司教協議会へ嘆願書を提出しました(7/17 着)

ローマ公教要理 使徒信経の部 第三章 | 我らの主イエズス・キリスト

 使徒信経の部 目次

第三章 第二条 われらの主イエズス・キリストを信じます

1 第二条の告白によってもたらされる恵み

人々はこの箇条を信じ告白することによって素晴しい恵みを受ける。そのことを聖ヨハネはつぎのように証言している。「イエズスが神の御子であると宣言するものには、神がその中にとどまられ、かれは神にとどまる」(ヨ①4・15)。使徒たちのかしらが主キリストから至福を公に告げられたことも、同じことを証明している。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いな人だ。その啓示は、血肉からのものではなくて、天にまします私の父から出たのである」(マ16・17)。実際、この箇条は私たちの救いとあがないの確固たる基礎をなすものである。

2 人類の罪とキリストによるあがない

この箇条に示されている感嘆すべき恵みは、とくに最初の人間が神から受けた至福の状態を失ったということから理解させるのであるから、司牧者は信者たちに人類全体に共通の苦悩と不幸の原因とを知らせるようにしなければならない。アダムは、「園のすべての木の実を自由にたべてもよい。だが、善悪の知識の木の実を食べてはいけない。それを食べたら、きっと死なねばならなくなるからである」(創2・16~17)という神のご命令に背き禁令を犯して、創造のとき与えられていた聖性と義を失い、その他の悪を受け、最大の不幸に陥った。それについてはトリエント公会議がくわしく説明している。(1) そして、かれの罪とその罰はアダムだけにとどまらず、種あるいは原因のような作用をして、かれのすべての子孫に伝ったことを思い起すべきである。

3 キリストだけが人類を救うことができる

こうして人類はあれほどの尊厳の高みから転落したのであるが、それを助け上げ以前の状態に返すことは人間や天使の力の及ぶところではなかった。したがってこの破滅と不幸から立ち上がる手段としては、神の御子の無限の力しかなかった。かれは私たちの肉の弱さをおとりになり罪の限りない暴力を排除し(ヨ1・29参照)、ご自分の御血をもって私たちを神と和ぼくさせた(ロ5・10参照)。

4 キリストに関する預言

さて人類にとって、キリストによるあがないに対する信仰とその告白は救いを得るために常に必要であった。そのため神は世の初めからキリストのことを予告された。罪を犯してすぐ人間が断罪されたとき、つぎのようなことばであがないの希望が示され、人問が解放されることによって悪魔自身が断罪されることが告げられている。「おまえとかの女の間に、またおまえの子孫とかの女の子孫との間に、私は敵対をおこう、かれはおまえの頭をふみくだき、おまえは、かれのかかとをかむであろう」(創3・15)。

その後神はしばしば同じ約束を確認され、特別に愛する人々にご自分の計画を一層明らかにされた。なかでも太祖アブラハムにこの奥義をしばしばお示しになったが、かれがご自分の命令に従い自分の息子イザアクをいけにえにささげようとしたそのとき、さらにはっきりとそれをお示しになった。「あなたが、このようにして、その息子、そのひとり子を惜しまなかったので、私はあなたをゆたかに祝福し、その子孫を空の星、浜のまさごのようにふやそう。あなたの子孫は、敵の門をうちとり、地のすべての民は、あなたの子孫によって、あなたが私の声にしたがったむくいとして、祝福のあいさつをかわすだろう」(創22・16~18)。このことばから推して、恐るべき悪魔の支配からすべての人を解放し救いをもたらすお方がアブラハムの子孫から出ることが容易に結論できる。さてこの預言された解放者とは、アブラハムの子孫から人としてお生まれになる神の子であった。その後まもなく神はこの約束の記憶を保っていくため、アブラハムの孫ヤコブと同じ契約を結ばれた。聖書の伝えるところによるとヤコブは、一つの階段が地上に立てられ、その頂は天にまで達し、神の天使たちが上ったり降りたりしているのを夢で見た(創28・12参照)。そして主がこの階段によりかかって、かれにこう言われるのを聞いた。「私はあなたの父アブラハムの神、イザアクの神、主である。あなたがよこたわっている地を、私は、あなたとあなたの子孫とにあたえよう。その子孫は土のちりのようにふえて、東西、南北にひろがり、あなたとあなたの子孫のことで、地上のすべての国民は祝福のあいさつをかわすだろう」(創28・13~14)。

その後も神はご自分の約束の記憶を新たにされ、アブラハムの子孫およびその他の人々に救い主の待望をかき立てることをおやめにならなかった。すなわち救い主にして私たちの主であるイエズス・キリストがもたらされるはずの善がどのようなもので、またどれほどのものであるかを、ものを言わぬ物は表象によって、人々は預言をもって表わしたのである。預言者たちは天からの光に心を照らされ、神の子の誕生、人間としてお生まれになるかれの感嘆すべき御業、教え、習慣、生活、死、復活などその他のかれの奥義について、それらすべてをあたかも目撃したかのようにはっきりと教え、人々に預言した。それは、預言者による預言と使徒たちによる説教、また昔の太祖たちの信仰と私たちの信仰との間には未来と過去という時間の隔たりを除いて何の相違もないと思われるほどである。つぎにこの箇条のそれぞれのことばを説明することにしよう。

5 イエズスという語について

イエズスとは神であると同時に人であるお方の名前で、救うものという意味をもっている。これは偶然にあるいは人間の判断や意思によるものではなく、神のご計画に従いそのご命令によって付けられたのである。天使は母マリアに向かってこう言っている。「あなたはみごもって子を生むでしょう。その子をイエズスと名づけなさい」(ル1・31)。その後マリアの夫ヨゼフに対しても子供にこの名前を付けるよう命じ、さらにそのわけを説明している。「ダヴィドの子ヨゼフよ、ためらわずに、マリアをあなたの妻としてむかえよ。マリアは、聖霊によってみごもっている。かの女は子を生むから、あなたは、その子をイエズスと名づけよ。なぜなら、かれは、み民をその罪から救うお方だからである」(マ1・20~21)。

6 ほかの人の場合とは違うこと

聖書によると多くの人がこの同じ名前をもっていた。ヌンの子もイエズスと呼ばれていた。かれはモイゼのあとを継ぎ、モイゼがエジプトから解放しながら約束の地に導きえなかった選民を、かれに代わってそこに導き入れた。心の英知を書き残したイエルザレムのシラの子や大祭司ヨセデクの子もイエズスと呼ばれていた。しかしこの名前はどれほど私たちの救い主に適した名前であろうか。かれはある一民族だけでなく全時代のすべての民族に、またエジプトでの飢餓やバビロンの圧制に苦しめられている人々だけでなく死のかげに座している人々、罪と悪魔への苛酷な隷属にあえいでいる人々にも、光、自由、救いをもたらした。また天の王国に入る権利とその遺産をかれらに得させ、かれらを父なる神と和睦させたのである。イエズスと呼ばれたこれらの人々は、いま述べたような恵みを人々にもたらした私たちの主イエズス・キリストの象徴にすぎない。また神のご命令によって神の子を呼ぶために用いられたその他の名前は、すべてこのイエズスという一つの名前に集約される。なぜならそのような名前は、かれによる救いのある点を表明しているのに対して、イエズスという名前はそれだけで全人類の救いの効果とその広さを表わしているからである。

7 「キリスト」という語の意味

イエズスという名前にキリストという名称が付け加えられている。これは注油されたものという意味で、敬称でありまた職名でもある。固有名詞ではなく多くの人々に共通して用いられる名詞である。たとえば私たちの先祖は司祭(出29・7、40・13、詩105・15参照)や王たち(サ①12・5参照)をキリストと呼んでいた。それは神がかれらの職務の尊厳のために注油することをお命じになっていたからである。つまり司祭は絶え間ない祈りをもって民を神にゆだね、神に祈りをささげまた民のために祈る。王は民の支配を託されている。またかれは法を守らせ、罪のない人々の生活を保護し犯罪人の横暴を罰する役目を帯びている。このように両者の役務はともに、この地上における神の威光を表わしているところから、王位や司祭職のために選ばれたものは注油されていたのである。また預言者は、永遠の神の代弁者および仲介者として天の奥義を私たちに明かし、有益な教えと未来の預言をもって生活の改善を勧めるもので、かれらもまた注油されるのがならわしであった。

さて私たちの救い主イエズス・キリストはこの世に来られ、預言者、司祭、王という三つの役割および役務をお引き受けになった。そのためかれはそれらの役務のための注油を受け、キリストと呼ばれたのである。しかしそれは人の手によってではなく天の御父ご自身によってなされ、物質的な油ではなく霊的な油つまり聖霊の充満と恩恵およびすべてのたまものがかれの聖なる魂に、どのような被造物も受けることのできないほど豊かに注がれることによってなされた。預言者ダヴィドはあがない主ご自身に話しかけながら、このことをつぎのように言っている。「あなたは正義を愛し、悪を憎んだ。そのため、あなたの神なる主は、あなたに油を注ぎ、あなたのともがらの誰にもまさって、あなたによろこびの油をそそがれた」(詩45・8)。預言者イザヤはさらにはっきり、こう言っている。「神なる主の霊は私の上にある。主は私に、油をそそがれた。くるしむものによい便りをつげ、くだかれた心のきずをまき、どれいに自由を、とらわれ人に出獄をつげるために」(イ61・1)。

このように、イエズス・キリストは預言者であり最高の師であって、私たちに神の御旨を伝え、かれのみ教えによって人々は天の御父を知るようになった。預言者という名称をもっていたものはすべてイエズスの弟子であり、すべての人を救いに来られる預言者キリストの到来をとくに予告するために送られたのであった。したがってこの預言者という名称はイエズスにもっとも正確にまた明白にあてはまるものであった。

キリストはまた司祭である。しかしかれは旧約におけるレヴィ族の司祭たちの位階による司祭ではなく、「あなたは永遠の司祭、メルキセデクの位にひとしい」(詩110・4)と預言者ダヴィドが歌っている、あの位階による司祭である。聖パウロはヘブライ人への書簡の中で、この詩篇の一節をくわしく説明している(へ5・6参照)。

なお私たちは、キリストが神としてだけでなく私たちと同じ本性をもつ人間としても王であることを認める。天使はキリストについて、「永遠にヤコブの家をおさめ、その国はおわることがない」(ル1・33)と言っている。キリストの王国は霊的な永遠の王国で、この地上ではじまり天国で完成される。キリストは王としての役務を感嘆すべき配慮をもってご自分の教会に対して果たされる。教会を治め、敵の攻撃から守り、また教会に法をお与えになる。さらに聖性と正義をお与えになるだけでなく、存続していくための能力と手段もお与えになる。この王国には善人も悪人も含まれているので、原則的にはすべての人がこの王国に属しているとはいえ、神の掟を守り完全で罪のない生活をするものが他のものにまして私たちの王の慈愛と恵みを享受するのである。またキリストはたしかに偉大な王の子孫であったとはいえ(マ1・6~8、ル3・31参照)、かれがこの王国を得たのは世しゅうや人間的な権利によってではない。人間性がもちうる最高の力、尊厳、偉大さを神がかれにお与えになったからこそ、かれは王である(マ28・18参照)。全世界の支配はかれにゆだねられており、すべては裁きの日に完全に全面的にかれの下におかれるであろう。そしてそれはすでにはじめられている。

8 イエズス・キリストは神のおん独り子である

「そのおん独り子」ということばは、イエズスに関するさらに深い奥義を示しており、信者たちはこれを信じ黙想しなければならない。キリストは神の子で、かれを永遠においてお生みになった御父と全く同じまことの神である。私たちはさらに、かれが聖なる三位一体の第二のペルソナで、他の二つのペルソナと全く平等であることを告白する。実際、三つのペルソナは同一の本質、意志、能力をもっており、したがってかれらの間に不平等や差異はありえないし、また考えることもできない。このことは聖書の多くの箇所で明らかにされているが、とくに聖ヨハネはつぎのように証明している。「はじめにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった」(ヨ1・1)。

ところでイエズスが神の子であるとは言っても、かれの誕生について現世的なことや人間的なことを決して考えてはならない。永遠において御父が御子をお生みになった行為は、理性によって把握することも完全に理解することも決してできない。固くそれを信じ最大の信心をもってそれをあがめるべきである。そしてこの奥義を前にしていわば感きわまって、かの預言者と一緒に、「だれが、かれの誕生について語るだろうか」(ヴルガタ訳 イ53・8)と言うだけである。したがって御子は御父と同一の本性、同一の能力、同一の英知をもっておられることを信ずべきで、ニケア公会議の信経はつぎのように明確に宣言している。「また唯一の主、神のおん独り子イエズス・キリストを信ずる。かれはよろず世の先に父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、父と一体なり。すべては主によりて造られたり」(2)

9 キリストにおける二つの誕生および父子関係について

永遠の誕生の方法および性質を説明するためにはいろいろの比較が用いられているが、そのうちもっとも適当と思われるのは、私たちの知性の認識作用である。そのため聖ヨハネは御子を神の「みことば」と呼んでいる(ヨ1・1参照)。私たちの知性はある仕方で自分を理解し自分の像をつくる。神学者たちはそれをことばと呼んでいる。これは人間的なものと神的なものとを比較できるかぎりにおいてであるが、神はご自分を理解することによって永遠のみことばを生み出す。とはいえ信仰の教えるところを黙想する方がすぐれている。そして真心からイエズス・キリストがまことの神、まことの人であり、神としてはよろず世の先に御父から生まれ、人としてはおとめマリアから時間の中に生まれたことを信じ告白すべきである。私たちは御子の二重の誕生を認めるが、御子は一人であることを信じている。なぜならペルソナは一つで、そこで神性と人性とは一致しているからである。

10 キリストが兄弟たちをもっているという意味

神的誕生という点からいうと、かれは兄弟も共同の遺産後継者ももたない。かれは御父のおん独り子であり、私たち人間はかれの被造物で、かれの手になる作品にすぎない。しかし人間としての誕生という点からいうと、かれは多くの人を兄弟とお呼びになっただけでなく、実際に兄弟として取り扱われ、ご自分と一緒に御父の遺産である栄光を受けられるようにされる。その人々とは信仰をもってキリストを受け入れ、この信仰を実際に愛の業をもって告白する人々のことである。そのため聖パウロはキリストを「多くの兄弟の長子」(ロ8・29)と呼んでいる。

11 キリストは神としてだけでなく、人としても私たちの主である

「われらの主」。聖書は私たちの救い主について多くのことを述べているが、そのうちのあるものは神としてのかれについて言われ、他のものは人間としてのかれについて言われている。実際、キリストは二つの本性から来るそれぞれ異なった特性をもっている。私たちは、キリストは全能であり、永遠、無限であると言うけれども、これらは神性から来る特性である。また、キリストは苦しみ、死に、復活したと言うが、これが人性について言われていることは明らかである。しかしあるものは両方の本性について言うことができる。たとえば、ここで言われている「われらの主」がそれである。

たしかにかれは御父と同じく永遠の神であり、また同様に御父と同じく万物の創造主である。御父とは別々の神ではなく全く同一の神であり、したがってかれと御父とは別々の主ではなく同一の主である。しかし多くの理由から私たちは人間としてのかれを私たちの主と正しく呼ぶことができる。それは、まずかれが私たちのあがない主であり、私たちを罪から解放されたことによってほんとうに私たちの主であり、またそう呼ばれる権利を得られたからである。聖パウロはつぎのように教えている。「かれは・・・・・・自分自身を無とされた。・・・・・・死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それはイエズスのみ名のまえに、天にあるものも地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が父なる神の栄光をあがめ、『イエズス・キリストは、主である』といいあらわすためである」(フィ2・7~11)。キリストご自身も復活後、「私には、天と地との一切の権力が与えられている」(マ28・18)とおおせられている。また、かれは一つのペルソナに神性と人性という二つの本性を合わせもっておられることからも、主と言われる。つまりたとえ私たちのために死なれなかったとしても、この感嘆すべき一致があるからこそ、創造された万物全体の主として、またとくにかれに従い最大の熱心さをもって仕える信者たちの主としてあがめられる資格をもっているのである。

12 キリストに自分をゆだねること

したがって司牧者は、私たちはキリストのみ名にあやかってキリスト者と呼ばれていること、またかれが豊かにお与えになったお恵みについて無知であってはならないこと、さらにキリストはご自分で信仰を通じてそれらのことを私たちに知らせようとされたのであるから当然私たちは他の人々にまさってあがない主である主に、とこしえに自分をゆだねささげなければならないことを信者たちに教えるべきである。実際、私たちは洗礼によって奥義を授かるに当り、教会の入口でそのことを約束した。つまり悪魔を捨て、自分を全くキリストに渡すと宣言したのである。キリストの軍隊に入隊するに当ってあれほど荘厳で聖なる約束をもって自分を主にささげた私たちが、教会に入って神の御旨と掟を知り諸秘跡による恩恵を受けたのち、あたかも洗礼の洗い清めによってあがない主である主キリストにではなく悪魔と世間に身をささげたかのように、世間と悪魔の教えや掟に従って生きることがあるとするならば、どれほどの重刑を課されてしかるべきであろうか。一方、私たちに対してこれほどまでに寛大で好意的な神の聖心を思うとき、神に対する愛に燃え立たない人はいないであろう。実際、私たちは主の御血をもってあがなわれた奴隷としてその権能と支配の下にあるものなのに、かれは私たちを奴隷とは呼ばず、友あるいは兄弟とお呼びになるほどの愛をもっておられるのである(ヨ15・14~15参照)。これがキリストを私たちの主として認め、敬い、あがめなくてはならない、最も正しいまたおそらく最大の理由である。

訳注
(1) Conc. Tridentinum, Sess. V et VI, DS 1510-1482参照
(2) Conc. Nicaenum, Symbolum Nicaenum, DS 125 参照