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ローマ公教要理 秘跡の部 第五章 1-12 | 悔悛の名称と効力、内的悔悛、主な効果、秘跡としての悔悛〔告解)〕

 秘跡の部 目次

第五章 悔悛の秘跡 〔(告解の秘跡、ゆるしの秘跡)〕

1 正確にまたしばしば悔悛の秘跡について説明すべきこと

 人間性の弱さともろさは周知のことであり、また人はみなそれぞれその経験をもっており、それだけに告解の秘跡がいかに必要であるかを知らないものはだれもいない。そこで、もし司牧者がその説明において示さねばならない熱心さが、取り扱う事柄の偉大さや重要性によって測られるべきであるとすれば、ここで取り扱う問題の説明において彼らは熱心すぎることはないであろう。なぜなら洗礼はただ一度だけ授けられ、繰り返されえないのに対し、告解の秘跡は、洗礼の後、罪におちいるたびごとに繰り返し授かることができ、また必要とされるからである。トリエントの公会議はこのことを教えて、告解は洗礼後に罪を犯したものにとって必要であり、洗礼はまだ再生しないものにとって救霊のために必要であるとのべている。(1) また、このことに関して書いたすべての著者が引用する、聖ヒエロニムスのあの著名な「告解は第二の板である」という言葉もこのことを証明している(2)。実際、船が難破した時。生命を救う唯一の手段は、難破した船の板片をつかむことである。同様に洗礼の無垢を失ったものは、告解の板に頼らないかぎり救霊はあきらめるほかはない。

 ここでのべる事柄はただ司牧者自身のためばかりでなく、かくも必要なことに対して信者たちが無関心を責められることのないように彼らを励ますためにものべられているのである。人間共通の弱さを自覚した彼らは、恩寵の御助けのもとに、踏みはずしたりまた転落することなく主の道を進むよう全力をあげて努力せねばならない。そしてもし倒れることがあるならば、その時にはよき牧者としてその羊の傷を手当し、いやしてくださる(ヨハネ10・11、エゼキエル34・16)神のかぎりないご好意にその目を向け、告解の秘跡という非常に有益な薬を他日にのばすことのないよう注意すべきである。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 6, de justificatione, cap. 14; sess. 14 de poenitentia, cap. 3 参照。
(2) S. Hieronymus, in 3 cap. Is. ad haec verba “Ruit enim Hierusalem” ; Sum. Theol., III, q. 84, a. 6 参照。

2 悔悛の名称と効力とについて

 本論に入るにあたって、その前に告解という言葉の種々の意味を説明し、だれもその表現のあいまいさのために誤謬に引きこまれないようにすべきである。ある人々は告解(poenitentia)を償いと理解し、またある人々はカトリック信仰の教義から遠く離れて、告解とは過去に関することではなく新しい生活にほかならないと主張している。それゆえこの言葉は多くの異なった意味をもっていることを示さなければならない。

 第一に、それが善であるか悪であるかは全く考えず、以前に気に入っていたことに嫌気を感じる人々がある。神によってではなく、世間によって悲しむ人々はこのような後悔をしており(コリン卜後7・10)このような悔悛は死を生ずる改心であり、救霊をもたらすものではない。

 いま一つの悔悛は、自分の非を認め、神のためにではなく自分のために、以前に快く思っていたことに悲しみをおぼえることである。

 第三の悔悛は、犯した悪について真心から悔み、あるいはそれを外的しるしに表わし、とくに神にそむいたことを悲しむ。

 悔悛という名は、以上あげたそれぞれの意味にとれる。しるし聖書の中で神が「悔やみたもう」(創6・6、サムエル上15・11)とあるのは、明らかに換喩によるものである。(1) 聖書は神があるものを変更しようと決意されたことを表わすために、人間の慣習に従ったこのような表現法を用いている。すなわち、神は、人間があることを後悔し全力をあげてそれを変えようとするのと同じようにふるまうと思われたからである。神が「人を造られたことを悔やまれた」(創6・6)とか、またサウロを「王にしたことを悔やむ」(サムエル上15・11)とか書かれてあるのは、この意味においてである。

訳注
(1) Sum, Theol., I, q. 21, a. 3 参照。

3 これらの意味の相違について

 しかしながら、これら三種の悔悛の間には大きな相違があることに注意せねばならない。第一のものは欠点であり、第二のものは激動し煩悶する霊魂の情にほかならない。そして第三のものはある時には徳であり、ある時には秘跡である。ここではこの第三の意味における悔悛についてのべるのである。

 まず徳としての悔悛についてのべよう。なぜなら信者たちは司牧者からすべての徳について教えられる義務があるばかりでなく、またこの徳の行為は告解の秘跡の質料でもあるので、まず悔悛の徳を正しく知らずしてはその秘跡としての効力を理解することも不可能だからである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14 de poenitentia cap. 3 et can. 4 参照。

4 内的悔悛とは

 そこでなによりもまず信者たちに、われわれが徳とよんでいる悔悛を真心からもっために全力をあげて努力するよう勧めるべきである。なぜならこの内的悔悛なしには、外的にされることはほとんど無益だからである。そしてその内的悔悛とは、心の底から神に立ち返り、犯した罪を心からいみきらい、同時に神の御慈悲によって罪のゆるしを得ようとの希望のもとにわれわれの悪癖や腐敗した生活態度を改めることを固く決心することである。この悔悛には、不安や苦悩または情(passio)とよばれる苦しみや悲しみが伴なう。そのため教父たちの中にあるものは悔悛をこのような霊魂の苦悩であるとしている。(1)

訳注
(1) S. Gregorius, hom. 34, in Evang. 参照。

5 信仰と悔悛の関連について

 しかしながら悔悛には信仰が先だっていなければならない。信仰なしには、だれも神に改心することはできない。とはいえ信仰を悔悛の一部とみなすことは決してできない。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 3 et can. 4 参照。

6 内的悔悛は徳である

 先述したようにこの内的悔悛が一つの徳であるということは、悔悛を命ずる多くの掟が明らかに証明している。なぜなら掟は徳によって完成される行為について規定するからである。さて必要な時に必要な方法で、必要とする程度に悔悛することが徳の行ないであるということは、だれも否定することはできない。そしてそれこそ悔悛の徳の働きである。時として人はその相応した後悔をもたず、サロモンがのべているように、「悪を楽しみ、邪悪を喜ぶ」(格2・14)ことさえある。またその救霊について全く絶望してしまうほどに悲嘆、苦悩に沈むものもある。つぎのように言ったカインも多分このようなものであったと思われる。「私の悪は重すぎてゆるされません」(創4・13)と。また後悔して自ら首をくくって死に、生命も霊魂も失ったユダもそうであった。(マテオ27・5) それゆえ悔悛の徳は悲しみの中に正しい節度を保つことができるようわれわれを助けてくれるのである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 84, a. 1-2, 4, 6 参照。

7 どんなに悔悛するか

 悔悛が一つの徳であるということは、真実にその罪を後悔するものが目的としている事柄からもわかる。まずその人は罪を消し、霊魂のすべてのとがめや汚れを洗おうと望んでいる。つぎに彼は、犯した罪のために神に対して償いをしようと決心するが、これは明らかに正義に関係がある。もちろん神と人間との間には無限の隔たりがあるのであるから、本来の意味の正義はありえないが、しかし両者の間には、父と子、主人と従者との間に見られるような一種の正義が存在していることは確かである。悔悛するものがもつ第三の目的は、その罪の醜さのために敵意と不興をこうむった神の恩寵に立ち返ることである。これらすべてのことは悔悛が徳であることを十分に証明している。(1)

訳注
(1) Sum. Theol,, III, q. 84, a. 3 参照。

8 真の悔悛の徳をもつには

 しかし、どのような段階を経ればこの神的徳にまで高められうるかを信者たちに教えねばならない。まず神の御慈悲はわれわれに先行し、われわれの心をご自分に向かわせる。預言者エレミアが「主よ、私たちを立ちもどらせてくだされば、私たちはあなたに立ちもどります」(哀5・21)といって祈り求めているとおりである。

 ついでこの光に照らされたわれわれは信仰によって心を神に向かわせるのである。なぜなら使徒聖パウロが確言しているように、「神に近づくものは、神が存在しておられること、神を求めるものに報われることを信じなければならない」(ヘブライ11・6)からである。

 つぎに恐れの念がおこってくる。受くべき罰のきびしさを考え、罪人はその心を罪から引き離す。イザヤのつぎの言葉はこのことをさしているように思われる。「はらむ女が生もうとする時、陣痛のうちに、うめき叫ぶように、主よ、私たちはそうなった」(イザヤ26・17)と。(1)

 これらの情に、主の御慈悲を得るという希望が加わり、それによってわれわれは立ちあがり(マテオ9・5)、われわれの生活や素行を改めようと決心する。

 最後に、愛がわれわれの心を燃えたたせ、われわれの中に高貴な生まれのよい子供にふさわしい、子としての恐れを生ぜしめる(集19・17)。このようにしてわれわれは神の御稜威を傷つけるというただ一つのことだけを恐れるようになり、全く罪を棄てる。(2) 以上のような段階を経て、この崇高な悔悛の徳に到達するのである。

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 84, a. 5 参照。
(2) Conc. Trid., sess. 6, cap. 6 参照。

9 悔悛の主な効果について

 この徳は、全く天来の、そして神的なものと見なさるべき徳であり、聖書によって神の国を約束された徳である。マテオ福音書には「くい改めよ、天の国は近づいた」(マテオ4・17)と書かれてあり、また、エゼキエル書には「もし悪人が犯した罪から身をひき私の掟を守り、正義と公正とを実行するならその人は生きのび、再び死ぬことはない」(エゼキエル18・21)とあり、また他の箇所には「私は悪人の死ではなく。むしろ、悪人がその道を改めて生きるようにと望む」(33・11)と書かれている。そしてこれらは永遠の、そして至福の生命についてであると解せねばならぬことは明らかである。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 86-89 参照。

10 秘跡としての悔悛

 外的の悔悛については、それが、秘跡を構成する要素をもっていること、また霊魂の中におこることを表わす感覚にふれる外的なものがあることを教えねばならない。まず、信者たちに主キリストが悔悛を秘跡の数に加えられた理由を知らせるべきであろう。その主な現由は、神が「もし悪人が犯した罪から身をひき云々」(エゼキエル18・21)とおおせられて約束された罪のゆるしを、われわれが疑いえないようにするためであった。また、人は自分の行為に対する自分の判断に自信をもてないところから、赦罪のために必要な内的悔悛をもっているか否かについて不安を禁じえない。それゆえ、主はわれわれの不安をとり除くため悔悛の秘跡をお定めになり、それによってわれわれが司祭の赦罪(absolutio)を通じて罪をゆるされることを確信し、また秘跡の効力に対してもつ信仰によって、われわれの良心がよりいっそうの落ち着きを見いだしうるようにされたのである。実際、合法的にわれわれの罪をゆるす司祭の声は、中風者に向かっておおせられた「子よ、信頼しなさい。あなたの罪はゆるされた」(マテオ9・2)というみ言葉と異なるものではない。

 つぎに、だれもキリストによってしか、またそのご苦難の功徳によってしか救かりを得ることはできない。であるからその本質と効力とによってわれわれの霊魂の上にキリストの御血をそそいで洗礼後の罪をゆるし、このようにして、和解の恩寵を負うているのは、われわれの救い主おひとりに対してであることを認めさせる秘跡があるのは、当然でありかつ有益であったのである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 1; Sum. Theol., III, q. 84, a. 1-10 参照。

11 告白は新約の秘跡である

 さて、悔悛が真の秘跡であることを司牧者はつぎのようにたやすく説明できるであろう。洗礼が秘跡であるというのは、それがすべての罪、とくにわれわれの祖先に負う罪を消す(使2・38)からである。であるから同じ理由によって、洗礼後、自分の意志や行ないで犯したすべての罪をとり去る(使8・22)悔悛も、実際に真の秘跡であるといわねばならない。

 また、これがその主要な理由であるが、司祭と告解者とが外的にしていることが、内的に霊魂に生じている効果を表わしている以上、告解が秘跡としての真の、固有の要素を含んでいることはだれも否定できないであろう。秘跡とは聖なるもののしるしである。さて、悔悛する罪人は、その言葉や行ないによって心を罪から引き離すことを表わし、他方、司祭の言葉や行ないは、神がその御慈悲によって御自ら罪人をゆるしたもうことを示している。さらにこの真理の明らかな証拠は、救い主の「私は天の国の鍵をあなたに与えよう、あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものは天でもとかれるだろう」(マテオ16・19)とのみ言葉の中に見いだされる。そして司祭が唱える赦罪の言葉もまた、それが霊魂の中に生ずる罪のゆるしを表わしている。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 1 et can. 1; Sum. Theol., III, q. 84, a. 1, 7 参照。

12 悔悛は繰り返し受けられる

 司牧者は、告解が秘跡であるということだけでなく、それが繰り返し受けることのできる秘跡であることも教えねばならない。(1) なぜなら、七回までゆるすべきかどうかを質問した聖ペトロに答えて主は、「私は七度までとは言わない、七度の七十倍までゆるしなさい」(マテオ18・22)とおおせられているからである。それゆえ、もし神の無限の御慈悲と寛容さとに疑いをもつような人があるならば、彼らの心を固め、神の恩寵に対する希望を奮いおこさせねばならない。それはいまわれわれが引用した聖書の章句や他の多くの章句を引用することによって、また金口聖ヨハネの「倒れたるものについて」(2)という書中の、また聖アンブロジウスの「告解について」(3)という書中にある論証や理由を借用すれば、容易になしうるであろう。(4)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 2 参照。
(2) S. Joannes Chrysostomus, lib. de lapsis.
(3) S. Ambrosius, de poenitentia lib. 1 cap. 1 et 2.
(4) Sum. Theol., III, q. 84, a. 8-9 参照。