司教協議会へ嘆願書を提出しました(7/17 着)

ローマ公教要理 使徒信経の部 第八章 | キリストの再臨と最後の審判

 使徒信経の部 目次

第八章 第七条 主は生ける人と死せる人とを裁くために来られる

1 キリストは教会に三つの役務をお与えになった

主イエズスはご自分の教会を称揚し栄光あらしめるために、あがない・弁護・審判という三つの役務と役割をお果たしになる。これまでの説明で、かれが御死去と御復活をもって人類をあがなわれたこと、また御昇天によって永久に私たちの弁護を引き受けられたことは明らかになったので、この箇条ではかれの審判について述べることにする。第七条の意味内容は、主キリストが終りの日に全人類をお裁きになるということである。

2 キリストの二度の来臨

聖書はキリストが二度来臨すると教えている。最初は私たちの救いのために肉体をとり処女の胎内で人となられた時であり、二度目は世の終りにすべての人を裁くために来られる時である。聖書は第二の来臨を「主の日」と呼んでいる。これについて聖パウロは、「主の日が、夜の盗人のようにくるものである」(テ①5・2)と言っている。救い主ご自身も、「その日、その時を知る人は一人もいない」(マ24・36)とおおせられた。なお最後の審判については、つぎの聖パウロのことばで十分明らかであろう。「私たちはみな、キリストの審判の前で、正体をあらわし、おのおのがその体で行なったことの善悪にしたがって、報いを受ける」(コ②5・10)。聖書にはこのような証言が豊富にあり、どこにでも見い出すことができるので、司牧者はそれを用いてこのことを証明し説明できるであろう。聖書によると、人類は世の初めから主が肉をおとりになる主の日を待ち望んでいたが、それはこの奥義によって自分たちが解放されるのを期待していたからである。そして私たちはいま神の御子の御死去と御昇天のあと、「幸福な希望と、偉大な神であり、救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつ」(ティト2・12)、第二の、主の日を熱心に待ち望んでいるのである。

3 すべての人は審判者キリストによって裁かれる

司牧者はこの箇条の説明に当って、つぎの点に注目しなければならない。私たち一人一人は主のみ前に出てそれぞれの考え、行い、ことばすべてについて清算し、その場で審判者の判決を受け、そしてそれは二度行われるということである。

最初の審判は各自が死ぬ時に行われる。死ぬとすぐに神の裁判所に出頭し、そこですべてのことつまり行なったこと、言ったこと、考えたことすべてについてもっとも公正な裁きを受ける。これは私審判と呼ばれる。

第二の審判は、すべての人が同一の日時・場所で一緒に審判者の前に立ち、全人類が見ききする前で各自それぞれの判決を言い渡される。このような判決の仕方は、不信仰者や罪人にとってはどうでもよいような責め苦ではないはずであり、また一方、信仰者や義人にとっては、各自の生涯の業が現わされるところから取るに足りないほど小さな報いではないはずである。この裁きは公審判と呼ばれる。

4 私審判があるのに公審判が必要なわけ

各自のための私審判があるのに、なぜさらに全人類のための審判があるのか、その理由を説明しなければならない。

往々にして人は死んだあと、両親は自分たちを模倣する子供たちを残し、また残された弟子は師の手本・教え・行動をまね遵守していく。このことによって死者の報賞や罰が増減するのは当然である。さてこのように多くの人々に及ぼすよい影響あるいは悪い影響は世の終りまで続くものであり、それらすべての正しい言行あるいは誤った言行について徹底的に糾明することは正しいことである。そしてこのことは全人類共通の審判によってはじめて可能である。

またしばしば信仰者の評判はそこなわれ、不信仰者が正義の味方として賞賛されることがあるが、神の正義は、信仰者が不当に奪われていた尊敬を全人類が参集した公の審判で回復させるのである。

つぎに善人も悪人も存命中にしたことは体を使ってしたのであるから、当然、善行あるいは悪行は行為の道具であった体にも帰せられる。したがって霊魂と一緒に体にもそれ相当の永遠の報賞や責め苦が課されるのはしごく当然のことである。そしてこのことは全人類が復活したあとの公審判によってはじめて実現可能である。

最後に、逆境も順境も時として善人、悪人の差別なしに起きるが、それでも全ては神の無限の英知と正義に司られていることをすべての人に明らかにすべきである。そのため、ただ善人に報酬を与え悪人に罰を課するだけでなく、公審判をもってそれを決定するのである。また時として聖人たちさえも悪人が富と栄誉に恵まれているのを見て、嘆いたり不満をもったりすることがあるが、しかし公審判の結果、人々はみな神の正義と摂理を賛美するようになるのである。預言者ダヴィドは、「私の足は危くつまづきかけた。危く私の足はすべりかけた。それは、私が、愚かものを、罪人の栄えを、うらやんだからだった」(詩73・2~3)と言い、その少しあとでは、「罪人とはこんなもの。いつも平和で財を積む。それなら、私が心を清く保ったのは、無駄だったのか、私が手を潔白にしたのも。私は、日々、打擲〔(ちょうちゃく)〕され、朝ごとに罰を受けた」(詩73・12~14)と言っている。しばしば多くの人が、このような不満をもっている。したがって、神は天の四方を歩きまわり地上のことにはかまわれないと言われることのないためにも(ヨブ22・14参照)全般的な裁きが必要であった。そのため公審判に関する教えが私たちの信仰の十二箇条の一つに数えられていることはもっともなことで、神の摂理と正義について迷っている人々の心は、この教義によって固められるであろう。

さらに、この審判があることを知って信仰者は慰められ、不信仰者は恐れをなし、前者は神の正義を知ってこれに背かないようにし、後者は永遠の罰を予見し恐れて悪から遠ざかるようになるであろう。

そのため救い主は最後の日について述べながら、いつか公審判が行われることを予告し、それに先立つしるしを教え、世の終りの近いことを知るようにされた(マ24・29~51参照)。 また主は御昇天のとき天使をお送りになったが、この天使は主の不在を悲しむ使徒たちを慰めてこう言った。「今あなたたちを離れて天に昇られたあの同じイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにしておいでになるであろう」(使1・11)。

5 キリストは神としてまた人として人類をお裁きになる

聖書によるとキリストは神としてだけでなく人としても人類を裁く権能を与えられている。裁く権能は三位一体の三つのペルソナに共通のものであるが、英知が御子について言われるところから、とくに御子に帰せられる。キリストが人としてもこの世を裁かれることは、かれのつぎのことばによって確認できる。「父が命を左右されるように、子にも左右させ、こうして、父はかれを最高の審判者とお定めになった、かれは人の子だからである」(ヨ5・26~27)。

6 なぜ審判は御父と聖霊には帰せられないのか

この審判を主キリストが行うことはきわめてふさわしいことである。なぜならこの審判は人間を裁くものであり、したがって人間が自分の体の目をもって審判を見、耳をもって読み上げられる判決を聞き、はだでその審判を感じるようにしなければならないからである。さらに人としてのキリストは人々の全く不当な判決によって死刑にされたが、そのかれが今、すべての人々の面前で全人類を裁く審判者の席につくことは至当なことである。そのため聖ペトロはコルネリオの家でキリスト教の概要を述べ、キリストがユダヤ人から十字架に付けられて殺され三日目に復活されたことを教えたあと、つぎのように付け加えている。「そして、生きているものと死んだ者との審判者として神に定められたのは自分であることを、人々に証明し宣言せよと、私たちにお命じになりました」(使10・42)。

7 公審判が近いことを示すしるし

聖書は公審判に先立って現われる主なしるしとして、全世界に及ぶ福音の宣教、棄教、反キリストの三つをあげている。実際、主はつぎのようにおおせられた。「み国のこの福音が、全世界にのべ伝えられ、諸国の人々に対して証明されるとき、そのとき終りが来る」(マ24・14)。また聖パウロは、私たちが主の日が間近かにあると考えて惑わされることのないように忠告を与え、「それよりさきに、棄教のことがあり、罪の人が・・・・・・現われるまで〔主の日は来ない〕」(テ②2・3~4)と言っている。

8 どのようにして審判は行われるか

さて審判の形式および方法については、司牧者はダニエルの預言(ダ7参照)、福音書(マ24~25、マル13参照)、聖パウロの教え(テ①4・13~5・11参照)から容易に知ることができるであろう。

つぎに、審判者が言い渡す判決についてくわしく検討することにしよう。救い主キリストは右側に立っている信仰者に喜びに溢れるまなざしを注ぎながら、最大の慈愛をこめてつぎのような判決を言い渡す。「私の父に祝せられた者よ、来て、世のはじめからあなたたちのために準備されていた国を受けよ」(マ25・34)。このことばを不信仰者の断罪のことばと比較するとき、これ以上喜ばしいことばはありえないことが分かる。このことばは、敬虔で正しい人々を労苦から安息へ、涙の谷から最高の喜びへ、悲惨からかれらが愛の業をもってかち得た、永遠の至福へと導くのである。

9 不信仰者に課せられる罪

そのあとキリストは左側に立っているものに向かって罪を宣告し、つぎのように言い渡す。「のろわれた者よ、私をはなれて、悪魔とその使いたちのために準備された永遠の火にはいれ」(マ25・41)。「私を離れよ」ということばは不信仰者に課される最大の罰を示すもので、これによってかれらは神のみ前から退けられ、あれほどの善をいつか享有できるという慰めも完全に奪われるのである。神学者たちはこの罰を永罰(Poena damnationis)と呼んでいる。このように呼ばれるのは、地獄に落とされた不信仰者は神を見るための光を永遠に奪われるからである。

つぎに、「呪われたものよ」と言われているが、これはかれらの苦痛と不幸を一層ますことばである。実際、もし神がご自分のみ前からかれらを追放するに当って、少なくともいくらかの祝福を与えるならば、かれらはそれによってどれほど慰められることであろう。しかしかれらの苦痛を軽くするようなものは何も期待できず、むしろかれらは追放される身である以上、神の正義によってあらゆる呪いをあびせられるのは当然である。

10 感覚の罰(Poena sensus)と、悪魔との同居

つぎに、「永遠の火に入れ」と言われる。このことばはもう一つの罰を示すもので、これは紐むちや革むちおよびその他の刑具による責め苦のように体の感覚に感じられるところから、神学者たちは感覚の罰と呼んでいる。しかしあらゆる責め苦のうちもっとも苦痛を感じるのは火による責め苦で、その上この責め苦が永遠であることを考えるならば、断罪された人々の苦しみがあらゆる苦しみを越えるものであることはたしかである。

このことはさらに、判決の最後にある、「悪魔とその使いたちのために準備された・・・・・・」ということばで一層明らかにされている。私達は不幸に出会うとき、友だちや同じ不幸にある人々と一緒にいることによってかれらの心づかいや親切さにいくらか支えられ、どんな苦しみも実際よりは軽く感じるものである。しかしこれほどの苦しみの中にありながら、この極悪の悪魔との交わりを強いられ、そこから抜け出すことのできない断罪された人々の悲惨さはいかばかりであろうか。とはいえ私たちの救い主による判決は正しい。それはかれらが信仰者としてなすべきあらゆる業を怠ったからである。かれらは飢え渇いている人々に食べ物、飲み物を与えず、旅人を宿らせず、裸の人に服を着せず、病人や囚人を見舞わなかったからである(マ25・42~43参照)。

11 審判の内容についてしばしば信者たちに教えること

以上のことを司牧者はひんぱんに信者たちに教え理解させなければならない。この箇条の真理を固く信じることによって、心の悪い傾きを抑制し人々を罪から遠ざからせるための大きな力が与えられるからである。そのため集会の書では、「あなたは、どんな行いをする時も、自分の最期を思え、そうすれば罪をおかさないだろう」(7・36)と言われている。さらにどんな向う見ずな罪人でも、審判者の中でもっとも公正な審判者のみ前に出て、自分の行ないやことば、またごくひそかな思いについても清算し、それにふさわしい罰を受けなければならないと考えるとき、信仰生活に引きもどされないものはいないであろう。

一方、義人はますます聖徳を積むよう励まされるであろうし、また貧しさ、屈辱、苦悩の中にあっても(この世での苦しい戦いのあと)並みいる全人類の前で勝利者としての天の祖国に迎えられ永遠の栄誉を受ける日のことを考え、必ずや、えもいわれぬ喜びに満たされることであろう。したがって司牧者は信者たちを励まし、最良の生活決算書を提出できるよう、あらゆる信仰の業にはげみ、こうして深い心の平和のうちにまた子として当然もつべき期待をもって、あの偉大な主の日の到来を待つことができるようにすべきである。