなら彼らは同時に裁判官と医者の職能を果たすからである。(1) 裁判官としての彼は、罪を見つけ出し、そして多種の罪の中から、各人の条件、事情に従って重いものと軽いものとを区別するための普通以上の知識を必要としている。また医者としては、最大の賢慮を必要とする。というのは病人に、その霊魂をいやし、また病の再発を防ぐに最も適した薬を与えるよう配慮せねばならないからである。そこからして信者たちは各々その非の打ちどころのない生活、学識、確かな判断によって推奨に値する司祭、また自分が執行する聖職の責任と重大性を理解し、それぞれの罪に適当する償いを与えることを知り、さらにだれをつなぎだれをとくべきかをわきまえている司祭を選ぶにどれほどの注意をもってすべきかがわかるであろう。

訳注
(1) 〔旧〕教会法第888条第一項参照。

57 告白の秘密について

 だれでもその罪や悪行を秘密にすることを切に望んでいるのであるから、信者たちに彼らが告白したことを司祭がだれかにもらすのではないか、あるいは告白の結果、何かに、いつかかかわり会うのではないかなどと心配する必要は全然ないことを知らせるべきである。教会は、告白によって知ったすべての罪を永久のそして神聖な沈黙の中に保たない司祭たちに対して、最もきびしい処罰をもってのぞむ。ラテラン公会議は、「司祭は言葉、あるいは合図、あるいはその他いかなる方法によっても決して罪人をあばくことのないように配慮すべきである」と教えている。(1)

訳注
(1) Conc. Lateran. IV, cap. 21; 〔旧〕教会法第889条-第891条; Sum. Theol., suppl., q. 11 参照。

58 告白において留意すべき他の事柄

 告解の秘跡の執行者に関する説明の後、順序として、告白の仕方および告解の秘跡の授与に関する主要な点を説明せねばならない。というのは、大多数の信者は教会が告白のために定めた日がとにかく一日も早く過ぎさることしか望んでいないようである。彼らはキリスト教的完徳から非常に遠く、司祭に告白するための罪を思い出すのがやっとで、まして神の恩寵をうるためにきわめて有益なそれ以上のことなどかまおうともしない。それゆえ、司祭はその告白者の救いのためにあらゆる援助を惜しんではならない。司祭はまず告白者がその罪について真の痛悔をもっているか、また今後、罪を犯さないという固い、そして真剣な決心をもっているかどうかに注意すべきである。そしてもし告白者が、実際にこれらの心構えを備えていると認めたならばかほどに格別な恩寵に対して神に深く感謝するよう、また未来の恩寵に守られ包まれてその悪い欲情に抵抗し、堪えうるため、その恩寵を絶えず乞い願うよう勧めるべきである。

 告白者に教えねばならないいま一つのことは、一日として主キリストのご受難の秘義のある点を黙想し、また主を模倣し至高の愛をもって主を愛し奉ろうと奮いたち燃えたたずしては過ごさないということである。すなわちこの黙想によって彼は悪魔の誘惑に対して日ごとに強められていくのを感じるであろう。実際われわれが敵のきわめてわずかな攻撃にかくも速かにかつ容易に打ち負かされ精魂つき果てるのは、われわれの心を活気づけ高めうる神愛の火を、天上のものの瞑想によって保とうとする努力が不足しているからにほかならない。

 しかし、もし告白者が、真に痛悔し後悔していないと認めたならば、司祭は彼に痛悔の望みをおこさせるよう努力し、彼がこのすぐれた賜物を渇望し、神の御慈悲によりすがって懇願し切願するよう仕向けるべきである。

59 言訳をする人に対して

 しかし、とくに言訳をして自分の罪をかばったり軽減したりしようとする人々の高慢を咎めねばならない。たとえば激しい怒りにかられたことを告白しながら、すぐに相手がまず自分に不正をしたのだと主張し、その責任を相手になすりつけるような場合がそれである。それゆえ、この種の言訳は、高慢な精神をもっている人、およびその罪の大きさに気をとめないかあるいは全然知らない人のしるしであること、そしてこのような言訳は、罪を軽くするよりもむしろ重くすることを知らせるべきである。すなわちこうしてその行為を正当化しようと努める人は、私はだれかに侮辱されないかぎり忍耐を実行します、とあからさまに言っているのであり、キリスト信者にとって、これ以上に不相応なことはありえないからである。彼は侮辱を加えたものの悪を嘆かねばならぬはずなのに、かえってその侮辱の罪に影響され兄弟に対して怒る。また忍耐によって神をあがめ、寛容によってその兄弟を改心させる好機を与えられていたのに、このような救いの材料を自分の破滅へと転じさせているのである。

60 恥ずかしがる人、準備不足の人に対して

 しかしながら、度はずれた恥ずかしさのために罪を告白しようとしない人々は、よりいっそう悲しむべきあやまちを犯している。それゆえ、このような人々は励まし、勇気づけるべきで、罪を打ち明けることを決して恐れてはならず、またたとえ罪を犯したとしてもそれはすべての人に共通の人間の弱さであり、人間のもろさの結果であるからして決して驚くにあたらないことを教えさとさねばならない。

 その他、あるいはまれにしか告白しないため、あるいは良心の糾明において少しの注意も努力もしないため、どんなにして告白するか、何からはじめるべきかさえ十分に知らない人がある。これらの人々は確かによりきびしく咎められるべきであり、とくに司祭のところに行く前にあらゆる努力をして痛悔の心をもつようにすべきこと、そしてその痛悔は罪を一つ一つ思い出し糾明しようとしないかぎり決してありえないことを教えるべきである。それゆえ、司祭は、全く準備されていないと思われる人に対しては、しばらくの間、罪の糾明をしなおし、そして告白に来るようにやさしい言葉で勧め、引きさがらせねばならない。しかし、もしその告白者ができるだけの準備をしたというのならば一度帰されると再び来ないかもしれないのであるから、司祭は彼らの告白を聞くべきであり、とくに生活を改めようとのいくらかの望みを示し、また自分のなおざりを認め、他日より入念で、より正確な準備をすることを約束させうるならば、告白を聞くべきである。とはいえ、その場合にも賢明さを忘れてはならない。すなわちこれらの告白者の告白を聞いた後、その罪の告白が誠実で、またそれらを悔やむ痛悔も全く欠けていないと認められるならば、それらの罪をゆるすことができるが、しかしこれら二つとも不足している場合にはすでにのべたように、より注意深く良心の糾明をするように勧め納得させ、できるだけやさしく話して引きさがらせるべきであろう。