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ローマ公教要理 使徒信経の部 第五章 | キリストの御受難、十字架の奥義

 使徒信経の部 目次

第五章 第四条 ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け十字架に付けられ、死んで葬られる

1 第四条の意味

聖パウロは、この第四条を知ることがどれほど必要であるか、また信者たちが主の御受難についてしばしば黙想できるよう、司牧者はどれほど入念に努力しなければならないかを教えて、イエズス・キリストのこの十字架に付けられたもの以外は何も知らないと言っている(コ①2・2参照)。したがってあらゆる配慮と努力をもってこの真理を浮き彫りにし、信者たちがこれほどの恩恵を思い起こしてそれに刺激され、全身全霊をあげて、私たちに対する神の愛と寛大さを受け入れるようにすべきである。

この箇条の第一部(第二部については後述する)は、主キリストはポンシオ・ピラトがティベリウス帝の命によってユダヤ地方を治めていたとき十字架に付けられたことを信ずべきこととして教えている。キリストは逮捕され、嘲笑され、あらゆる侮辱や責め苦を受け、ついに十字架に付けられたのであった。

2 キリストは魂全体で十字架の苦しみを感じられた

キリストの魂の下部構造は苦しまなかったなどと考えてはならない。かれがほんとうの人性をおとりになったのであるから、当然その魂においても非常な苦しみを感じられたと言うべきである。実際かれは、「私の魂は、死なんばかりに悲しんでいる」(ヤ26・38)と言っておられる。人性は神のペルソナに一致していたとはいえ、あたかも一致がなかったかのように受難の苦痛を味わわれたのである。イエズス・キリストという一つのペルソナに合わされた神性と人性はそれぞれの特性を保ち、苦しみ死ぬことができるものは苦しみ死ぬことのできるものとしてとどまり、苦しみ死ぬことのできないものつまり神性はその特性をそのまま保持していたのである。

3 ユダヤ総督のもとで受難したと言われるわけ

キリストが受難されたのはポンシオ・ピラトがユダヤ地方の総督であった時であると言われているが、それは、これほど重大で必要とされた出来事が、それが起きた確実な時(これは聖パウロによって確認されている〔ティ①6・13参照〕)をしるすことによって、すべての人に一層はっきりと知られるようにするためである。この信経の表現はまた、「かれらは、人の子に死を宣告し、異邦人に渡し、嘲弄させ、むち打たせ、十字架に付ける」(マ20・19)というキリストご自身による預言が成就したことを示している。

4 十字架上での死は偶然ではない

キリストがことさら十字架の木の上において死んだのは、これもやはり神のご計画によるもので、それは死がはじまったところからふたたび生命をよみがえらせるためであった。木によって人祖に勝利をおさめたへびは、十字架の木によってキリストに打ち負かされたのである。聖なる教父たちは、私たちのあがない主がことさら十字架上での死を選ばれたことが妥当であったことを多くの理由をあげてくわしく説明しているが、それらを取り上げることもできよう。しかしキリストがそのような死を選ばれたのは、人類のあがないにもっともふさわしくまた適していたからであるという信仰をもつだけで十分でそれを信者たちに教えるべきである。たしかに、この刑罰ほど恥ずべきもの、卑しむべきものはない。十字架の刑は、異教徒の間では呪うべきもの、屈辱的で不名誉なものとされており、モイゼの律法でも「木につるされた人は、呪われたものである」。(第21・23、ガ3・13)

5 キリストの受難についてしばしば説教すること

司牧者たちはまた、福音書記者たちがあれほど入念に書きとめている受難の物語を信者たちに教えることを怠ってはならない。それによって信者たちは私たちの信仰の真実性を確認するために必要な、この奥義の要点だけでも知るようになるであろう。実際キリスト教の信仰はこの箇条をいわば基礎としており、それが確立されるならば、他のすべての点は確立されるのである。なぜならもし人間の心と知性にとって何か問題があるとすれば、十字架の奥義こそは最大の難問題であって、私たちの救いが十字架とそれに付けられたお方から来るということはなかなか納得しがたいからである。しかし聖パウロによると、ここにこそ神の最高の摂理をみることができるのである。「この世は、自分の知恵によりたのみ神の知恵〔の業〕において神を認めなかったから、神は宣教の愚かさをもって信じるものを救おうとおぼしめされた」(コ①1・21)。したがってキリスト到来前の預言者たちや、キリスト復活後の使徒たちが、かれこそは世のあがない主であることを人々に納得させようとし、また十字架に付けられたお方の権能を認めさせ、これに従わせようとして、あれほど努力したのも不思議ではない。

このように、十字架の奥義ほど人間の考え方からかけ離れたものはないところから、神は人間の罪のあと表象や預言者のことばをもって、御子の死を絶えず予告された。その表象のいくつかをあげると、兄にねたまれて殺されたアベルがいる(創4・8参照)。またイザアクのいけにえ(創22・1~18参照)、ユダヤ人が出エジプトのときに屠った小羊(出12・3~28参照)、モイゼが砂漠で高く上げた青銅のへび(民21・8~9参照)があり、これらは主キリストの受難と死の前表であった。預言者について言うと、キリストの受難と死について預言したものは非常に多く、それらは周知のことであり、ここで説明するまでもない。私たちのあがないのおもな奥義を詩篇の中で歌っているダヴィドは言うに及ばず(とくに詩2、22、69、110参照)とくにイザヤの預言以上に明白ではっきりしたものを見いだすことはできないであろう。かれは、未来のことを預言するというよりはすでに実現されたことを述べているのではないかと思われるほどである(たとえばイ53参照)。

6 「死に、葬られた」という意味

このことは、イエズス・キリストが十字架に付けられたあと、実際に死に、葬られたことを教えており、司牧者はこれを信ずべきこととして信者たちに説明しなければならない。これは二つの信ずべきこととして分けて示されているが、それは理由のないことではない。キリストが十字架上で死んだことを否定するものもおり、使徒たちはその誤謬を排除するための信仰のこの点を強調しようとしたのである。

この箇条の真実性については疑問の余地は全くない。福音書記者たちは全部、イエズスが息を引き取られたという点で一致しているからである(マ27・50、マル15・37、ル23・46、ヨ19・30参照)。さらにキリストはまことの完全な人間であったのであるから、実際に死ぬことがおできになった。霊魂が体から離れるとき人は死ぬ。したがってイエズスが死んだということは、かれの霊魂が体から離れたことを意味する。しかし神性が体から離れたとは言わない。むしろキリストの霊魂が体から離れたのちも神性は墓にある体および古聖所にある霊魂と常に一致していたことを固く信じ告白する。

さて、「死の力をもつ悪魔を、死によって亡ぼし、死の恐怖によって生涯、奴隷となったすべてのものを解放するため」(へ2・14~15)に神の子の死が求められたのであった。

7 キリストの死は強制されたものではない

しかしキリストの死の特殊な点は、ご自分でお決めになった時に死なれたことである。またかれの死は外部からの暴力によるものではなく、ご自分でお望みになった死であった。このように死はもちろんのこと、さらに死ぬ場所、時もご自分で決められた。イザヤはかれについて、「かれは自分で望んでささげられた」(ヴルガタ訳・イ53・7)と言っている。イエズスご自身も受難のまえご自分について、こうおおせられている。「私が命をふたたび取りもどすために、自分の命を与える。その命は、私からうばうものではなく、私がそれを与えるのである。私にはそれを与える権利があり、また取りもどす権利もある」(ヨ10・17~18)。またキリストは、ヘロデがご自分の命を奪おうとしてわなをかけているのを知ったとき、「あの狐にこう言いにいけ。私は今日と明日、悪魔を追い出し、病気を治し、そして三日目に完成する。しかし、今日も、明日も、次の日も、私は歩きつづけなければならない。預言者がイエルザレム以外で死ぬことは、ふさわしくないことだから」(ル13・32~33)とおおせられて、ご自分の死の時と場所について預言された。

したがってかれは決してご自分の意志に反して、あるいは強いられてではなく、むしろ自らすすんでご自分をおささげになったのである。ご自分から敵の前に進み出て、「私がそうだ」(ヨ18・5)とおおせられ、そして不当に課せられるあらゆる残酷な責め苦をお受けになったのである。

かれのすべての責め苦や苦しみを熱心に黙想すること以上に私たちの心を動かすものはない。もしだれかが、希望してではなくやむをえずしていろいろな苦しみを耐え忍んだとした場合、それは大して有難いものではないかもしれない。しかしひたすら私たちのためだけを思って、避けることができたのに喜んで死を選んだ人があったとするならば、どれほど義理がたい人でも、これほどの恩にふさわしい感謝の気持を十分に表わすことはもちろん、そのような気持をもつことさえできないであろう。このことから、イエズス・キリストの愛の格別の深さと、私たちのためのかれの神的功徳の偉大さを明察することができるであろう。

8 ことさら埋葬について述べるわけ

さらに私たちはかれが葬むられたことを告白する。しかしこれはすでに死について述べた説明と別のものではなく、また新しい問題をもち出すものでもない。キリストの死を信じている私たちには、かれが葬られたことは容易に納得できる。それでもこのことばが加えられているのは、まず、かれの死を疑問視する口実を与えないためである。なぜなら死んだという最大の証拠は、その体が葬られることだからである。つぎに、復活の奇跡をより一層明らかにするためである。

私たちはキリストの体が死んだことを信じているが、第四条のこのことばはさらに、神が死なれた、神がマリアからお生まれになったというようなカトリックの信仰表現に基づいて、神が葬られたことを信じるように求めている。実際、神性は墓に葬られたキリストの体から離れなかったのであるから、神が葬られたと告白するのは当然のことである。

9 キリストの死と埋葬においてとくに留意すべきこと

埋葬の方法や場所の説明に当って司牧者は福音書記者たちが述べていることを読むだけで十分な知識を得ることができるであろう(マ27・57~61、マル15・45~47、ル23・52~55、ヨ19・38~42参照)。しかしとくに二つのことに留意しなければならない。その一つは墓におさめられたキリストの体は、「あなたの友が腐敗をみるのを許されない」(詩16・10)と預言されたとおり決して腐敗しなかったことで、他の一つはこの箇条全体に関することであるが、受難や死、埋葬は神としてのキリストについてではなく、人間としてのキリストについて言われているということである。実際、苦しむことや死ぬことは神に帰せられるとはいえ、すべて人性だけに起きることである。したがってそのようなことは、完全な神であると同時に完全な人間であったお方について当然言えることは明らかである。

10 キリストの受難の理由は何か

以上のことを述べたあと司牧者はキリストの受難および死について説明し、信者たちがこれほど深遠な奥義を理解するまでには至らなくとも少なくとも黙想できるようにすべきである。

まずこれらの苦しみをお受けになったのはだれかを説明しなければならない。しかしどれほどことばを尽くしても、このお方の尊厳は説明することも把握することもできないであろう。聖ヨハネは、「みことばは神とともにあった」(ヨ1・1)と言い、聖パウロはつぎのように述べている。「このおわりの日々には、子を万物の世つぎと定め、また、よってもって万物をつくられたその子を通じて語られた。神の光栄のかがやき、神の本性である子は、その勢力あるみことばによって宇宙を保ち、罪のきよめをおこなって、高いところの〔神の〕みいつの右にすわられた。(へ1・2~3)。一言でいうと、お苦しみになったのは神であり人間であるイエズス・キリストである。創造主がその被造物のために苦しみ、主人が奴隷のために苦しみ、天使、人間、天体をお造りになったお方つまりかれにおいて、かれによって、かれからすべてが存在するお方(ロ11・36参照)がお苦しみになったのである。創造主があれほどの苦痛にいためつけられたのであるから、被造物全体が動揺したとしても不思議ではない。聖書は、地はふるえ、岩はさけ(マ27・51参照)、太陽はくらみ、闇が全地を覆ったと言っている(ル23・44参照)。このようにもの言わぬ物や感覚のないものが自分たちの創造主の受難を悲しんだとするならば、いわば神の家の生きる石(ぺ①2・5参照)である信者たちはどれほどの涙を流して自分の悲しみを表わさなければならないであろうか。

11 なぜキリストはあれほどまでに苦しまれたのか

つぎに、御受難の原因について述べ、私たちに対する神の愛の偉大さと強さを一層明らかにするようにしなければならない。神の子があれほどまでに苛酷な苦しみをお受けになった原因は何か。それは(人祖から受け継ぐ原罪のほかに)とくに人類が世の始めから今日まで犯し、さらに世の終りまでに犯す罪や過ちのためであった。私たちの救い主である神の子がその受難と死をもって目指しておられたことは、すべての時代の罪をあがない、それを消し、御父に対して豊かで完全な罪の償いをすることであった。

さらにキリストは罪人のために苦しまれただけでなく、かれが受けたすべての苦しみの張本人や執行人のためにも苦しまれた。聖パウロはヘブライ人への書簡でこう言っている。「これほど罪人からのさからいをたえ忍ばれたお方を考えよ。それは、あなたたちを、あかせないように、また失望させないようにするためであった」(へ12・3)。

したがって、罪にしばしば陥る人々はみな、この犯罪の責任者であると考えるべきである。実際、私たちの罪が主キリストに十字架の苦しみを押し付けたのであるから、罪や過ちにとどまるものは「自ら神の子を十字架にふたたびくぎづけて、侮るものである」(へ6・6)。ユダヤ人は「もし知っていたら、栄光の主を十字架につけなかっただろう」(コ①2・8)と聖パウロが言っているように、知らなかったユダヤ人よりも私たちの方が罪が重いと言える。私たちはかれを知っていると宣言しながら、行ないをもって否定し、いわばかれに暴力をふるうからである。

12 キリストは御父によって渡され、また自らご自分を渡された

聖書は、キリストは御父によって渡され、またご自分でご自分をお渡しになったと言っている。イザヤ書では、「かれは、私の民の罪のゆえに、打ちころされた」(イ53・8)と言われている。預言者イザヤはまた、傷と怪我に覆われた主の御姿を主の霊によってながめ、こう言っている。「私たちは、みな、羊のようにさまよい、おのおの、自分の道を歩んでいたが、主は、私たちみんなの罪をかれの上に、負わせられた」(イ53・6)。そして御子については、「かれは、あがないとしてわが身をささげることによって、末長く子孫を見るだろう」(イ53・10)と書いている。聖パウロは一層荘重なことばで同じことを表現し、また同時に神の無限の慈しみと善良さにどれほど期待できるかを示そうとして、つぎのように言っている。「ご自分の御子を惜しまずに私たちすべてに渡されたお方が、かれとともにほかのすべてを賜わらないはずがあろうか」(ロ8・32)。

13 キリストは霊魂と肉体において苦しまれた

つぎに司牧者は主の御受難がどれほど苛酷なものであったかを説明すべきであろう。主はまさに受けようとする責め苦と拷問のことを思われただけて血の汗を地面に滴らせたのであった(ル22・44参照)。このことを思い起こすならば、かれの苦しみがそれ以上の苦しみはありえないほどのものであったことがだれにも理解できるであろう。実際、血の汗が示しているように受難がさし迫っていると思われただけでそれほど苦しまれたとするならば、受難そのものはいかほどのものであったろうか。

主キリストが霊魂と肉体の最大の苦しみを受けられたことは明らかである。まずかれの体で苦しみを受けなかった部分はどこもない。足と手は十字架にくぎづけにされ、頭はいばらで刺されまた葦で打たれ、顔はつばきで汚され、そして平手打ちを食わされ、全身をむち打たれた。

さらに、あらゆる身分や階層の人々は、「王とその注油されたものとに逆らって共謀する」(詩2・2)のであった。異邦人とユダヤ人は受難の煽動者、張本人であり実現者であった(マ26~27、マル14~15、ル22~23、ヨ13~19参照)。ユダはキリストを裏切り、ペトロはかれを否んだ。そのほかの弟子たちはかれをおきざりにした。

さて十字架には苦しみの苛酷さをみるべきであろうか、それとも恥辱をみるべきであろうか、あるいはその両方をともにみるべきであろうか。たしかに十字架の刑はきわめて有害な極悪の犯罪人に課せられていたもので、これ以上屈辱的で苛酷な死を考えることはできない。またこの刑は死ぬまでに時間がかかり、そのため苦痛と責め苦をさらに一層感じさせるものであった。

またイエズス・キリストの体格や体質はその苦しみをさらに大きくした。かれの体は聖霊の働きによって形成されたもので、他の人々の体よりもはるかに完全で繊細であった。そのため他の人々にまして敏感な感受性をもち、ほかの人々以上に苦しみを強く感じたのである。

キリストの霊魂における内的苦悩が最高のものであったことはだれも疑うことはできない。責め苦や拷問にかけられた聖人たちには神からの霊的慰めがあり、それに支えられて忍耐づよく苦痛を耐え忍ぶことができた。なお多くのものは責め苦のさなかにあって心の喜びさえ感じていた。聖パウロは、「私はいま、あなたたちのために受けた苦しみを喜び、そこで、キリストの体である教会のために、私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところをみたそうとする」(コロ1・24)と言っている。またほかのところでは、「私は慰めにみたされ、どんな試練の中にあっても喜びにあふれている」(コ②7・4)とも書いている。しかし主キリストはもっとも苦い受難の杯(マ26・39参照)を何らかの甘美さでうすめることなく飲み干された。かれはあたかも神ではなく人間にすぎないかのように、おとりになった人性においてすべての苦しみを味わわれたのである。

14 キリストの受難による恵み

このあと司牧者は、私たちが主の受難によって得た恵みと善についてくわしく説明しなければならない。主は受難によってまず、私たちを罪から解放された。聖ヨハネによるとかれは、「私たちを愛し、その御血によって私たちを罪から洗い清められた」(黙1・5)。聖パウロは、「神は、あなたたちのすべての罪をゆるし、かれとともに生かされた。私たちを責めて、私たちに反していた戒めの書を消し、それを取り去って十字架につけられた」(コロ2・13~14)と書いている。

つぎに、キリストはその受難によって私たちを悪魔の暴虐から救い出された。主ご自身つぎのようにおおせられた。「今、この世の審判がおこなわれ、今、この世のかしらが追い出される。私は地上からあげられて、すべての人を、私のもとへ引きよせる」(ヨ12・31~32)。

キリストはまた私たちの罪の罰を償われた。さらにこのいけにえは、これ以上ふさわしくまたこころよいいけにえを神にささげることのできないほどのいけにえであり、これをもってキリストは、神と私たちとを和睦させ(コ②5・18参照)、神をなだめ私たちに好意をもたれるようにした。 さいごに、私たちの罪を取り去り、こうして、人類共通の罪のために閉ざされていた天国の門を開いた。このことを聖パウロは、「私たちはキリストのおん血によって、聖所に自由に入ることができる」(へ10・19)と言っている。旧約聖書にもこのような奥義の象徴や表象がないわけではない。たとえば、人々は大司祭が死ぬまえに祖国に帰ることを禁じられていたが、このことは、たとえ信心深い正しい生活をしたとしても、だれもあの最高永遠の司祭キリスト・イエズスが死ぬまで天の祖国の門をくぐることはできなかったことを示している。そしてキリス上が死んですぐに、諸秘跡によってあがなわれ、信仰、希望、愛を身につけ、キリストの御受難にあずかる人々のために天の門が開かれたのである。

15 キリストの受難がこれほど効果的であったわけ

司牧者は、これらすべての偉大な神の恵みは主の受難によってもたらされたことを教えなければならない。それはまず、キリストが感嘆すべき方法で私たちの罪のために神なる御父にささげた償いが、すべての償いにまさる完全なものであったからである。またかれが私たちのために払われた価は私たちの負債に相当するものであっただけでなく、それをはるかに越えるものであった。

つぎに、かれのいけにえは神にもっともよみせられるものであった。御子が十字架の祭壇上でこのいけにえをささげるとすぐに御父の怒りと憤りは完全になだめられた。聖パウロはこのことを、「キリストは私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして神にご自分を渡された」(エ5・2)と表現している。

キリストの受難は、また聖ペトロが言っているように、あがないであった。「あなたたちが、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、きずもなくしみもない小羊のような、キリストの尊いおん血によるのであることを、あなたたちは知っている」(ぺ①1・18~19)。聖パウロも、「キリストは私たちのために呪いとなって、律法の呪いから私たちをあがなわれた」(ガ3・13)と書いている。

16 キリストの御受難にはすべての徳の手本が見い出される

キリストの御受難にはこれらの測りしれない恵みのほかに、もう一つの大きな恵みが含まれている。すなわちこの一つの受難にはもっともすばらしい徳の模範がある。忍耐、謙遜、並みはずれた愛、寛容、従順、正義の徳を実行するためには、苦しみはもちろん死さえもいとわぬ不屈の精神が示されている。したがって私たちの救い主は、宣教の全期間を通じてお与えになった生命の教え全部を、受難の一日で身をもってお示しになったと言える。

以上、救いのための主キリストの御受難と御死去について簡単に述べた。私たちはこれらの奥義を絶えず黙想し、主とともに苦しみ、死に、葬られることを学びたいものである。こうしてはじめて、罪のすべての汚れから清められ、キリストとともに新しい生命をもって復活し、ついにいつの日か、かれの慈愛と恩恵によって天の王国を受けてその栄光にあずかるに足るものとされるのであろう。