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ローマ公教要理 使徒信経の部 第七章 | キリストの御昇天

 使徒信経の部 目次

第七章 第六条 天に昇り全能の父なる神の右に座し

1 この箇条の重要性とその前半の内容

神の霊に満たされた預言者ダヴィドは、主の喜ばしい栄えある御昇天を前もってながめ、この勝利を最大の喜びと歓喜をもって祝うようすべての人に呼びかけ、つぎのように歌っている。「すべての民よ、手を拍ち、声をあげて、神に歓呼せよ。神は歓呼のうちに、主は角笛の喚声のうちに、上られた」(詩47・1、47・6)。したがって司牧者は最大の努力をかたむけてこの奥義を説明し、信者たちがこの奥義を信仰と心で把握するだけでなく、神の助けのもとにできるだけ行動と生活をもってそれを表わすよう、入念に配慮しなければならない。

第六条の説明について言うと、この箇条はとくに神的な奥義を取り扱っており、司牧者はまずその前半の意味と内容の説明からはじめなければならない。信者たちはキリストについて、つぎの点を固く信じなければならない。かれは私たちのあがないの奥義を完成し、なしとげられたあと、人間として、御霊魂、御体ともどもに天に昇られた。とはいっても、神としてのかれはその神性によってすべての場所に現存しておられるので、決して天国に不在であったわけではない。

2 キリストの昇天は神的な力だけでなく、人性の力にもよる

キリストは、エリアが火の車に乗って昇天したように(列②2・11参照)、あるいは預言者ハバクク(ダ14・36参照)や助祭フィリッポ(使8・39参照)が神の力によって遠くまで空中を運ばれたように、他人の力によってではなく、ご自分の力で昇天されたのである。さらにかれは神として神の力をもって昇天されただけでなく、人間としても昇天されたのである。それは自然的な力では不可能であるが、ご自分の至福な霊魂に備わっていた力によってお望みのままにその御体を動かすことができたのである。また御体はすでに栄光を帯びており、霊魂の動かすままにそれに容易に従っていた。そのため私たちは、キリストが神としてまた人としてご自分の力で昇天されたことを信じるのである。

3 「御父の右に座す」とは何を意味するか

第六条の後半では「御父の右に座し」と言われている。ここでは、聖書でひんぱんに用いられる比喩、つまり私たちの理解を助けるために人間の心情や肢体を神にあてはめて言う、意味変更が行われていることに注意すべきである。神は霊であるので、かれには形のあるものは何もありえない。しかし人間社会である人を右にすわらせることは、その人に敬意を表することを意味するところから、それを超自然的なことにあてはめ、キリストが人としてすべての人にまさってもっておられた栄光を表わすため、かれは御父の右にすわられたと告白するのである。

したがって「座す」ということは、ここでは体の姿勢や態度を意味しているのではなく、キリストが御父から受けた王としての最高の権能と栄光をたしかにまた永続的にもっておられることを意味している。それについて聖パウロは、「神は、・・・・・・かれを死者の中からよみがえらせ、天においてご自分の右にすわらせ、一切の権勢と、この世ばかりでなく、来世に、たたえられるすべての名の上にかれを置かれた」(エ1・20~21)と言い、また、「万物をかれの足の下に置かれた」(エ1・22)とも言っている。これらのことばから、この栄光は他のいかなる被造物ももつことのできない、主キリストに固有の特別なものであったことが分かる。そのため聖パウロはほかのところで、「神はどんな天使について、『 ・・・・・・私の右にすわれ』とおおせられたであろうか」(へ1・13)と言っている。

4 キリストの御昇天についてしばしば教えること

司牧者は福音書記者ルカが見事な筆致で使徒行録に書きまとめている御昇天の物語をもとに(使1参照)、この箇条の意味をさらにくわしく説明しなければならない。その説明に当ってまず、他のすべての奥義は昇天をいわばその目的としており、それによってはじめてすべては完成し終了することに注目させるべきである。私たちの宗教の全奥義は、主の御託身にはじまり、私たちの間におけるキリストの滞在は昇天で終るのである。さらに、主キリストに関する信経のほかの箇条はかれの謙遜と自己卑下とを示している。実際、神の子は私たちのために人間性とその弱さをお引き受けになり苦しみ、死のうとされたが、これ以上、低く卑しむべきことは考えられない。第五条ではかれが死者の中から復活されたと言い、そしてこの第六条ではかれが天に昇り御父の右にすわられたと宣言するのであるが、これはかれの最高の栄光と神的尊厳を称賛するための最良の表現である。

5 キリストはなぜ、その王国を地上に定めず昇天されたのか

つぎに、なぜ主キリストは天にお昇りになったのか、その理由を入念に説川しなければならない。その第一の理由は、復活によって不滅の栄光を帯びたかれの御体にはこの地上の暗い住まいではなく天の輝かしい崇高な住まいがふさわしかったからである。キリストが昇天されたのはまた、ご自分の御血をもって獲得した王座とその栄光を受取るためであり、さらに私たちの救いについて配慮されるためでもあった。

キリストが昇天されたもう一つの理由は、かれの王国がこの世のものではないことを証明するためであった(ヨ18・36参照)。この世の王国は地上的なもの過ぎ去るもので、富と剣によって保たれている。しかしキリストの王国は、ユダヤ人が待っていたような地上的なものではなく、霊的な永遠の王国である。またキリスト御自身、御自分の王座を天に定めることによって、その王国の宝と富とは霊的なものであることをお示しになった。つまりその王国では、神のことを熱心に求めるものが金持ちであり、多くのものを溢れるほどに所有するのである。聖ヤコボが証言しているように、「神は世の貧しい人々を選んで信仰に富ませ、神を愛するものに約束されたみ国の世嗣ぎとされた」(ヤ2・5)のである。

またキリストは昇天されることによって、私たちが思いと望みをもって、昇天する御自分の後に続くようにされた。キリストは御自分の死と復活をもって霊的に死に、復活するための手本を示されたが、それと同じように、その昇天をもって、地上にある私たちがこの世では他国人で旅人にすぎず(へ11・13参照)、祖国を捜し求める聖徒たちの同市民、神の家族であることを認め(エ2・19参照)、思いを天にはせるように教え、さとされたのである。実際、聖パウロが言っているように、「私たちの国籍は天にある」(フィ3・20)のである。

6 主の御昇天によってもたらされた恵み

神がご慈愛をもって私たちに注いでくださった、説明しがたいほどの恵みの内容とその大きさについて、聖なるダヴィドはずっと以前にこう歌っている。「あなたは丘に上がり、捕虜を手に入れ、人を貢として受けられた」(詩68・19)。あとになって聖パウロはこのことばに説明を加えている(エ4・8参照)。

実際、主は、「私が去るのはあなたたちにとってよいことである。私が去らないなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去れば、それをおくる」(ヨ16・7)とおおせられて、聖霊をおくることを約束されたが、御昇天後十日目に聖霊をおくり、その力と豊かさとをもって現在の信者の群をつくりあげ、こうしてあのすばらしい約束を実現されたのである。

聖パウロによると、キリストが昇天されたのは私たちのために神のみ前において弁護者の務めを果すためであった(へ9・24参照)。聖ヨハネは、「小さな子らよ、私がこれらのことを書くのは、あなたたちに罪を犯させないためである。だが罪を犯す人があるなら、私たちはおん父のみ前に一人の弁護者をもっている。それは義人のイエズス・キリストである。かれは、私たちの罪のためのとりなしのいけにえである」(ヨ①2・1~2)と言っている。このように永遠の御父のみ前に最大の寵愛と勢力をもっておられるイエズス・キリストが私たちの弁謹者になられ、また私たちの救いの嘆願者となられたのであれば、私たちにとってこれ以上の喜びはない。

つぎにキリストは、私たちに約束しておられた場所を準備された(ヨ14・2~3参照)。そして私たち全部の名において私たちの頭として、天の栄光に入られたのである。

さらにかれは天に入ることにより、アダムの罪によって閉ざされていた門を開き、また最後の晩餐のとき弟子たちに約束されたように(ヨ14・3参照)天の至福に至る道をお示しになった。そしてその約束を事実をもって証明するため、敬虔な人々の霊魂を古聖所から連れ出しご自分と一緒に永遠の至福の住まいに伴われたのであった。

7 キリストの御昇天によってもたらされる利益

主の御昇天は、これらの感嘆すべき豊かな超自然的救いの恵みのほかに、つぎのような一連の利益をもたらした。まず御昇天は私たちの信仰の頂点である。信仰は、目に見えずまた人間の聖性や知性を超える事柄について言われるのであるが、もし主が私たちのもとから去らなかったとしたら、私たちの信仰に大した功徳はなかったであろう。主キリストが、「見ずに信じる人は幸いである」(ヨ20・24)とおおせられているとおりである。

さらにキリストの御昇天は私たちの希望を強めるために大切であった。人間キリストが昇天されたこと、また人間としてのキリストが御父の右に座しておられることを固く信じておればこそ、かれの肢体である私たちもまた天に昇り私たちのかしらと再会するという大きな希望をもつのである。主ご自身このことを証明して、「父よ、あなたがお与えくださった人々が、私のいる所に私とともにいることをのぞみます」(ヨ17・24)とおおせられている。

最後に、主の御昇天が私たちにもたらしたいま一つの利益は、私たちの愛を天に向けさせ聖霊の火をもって燃やしたことである。私たちの宝のあるところに私たちの心もあると言われているとおりである(マ6・21参照)。

8 キリストが地上にとどまり続けることは有益ではない

たしかに、主キリストが地上にとどまっておられたならば、私たちの考えはすべて人間としてのかれとその生活態度に限られてしまっていたことであろう。そしてかれを私たちに好意的であった人としてだけ見、かれに対してある自然的な好意を抱くだけに終っていたかもしれない(コ②5・16参照)。しかしかれは昇天されることによって私たちの愛を霊的なものにし、また今は不在であるかれについて考えるとき、かれを神としてあがめ愛するようにされたのである。これについては、主のご在世中かれに対して人間的な判断しか持たなかった使徒たちの例があり、また主御自身も、「私が去るのはあなたたちにとってよいことである」(ヨ16・7)と証言しておられる。実際、ご在世中のキリストに対する使徒たちの愛は不完全で、神の愛である聖霊の降臨によって完成される必要があった。そのため主はすぐにことばをついで「私が去らないなら、あなたたちには弁護者が来ないからである」(ヨ16・7)とおおせられている。

9 キリストの昇天後、教会は大発展をとげた

またキリストは昇天されることによって、地上のご自分の家つまり聖霊の力と導きをもって治められる教会を発展させた。そして人々のもとに、牧者、最高のかしらとして、使徒たちのかしらであったペトロを全教会の上にお立てになった(ヨ21・15~17参照)。また「ある人を使徒にし、ある人を預言者にし、ある人を福音者、ある人を牧者と教師にされた」(エ4・11、コ①12・28参照)。そして御父の右に座しながらそれぞれ異なったたまものを常にお与えになるのである。聖パウロは、「私たちはキリストの賜のはかりにしたがって、おのおの恩恵を受けた」(エ4・7)と言っている。

最後に、信者たちはキリストの御死去と御復活の奥義について述べたことを御昇天にもあてはめて黙想すべきである。私たちの救いとあがないは、天国の門を開いたキリストの御受難の御功徳によるとはいえ、かれの御昇天もまた私たちの模範として私たちの霊魂を高く上げ、霊によって天国に昇ることを学ばせるだけでなく、実際に私たちの昇天を可能にする神的力を与えるのである。