聖座・典礼秘跡省から御返信が届きました。 クリック/タップ

ローマ公教要理 使徒信経の部 第二章 | 天地の創造主、全能の父なる天主

 使徒信経の部 目次

第二章 第一条 天地の創造主、全能の父である神を信じます

1 第一条の概要

 神を信じるとは、私は全能の力をもって無から天と地およびそこにあるすべてのものを造り、保ち、支配しておられる神である父すなわち三位一体の第一のペルソナを固く信じ、何らの疑惑をもつことなく告白し、またただ心で信じ口で宣言するだけでなく、最大の努力と敬虔をもって完全な最高の善として認めこれに向かう、という意味である。

 これが第一条の概要である。しかしその一つ一つの言葉には深遠な奥義が秘められているのであるから司牧者は細心の注意をもってこれらの奥義を正しく把握し、神のお望みならば信者たちがおそれとおののきのうちに神の無限の栄光を仰ぎ見ることができるようにすべきである。

2 「信じる」ことの意味

 ここでいう「信じる」とは、考える、思う、見解をもつ、というような意味ではない。信じるとは聖書が教えているように、ご自分の奥義を啓示する神に対してゆるぎない不変の賛同を示す、確固とした心からの同意のことである。したがって信仰者とは、あることを何のためらいもなく確かなものとして確信しているもののことである(そのような人についてここでは述べるのである)。

 ところで信仰による知識は、信ずべき事柄は目に見えないところから、それだけ確実性が少ないと考えてはならない。信ずべき事柄を啓示する神の光はその事柄に自明性を与えるものではないが、しかし私たちがそれを疑うことをゆるさない。なぜなら「闇から光が輝き出せとおおせられた神」(コ②4・6)は滅びる人々にとってそうであったように私たちにとっても福音がおおわれていないように私たちの心を照らしてくださったからである。(コ②4・3参照)

3 信経の内容をすなおに信じること

 したがって、信仰による天来の知識をもっている人は単なる好奇心によるせんさく欲から解放されている。実際、神は私たちに信じるようお命じになったときご自分の考えをせんさくしたり、その理由や動機を調べるよう頼んだのではなく、不動の信仰をお命じになったのである。そしてこの信仰によって私たちの魂は永遠の真理を知りそこにいこうのである。実際聖パウロは、「神は真実であり、人はみないつわりものだといわねばならない」(ロ3・4)と言っている。もし聡明な人の断言を信用せずその理由や証拠を要求することが傲慢なことであり無礼であるとするならば、神ご自身の御声を聞きながら救いに関する天来の真理についてあえて証拠を求めるものは、どれほど無謀で愚かなものであろうか。したがって何の疑問もさしはさまないだけでなく、証明を求めることもせずに、信ずべきである。

4 信じるだけでなくその信仰を公けに告白すべきこと

 司牧者はまたつぎのことを教えるべきである。つまり、「私は信じる」という人は、内的に同意するだけでなく(それは信仰の内的行為である)信仰を公然と告白することによって自分の心にあることを外に表明し、喜びと熱心さをもってそれを告白し述べ伝えなければならない。

 すべての信者は、「私は信じた、だから私は話した」(ヴルガタ訳詩114・10)と言った預言者の精神をもつようにしなければならない。またイスラエルのかしらたちに向かって「私たちとしては見たこと聞いたことを黙っているわけにはいきません」(使4・20)と答えた使徒たちを模倣すべきであり、「私は、福音を恥としない、福音は、すべての信仰者、まずユダヤ人、そしてギリシャ人を救う神の力だからである」(ロ1・16)といま述べたことをとくに証明する、「人は心で信じて義とせられ、ことばで宣言して救いを受ける」(ロ10・10)ということばを聞き奮い立つべきである。

5 キリスト者の信仰の卓越性

 「神を」信じる。このことばはキリスト教的英知の卓越性と尊厳とを示しており、それはまた私たちがどれほど神のご好意に負うところが多いかと教えている。神はいわば信仰の階段を登るかのようにしてもつとも崇高なまたもっとも望ましい事柄を私たちにお教えになったのである。

6 神に関する哲学的知識とキリスト教的英知との相違

 キリスト教的英知と哲学的知識とは大いに異なっている。哲学的知識は自然的な理性の光だけをたよりに、感覚によって把握されるものと事物の結果をもとに、多くの努力を重ねながら徐々に上昇し、ついにどうにか神の見えない事柄を見いだし、神を存在するすべての事物の原因、創造者として認め理解する。これに対してキリスト教的英知は、精神の自然的力を高め難なく天にまで引き上げ照らす神の光によって、まずすべての光の永遠の源を観想し、またその光に照らされたほかのものを観想する。それによって私たちは使徒たちのかしらが言っているように、闇から輝かしい光に呼ばれた(ぺ①2・9参照)と言う完全な心からの喜悦を味わい、また私たちの信仰は言い尽すことのできないほどの喜びをもたらすであろう(同書1・8参照)。

 信者たちが神に対して信仰の態度をとるのはもっともなことである。なぜなら神はイエレミヤが言っているように(イエ32・19参照)理解を越えた尊厳をもち、使徒聖パウロによると、近づけない光のうちに住み、だれも見たこともなくまた見ることもできないお方であり(ティ①6・16参照)、また神ご自身がモイゼにおおせられたように、かれをながめて生きながらえる人はだれもいない(出33・20参照)ほどのお方であって、私たちの魂がすべてを超越する神にまで到達するためには感覚から完全に離脱することが絶対に必要であるが、このことは人間にとってこの地上では不可能なことである。

 とはいえ聖パウロが言っているように、神は「ご自分がなにものであるかを、絶えず証しておられた。すなわち恵みをくだし、天から雨とみのりの時を与え、糧と喜びをもって、人々の心を満たしてくださった」(使14・17)。

 そのため哲学者たちは神には卑俗なものは全くないと考え、物体および混合物や合成物は一切神にふさわしくないとしてしりぞけた。そして神はあらゆる善の充満であるとし、私たちが見る善や完全さを被造物の上に及ぼす善と愛の尽きない永遠の泉であると考えていた。そして神を知者、真理の源、真理の友、義者、最高の恩人など最高の絶対的な完全さを示すあらゆる呼び名で呼んでいた。また神にはあらゆる事物、あらゆる場所に及ぶ測り知れない無限の力があると言っている。

 しかしこのようなことは聖書で一層確実にまた明白に立証されている。たとえば「神は霊である」(ヨ4・24)、「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになれ」(マ5・48)と言われており、また「神のみ前に、すべては明らかであり、ひらかれている」(へ4・13)と書かれており、「神の富と上知と知識の深さよ」(ロ11・33)とも言われている。さらに、「神は真実である」(ロ3・4)、「私は道であり、真理であり、命である」(ヨ14・6)、「あなたのおん右は正義に満ちている」(詩48・11)とある。また、「あなたはみ手を開いて、人を飽かせる」(詩145・16)とあり、さらに、「あなたの霊を、遠くはなれられようか?み顔からどこに逃げられようか?天にかけ上っても、あなたはそこにおられ、冥土を床にしても、あなたはおられる。私が暁の翼を駆って海のはてに住もうとしても、そこでも、み手は私におかれる」(詩139・7~9)と言われ、「私は天と地とをみたすものではないか?―主のおつげ―」(イエ23・24)とも書かれている。

 これらはすばらしい崇高な概念で、哲学者たちは造物界に関する考察からそれを得たのであった。そしてこれらの概念は神の本性に関する聖書の教えと合致している。しかしこれらの点でも上からの啓示が必要であることは、すでに述べたように信仰は学問や教養のないものに学者が長い年月をかけてはじめて身につけた知識をすぐに難なく解き明かすだけでなく、信仰による知識は人間の学問による知識よりもはるかに確実で、決して誤ることがないことをみれば分かるであろう。さらに信仰による知識がすぐれていることは、神の実体に関する概念をみれば明らかである。自然界の考察による方法ではすべての人が一様に神の実体を知るようにはならない。これに反して信仰の光は信じる人々にそれを教える。

 さて信仰が神について教えることはすべて信経の箇条の中に含まれている。そこでは神の本質の単一性、三つのペルソナの区別、さらに「神を求めるものに報いをくださる」(へ11・6)と聖パウロが言っているとおり、神は私たちの究極目的であり、超自然的な永遠の幸福はかれから期待すべきことが述べられている。聖パウロよりずっと以前に預言者イザヤはこの至福がいかに大きいか、また人間がそれを知ることができるかどうかをつぎのように表現している。「そのことについては、昔から、話をきいたこともない。あなた以外の神が、自分により頼むもののために、これほどのことをされたと耳に聞いたこともなく、目で見たこともない」(イ64・3)。

7 神は唯一である

 すでに述べたことからして、多くの神があるのではなくただ御一体の神があることを告白すべきである。私たちは、神は最高の善で、完全さそのものであると知っている。さて絶対的な完全さを多くのものがもつことは不可能である。最高、絶対者であるためにわずかでも欠けるところがあるならば、そのものは不完全であり神ではありえない。神が唯一であることは聖書の多くの箇所で言明されている。「イスラエルよ、聞け、われわれの神、主は唯一のものである」(第6・4)。さらにそれは神の掟でもある。「私以外の、どんなものも、神にするな」(出20・3)。そして神はしばしば預言者イザヤをとおしてこうおおせられた。「私ははじめのもの、最後のもの、私のほかに神はない」(イ44・6)。最後に、聖パウロもまたはっきりと、「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エ4・5)と言っている。

8 時として被造物が神と呼ばれるわけ

 聖書は時として被造物に対して神という名称を用いているが、これに驚いてはならない。なるほど聖書は預言者や士師たちを神と呼んでいるが、それは不敬虔をもって愚かにも多くの神々をつくり出した異教徒に倣ったのではなく、普通の言い方に従って神から与えられたすぐれた才能や働きを言い表わすためである。したがってキリスト教信仰はニケア公会議の信経に言われているように神はその本性において、実体において、本質において唯一であると信じ宣言する。(1) さらに高くのぼってこのキリスト教信仰は神の唯一性と同時に、その唯一性における三位を認めまた三位における唯一性を認めている。(2) つぎにこの奥義について説明することにしよう。

9 神はすべての人の父であるが、特別にキリスト者の父である

 信経にはつぎに、「父」という語がある。神は多くの理由から父と呼ばれる。したがってここではどのような意味で父と呼ぶのかそれを説明すべきであろう。信仰の光によってやみを取り払ってもらえなかったものでもある人々は、神とは永遠の実体ですべてはかれに由来すること、すべてのものはかれの摂理によって支配され各自の秩序と状態を保っていることを理解していた。そしてかれらは家族の発展の基になりその家族を自分の助言と権威をもって指導していくものを父と呼んでいるところから、すべての事物の創造者で支配者である神を同じように父と呼んだのである。

 聖書も、万物の創造や全能の力、感嘆すべき摂理が神のものであることを示すために父ということばを用いている。実際つぎのように書かれている。「主はあなたを生んだ、あなたの父ではないのか?あなたをつくり支えるのは、主ではないのか?(第32・6)。また「私たちはみな、ただひとりの父をもっている。私たちをおつくりになったのはただおひとりの神ではないか?」(マラ2・10)とも書かれている。

 しかし神は新約聖書においてよりひんぱんに父と呼ばれ、特別にキリスト者の父と呼ばれている。かれらは恐れの中に生きさせる奴隷の霊を受けたのではなく養子の霊を受け、これによって神を「アッバ、父よ」と呼ぶのである(ロ8・15参照)。「私たちは神の子と称されるほどおん父からはかりがたい愛を与えられた。私たちは神の子である」(ヨ①3・1)。「私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、神の世つぎであって、キリストとともに世つぎである」(ロ8・17)。「多くの兄弟の長子とするためである」(ロ8・29)、「私たちを兄弟と呼ぶのを恥とされなかった」(へ2・11)。

 したがって神と創造や摂理との関係づける一般的な面から言っても、あるいは特別にキリスト者の霊的養子関係の面から言っても、信者が神を父として認め宣言するのは当然のことである。

10 父という語に秘められている奥義とペルソナについて

 いま述べた説明のほかに、信者は父ということばを聞くとき、より崇高な奥義に心を向けなければならない。実際、神が住んでおられる近づけない光(ティ①6・16)の隠され秘められたもの、人間の理性と知性が期待することも推測することもできないことを、神の啓示は父ということばをもって示しはじめるのである。

 つまりこの呼び名は、神の一つの本性にはただ一つのペルソナだけでなくいくつかのペルソナを認めなければならないことを示している。実際、神性は御一体であるが三つのペルソナがある。それは他のいかなるものからも生まれない御父のペルソナと、すべての時代に先立って御父からお生まれになった御子のペルソナ、そして、永遠から御父と御子から発出した聖霊のペルソナである。御父は唯一の神性をもつ第一のペルソナで、その御独り子と聖霊とともに唯一の神、唯一の主であるが、この三方は一つのペルソナを構成するのではなく、ただ一つの本性をもった三つのペルソナである。(3) これらのペルソナの間にはどんなわずかな差異や不平等も考えられず、ただペルソナ相互間の特性によって区別されている。つまり御父は生まれざるものであり、御子は御父から生まれたものである。そして聖霊は御父と御子から発出する。さらに私たちは、三つのペルソナは同一の本性、同一の実体をもっていることを告白する。つまり私たちは、永遠の真の神に関する信仰告白では各ペルソナの独自性と実体の唯一性、三位間の平等を敬虔と真心をこめてあがめるべきことを宣言するのである。(4)

 したがって、御父は第一のペルソナであるとは言ってもこれを三位間の前後、大小の差別を示すものと受け取ってはならない。そのような不信仰は信者の考えの中にあってはならない。三つのペルソナは同じ永遠性、同じ栄光の輝きをもっているというのがキリスト教の信仰である。とはいえ御父は根源のない根源であるから、確信をもって何のためらいもなく、かれは第一のペルソナであると言明できる。そしてかれは父という特性によって他のペルソナと区別され、かれだけが、永遠から御子を生む。したがって神は常に同時に御父でもあったことを思い起させるため、この信仰告白においては神と御父の名を一緒に用いているのである。

 これほど深遠で理解困難な真理を知りまた説教すること以上に微妙なものはなく、またこの点における誤りほど重大なものはないのであるから、司牧者はこの奥義の説明に使われる、本質、ペルソナという独自のことばに小心なまでに留意し、唯一性は本質について言われ、区別はペルソナについて言われていることを信者たちが分かるようにしなければならない。しかし、「尊厳を探るものは栄光によって圧倒されるであろう」(格25・27)ということばを思い起こし、この点について微細なこまごまとした探求はさけ、神がこの真理を私たちにお教えになったことを信仰をもって探り確かめるだけで満足すべきである(神の啓示を信じないことははなはだしく愚かなことであり、最大の不幸である)。私たちの主イエズス・キリストは使徒たちに、「あなたたちは諸国に弟子をつくりに行き、聖父と聖子と聖霊との、御名によって洗礼を授けよ」(マ28・19)とおおせられており、使徒聖ヨハネも、「天においては、御父とみことばと聖霊、この三つは一致する」(ヨ5・7)と言っている。

 さて神のご慈愛によってこれらのことを信じている人々には、無からすべてのものを造り出しそれを巧みにつかさどり(知8・1参照)、ご自分の子となる能力を授けて(ヨ1・12参照)聖なる三位一体の奥義を人間の塊に啓示された神に向かい、つぎのような恵みを絶えず熱心に祈り求めなければならない。すなわちいつか天国に受入れられ、かれを見、知ることによって、ご自分と平等で類似しておられる御子を生む御父の言い知れぬ豊かさを仰ぎ見ることができるよう、また御父と御子とは完全に平等で両者から発出する聖霊という愛の霊が、永遠不可分のきずなをもって生むものと生まれたものとを一致させるのを仰ぎ見ることができるよう、さらに三位間の本質の唯一性と三つのペルソナの完全な区別とを仰ぎ見ることができるよう懇願すべきである。

11 「全能」の意味

 「全能の」神。聖書は、どれほどの信仰と熱心さとをもって神の全能をあがめなくてはならないかを示すため、多くの名称を用いて神の無限の力とその最高の尊厳を説明している。司牧者はまず、神はいつも全能の力をもつとされていることに注目させなければならない。神はご自身のことを「私は全能の主である」(創17・1)とおおせられた。またヤコブはヨゼフのところに子供たちを送るに当って、「私の全能の神なる主が、あの人の前にあなたたちにあわれみを得させてくだいますように」(創43・14)と祈っている。黙示録にも、「かつて在り、今もあり、のちに来られるお方、主なる神、全能のお方」(黙4・8参照)と書かれている。ほかの箇所には、「全能の神の日」という表現もある(黙16・14参照)。またいろいろな表現を用いて神が全能であることを示している。「神には、おできにならないことはありません」(ル1・37)。「主の手は短いというのか?」(民11・23)、「あなたが望みさえすれば、権勢はいつもあなたの手元にある」(知12・18)。その他この種の表現は多くあるが、それが言おうとしていることは明らかに全能という一語で表わすことができる。 したがって、神が実現できないものは何も存在せず、またそのようなものを考えたり想像したりすることもできないことが分る。神は、それがどんなに偉大なことであれ何らかの形で私たちが考えつくこと、たとえばすべてを無にもどしたり、一瞬のうちに無から多くの世界を造ったりする力をもっておられるだけでなく、それよりもはるかに高遠な、人間の理性や知性の推測の及ばない多くのものにまでその能力は及ぶのである。

12 神は罪を犯したり誤ることはできない

 全能であるとはいっても神は偽りを言ったり、だましたり、だまされたり、また罪を犯したり、消滅したりすることはできない。またそれが何であれ知らないということもありえない。そのようなことは不完全な行為をする存在者においてみられることであり、神の行為はいつも無限に完全であるので、そのようなことを行うことはできない。そのようなことができるのは力の弱いものであって、最高、無限の能力をもっておられる神は行うことはできない。このように私たちは、神が全能であることを信じると同時に神の本性の最高の完全さと合致調和しないものはすべて神と無関係であることも知っている。

13 神の属性のうち全能だけを取り上げるわけ

 信経では神のその他の属性を省略し神の全能だけを信ずべきこととしているが、それは正しくまた賢明なことであった。なぜなら神を全能者として認めることによって、それと同時に当然かれがすべてのことを知りまたすべてがかれの主権と支配に従属していることを告白することになるからである。なお神が全能であることを固く信じることによって、その当然の結果として全能であるために不可欠な、その他の完全さをたしかに神はおもちになっていることを認めざるをえないのである。

 さらに、神にとって不可能なことは何もないという確信ほど私たちの信仰と希望を強めうるものはない。それ以後信ずべきこととして教えられることはすべて、たとえそれがどれほど偉大なもの、不可解なものであっても、また自然の秩序や法則を越えるものであっても、一度神の全能について知った後では何のためらいもなく受入れられるであろう。また神の啓示の示すことがすぐれたものであればあるほど、一層喜んで信じるのが当然であると考えるようになるであろう。なお何かの善を期待する場合、それがどんなに大きくとも私たちの信頼をなくさせるようなことはなく、かえって全能の神に不可能なことは何もないことをしばしば思い起こして刺激され勇気づけられることであろう。

 したがって私たちは隣人の善と利益のために何か困難なことをしなければならない場合、あるいは何かを神に祈願しようとする場合、神の全能に対する信仰をもっていなければならない。前者の場合については主ご自身、使徒たちの不信仰をとがめながらこう教えておられる。「あなたたちに、からしだね一つぶほどの信仰があったら、この山に“ここからあそこへ移れ”といえば移るにちがいない」(マ17・20)。後者の場合について聖ヤコボはこう書いている。「迷うことなく、信仰をもって求めよ。迷う者は、風に巻き上げられ動かされる海の波に似ている。こういう人は、主から何かを受けようと期待するな」(ヤ1・6~7)。

 さらにこの信仰はその他多くの恵みと利益をもたらす。とくに、すべてにおいて心の節制と謙遜とをもつように教える。使徒たちのかしらは、「神の力あるみ手のもとにへりくだれ」(ぺ①5・6)と言っている。また恐れる理由もないのに恐れることのないように(詩53・6参照)、ただ私たちと私たちのものすべてをみ手にしておられる(知7・8参照)神のみを恐れる(詩33・8参照)ことを教える。救い主はこうおおせられた。「あなたたちが恐れねばならぬのは、だれかを教えよう。殺したのち、ゲヘンナに投げ入れる権力あるお方をおそれよ」(ル12・5)・さいごに、この信仰は神がお与えになる多大の恵みを認め、それを感謝するのに役立つ。すなわち神が全能であることを思うとき、しばしば「全能のお方が私に偉大なことをなさった」(ル1・49)と叫ばないような恩知らずの人はだれもいないであろう。

14 御子と聖霊も全能である

 この簡条では「全能の父」と言われているが、全能ということは御父だけについて言われ、御子や聖霊については言われないというような誤った考えをもってはならない。なぜなら父なる神、子なる神、聖霊である神と言うけれども三つの神があるのではなく、ただ一つの神があるだけである。それと同じく、御父、御子、聖霊は全能であると言ってもそれは三つの全能者があると言っているのではなく、ただ独りの全能者があることを認めている。しかしながら御父を全能者と呼ぶのは御父がすべてのものの起源であるという特別の理由からで、それはちょうど御父の、永遠のみことばであるところから御子を英知と呼び、御父と御子の両者間の愛であるところから聖霊を愛とするのと同じである。しかしこれらおよびその他の特性はカトリック教会の信仰の規定に従って三つのペルソナに共通して言うことができるのである。

15 どのようにして神は天地をお造りになったか

 「天地の創造主」。全能の神に関するこれまでの説明がどれほど必要であったかは、これから述べようとする万物の創造に関する説明で明らかになる。なぜならこれほどの不思議なわざも創造主の無限の能力を固く信じている人には容易に信じることができるからである。さて神はある材料を用いて世界をこしらえたのではなく無からお造りになったのである。それも何らかの圧力を受けたり必要にせまられたからではなく、自発的にご自分から望んでそうされたのである。かれを創造のわざに駆り立てた唯一の動機は造り出したものにご自分の善を分け与えることであった。実際、「私は神に言う、『あなたは、私の主、あなた以外に、私の善はない』」(詩16・2)と預言者ダヴィドが言っているように、神はご自身においてまたご自身によって至福であり何も必要とされないのである。神はご自分の善性の導くままにお望みのものをすべてお造りになったが(詩115・3参照)、それらの手本あるいは形相にされたのは神ご自身である。すべてのものの範型は神の知性に含まれているのであって、この最大の芸術家はご自分の中に手本を見、ご自分に個有の最高の英知と無限の力とをもってその手本に似せて宇宙全体を初めにお造りになったのである。「神は言われた。そしてそれらはできた。神は命じられた、そしてそれらは造られた」(詩33・9参照)。

16 「天と地」の意味

 ここでいう「天と地」は天と地にある一切のものを含んでいる。つまり神は預言者が神の御指のわざ(詩8・4参照)と呼んでいる天をお造りになっただけでなく、太陽、月およびその他の星辰の光をもって天を飾られ、またこれ以上早くまた規則的なものは何もないほどの恒常的な運動を天体に与え、季節と日と年とを分けるしるしとされた(創1・14参照)。

17 天使の創造について

 神はご自分のみそばにはべらせ奉仕させるため純粋に精神的な存在をもつものおよび数多くの天使をお造りになり、感嘆すべき恩恵と能力のたまものをお与えになった。聖書が悪魔は真理にとどまらなかった(ヨ8・44参照)と言っているところから、悪魔と神に背いたその他の天使達がその創造の時から恩恵を与えられていた事は明らかである。これについて聖アウグスティヌスは「神は天使たちの本性を造ると同時に恩恵を与え、まっすぐな意志すなわちかれらをご自分に一致させる清らかな愛をもつものとされた」(5)と言っている。したがって聖なる天使たちはいつもこの正しい意志つまり神の愛をもっていたと言わなければならない。ところで天使たちの知識について聖書は、「私のあるじは、神の御使いと同じくらい賢いお方ですからこそ、地上のすべてのことを、よくご存知に違いありません」(サ②14・20)と言っている。さらにダヴィドは天使たちが能力をもっていることを証明して、「みことばの声をきき、その命をおこなう力ある者よ」(詩103・20)と言っている。そのため聖書ではしばしば主の力、軍隊(詩103・21、148・2、イ6・3など参照)と呼ばれている。

 このようにすべての天使に超自然的なたまものが与えられていた。しかしそのうちの多くのものは自分たちの父であり創造主である神に背き、天の住まいを追われ、地中の非常に暗い牢獄に閉じこめられ、その傲慢のために永劫の罰を受けている。それについて聖ペトロは、「神は罪をおかした天使たちをゆるさず、地獄に投げ入れ、闇の淵にすてて審判の時まで見張らせ」(ぺ②2・4)と言っている。

18 地の創造について

 一方、神は地をそのもといの上にすえ(詩104・5参照)、みことばをもってそれを宇宙の中心部におかれた。神は山々を高め、定められたところに谷々をもうけ、また水の勢いが地上にまで及ぶことのないように水の越えられない境を定め、地を覆うことのないようにされた(詩104・8~9参照)。そして木やあらゆる種類の草や花をもって地を覆いこれを飾られただけでなく、さらに無数の種類の動物をもって、以後に海と空とを満たされたように地をも満たされた。

19 人間の創造

 最後に神は地のちりで人間の体を造り(創2・7参照)、苦しむことも死ぬこともないものにされた。それは体そのものの本質から来るものではなく神の恵みによるものである。魂について言うと神はご自分にかたどりご自分に似せてこれを造り(創1・26参照)自由意志をお与えになった。そして魂のすべての働きと望みを決して理性の命令にもとることのないようにされた。さらに「原始義」という感嘆すべきたまものをお与えになり、ほかの動物を人間に服従させられた。司牧者は信者たちを教えるにあたって、これらのことを容易に創世記から引き出すことができるであろう。

20 「天と地」ということばには、見えるもの見えないものすべてが含まれている

 このように天地の創造は万物の創造という意味にとらなくてはならない。すでに預言者ダヴィドはこのことをつぎのように要約している。「天はあなたのもの、地もまたあなたのもの、世と、そこにあるもの、それはあなたに立てられた」(詩89・12)。ニケア公会議の教父たちは「見えるもの見えないもの」という二語を信経に加えて、より簡潔に表わしている。(6)実際、神から造られたと言われる万物はどれも、感覚によってとらえることのできるものつまり見えるものか、あるいは知性によってしかとらえることのできないつまり見えないものかのいずれかである。

21 神の支配と摂理について

 神が万物の創造主であり創始者であることを信じると同時に創造の業が完成したあとの被造物は、存続するために神の無限の力を必要とすることを忘れてはならない。実際、万物は存在しはじめるために創造主の最高の能力、英知、慈愛を必要としたが、それと同じように被造物は神の絶えざる摂理によって支えられ、初め造られた時と同じ力をもって維持されないかぎり、すぐに無に返ってしまう。そのことを聖書は、「あなたがお望みにならなかった物が、存在するはずがない。あなたがお呼び出しにならなかった物が、どうして存在したろうか?」(知11・25)と言っている。

22 神の支配は二次的原因を排除しない

 神は存在する万物をその摂理をもって支え、治められるだけでなく、運動するものあるいは何かを行うものにその運動と行為のための力をお与えになる。しかしそれは二次的原因の作用を妨げるのではなく、それに先がけて働く。それはきわめてひそやかな力で「この世の果てから果てまで、その力をおよぼし、すべてのものを、巧みに司どる」(知8・1)と知恵者が言っているように、すべてのものに及んでいる。知らずに神を拝んでいたアテネ人に対する聖パウロの説教にもこのことが言われている。「神は、私たちから遠くはなれておいでになる方ではないからです。私たちは神の中に生き、動き、存在するものです」(使17・27~28)。

23 創造は御父だけの業ではない。

 第一条に関する説明を完結するためには、創造の業は聖にして不可分の三位一体の全部のペルソナに共通のものであることを付け加えなければならない。実際、使徒信経のこの箇条では御父が天地の創造者であると宣言されているが、聖書は御子について「万物はかれによってつくられた」(ヨ1・3)と述べ、また聖霊については、「水の上に神の霊がただよっていた」(創1・2)と言い他の箇所では「天は、主のみことばによって、その軍勢は主の口の息吹によってつくられた」(詩33・6)と述べているからである。

訳注
(1) Conc. Nicaenum, Symbolum Nicaenum, DS 125
(2) Symbolum “quicumque” pseudo-Athana-sianum, DS 75
(3) ibid.
(4) ibid.参照
(5) S. Augustinus, de Civ. Dei, lib. 12, cap. 9
(6) Symbolum Nicaenum, DS 125