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ローマ公教要理 使徒信経の部 第九章 | 聖霊に関する信仰箇条

 使徒信経の部 目次

第九章 第八条 聖霊を信じます

1 聖霊に対する信仰の必要性とその恵み

 これまでは三位一体の第一と第二のペルソナについて必要と思われるかぎりの説明をして来た。これからは第三のペルソナ、聖霊に関する信経の教えを説明することにしよう。

 キリスト者はこの部分について無知であることはゆるされず、またこれまで述べた箇条ほどにこの箇条を知らなくてもよいとも言えない。したがって司牧者はあらゆる努力と配慮をもってこの説明に当るべきである。そのため聖パウロもあるエフェゾ人たちの聖霊に関する無知をそのまま放置してはおかなかった(使19・2~7参照)。かれらに聖霊を受けたかどうかを尋ね、かれらが聖霊があることさえ知らないと答えると、かれはすぐに「ではどんな洗礼を受けたのか」と聞いている(使19・2~3参照)。

 この対話は、この箇条に関する明確な認識が信者にとってきわめて大切であることを示している。その認識をもつことによって、信者は自分がもっているものはすべて聖霊の寛大さと慈愛によることを自覚し、自分自身についてより控え目で謙遜な考え方をもち、また神のお助けにすべての希望を託すようになる。そしてこのような態度は最高の英知と幸福に至るための第一歩である。

2 聖霊という語の意味

 この箇条の説明はまず、ここでいう聖霊という語の意味、内容の説明からはじめるべきである。なぜならこの語は御父と御子についても同様に言うことができ(両者とも霊で〔ヨ・24、コ②3・17参照〕、聖なるお方であり〔イ6・3、黙4・8参照〕、私たちは神は霊であると信じている)、また天使(詩104・4、へ1・7参照)や義人たちの霊魂(詩104・4、集12・7参照)も同じことばで呼ばれている。したがって信者たちがことばのあいまいさから誤解することのないように注意すべきである。この箇条での聖霊という語は第三のペルソナについて用いられている。第三のペルソナは時として旧約聖書でも聖霊と呼ばれ、新約聖書ではひんぱんにそのように呼ばれている。ダヴィドは「あなたの聖なる霊を、私から奪われるな」(詩51・13)と祈っている。知恵の書では「あなたが、知恵を与えて下さらず、上から聖なる霊が下らなかったら、あなたのみ旨を知るものがあったでしょうか?」(知9・17)と書かれている。また「かれはそれを聖霊において造った」(ヴルガタ訳・集1・9)と言われている。新約聖書では御父と御子と聖霊のみ名において洗礼を授けるように命じられている(マ28・19参照)。また処女マリアは聖霊によって身ごもったと言われている(マ1・20、1・35参照)。洗者ヨハネは、聖霊によって洗礼を授けるキリストのもとへ私たちを送る(ヨ1・33参照)。そのほか多くの箇所にこの語は用いられている。

3 なぜ第三のペルソナは固有の名称をもたないのか

 ところで第三のペルソナが第一、第二のペルソナと同じように固有の名称をもたないことを不思議に思ってはならない。第二のペルソナが子という固有の名称をもって呼ばれるのは、前の箇条で説明したように、御父からのかれの永遠の発出が誕生であるからである。つまりその発出に誕生という語を用いることができるならば、当然、発出したものは子と呼ばれ、発出のもとになったものは父と呼ばれる。さて第三のペルソナの発生には固有の名称はなく、霊発(Spiratio)または発出(Processio)と呼ばれる。そのため発出するペルソナにも固有の名称はないのである。この発出に固有の名称がないとすれば、神について言われる他の名称と同じく被造物から借用せざるをえないのであるが、被造物の間では誕生以外に本性や本質を伝える方法は見当らない。したがって神が愛によってご自分全部をお与えになる方法に固有の名称を付けることは不可能で、そのため第三のペルソナは聖霊という一般的な名称で呼ばれたのである。この名称が第三のペルソナにもっとも適合していることは、かれが私たちの中に霊的生命を注ぐこと、またこのいとも聖なる霊の霊感がないかぎり永遠の生命を得るためには何もできないことによって分かる。

4 聖霊は神である

 ことばの意味をよく説明したあと、聖霊は御父および御子と同じように神であり、かれらと平等で、またかれらと同様に全能、永遠で、無限に完全なお方であり、最高の善、最高の英知で、またかれらと同一の本性をもっておられることを教えなければならない。この平等性は私たちが「聖霊を信じます」(Credo in Spiritum Sanctum)と言うときの「を」(訳注・ラテン語ではinという前置詞が用いられている。この前置詞は名詞の対格を支配し「の中へ」「に対して」「に向かって」という意味がある)によって十分表明されている。なぜなら私たちの信仰の活力を表わすこの小辞(in)は至聖三位の全部のペルソナのまえにおかれているからである。

 聖書もはっきりと聖霊が神であることを証明している。たとえば聖ペトロは使徒行録で、「アナニアよ、なぜ聖霊をいつわり、畑の代金をかくすほど、あなたはなぜ、サタンで心を満たしたのか」(使5・3)と尋ね、続けて「あなたは人をいつわったのではなくて神をいつわったのだ」(使5・4)と言っている。かれはまず聖霊と言い、そのあとすぐに聖霊を神と呼んでいる。聖パウロもコリント人への書簡の中で聖霊を神と呼んでいる。「働きは異なるが、すべての人にすべてを行われる神は同じである」(コ①12・6)と言い、そのあと、「これらすべてのことは、唯一の同じ霊が行うことであって、霊がおぼしめしのままに、おのおのに分け与えるのである」(12・11)と付け加えている。さらに聖パウロは使徒行録で、預言者イザヤが神のことばとして伝えているものを聖霊のことばであるとしている。イザヤはこう言っていた。「私は、こういわれる主のみ声を聞いた、『だれを送ろうか?だれが、私たちのかわりに行くだろうか?』。私は答えた、『私がいます、私をおおくりください』。主はおおせられた、『行って、その民にこういえ、耳をかたむけて聞け、だが、わかるまい、その目で見よ、だが見えまい。』(イ6・8~9)。聖パウロはこのことばを引用するに当って、これは「イザヤ預言者の口をかりて聖霊があなたたちの先祖におおせられた」(使28・25)と言っている。

 また聖書は聖霊のペルソナを御父と御子のペルソナと並べて、御父と御子と聖霊のみ名において洗礼を授けるように命じているが(マ28・19参照)、このことからしても今述べている奥義の真実性を疑うことはできない。なぜなら御父が神であり、御子が神であるならば、かれらと対等にあがめられる聖霊もまた神であると言わざるをえないからである。

 さらにある被造物の名において洗礼を授かったとしても、それによって何の恵みも受けることはできない。聖パウロも、「あなたたちは、パウロの名によって洗礼を受けたのか」(コ①1・13)と言っているが、ここでかれはそのような洗礼は救いのために何の役にも立たないことを言おうとしているのである。したがって私たちが聖霊の名において洗礼を授かることからも、聖霊は神であると結論すべきである。聖霊の神性を証明するこのような三つのペルソナの組合せは聖ヨハネの書簡にも出ている。「天においては、おん父とみことばと聖霊この三つは一致する。」(ヨ①5・7)。このことはまた詩篇や聖務の終りにとなえる、「願わくは父と子と聖霊とに栄えあらんことを」という栄誦にも示されている。

 最後に、この真理の最大の証明は、私たちが神に固有のものと信じている事柄を聖書が聖霊にも帰していることである。「あなたたちの体は、その内にある神から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか」(コ①6・19)。また「聖とする」(テ②2・13、ぺ①1・2)、「生かす」(ヨ6・63、コ②3・6)、「神の深みまですべてを見通す」(コ①2・10)、「預言者を通して語ること」(ぺ②1・21)、「どこにでも現存すること」(知1・7参照)を聖霊に帰しているが、これらはすべて神についてのみ言われるはずのものである。

5 聖霊は第三のペルソナである

 さらに聖霊は神であり御父および御子と同一の本性をもっておられるが、しかしかれらとは区別された第三のペルソナであること、神の意志によって発出したものであることを信者に入念に教えなければならない。聖書によるとほかの証明は省くとしても、私たちの主が教えられた洗礼のことば(マ28・19参照)は聖霊が神の本性をもった自立者であり、他のペルソナから区別された第三のペルソナであることをはっきりと教えている。またこのことは聖パウロのつぎのことばにも示されている。「主イエズス・キリストの恩恵、神の愛、聖霊の交わりが、あなたたち一同とともにあるように」(コ②13・13)。

 しかしその最大の証明は第一コンスタンティノープル公会議がマケドニア派の不敬虔な愚かさを論破するために決議したつぎのことばである。「また、主であり、生命を与えたもう聖霊を信じます。聖霊は御父と御子より発し、御父と御子ともに同じく礼拝と栄光を受け、預言者を通じて語られた」。(1)

 教父たちは聖霊を私たちの主と呼んでいるが、これによって聖霊が神から創造されたすぐれた霊つまり天使にどれほどまさっているかを表明している。聖パウロによると、すべて「天使たちは、救いの世嗣ぎになろうとする人々に奉仕するために、おくられた奉仕の霊ではないか」(へ1・14)。また教父たちは聖霊を「生命を与えるもの」と呼んでいる。体は霊魂に結ばれることによって養われ維持されるが、それ以上に霊魂は神との一致によって生かされる。そして聖書によるとこの霊魂と神との一致は聖霊の働きによるもので、そのため聖霊は「生命を与える霊」と呼ばれているのである。

6 聖霊は御父と御子から発出する

 「父と子より出(い)で」ということばについては、聖霊は御父と御子を一つの源として永遠の発出によって出たことを説明しなければならない。これは教会が信ずべき教義として決定したもので、聖書と公会議の教えに基づいており、信者はこれをないがしろにすることはできない。実際主キリストは聖霊について、「またかれは私に光栄を与える。なぜならかれは私のものを受けるからである」(ヨ16・14)とおおせられている。聖霊が御父と御子から発出することは、聖書が時として聖霊をキリストの霊と呼び(使16・7、ぺ①1・11参照)、また御父の霊と呼んでいることからも分かる。また聖霊はあるいは御父からおくられると言われ、あるいは御子からおくられると言われているが、これは明らかにかれが御父と御子から同様に出ていることを意味している。聖パウロは、「キリストの霊をもたないものはキリストのものではない」(ロ8・9)と言っている。またガラツィア人への書簡では聖霊をキリストの霊と呼び、「『アッバ、父よ』と叫ぶみ子の霊を、神が私たちの心に遣わされた」(ガ4・6)と書いている。マテオ福音書では御父の霊と呼ばれている。「話するのはあなたたちではない、あなたたちの内にある、父の霊が話してくださる」(マ10・20)。

 またキリストは最後の晩さんでこうおおせられた。「私が父からあなたたちにおくる弁護者、父から出る真理の霊が来るとき、それが私について証明するであろう」(ヨ15・26)。また他の箇所では、聖霊は御父からおくられる、と言われている。「父は私の名によって聖霊をおつかわしになる」(ヨ14・26)。これらのことばは聖霊の発出について述べたもので、かれが御父と御子から発出していることは明らかである。以上が聖霊について信じなければならない事柄である。

7 聖霊の働きとたまもの

 つぎに、聖霊の感嘆すべき働きは何か、また永遠の慈愛の泉のような、かれから流れ出る豊かなたまものにはどのようなものがあるかを説明すべきである。神ご自身以外のものに対する三位一体の働きは三つのペルソナに共通である。しかしそのような働きのうち聖霊に固有のものとされるものが多くあるが、それはこれらの働きが神の無限の愛から来ることを示している。実際、聖霊はいわば愛に燃えさかる神の意志から発出するのであるから、聖霊に固有の働きが私たちに対する神の無限の愛から来ていることは容易に分かる。

 そのため聖霊は「たまもの」と呼ばれる。たまものという言葉は、好意によって無償で何らの報酬も期待せずに与えられるものを意味する。したがって、神がお与えになったすべてのたまものや恩恵(聖パウロは、私たちがもっているものでもらわなかったものがあるだろうか、と言っている〔コ①4・7参照〕)は、聖霊の同意と好意によるものであることを敬虔と感謝の心でもって認めなければならない。

8 聖霊はどのような働きをされるか

 聖霊は多くの働きをされる。世界の創造(ヨブ33・14、詩33・6参照)、被造物の繁殖およびその支配については第一条ですでに述べたので省くとして、そのほか、生命を与える働きが聖霊に固有のものとして帰せられていることについては、今しがた述べたばかりである。これについてエゼキエルは「私が息を与える、そうすれば、あなたたちは、いのちを取り戻し、私が主であることを知る」(エ37・6)と証言している。

 イザヤは聖霊に固有のおもな働きをつぎのように列挙している。「知恵と分別の霊、賢慮と強さの霊、知識と主へのおそれの霊」(イ11・2)。これらは聖霊のたまものと呼ばれ、時として聖霊とも呼ばれている。そのため聖アウグスティヌスは賢明にもつぎのように指摘している。つまり聖書で聖霊ということばに出会うとき、それが三位一体の第三のペルソナを指しているのか、あるいは聖霊の業と効果を指しているのかを見分けなくてはならない。なぜならこの二つは、創造主と被造物とが違うように互いに違っているからである。(2)

 これらの聖霊のたまものによってキリスト教的生活のあるべき姿を実現し、またこのたまものを通じて実際に聖霊が私たちの中に現存しておられるかどうかを知るのであるから、これについては一層入念に説明しなければならない。  これらのすばらしいたまもののほかに、私たちを義化し、私たちの世嗣ぎの手金である約束の聖霊をもってしるす恩恵(エ1・13~14参照)について教えなければならない。実際、もっとも緊密な愛のきずなをもって私たちの心を神に結び付け、こうして最大の信仰の努力をもって新しい生活をはじめさせ、神の本性にあずかるものとし(ペ②1・4参照)、神の子と呼ばれ(ヨ①3・1参照)また実際に神の子にするのは、この恩恵である。

訳注
(1) Conc. Constantinopolitanum, Symbolum Constantinopolitanum, DS 150参照
(2) De Trin. lib. XV. c. 19.

※ 【当サイト管理人注】 本文中に(1)(2)の番号は付与されているものの、章末に訳注なし。おそらく以上のような記載がなされるはずだったと思われます。

(1)のDS : Denzinger-Schönmetzer(デンツィンガー・シェーンメッツァー) 、『カトリック教会文書資料集』
(2)については、Catechism of the Council of Trent for Parish Priests (1923) p.95 の注釈を転載しました。