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ローマ公教要理 秘跡の部 第四章 73-81 | ミサは賛美と同時に贖罪の犠牲である、ミサにおける死者のための功徳

 秘跡の部 目次

第四章 聖体の秘跡

73 聖人、あるいはその他のいかなる被造物に対しても犠牲を捧げることは許されない

 公会議はまたこの犠牲が神おひとりにだけ捧げられるものであることをとくに思いおこさせることを忘れなかった。(1) すなわち教会は、時々聖人たちの記念や誉れのためにミサを捧げるというならわしがあるが、しかし公会議は、この犠牲が彼らに捧げられているのではなく、むしろ彼らに不滅の栄誉を与えられた神おひとりに捧げられることを教えている。それで、司祭は決して、「ペトロ、またはパウロよ、あなたにこの犠牲を捧げます」とはいわない。ただ神おひとりに犠牲を捧げ、至福なる殉教者の輝かしい勝利のために感謝をなしまた地上で記念している聖人たちが、天上においてわれわれのためとりついでくれるよう、彼らの守護をこい願うのである。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 21, cap. 3, can. 3 参照。

74 新約の犠牲と司祭についての教え

 教会はこの聖体の犠牲についての教義を最後の夜にこの聖なる奥義を捧げることを使徒たちにお命じになられ「私の記念として、これを行なえ」(ルカ22・19、コリント前11・24)とおおせられた主ご自身のみ言葉の中に汲んでいる。公会議が宣言しているように、このとき主は彼らを司祭となし、彼らおよびその司祭職を受け継ぐものに、ご自分の御体を屠り捧げるように命じられたのである。(1) このことはまた、聖パウロのコリント人に対するつぎの言葉からも十分に証明される。「あなたたちは、主の杯と悪魔の杯とを同時に飲むことができない。また、主の食卓と悪魔の食卓とに、共につくことはできない」(コリン卜前10・20-21)と。さて、この「悪魔の食卓」という言葉は悪魔への犠牲を捧げる祭壇と解すべきである。それゆえ、使徒聖パウロのいうところから推理してみると「主の食卓」とは、とりもなおさず主に犠牲を捧げる祭壇そのものを意味しているのである。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 22, cap. 1 et can. 2参照。

75 旧約におけるミサの前表について

 旧約聖書中に見られる聖体の秘跡の前表や預言の中、明らかにミサを預言しているマラキアのつぎの言葉がある。「日の昇るところから、日の没するところまで、私の名は異国の民の中で偉大なものといわれている。あらゆる地で犠牲が捧げられ、私の名に清い供物が捧げられている。そうだ、私の名は異国の民の中で偉大なものといわれている。と万軍の主はおおせられる」(マラキ1・11-12)と。さらにこの犠牲は、律法宣布の前あるいは後になされたあらゆる種類の犠牲によって予告されている。なぜならこれらの犠牲によって意味されているすべての善は、これらの犠牲の完成であり成就である聖体の犠牲の中に含まれているからである。しかし、ミサに関するかたどりの中で、メルキセデクの犠牲ほど顕著なものはない(創14・18、ヘブライ7・17)。というのは、救い主御自らご自分がメルキセデクの位に等しい永遠の司祭である(詩110・4)ことを宣言され、最後の晩さんにおいてもパンとブドー酒との形色のもとに、その御体と御血とを御父神に捧げられたからである。

76 ミサの聖祭は十字架上の犠牲と同じである

 われわれはミサにおいて行なわれる犠牲と十字架上で捧げられたそれとは、同じ一つの犠牲にほかならないことを信じているし、またそうなのである。なぜなら、かつて十字架上で血を流して屠られたもうた主キリストという一つのそして同じオスチアが捧げられるからであり、そこには血にまみれたいけにえと血を流さぬいけにえとの二つがあるのではなく、ただ一つのいけにえによる犠牲が、「私の記念としてこれを行なえ」(ルカ22・19)と主がお命じになられて以来、毎日、聖体の中で繰り返されているのである。

77 司祭も一人である

 またこの秘跡には、主キリストという同一の司祭しかいない、というのは御体と御血を捧げるときの司祭は、自分の名においてではなく、キリストの名において捧げるからである。そのことはまた聖変化の言葉からしても明らかである。司祭は「これはキリストの御体である」とはいわずに「これは私の体である」という。すなわち司祭は御主に代わって、パンとブドー酒の実体を真の御主の御体と御血とに変化させるのである。

78 ミサは賛美と同時に贖罪の犠牲である

 以上のとおりであるから、また公会議が説明しているつぎのこと、すなわちミサのいとも聖なる犠牲は単に賛美と感謝のためだけの犠牲でなく、また十字架上で捧げられた犠牲の単なる記念でもなく、神をなだめ神によみせられるための真の贖罪の犠牲であることを教えねばならない。(1) それゆえ、われわれが、清い心、生き生きとした信仰、また深い痛悔の心をもって、このきわめて聖なるいけにえを屠り捧げる時、主の御慈悲および時宜に応じた恩寵を受けることは疑いないところである。この犠牲から立ちのぼる香りは神にとって非常に快いものであり、そのため神はわれわれに恩寵と悔悛の賜物を与え、われわれの罪をゆるしたもうほどである。そのため教会はつぎのようなおごそかな祈りを捧げるのである。「この犠牲が繰り返される度ごとに、われらの贖いの御業が果たされる」と。(2) すなわち流血の犠牲のきわめて豊かな功徳は血を流さないこの犠牲によって、われわれの上にそそがれるのである。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 22, cap. 2 et can. 3 参照。
(2) 聖霊降臨後第主日の密踊。

79 ミサにおける死者のための功徳

 最後に、司牧者はこの犠牲がただそれを捧げるもの、またそれにあずかるものだけでなく、すべての信者、すなわちわれわれとともにこの世に生存しているものにも、またその罪を十分に償うことなく主においてすでに死んだものにも功徳をもたらすことを教えねばならない。ミサの聖なる犠牲が、生きているものの罪、罰、償いおよび彼らのあらゆる災禍や苦悩のために捧げられると同じく死者のためにも捧げられるということは、使徒たちからのきわめて確かな伝承である。

80 ミサは個人的なものではない

 そこからして、すべてのミサはすべての信者の利益と救霊のためであり共同のものであることが容易に認められる。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 22, cap. 6 et can. 8 参照。

81 ミサの儀式について

 この犠牲は多くのそして荘厳かつ荘重な儀式を伴っており、その中の一つとして無益で余分なものと考えられるものはない。かえってそれらすべては、これほどに崇高な犠牲の尊厳さをさらに輝かせ、またこの救いの奥義を見る信者たちを犠牲の中に隠されている神の事柄への観想に導くことを目的としている。しかし、これについてここで長くのべることはやめよう。というのは、これは、われにわれがめざした以上に長い説明を必要とするであろうし、また他方、すでに敬虔で学識ある人々が、このことに関して無数の本や注釈書を出しており、司祭たちは容易にそれを入手できるからである。であるから、これまで神の助力のもとに、秘跡および犠牲としての聖体についてのべてきた主要な点で十分であろう。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 22, cap. 5 et 7; Sum. Theol., III, q. 83, a. 5 参照。