第一章 信仰と信経について
1 本書でいう信仰とは何か
信仰という語は聖書では多くの意味に使われているが、本書では、神が啓示された真理に全き同意を与えること、という意味にとる。このような信仰が救いを得るために必要であることに疑いをさしはさみうる人はだれもいないであろう。聖書にも「信仰がなければ、神によろこばれることはできない」(へ11・6)と書かれているからである。実際、人間の至福のために啓示された目的は、人間精神の力で知り尽くすには余りに高すぎる。そのため神ご自身からそれに関する知識をさずかる必要があった。さて信仰とはこの知識にほかならず、これによって私たちはためらうことなく、聖なる母である教会が神から啓示されたものとして認めたすべてのことを確かなものとして受け入れるのである。なぜなら真理そのものである神が啓示されたことについて何らかの疑いをさしはさむことは不可能だからである。そこからして、神への信仰と一般の歴史家に対する信仰がどれほど異なっているかが分かる。
信仰はその広さ、深さにおいて段階があり、聖書ではつぎのように言われている。「信仰のうすい者よ、なぜうたがったのか」(マ14・31)、「あなたの信仰は深い」(マ15・28)、「私たちの信仰を増して下さい」(17・5)、「信仰もそれと同じく善業がともなわなければ、死んだものである」(ヤ2・17)、「愛によって働く信仰」(ガ5・6)。しかし種類はただ一つで、同じ定義の意味内容がすべての段階にあてはまる。信仰から生じる果実と私たちにもたらされる利益については、信経の各箇条の説明の中で述べることにしよう。
2 使徒たちから伝えられた十二箇条の教え
キリスト者がまず知らなければならないことは、信仰における私たちの師にして案内者である使徒たちが、聖霊の導きのもとに、信経の十二箇条にまとめている事柄である。主の使者として(コ②5・20参照)全世界に行きすべての人に福音を述べ伝える命令を受けたかれらは(マ28・18~20、マル16・15~18参照)すべての人が同じことを考え語るようにするため、また同じ信仰に召されている人々が互いに分裂せず、同じ心、同じ考えをもって完全に一致するように(コ①1・10参照)、キリスト教信仰の決まった表現をつくる必要があると考えた。
3 それが信経(Symbolum)と呼ばれるわけ
使徒たちは自分たちがつくりあげたこのキリスト教信仰と希望の宣言を「信経」と呼んだ。それは使徒たち各自が作成し持ち寄った種々の文章から成り立っているからであり、またキリストの軍隊のしるしをもつ真の兵士と、教会に忍び込み福音を腐敗させる逃亡兵や偽の兄弟とを見分けるしるしおよび合ことばのようなものだからである。
4 信経は何箇条に分けられるか
キリスト者が個別的にまた総括的に固く信じるように義務づけられているキリスト教の真理はたくさんある。しかしそのうちいわば真理の基礎であると同時に頂点になるもので、必ずすべての人が第一に信じなければならないのは神ご自身が教えられたように、神の本質は一つであること、三つのペルソナがあること、特別の理由から各ペルソナに帰せられる働きは異なること、である。そして司牧者はこれらの奥義に関する教えは使徒信経の中に要約されていることを説明しなければならない。実際、信心をこめて入念にこれらのことを取り上げた先祖たちが指摘しているように、この信経はおもに三部に分けられるようである。第一部は神の第一のペルソナとその感嘆すべき御業について、第二部は第二のペルソナと人類のあがないの奥義について、第三部は私たちの聖化の原理であり泉である第三のペルソナについて伸べている。これら三部は互いに関連をもっているとはいえ区別されている。
私たちは教父たちがしばしば用いているたとえをかりて、それを箇条(Articulus)と呼んでいる。実際、私たちの肢体はいくつかの関節(Articulus)によって分けられているが、それにならってこの信仰告白においても、特別にそれとして信じなければならない真理を箇条(Articulus)と呼ぶのはきわめて正しくまた当然のことであろう。