第五章 悔悛の秘跡 〔(告解の秘跡、ゆるしの秘跡)〕
目次
73 業が償いであるためには
償いには二つのことが必要である。その第一は、償いをするものは義人であり神の友でなければならない。なぜなら信仰と愛とにおいてなされる業だけが、神によみせられるからである。(1) 第二には果たされる業は本来、悲しみと苦しみとをもたらすものでなくてはならない。(2) なぜならそれらの業は過去の罪の贖いであり、殉教者聖チプリアヌスが言っているように「罪を贖うもの」だからである。(1) それゆえ、ある苦業に身を委ねているものがいつも悲しみを感じないとしても、必ずいくらかのつらさがなくてはならない。というのはしばしば苦しみになれた人あるいは神への愛熱にもえた人は、どんなに苦しいことでもそれを感じないようになるからである。しかし、だからといってこの種の業が償いの力をもたないというのではない。実際、苛酷な苦しみにあってもたいして苦痛を感じることなく、あるいは喜びにみちた心ですべてを耐え忍ぶことは神の子供の特徴だからである。
訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 14, a. 2-4 参照。
(2) ibid., q. 15, a. 1 参照。
74 償いの業のいろいろ
司牧者は、償いの種類はおもに祈り、断食、施しの三つに要約されることを教えねばならない。それらはわれわれが神から受けた三種のお恵み、すなわち霊魂、肉体および外的恩寵とよばれるものに相応するものである。またすベての罪の根を根絶するために、これら三種の行為以上に適当なそして有効なものは何もない。すベてこの世にあるものは、肉の欲、目の欲、生活の欲(ヨハネ一書2・16)であるが、これら三つの病の原因に対し、断食は第一の原因に、施しは第二の原因に、祈りは第三の原因にというように、全く対応していることは、だれの目にも明らかである。さらにわれわれの罪によって傷つけられるものを考えてみても、すベての償いがこれら三者につきることが容易に理解される。罪は、神、隣人、われわれ自身を傷つけるが、われわれは祈りによって神を宥め、施しによって隣人を償い、断食によって自分自身をこらしめるのである。(1)
訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 15 参照。
75 外的に加えられる苦痛も償いである
この世に生きているかぎりわれわれには多くのまた種種の苦難や災禍がふりかかってくるのであるが、神がおくりたもうあらゆる苦難、不幸を忍耐をもってたえ忍ぶものは、償いと功徳の豊かな材料を手にしていること、これに反して、このような試練に反撥し、仕方なしに耐えるものは償いのすベての利益を失い、正義の審判によって彼らの罪に報復したもう神の罰と責苦を受ける以外にないということを信者たちによく教えねばならない。
※ サイト管理人注: 原文(邦訳)では小見出しが「75 外的に加えられる苦痛も悔いである」となっているが、「悔い」は「償い」の誤りだと思われるので修正した。
76 他人のための痛悔はできないが償いはできる
ある人が他の人に代わって償うことができるというように、人間の弱さをみそなわしたもうた神の無限のご好意と御慈悲とを最大の賛美と感謝とをもってたたえるべきである。そしてここに償いの特徴があるのである。すなわち痛悔や告白に関することはだれも他人のために痛悔したり告白したりすることはできない。しかし神の恩寵の状態にあるものは、他人の名において、神に帰すベきものを支払うことができる。こうしてわれわれはある意味で「互いの荷を負う」(ガラチア6・2)のである。そして使徒信経によって諸聖人の通功を信奉しているわれわれはだれも、この真理を疑うことはできない。われわれみなが、同じ洗礼によって清められてキリストに再生し、同じ秘跡にあずかり、特に主キリストの御体と御血という同じ食物、飲物によって養われているということはわれわれが同じ身体の肢体であることを明示している。それゆえ、たとえば足が自分のためだけでなく眼のためにもその機能を果たし、また眼が見るのはただ眼のためばかりでなく肢体全部のために見るのと同様に、償いの業もわれわれすベてに共通であると考えねばならない。(1)
訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 13, a. 2 参照。
77 他人のための償いを全面的に果たすことはできない
しかし、われわれが償いから得る利益全体を考えた場合、以上のベたことには例外がある。すなわち償いの業は、霊魂のよこしまな欲情をいやすために、告白者のために処方された薬あるいは治療のようなものであり、その効果が自分自身で償わないかぎり得られないことは明白である。そこに司牧者が痛悔、告白、償いという悔悛の秘跡の三つの部分について、明白かつ詳細に説明せねばならぬ理由があるのである。
78 盗みの罪とそのゆるし
つぎのことは聴罪師は最大の配慮をもって守らねばならない。すなわち罪の告白を聞いた後で罪のゆるしを与える前に、もし告白者が隣人の財産または名誉を損っており、告白者にその責任があると判断したならば、十分の償いをもってそれを補償させるようにすべきである。まず他人に属するものを返済すると約束するまでだれもゆるしてはならない。またこの義務を果たすと言葉巧みに約束しながら、故意に決して約束を守らないものも多数いるが、彼らには返済するよう強制すべきであり、しばしば使徒聖パウロのつぎの言葉を言い聞かすべきである。「盗人はもう盗むな、むしろ貧しい人々に施すために自分の手で何かよい仕事をして働け」(エフェゾ4・28)と。
79 どんなにして償いを定めるか
司祭は、償いの業を課するにあたって決して独断的に決めてはならず、正義、賢明、信心の規範に従うべきである。彼らがこの規律によって罪を量っていることを示すために、また時として告白者にその重さを感じさせるために昔の贖罪の規定がある罪に対してどんな罰を課していたかを思い出させることもよいであろう。それゆえ、償いの一般的尺度となるべきものは罪の性質である。
しかしあらゆる償いの中で最も適切なものは、ある日数またはある期間、祈るように命じ、またすべての人人のため、とくに主において世を去った人々のために祈らせることである。また司祭から命ぜられた償いの業を、その後も続けて行ない、償いの徳行を中止しないよう勧めねばならない。
時として、公の罪に対して公の償いを課さねばならないが告白者がそれを拒絶したり、頼み込んだりしてもたやすくそれに同意してはならない。かえって、彼自身にとって、また他の人々にとって有益となるべきこの償いを心からすすんで果たすように納得させるべきであろう。
悔悛の秘跡とその各部分について以上のべてきたことを教えるにあたって、司牧者はそれらを信者たちに完全に理解させるだけでなく、神のお助けのもとに信心と敬神の念をもって実行するよう決心させねばならない。