ローマ公教要理 使徒信経の部 第六章

 使徒信経の部 目次

第六章 第五条 古聖所(Inferi)に下り、三日目に死者の中から復活された

1 この箇条の内容

今しがた述べた、主イエズス・キリストの埋葬について知ることはひじょうに大切であるが、しかしかれが悪魔を打ち負かし地獄の住まいを荒らして得られた輝かしい勝利について知ることはそれ以上に大切である。したがってつぎにこの勝利について、また同時に復活について述べなければならない。これらはそれ自体としては当然、分離して取り扱うこともできるが、ここでは聖なる教父たちにならって両者を一緒に取り扱うことにしよう。

この第五条の第一部はキリストの御死去のあとその魂は古聖所に下り、体が墓におかれていた間そこにとどまったことを、信ずべきこととして教えている。またこの箇条では同じキリストのペルソナが同時に古聖所と墓にあったことも宣言されている。こう言ったからといってだれもそれを不思議に思ってはならない。なぜならこれまでしばしば述べたように霊魂は体から離れても神性は霊魂からも体からも決して離れなかったからである。

2 古聖所(Inferi)とは何か

司牧者はまずここで言われた古聖所(訳注 inferiは、よみ、冥土などと訳されている)という語が何を意味するかを教えるべきで、それによってこの箇条の説明に大きな光をもたらすことができる。ここで言われる古聖所はある人々がその不信仰と無知から言っていたように墓ではないことに注意させるべきである。もしそうだとするならばすでに前の箇条で主キリストが葬られたことを知っている私たちに使徒たちはまた同じことを前とは違った、しかも一層難解な表現で繰り返すという、意味のないことになるからである。

古聖所という語は、まだ天国の至福を得ていない霊魂たちがとどまる隠れた場所を意味する。聖書は多くの箇所でこの語をそのような意味にとっている。聖パウロは「イエズスの御名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下(訳注 古聖所)にあるものもみな膝をかがめる」(フィ2・10)と書き、聖ペトロは使徒行録で、主キリストは古聖所の苦しみから解放されよみがえったと言っている(使2・24参照)。

3 それはどのような場所か

しかしこのような場所は全部、同一種類のものではない。そのうちのあるものは恐しい暗い牢獄で、断罪された人々の魂はそこで汚れた霊たちと一緒に永遠に消えない火によって苦しめられる(マ25・41参照)。これはゲヘンナ(マ5・22など参照)、深い淵とも呼ばれ(黙9・11参照)、厳密な意味での地獄である(ル16・23参照)。

つぎに煉獄の火がある。そこでは敬虔な人々の霊魂がいかなる汚れも受け入れない(黙21・27参照)永遠の祖国に入るため、一定の期間、苦しみを受けるところである。トリエント公会議の決議によると、この真理は聖書の証明によってまた使徒継承によって明らかであり、(1)現代は人々がもはや健全な教えを忍ばない時代である(ティ②4・3参照)だけに、司牧者は熱心にまたしばしばこの真理を教えなければならない。

さいごの第三の場所はキリストの到来前の聖人たちの霊魂がとどまっていたところで、かれらはそこで何らの苦痛も感じることなくあがないの希望に生き、平和な生活を楽しんでいた。キリストは古聖所にお下りになり、アブラハムのふところにあって救い主を待っていたこれの敬虔な人々の霊魂を解放したのである。

4 キリストの霊魂自体が古聖所に下った

かれが古聖所に下られたのは、ただ力をそこに及ぼしたということで霊魂自体が下ったのではないと考えてはならない。むしろ霊魂そのものがそこに下り現存したと信ずべきである。それについてダヴィドはきわめて確かな証明を与えている。「あなたは、私の魂を、古聖所に見すてはしない」(詩16・10参照)

5 それはキリストの尊厳を傷つけるものではない

キリストは古聖所に下られたとはいえ、それによってその最高の権威を何ら失うことはなく、またその聖性の輝きも何らかの汚れで曇らされることもなかった。むしろこの出来事によってかれの聖性について言われていたことがたしかに真実であったこと、また以前にかれがあれほどの不思議をもって宣言されたように、かれが神の子であることがはっきりと確認されたのである。このことはキリストが古聖所にお下りになった理由と、ほかの人々がそこに下った理由とを比較してみればすぐにわかる。ほかの人々は捕われの身としてそこに下っていた。しかしキリストは死者の中にあって自由の身で勝利者の立場にあり、罪をたてに人々をそこに閉じ込め、つないでいた悪魔を打ち負かすためにお下りになったのである。

さらに古聖所に下った他のすべての人々のうち、あるものは苛酷な罰に苦しめられ、あるものは苦しみを免れていたとはいえ神を見ることはゆるされず、期待していた至福の栄光を待つしかなかった。しかし主キリストは苦しむためではなく聖なる義人たちを捕われのみじめな状態から解放し、ご自分の受難の恵みを与えるためにお下りになったのである。したがってかれが古聖所に下られたことによって、かれの最高の尊厳や権能は決してそこなわれなかったのである。

6 なぜキリストは古聖所に下られたのか

以上のことを説明したあと、つぎのことを教えなければならない。主キリストが古聖所にお下りになったのは悪魔からその捕虜を奪い返し、聖なる太祖たちおよびその他の敬虔な人々を牢獄から解放しご自分と一緒に天国に連れて行くためであった。このことは無限の栄光のうちに見事に行われた。実際かれの現存は直ちに捕われ人たちに輝かしい光をもたらし、かれらの霊魂を無限の喜びと歓喜をもって満たし、神を直観するというあれほど望んでいた至福を分け与えたのである。こうして、主が改心した犯罪人に対して「今日あなたは、私とともに天国にあるであろう」(ル23・43)とおおせられて約束されたことが実現したのである。

この敬虔な人々の解放についてホゼアはずっと以前につぎのように預言している。「死よ、あなたのたたりは、どこにあるのか?よみの国よ、あなたのほろびはどこにあるのか?」(ホ13・14)。預言者ザカリアも同じように述べている。「あなたについていえば、あなたと結んだ契約の血のために、私は、あなたの捕われ人を水のない井戸の中から、つれ戻す」(ザ9・11)。使徒聖パウロも同じように言っている。「権勢と能力とをはいで公にさらしものにし、キリストの勝利のとりことして引き連れられた」(コロ2・15)。しかしこの奥義の効果をさらによく理解するため、しばしばつぎのことを思い起こさなければならない。つまりこの敬虔な人々とは主のご到来後に生まれた人たちだけでなく、アダムからキリストの到来までに生まれた人々、また世の終りまでに生まれる人々もキリストの御受難の恵みによって救われるのである。

従って、彼が死に、復活されるまではすべての人にとって天の門は閉ざされていた。そして敬虔な人々の霊魂は生きている人々から離れて、あるいはアブラハムのふところに運ばれ、あるいは今日でもそうであるが、清め払わなくてはならないものをもっているものは煉獄の火によって清められていた。

主キリストが古聖所にお下りになったいま一つの理由は、天と地と同様、古聖所においてもご自分の力と権能とを表わすためであった。「それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下(訳注、古聖所)にあるものもみな膝をかがめるためである」。(フィ2・10)

このように見てくるとだれもが、人類にたいする神の寛大さに感嘆し驚かずにいられない。神は私たちのために苛酷な死をとげられただけでなく、地の低いところにまで下り、そこから最愛の霊魂たちを引き出し至福に導き入れようとされたのである。

7 第五条の後半の内容

つぎにこの箇条の後半について述べるが、この説明に当って司牧者はいかに努力しなければならないかを示して聖パウロは、「主イエズス・キリストが死者からよみがえられたことを記憶せよ」(ティ②2・8参照)と言っている。このようにかれがティモテオに命じていることはその他の霊魂の司牧者にも命じられていることは明らかである。

さてこの箇条の意味はつぎのとおりである。主キリストは金眼日の午後三時に十字架上で息を引きとられたあと、同じ日の夕方弟子たちによって葬られた(ヨ19・38~42参照)。かれらは総督ピラトの許可を得て主の御体を十字架からおろし、近くの庭園にあった新しい墓に運び入れたのであった。そして死んでから三日目の日曜日の朝早く(マ28・1、マル16・2、ル24・1、ヨ20・1参照)かれの霊魂はふたたび体に合わされた。こうして三日間死んでいたお方は死ぬことによって失っていた生命を取りもどし復活された。

8 キリストはご自分の力で復活された

しかし復活ということは、単にキリストがほかの多くの人々と同じように死者の中から生き返ったことを意味すると考えてはならない。かれはご自分の力と働きによって復活したのであり、これは、かれだけができる特別なことである。自分の力で自分を死から生命にもどすことは自然的なことではなく、まただれにもそのような力は与えられなかった。これはただ神だけがその最高の権能をもってできることで、聖パウロは「かれは弱さのために十字架につけられたが、神の力によって生きておられる」(コ②13・4)と言っている。なぜなら神の御力は墓にあるキリストの御体からも、また古聖所に下ったかれの霊魂からも決して離れず、この力によって御体は霊魂にふたたび合わされ、また御霊魂もふたたび御体にもどされ、こうしてキリストはご自分の力で生き返り死者の中から復活されたのである。

ダヴィドは神の霊に満たされて、このことをつぎのようなことばで予告している。「そのおん右、その聖いおん腕は、勝利をえた」(詩98・1)。キリストご自身、みずからそのことを確認しておられる。「私が命をふたたびとりもどすために、自分の命をあたえる・・・・・・私にはそれをあたえる権利があり、またとりもどす権利もある」(ヨ10・17~18)。また主はこの真理を確証してユダヤ人に向かいこうおおせられた。「この神殿をこわしたら、私は、三日でそれを建て直そう」(ヨ2・19)。ユダヤ人は見事な石造りの神殿のことを考えていたが、かれは聖書が同じ箇所で述べているように、ご自分の御体のことを話しておられたのである(ヨ2・20~22参照)。聖書には時として、主キリストは御父によって復活させられたと書かれているが(使2・24、3・15、ロ8・11参照)その場合のキリストとは人間としてのキリストのことである。そしてかれが自力で復活されたということは(ロ8・34参照)神としてのかれについて言われているのである。

9 死者の中から最初に生まれたお方と言われるわけ

さらにキリストの復活の特殊な点は、かれがすべての人々の中で最初に復活という神の恵みを受けられたことである。聖書はかれを「死者の中から最初に生まれたお方」(コロ1・18、黙1・5)と呼んでいる。また聖パウロはつぎのように書いている。「キリストは、死者の中から復活して、死者の初穂となられた。一人の人間によって死が来たように、一人の人によって死者の復活も来た。すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生きかえる。しかし、おのおの順列があり、まず初穂であるキリスト、次に来臨のときキリストのものである人々がつづく」(コ①15・20~23)。

これらのことばは、死の必然性を全く取り去り不滅の生命へと向かわせる、完全な復活のことを言っているのである。さて主キリストはこのような復活をされた最初のお方である。もし復活が、死ぬはずの生命をふたたび取りもどすことであるとするならば、キリストよりも先に多くの人々が復活している。しかしこれらの人々はみな、生き返ってもふたたび死ななければならなかった。ところが主キリストはご自分の復活によって死に打ち勝ち、これを征服し、もはや死ぬことはありえなかった。このことを聖パウロはつぎのようにはっきりと証明している。「死者からよみがえられたキリストはもう死ぬことがないと私たちは知っている。かれに対してもはや死は、何の力ももっていない」(ロ6・9)。

10 なぜ三日目に復活されたのか

この箇条には「三日目に」ということばが加えられているが、信者たちがキリストはまる三日間墓の中にあったと考えることのないよう、それについて説明しなければならない。かれは土曜日丸一日と、その前日の金曜日の一部と日曜日の一部を墓の中で過ごされた。したがってかれは三日間墓の中におられたとも言える。そして三日目に死者の中から復活されたのである。

かれはご自分が神であることを示すため復活を世の終りまでおくらせることを望まれなかった。またご自分がほんとうに人間であり実際に死んだことを証明するため、死んですぐにではなく死後三日目によみがえられた。この長さの時間は、死が本物であったことを確認するために十分であると思われたからである。

11 「聖書にあるとおり」ということばが加えられたわけ

第一コンスタンティノープル公会議の教父たちは、この箇所に「聖書にあるとおり」ということばを加えた〔(2)〕。このことばは聖パウロから借りたもので(コ①15・3参照)復活の奥義がどれほど必要であったかをかれに教えられ、このことばを信経の中に入れたのである。聖パウロはこう言っている。「キリストが復活しなかったなら、私たちの宣教は空しく、あなたたちの信仰も空しく・・・・・・・・・あなたたちはまだ罪の中にいる」(コ①15・14・17)。聖アウグスティヌスはこの箇条に言われている信仰に感嘆してこう書いている。「キリストが死んだことを信じることは大したことではない。これは異教徒やユダヤ人、またすべての罪人も信じている。そうだ、みながキリストは死んだと信じている。キリスト者の信仰とはキリストの復活を信じることである。私たちの信仰が偉大なのはかれが復活したと信じるからである」(3)。であるから主はしばしばご自分の復活についてお話しになった(マ16・21など参照)。弟子たちにご受難について話されるときはほとんどいつもご復活のことにふれられた。たとえば「人の子は異邦人にわたされ、あざけられ、侮辱され、つばをかけられるだろう。かれらは、人の子をむち打ち、そして殺すだろう」(ル18・32~33)と言われたあと、最後に、「それから三日目に、かれはよみがえる」(ル18・33)と付け加えておられる。またユダヤ人が、何らかのしるしまたは奇跡をもって自分の教えを証明するように求めたとき、かれは、「預言者ヨナのしるし以外のしるしは与えられない。すなわち、ヨナは三日三晩、海の怪物の腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる」(マ12・39~40)とお答えになっている。

さてこの箇条の内容と意味とをさらによくとらえるためには、つぎの三つの点を検討し把握しなければならない。まず、なぜキリストの復活は必要であったのか。つぎに、復活の目的および意図は何であったのか。最後に、復活は私たちにどのような利益と恵みとをもたらしたのか。

12 なぜキリストの復活は必要であったか

まず第一の点について言うと、キリストの復活は神の正義を表わすために必要であった。すなわち神が、ご自分に従順であろうとして虐げられ、あらゆる恥辱を受けられたお方を称揚されるのは当然のことであった。聖パウロはフィリッピ人への書簡でこの理由をあげている。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった」(フィ2・8~9)。

つぎに復活の第二の理由は、義化のために必要な私たちの信仰を強めるためである。なぜならキリストがご自分の力で復活されたことは、かれが神の子であるという最大の証明になるはずだからである。さらに私たちの希望をはぐくみ支えるためである。キリストが復活されたからこそ、私たちもまた復活するという確かな希望をもって生きるのである。なぜなら肢体は自分のかしらとその状態をともにするはずだからである。聖パウロはコリント人への書簡(コ①15・21参照)やテサロニケ人への書簡(テ①4・14参照)でそのように論証しているように思われる。また聖ペトロはこう言っている。「私たちの主イエズス・キリストの父なる神は、賛美されますように。神はその大いなるあわれみにより、イエズス・キリストの死者の中からの復活によって、私たちを、新たに生まれさせ、生きる希望をいだかせ、朽ちることなく、けがれることなく、しぼむこともない天のたくわえの遺産をつがせてくださった」(ぺ①1・3~4)。

最彼に、主の復活は私たちの救いとあがないの奥義を完成させるために必要であった。キリストはご自分の死をもって私たちを罪から解放し、ご復活によって罪のために失っていた大切な恵みを取りもどしてくださった。そのため聖パウロは、「主は私たちの罪のためにわたされ、私たちを義とするためによみがえられた」(ロ4・25)と書いている。すなわち人類の救いのために何ひとつ不足しないためには、かれの死と同様にかれの復活もまた必要だったのである。

13 キリストの復活による恵み

以上の説明から主キリストの復活が信者たちにどれほどの恩恵をもたらしたかが把握できる。まず復活によって、神は不滅で、栄光に満ちたお方であり死と悪魔に対する勝利者であることが明らかにされており、私たちはキリストこそはまさにこのような神であることを何らの疑いもなく信じ告白するのである。

つぎにキリストの復活は私たちの体の復活をもたらす。つまりかれの復活は私たちの復活の能動因であり、また私たちはみな主の復活にあやかって復活するはずである。聖パウロは、「一人の人間によって死が来たように、一人の人によって死者の復活も来た」(コ①15・21)と教えている。実際、神は私たちのあがないの奥義のすべてにおいて、キリストの人性をいわば道具因としてお用いになったのである。したがってキリストの復活は私たちの復活を実現するための手段であった。

さらにキリストの復活はすべての復活のうちもっとも完全なもので、私たちの復活の模範であるとも言える。またキリストの御体が復活することによって不滅の栄光に入ったように、今は弱く滅ぶべきものである私たちの体も復活によって栄光と不滅に包まれるであろう(コ①15・42~44参照)。聖パウロはこう教えている。「私たちの国籍は天にあり、そこからこられる救い主イエズス・キリストを待っている。かれは、・・・・・・私たちの卑しい体を、栄光の体のかたどりに変えられるであろう」(フィ3・20~21)。

復活するのは善人だけでなく、罪をもったまま死んだ人々も復活する。かれらにとってもまたキリストの復活は模範であり聖パウロはつぎのように書いている。「・・・・・・御父の栄光によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた、新しい命に歩む ・・・・・・ 。実に私たちがキリストの死にあやかって、かれと一体となったなら、その復活にもあやかるであろう」(ロ6・4~5)。そしてその少しあとで、「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことがないと私たちは知っている。かれに対してもはや死は、何の力ももっていない。キリストにおいて死んだものは、永久に罪に死に、生きるものは、神のために生きる。同様にあなたたちも、自分は罪に死んだもの、キリスト・イエズスにおいて神のために生きるものだと思え」(ロ6・9~11)と言っている。

14 キリストの復活にあやかること

したがって私たちはキリストの復活から二つのことを学ぶべきである。まず私たちは、罪の汚れを洗い去ったあと、非の打ちどころのない生活、清さ、聖性、節制、正義、慈愛、謙遜に秀いでた新しい生活をしなければならない。つぎにこの新しい生活を堅持し、主のお助けのもとに一度歩きはじめた正義の道からそれることのないようにしなければならない。

さて右にあげた聖パウロのことば(ロ6・9~11参照)によると、キリストの復活は私たちの復活の模範であるだけでなく、実際に私たちに復活する力を与え、また私たちが聖性と正義にとどまり神の掟を守るための力と霊とを与える。私たちはキリストの御死去から罪に死ぬことを学んだだけでなく、罪に死ぬ力をもくみ取った。同様にキリストの復活は私たちに正義を得るための力をもたらし、以後、敬虔と聖性とをもって神に仕え、新しい生活に復活し、それを生きるようにさせる。主はご自分の復活をもってとくに、以前かれとともに罪とこの世とに死んだ私たちが、またかれとともに全く新しい規律ある生活に復活するようにされたのである。

15 キリストとともに復活した人のしるし

このような復活をした人々のもつおもなしるしは何か。それについて聖パウロはこう言っている。「あなたたちがキリストとともによみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、神の右に座しておられる」(コロ3・1)。かれは、キリストがおられるところで生命、栄誉、安息、富を得ようとする人々こそキリストとともに復活したものであると明言している。また「あなたたちは地上のことではなく、上のことを慕え」(コロ3・2)と付け加えているが、これは私たちがキリストとともに実際に復活したかどうかを知るための、もう一つのしるしである。一般に味覚は体の調子や健康状態を表すものであるが、それと同じようにある人がすべてのまことすべての気高いこと、すべての正しいこと、すべての聖なること(フィ4・8参照)を味わい、また天上の事柄について心の中に喜びを感じるならば、それはかれがイエズス・キリストとともに新しい霊的な生命に復活したという大きな証拠である。

訳注
(1) Conc. Tridentinum, Sess. XXV, DS1820参照
(2) Conc. Constantinopolitanum, Symbolum Constantinopolitanum, DS 150参照
(3) S. Augustinus, in Psalmum 120, 4