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ローマ公教要理 使徒信経の部 第四章 | 聖霊によるキリスト御託身と誕生の奥義、童貞マリア

 使徒信経の部 目次

第四章 第三条 聖霊によりて宿り、おとめマリアから生まれた

1 第三条の意味

 前章の説明から信者たちは、神がもっとも苛酷な暴君の奴隷となっていた人類を解放して自由の身とし、多くのすぐれた恵みをお与えになったことを理解できたことであろう。しかしながらそれをなしとげるためにお用いになったご計画や手段について考えるとき、私たちに対する神の善良さと慈愛はさらに一層明らかにまた見事にうきぼりにされてくる。

 したがって司牧者は第三条の説明をもってこの奥義の偉大さを示さなくてはならない。聖書は私たちの救いの、主要点としてこの点をあげそれを黙想するようにひんぱんに勧めている。

 この箇条の意味はつぎのとおりである。私たちの主イエズス・キリスト、神のおん独り子は私たちのためにおとめマリアの胎内で人間の体をおとりになり、他の人々のように男性の働きによってではなく、自然の秩序を全く越えて、聖霊の力によって宿されたこと(マ1・18、ル1・35参照)、こうして同じ一つのペルソナが、永遠からそうであったように神としてとどまりながら、しかも同時に今までもたなかった人間性をおとりになったこと(ヨ1・14参照)を信じ告白する。

 この箇条がいま言ったとおりの意味であることは、聖なるコンスタンティノポリス公会議の信仰告白から明らかである。「かれは私たち人間のためまた私たちの救いのために天から下り、聖霊によっておとめマリアから肉を受け人となられた」。(1) また救い主ご自身の胸によりかかってこの崇高な奥義の知識を得た聖ヨハネも、同じように述べている。かれは「初めにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった」(ヨ1・1)ということばでみことばの本性を説明したあと、さいごに、「みことばは肉体となって私たちのうちに住まわれた」(ヨ1・14)と結論している。

2 キリストの神性と人性は混合したのではない

 神のヒュポスタシス(Hypostasis)であるみことばをおとりになったのであるが、その場合神性と人性は同じ一つのヒュポスタシスつまりペルソナをもっているのである。この感嘆すべき一致において二つの本性はそれぞれの行為と特性とを保持している。大教皇聖レオは、「神性の栄光がより低いもの(人性)を消滅させず、また、御託身がより高いもの(神性)を低めないようにされた。」と言っている。(2)

3 聖霊だけが御託身の業を行われたのではない

 信経のことばの説明において欠けるところがあってはならない。そのため司牧者は、神の子は聖霊の力によって宿されたと言われているが、それは三位のうちの第三のペルソナだけが御託身の奥義を実現させたという意味ではないことを教えるべきである。つまり御子だけが人性をおとりになったとはいえ、この奥義の実現者は御父と御子と聖霊の三つのペルソナである。

 というのは、神がご自分のそと・・つまり被造物に対して行われることはすべて三つのペルソナに共通で、一つのペルソナは他のペルソナ以上にあるいは他のペルソナなしに独りで行うことはないというのが、キリスト教の信仰だからである。しかし一つのペルソナが他のペルソナから出生することは三つのペルソナに共通ではありえない。御子は御父からだけ生まれ、聖霊は御父と御子から発出する。これに対して三位のそと・・になされる事柄においては三位は互いに何らの差異なしに働かれる。神の子の御託身はまさにこの種類の働きである。

 とはいえ聖書は三位に共通のある働きを、とくにあるペルソナに帰することがある。たとえば万物に対する最高の権能は御父に、英知は御子に、愛は聖霊に帰せられている。そして御託身の奥義は私たちに対する神の格別な無限の慈愛を表わしているところから特別に聖霊に帰せられるのである。

4 キリストの御託身は多くの点で自然の秩序を越えている

 この奥義のある点は自然の秩序を越えており、ある点は自然の力によってなされている。たとえばキリストの体はおとめマリアの清い血によってつくられ、こうして人性が与えられたと私たちは信じているが、体が母親の血によってつくられることはすべての人に共通のことである。しかしおとめマリアが、「私は主のはしためです。あなたのおことばのとおりになりますように」(ル1・38)と答えて天使のことばに同意するや否やただちに、いとも聖なるキリストの体が形成され、これに理性を備えた霊魂が合わされ、その瞬間に完全な神でありながら完全な人間になったということは、自然の秩序および人間の理解を越えている。さてこの前代未聞の感嘆すべき出来事が聖霊の御業であったことはだれも疑うことはできない。なぜなら自然の法則によると、どんな体もある一定の期間を経ないかぎり霊魂と一致することはできないからである。

 もっとも感嘆に価することは、キリストの霊魂が体と一致するとすぐに神性そのものが体と霊魂とに一致したことである。すなわち体が形成され生かされるとすぐに、神性が体と霊魂とに一致したのである。したがってキリストはその同じ瞬間に完全な神、完全な人となられたのである。そのため聖なるおとめは、同じ瞬間に神と人とを宿したところから、まことにまた実際に神と人の母なのである。天使はそのことをマリアに教え、つぎのように言っている。「あなたはみごもって子を生むでしょう。その子をイエズスと名づけなさい。それは偉大な方で、いと高きものの子、といわれます」(ル1・31~32)。こうして預言者イザヤの預言が実現された。「みよ、おとめがみごもり、ひとりの子を生み、それを、エンマヌエルとよぶだろう」(イ7・14)。同様にエリザベトもマリアに神の子が宿されているのを見て、聖霊に満たされて「主のおん母が私を訪問してくださったのですか!」(ル1・43)と叫んでいる。

 右〔サイト管理人注・上(横書きにつき)〕に述べたようにキリストの体は男性の働きなしに、ただ聖霊の力によって全きおとめの清い血をもって形成されたのであるが、他方かれの霊魂はかれが宿された瞬間から神の霊の充満を受け、すべての霊能を豊かに授けられたのであった。聖ヨハネによると神はかれに他の人々のようには、かつて霊をお与えになったのではなく(ヨ3・34参照)、私たちみんながその満ちあふれるところから受けるほどにすべての恩恵を豊かにかれの霊魂に注がれたのである(ヨ1・16参照)。

5 キリストは神の養子ではない

 キリストは、聖人たちを神の養子にする聖霊をもっておられたとはいえそのためにかれを神の養子と呼ぶことはできない。かれはその本性によって神の子であったのであるから、養子としての恩恵や名称は決してかれにふさわしいものではない。

6 御託身の奥義について黙想すべきこと

 感嘆すべき御託身の奥義については、以上の諸点を説明しなければならない。そしてこれらの説明から霊的利益を引き出すため、信者は、私たちの肉をおとりになったのは神であること、かれは私たちの知性で理解することもことばで表現することもできない方法で人となられたこと、かれが人となられたのは私たちが神の子として再生するためであったことを思い起こし、またしばしば黙想しなければならない。信者はこれらのことを熱心に黙想することによって、この箇条に含まれているすべての奥義を謙遜ですなおな心をもって信じあがめるようになり、ほとんどいつも危険を伴う、好奇心にかられた詮策や探求はしなくなるであろう。

7 キリストはおとめマリアから生まれた

 「童貞マリアから生まれた」。これが司牧者が説明しなければならない第三条の第二点である。実際、信者たちは、主イエズスが聖霊の力によって宿されたことだけでなく、処女マリアからお生まれになってこの世に来られたことも信じなければならない。この信仰の奥義をどれほどの心の喜悦と歓喜とをもって黙想すべきか、それはこの最良の知らせを世にもたらした天使のことばに示されている。「すべての人々のための大きなよろこびの知らせを、私はあなたたちに告げよう」(ル2・10)。また天の軍勢が歌っていたことばからも容易に理解できる。「いと高き所には神に栄光、地には善意の人々に平和」(ル2・14)。こうしていつかその子孫によってすべての民は祝福されるであろうという、アブラハムに対する神の約束が実現されたのである(創22・18参照)。なぜなら神であると同時に人間であるお方を生み、神のまことの母として認めあがめられているマリアはダヴィド王の子孫だからである。

8 キリストの誕生は自然の秩序を越えている

 キリストの懐胎そのものが自然の秩序を全く超越していたように、その誕生もまた全く超自然的なものであった。さらに、これ以上のことを言うことも、考えることもできないほどすばらしいことは、キリストが御母の処女性を少しもそこなうことなくお生まれになったことである。かれは復活のとき密閉され封印された墓から出られたように(マ28・2参照)、または閉じてあったのに弟子たちのいる家に入って来られたように(ヨ20・26参照)、さらに自然現象から例をとって言うと、太陽と光線がガラスを割ったりいためたりせずにそれを貫くように、さらにそれ以上にすぐれた仕方で、御母の処女性をそこなわずしてお生まれになったのである。そのため、私たちはマリアの全き永遠の処女性を賛美したたえるのである。これは聖霊の力によってなされたことである。聖霊は御子の懐胎と誕生に当ってマリアに働きかけ、子を生む能力を与えると同時に永遠の処女性を保たせたのである。

9 キリストは第二のアダムで、マリアは第二のエヴァである

 使徒聖パウロは時としてイエズス・キリストを第二のアダムと呼び、第一のアダムと比較している(ロ5・12~19、コ①15・21~58参照)。実際、すべての人は第一のアダムにおいて死ぬものとなったが、第二のアダムにおいて生命に召された。アダムは自然的秩序による全人類の親であったが、キリストは恩恵と栄光をもたらすものである。

 第一のアダムと、第二のアダムであるキリストとの間になされるような比較は、第一のエヴァと第二のエヴァであるマリアとの間にもすることができる。エヴァはへびの言うことを信じ人類に呪いと死をもたらした(創3・4~24参照)。マリアは天使のことばを信じ、神の慈愛によって祝福と生命が人々に与えられるようにした(エ2・4参照)。私たちはエヴァのために怒りの子として生まれるのであるが、マリアをとおしてイエズス・キリストを受け入れ、かれによって恩恵の子として生まれ変わるのである。エヴァは、「あなたは、子を生むのに苦しまねばならない」(創3・16)と言われたが、マリアはこの定めを免れていて、先述したように処女性を完全に保ったままで、苦痛を全く感じることなく神の子イエズスを生んだのであった。

10 イエズスの懐胎と誕生を示す表象と預言

 この懐胎と誕生の奥義はきわめて偉大で感嘆すべきものであるので、神はみ摂理をもって多くの表象と預言をもって前もって表わされた。

 聖なる博士たちによると、この奥義は聖書の多くの箇所で示されている。とくに、エゼキエルが見た閉じられてある神殿の門(エゼ44・1~3参照)、ダニエル書にも言われている、人手を借りずに山から離れ大きな山のようになって全地を満たした石(2・34~35参照)、イスラエルの族長たちの杖の中で一本だけ花を咲かせたアアロンの杖(民17・21~23参照)、モイゼが見た燃えあがっていたが燃え尽きないやぶ(出3・2参照)などがそれである。

 イエズスの誕生の次第についてはルカがくわしく伝えている。司牧者はそれを手近かに参考できるので、ここで大して付け加えることもない。

11 御託身の奥義についてしばしば説明すべきこと

 司牧者は、私たちの教訓のために書きしるされたこの奥義(ロ15・4参照)を信者たちの精神と心に浸透させるように努力すべきである。まずこれほどのお恵みを思い起こし、それをお与えになった神に何らかの感謝をささげるようにさせ、またこれほどすぐれた謙遜の模範をかれらに示し模倣させるようにすべきである。

 実際、ご自分の栄光を人々に分かち与え、また人類の無能と弱さをご自分のものとされるまでに神がご自分を低くされたこと、神が人間になられたこと、聖書が言っているようにそのご命令によって天の柱がゆれるほどの最高無限の尊厳をもつお方が(ヨブ26・11参照)人間にお仕えになったこと、天使たちが天において礼拝するお方が地上にお生まれになったことなどをしばしば黙想すること以上に私たちにとって有益で、また私たちの心の傲慢や不遜を抑えうるものはない。神が私たちのためにこれほどのことをされたのであれば、私たちはかれに仕えるために何も拒むことはできないであろう。またどれほど喜び勇んで謙遜の命ずるところを愛し受け入れ、実行すべきであろうか。信者たちは、キリストは何らかの声を発するまえ、生まれること自体によって、どれほど有益な教えをお与えになったかを知るべきである。かれは貧しいものとしてお生まれになった。旅人として、真冬に、さむざむとした馬屋でお生まれになった。聖ルカはつぎのように書いている。「そこにいる間に、マリアは産期みちて、初子を生んだので、布につつんで、まぐさおけに子を横たえた。それは旅館にかれのための部屋がなかったからである」(ヴルガタ訳 ル2・6~7)。福音書記者は、天地を満すご威光と栄光をこれ以上つつましいことばで述べることができたであろうか。ルカは旅館に部屋がなかったとは書かず、かれのための部屋がなかったからであると書いている。そのかれとは、全地とそれを満たすものはすべて私のもの、とおおせられたお方のことである(詩50・12参照)。このことをほかの福音書記者は、「かれはご自分の家に来られたが、その人々は受け入れなかった」(ヨ1・11)と言っている。

 信者たちはこれらのことを考えるとき、神が肉として私たちの卑賎さと弱さとを引き受けられたのは、人類に最高の尊厳をお与えになるためであったことを思うべきである。実際、神がその慈愛によって人間にお与えになった崇高な尊厳と卓越性を理解するためには、人となられたお方がまことの神であったことをみるだけで十分である。すなわち神の子は私たちの骨の骨、私たちの肉の肉(創2・23参照)であると誇ることができるほどで、これは天使たちにさえ与えられなかったものである。聖パウロも、「たしかにかれが助けるのは、天使ではなく、アブラハムの子孫である」(へ2・16)と言っている。

 さらに、キリストがお生まれになったときベトレヘムの旅館にはかれのための部屋がなかったが、それと同じように、肉においてではなく霊においてお生まれになろうとするキリストのために私たちの心の中にも場所がなく、こうして私たちの上に最大の不幸を招くことのないように注意しなければならない。実際キリストは私たちの救いを熱望し、この霊的誕生をはげしく望んでおられるのである。ところでかれは、聖霊の働きにより自然の秩序を越えて人となりお生まれになった聖なるお方で、まさに聖性そのものである。したがって私たちは血統によってではなく、また人や肉の意志によってでもなく、ただ神によって生まれなくてはならない(ヨ1・13参照)。そして新しい人として(ガ6・15参照)、新しい精神によって歩み(ロ7・6参照)、神の霊によって再生した人にふさわしい聖性と心の完全さを保つようにしなければならない。こうして神の子の懐胎と誕生を自分のうちにいくらか再現できるであろう。私たちはこれらの奥義を固く信じ、この信仰をもって神の隠された、奥義による英知(コ①2・7参照)を受け入れ礼拝するのである。

訳注
(1) Conc. Constantinopolitanum, Symbolum Constantinopolitanum, DS 150参照
(2) S. Leo, Sermo de Nativitate Domini, conf. Dam., lib. 3, cap. 17