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カラヴァッジョ《キリストの埋葬》展とキリシタンから教皇聖下への奉答書(開催中止)

カラヴァッジョ画《キリストの埋葬》 画像出典: 展覧会公式サイトより
2021年1月28日更新:
2021年1月11日に、本展が中止されたとの通知が発表されました。「新型コロナウイルス感染症が拡大している状況を受け、バチカンからの作品輸送が困難なため」との理由です。待ち遠しいと思っていただけに残念です。

つい最近知ったのですが、カラヴァッジョによる『キリストの埋葬』がバチカン美術館から日本へ貸し出されて、六本木の国立新美術館にて展示されます。展覧会の名称は「カラヴァッジョ《キリストの埋葬》展」、会期は2021年3月24日(水)から2021年5月10日(月)迄です。

国立新美術館の展覧会概要によれば、「2019年に来日したローマ教皇からの、日本への贈り物として実現する展覧会」とのこと。

国立新美術館 展覧会紹介ページ: カラヴァッジョ《キリストの埋葬》展
展覧会公式サイト: http://caravaggio2020.com/

※ 両者はほぼ同内容ですが、文章や展覧会各種情報は国立新美術館のページの方が読みやすく、画像は展覧会公式サイトの方が大きく表示されています。

そして『キリストの埋葬』と共に、同時代の日本各地のキリシタンがパウロ5世教皇聖下へ送呈した書状についても、バチカン図書館から借用された3通が展示されます。「400年以上を経て初の里帰り」とのことです。

大坂・伏見・都の信徒からの奉答書》 画像出典: 展覧会公式サイトより

1613年の江戸幕府による禁教令以降、日本のキリシタンたちは厳しい迫害に苦しんでいた。1619年、彼らのもとに教皇パウルス5世から励ましの書簡が届けられる。大いに感動した各地の信徒たちは教皇への奉答書をしたため、それらはローマに届けられた。畿内、奥羽、中国地方の内播磨、島原、長崎から送られた計5通がバチカン図書館に所蔵されており、今回の展示ではうち3通を借用して展示する。400年以上を経て初の里帰りである。

金泥で図柄や模様の描かれた着色紙などの贅沢な料紙を用い、そこに日本語とラテン語で、書簡への感謝や信仰を守る決意が記されている。禁教時代の日本の信徒たちの様子を伝えるとともに、日本とバチカンとの交流を伝える一級の史料である。

国立新美術館 展覧会紹介ページ、展覧会公式サイトより

奉答書の現代日本語訳全文を展覧会で読むことができると良いなと思っています。

なお『カトリック大辞典』にも、この奉答書について以下の通りに記されています。(当該辞典では「奉答文」の呼称。)

しかしてこの巡回布教を刺激した特別事情は1617年教皇から出たジュビレヨ教書と共に迫害に苦しむ日本信徒に対する慰問状が元和六年(1620)夏長崎に着いた(潜入経路不明)。そこでその訳文を作り、宣教師が各々受持の地方を潜行巡回し、写しを配布し、奉読式と共に総ての儀式を修し、慰安激励を与えた。

この為に各宣教師は皆どれだけかの旅行をしたが、最も広くしたのはポルロ(Porro)で、中国四国から終には東北地方までも巡回した。これが迫害の中に喘いでいた信徒等に大なる慰安になったのは勿論、又各地方の連絡にもなり、続いて各地方からこれに対する奉答文をローマへ送る事になり、最も早いのは同年の秋九月末の日付ある有馬地方、それから中国、四国、京阪地方、長崎、遅いのは一年後れて奥羽の分が出来た。

これらをローマへ送るにもなかなか便宜なく、それから数年を費し、それらに対する次代教皇の慰問状は1626年付であるが、それをもたらし帰った宣教師ヴィエイラ(Vieyra)が日本に着いたのは又それから六年後(1632)であったが、海上流浪の間に捕われてしまった。従って信者等は慰問状が来たことは伝聞したが、その実物には接しなかった。

かくの如くにして、前後十四、五年に亘った慰問状の往復も最後は禁教の中に消え去るのみであった。これらの巡回伝道と共に、各地では信心奨励、殉教激励、相互扶助などの組講が出来、宣教師等はこれを指導したが、これも段々困難になって、信者間で僅かにこれを維持し、それも益々圧迫の為に窘縮きんしゅくせられる様になった。」
(『カトリック大辞典 Ⅰ』冨山房、1940年、pp.702-703、姉崎正治「キリシタンの伝道」)

※ 原文からの変更箇所: 漢字・ひらがななどの表記を現代式へ、段落箇所、ルビ付与、太字・マーカーによる強調。

キリシタンへの迫害と、巡回伝道のために尽力し、殉教した宣教師のことを思うと粛然たる思いがします。


良き展覧会の企画情報を知り、開幕が待ち遠しいと思いつつの待降節です。

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参考

1617年にパウロ5世教皇聖下から出されたというジュビレヨ教書(ジュビレオ、即ち「聖年大赦」)の日本到着年については、国立新美術館の解説文と『カトリック大辞典』とで異なっています。前者は1619年、後者は1620年です。どちらが正しいのかは分かりかねますが・・・。

また、1617年の聖年大赦については、OUPblog(オックスフォード大学出版局のブログ)の記事によれば、宗教改革100周年記念行事が計画されていることに激怒した教皇パウロ5世が、1617年6月12日に同年の残りの期間を臨時の聖年に決定したものだと解説されています。「悔悛と贖罪の期間とし、異端の敵から教会を守るための神への祈りの期間とすることを発表しました。」(翻訳)
一方で、こちらのキリシタン史研究ブログでは1617年の聖年について別の理由が記されています。

 追記(2021年3月6日)

聖三木図書館報『みき』第10号(2020年12月31日)にて、上智大学文学部史学科教授の川村信三神父様が、角川財団による「バチカンと日本100年プロジェクト」や「日本信徒の報答書」について寄稿されています。

そのなかで、”1617年、教皇パウロ5世は聖ペトロ大聖堂の再建完成を祝って「聖年」と「全免償」を世界に公布しました。その知らせが日本に届いたのは二年後です。”と書かれていました。聖ペトロ大聖堂を理由としていることは、前述のキリシタン史研究ブログが記載している内容(大聖堂「身廊」の完成・祝別を記念)と似ています。

聖ペトロ大聖堂の完成は1615年、教皇ウルバヌス8世による献堂式は1626年11月18日との時系列から考えると、一体どの説が正しいのだろうかと思います。