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ローマ公教要理 秘跡の部 第六章 1-16 | 終油は真の秘跡である、終油の質料・形相、執行者、塗油の効果

 秘跡の部 目次

第六章 終油の秘跡 (新)病者の塗油

1 終油の秘跡に関する説明の必要

 聖書の聖なる神託は、「あなたのすべての業において、あなたの最後のことを考えよ、そうすればあなたは永遠に罪を犯さないであろう」(集7・36)と教えているが、それは暗に司牧者が信者たちに、死について絶え間なく黙想することを勧める機会をのがさないようにと忠告しているのである。そして終油はわれわれの最後の日のことと切り離せない関係にあるところから、この秘跡についてたびたびのべることはただ救霊に関連する奥義を知らせ説明するためにきわめて当を得ているだけでなく、信者たちに死は万人にとって必然のものであることを思い出させて(ロマ5・12、ヘブライ9・27)その節度のない欲情を抑制させるために大切であることは容易に理解される。また彼らは、死を前にして決して煩悶することもないだろうし、かえって洗礼の秘跡によって生命への入口をわれわれに開きたもうただけでなくこの滅ぶべき生命からしゅったつするにあたって、天国へのよりすぐれた道をたどりうるよう終油の秘跡を制定したもう神に対して不朽の感謝を捧げるようになるであろう。

2 終油が秘跡といわれる理由

 それゆえ、この秘跡の説明に必要なことを他の秘跡の説明の時と同じ順序に従ってのべることにしよう。まずこの秘跡は主キリストによって教会に命ぜられたすべての聖なる塗油の中で最後に授けられるところからして、終油とよばれていることを教えるべきである。われわれの祖先はこの秘跡を「病人の塗油の秘跡」または「臨終者の秘跡」とよんでいる。(1) そしてこれらの言葉は信者たちに容易にその最後の時について考えさせうるものである。

訳注
(1) Hugon, de sacramentis, pars 15 cap. 2; Petr. Dam. serm. 1 dedicat. Ecclesiae 参照。

3 終油は真の秘跡である

 しかしとくに終油が真の秘跡であることを教えねばならない。このことは、この秘跡の掟を宜布するために使徒聖ヤコボが用いた言葉に注意するならば、明白なことである。「あなたたちのうちに病気の人があるなら、その人は教会の長老たちをよべ、彼らは主のみ名によって油を塗ってから祈るであろう。そして信仰による祈りは病気の人を救う。主はかれを立たせ、もし罪を犯しているならそれをゆるしてくださるであろう。」(ヤコボ5・14-15) ここで使徒聖ヤコボは罪がゆるされると言っているが、それは終油の、秘跡としての本質と効力を言い表わしている。このことがカトリック教会の連綿とした教義であったことは、多くの公会議特にトリエントの公会議があえてその反対を教え、または考えるものを断罪を宣告したことからもわかる。(1) また教皇インノセンチウス一世も信者たちに極力この秘跡を勧めている。(2)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 4 de Extrema Unctione, cap. 1 et can. 1 参照。
(2) Innocentius I, ep. 1 ad Decent. c. 8; Sum. Theol., suppl., q. 29, a. 1 参照。

4 ただ一つの秘跡であること

 それゆえ、司牧者は終油が真の秘跡であること、さらに、たとえそれぞれに個有の形相と祈りとをもった多くの塗油によって授けられるとしてもただ一つの秘跡であることを教えねばならない。しかもこの秘跡が一つであるというのはそれを構成する部分が不可分だからというのではなく、むしろそれらがみな一つの秘跡を完成するからである。このようなことは、多くの構成部分をもつすべてのものに見られることで、たとえば家は多くの異なった部分から構成されているが、しかし統一された形によってはじめて完成される。同様に終油の秘跡は多くのものおよび言葉から成り立っているが、しかしただ一つのしるしであり、それによって示されるただ一つの効力しかもたないのである。(1)

 つぎに司牧者はその秘跡の部分について、すなわちその質料と形相とについて説明すべきである。なぜなら聖ヤコボはそれをなおざりにしていないし(ヤコボ5・14)、またそれぞれの部分は注目に価する奥義を含んでいるからである。

訳注
(1) Sum. Theol., q. 29, a. 2 参照。

5 終油の質料について

 その質料とは、多くの公会議、とくにトリエントの公会議が決議しているように、一般の油ぎった、脂肪質のものからとられた液体ではなく、ただオリーブからとられ、司教によって祝別された油である。(1) この質料は終油によって霊魂の中に内的に行なわれることを最もよく表わしている。油が身体の苦痛を柔らげるのにきわめて役だつようにこの秘跡の力は、霊魂の悲しみや苦しみを軽減する。油はまた疲労しきった身体に力を回復させるのにきわめて有効である。そしてそれらはみな神の御力が終油によって病人の中に行なうことを表わしている。以上で質料に関する説明は十分であろう。(2)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, de Extrema Unctione, cap. 1 参照。
(2) 〔〕教会法第945~946条 Sum. Theol., suppl.,q. 29, a. 4-6 参照。

6 終油の形相について

 この秘跡の形相は、司祭が身体の各部に塗油するたびに唱える、「この聖なる塗油によりて神がなんじを見、かぎ、触れることによりてなしたるすべての罪をゆるしたまわんことを」という言葉と祈りとである。そしてこれが真の形相であるということは、聖ヤコボの「彼らは主のみ名によって油を塗ってから祈るであろう。そして信仰による祈りは病気の人を救う」(ヤコボ5・14-15)という言葉によってもわかる。使徒ヤコボはこの文においてどんな言葉が形相になるか、はっきりとのベていないが、しかしこの文からして祈りの形をとるのが妥当のように思われる。そして先にあげた祈りは教父たちからの忠実な伝承によってわれわれにまで伝えられたものであり、またすベての教会の母であり師であるローマ教会が用いているものをすベての教会も用いているのである。ある教会では「神がなんじに……をゆるしたまわんことを」(indulgeat tibi Deus)という代わりに赦免したまわんことを、あるいは、容赦したまわんことを(remittat vel parceat)とか、また時として「なんじが犯せしことをことごとくゆるしたまわんことを」(sanet quidquid commisisti)と唱えるが、その意味は常に同じであり、どこでも同じ形相が用いられていることは明らかである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, de Extrema Unctione, cap. 1; Sum. Theol., suppl., q. 29, a. 7. 参照。

7 終油の形相は祈りの形をとる

 他の秘跡の形相は、たとえば洗礼の「われ、なんじを洗う」とかまたは堅信の「われ、なんじに十字架のしるしをなす」とかいうようにそこになされることを示し、あるいは叙階の「権能を受けよ」といわれるなどのようにいわば命令的に唱えられるのに対し、終油の形相だけが、祈りの形で表わされていることをだれも不思議に思ってはならない。というのは、この秘跡は霊的な恩寵を与えるためだけでなく、病人に健康を回復させるためにも授けられるのであるが、しかし病人がいつも病気からなおるということはない。そのためこの秘跡の力が必然的にまた常には生じない効果を神の御慈悲によって得られるよう、形相として祈りを用いているのである。(1)

 この秘跡の授与にはそれに個有の定式を用いねばならない。その大部分は司祭が病人の救霊を願う祈願を含んでいる。そしてこれほど多くの祈りを伴なって授けられる秘跡はほかにない。それはこの時ほど信者が敬虔な祈りの助けを必要とする時はないのであるから当然のことである。それゆえそこに居合わすものはみな、とくに司祭は、心をこめて神に祈り、最大の熱心さをもって病人の生命と救霊とをその御慈悲に託すベきである。

訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 29, a. 8-9 参照。

8 終油の秘跡の制定者について

 いま、証明したように終油が真の秘跡であるということは、それが主キリストによって制定され、その後で聖ヤコボによって信者たちに示され公布されたものであるという意味である。実際救い主は、そのみ前に弟子たち二人ずつを遣わしたもうた時、すでにこの終油のかたどりを与えたもうたように思われる。福音書はこれについて「弟子たちは悔い改めをのベに行き、多くの悪魔を追い出し、油を塗っておびただしい数の病人をなおした」(マルコ6・12-13)と書いている。さてこの塗油は確かに使徒たちが作り出したものではなく、しかも自然的な力ではなく、神秘的な力を賦与されたものであり、肉体をいやすためというよりもむしろ霊魂をいやすために定められたのだと信ずベきである。聖ディオニジウス、聖アンブロジウス、金口聖ヨハネおよび大聖グレゴリウスもこのように確言しており、そこからして終油をカトリック教会の七つの秘跡の一つとして敬神の念をもって受け入れるベきことは疑いを許さない。(1)

訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 29, a. 3 参照。

9 終油はだれに授けるか

 つぎにこの秘跡はすベての信者のためにあるとはいえ、それを授けてはならぬ、除外すベき人があることを教えねばならない。まず健康なものはこの秘跡から除外され、授かることはできない。それは使徒聖ヤコボの「あなたたちのうちに、病気の人があるなら」(ヤコボ5・14)という言葉からして、またこの秘跡が単に霊魂のためだけではなく身体の薬として制定されたことからしても明らかである。すなわち病気のものだけが治療を必要とする。したがって危険なほど病が重く最後の時を間近にしているような人にこの秘跡は授けられるべきである。しかし治癒の望みが全くなくなり、生命とその感覚を失いはじめた時にはじめて終油を授けるものは、大きなあやまちを犯す。なぜなら病人が聖油を塗られる時、まだ完全な意志と理性の働きをもっており信仰と熱心とをおこすことができるならば、この秘跡の恩寵をより豊かに受けることは確かだからである。それゆえ司牧者は、その独特の力によってきわめて有効なこの天来の薬を、病人が信仰と信心とによってさらに有効になしうる時に授けさせるよう注意すべきである。(1)

 また終油の秘跡は生命の危険にさらされてはいても重病にかかっていないもの、たとえば危険な航海に出ようとしているもの、または死を確かにもたらすような戦いにのぞむもの、あるいは死刑を宣告されたものには授けてはならない。また理性の働きをもたないもの、まだ罪を犯さない子供もその罪の残りを消すためのこの手段を必要としないところからこの秘跡に適しないものである。白痴、狂人は、彼らがある期間、理性の働きをもち、その時に信心の念を示し、そして聖なる塗油を求めたならば授けることができる。誕生以来決して理性、意志の働きをもたなかったものは、この秘跡を授けてはならない。しかし病人が理性の正常な働きをもっていた時に終油を求め、その後で白痴あるいは狂人の状態に陥った場合にはそのかぎりではない。(2)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, de Extrema Unctione, cap. 3; 〔旧〕教会法第944条: Sum. Theol., suppl., a. 32, a. 1-2 参照。
(2) 〔旧〕教会法第940条第一項、941~943条参照。Sum. Theol., suppl., q. 32, a. 3-4 参照。

※ サイト管理人注: 原文(日本語訳)を尊重するため、文中の表現はそのままとしております。

10 体のどの部分に塗油するか

 塗油は、身体のすべての部分にではなくむしろ自然が、感覚のいわば道具として人間に与えている部分、たとえば視覚のための眼、聴覚のための耳、嗅覚のための鼻、味覚と言語のための口、そして触覚は身体全体に同様にあるとはいえ、とくに手に集中しているところからして、その手にする。そしてこのような授け方は全教会において行なわれるもので、それはまた薬として授けられるこの秘跡の性質にきわめて合致している。実際、体の病気では病気しているのは体全体であっても病巣や病源となっている部分にしか手当をない。それと同様に聖なる塗油を受けるのは全身ではなく、ただ感覚の主要器官である肢体、ついで邪欲と情欲の砦たる胸、それにわれわれの歩行あるいは運動の道具である足である。(1)

訳注
(1) 〔旧〕教会法第947条参照: Sum. Theol., suppl., q. 32, a. 5-7 参照。

11 終油は繰り返し授けられうる

 つぎに守るべきことは、同一の病気で、そして同一の危険にある病人にはただ一回しか授けてはならないということである。しかし病人が一度この終油を受けた後に小康を得、その後で再び死の危険に陥るならば、その度ごとに授けることができる。(1) そこからして終油が繰り返し授けられうる秘跡の一つであることは明白なことである。

訳注
(1) 〔旧〕教会法第940条第二項: Sum. Theol. supp q. 33 参照。

12 終油を受けるための心構え

 つぎにこの秘跡の恩寵が何ものによっても妨げられぬよう最大の配慮をなすべきであり、それはとくに大罪によって阻まれるのであるから、カトリック教会の連綿とした慣例に従って終油の秘跡の前に悔悛と聖体の秘跡を授けるべきである。

 司牧者はまた、なおしてもらうために使徒たちの所にきていた人々と同じ信仰をもって終油を授かるよう病人に勧めねばならない。とくに霊魂の救い、そしてそれが永遠の光栄に益するならばという条件の下に、身体の健康を願い求むべきである。そして信者たちは、司祭が自分たちの名においてではなく教会と主キリストのみ名において唱える、聖にして荘厳な祈りを神が聴き入れたもうことを信じて疑ってはならない。他方司牧者は信者たちに対し、戦いがより激しくなり、精神と身体の力が衰えていくと感じるならば、自分ですすんでこのきわめて有効な秘跡を敬虔と信仰とをもって願うよう勧ねばならない。

13 終油の執行者について

 終油の秘跡の執行者は誰か、それについて、御主の掟を公布した同じ使徒はつぎのようにいっている。「教会の長老たちをよべ」(ヤコボ5・14)と。この言葉は、トリエントの公会議が賢明に説明しているように、年長の人とか、あるいは人々の中で頭の地位を占めているものとかではなく、かえって司教の按手をもって合法的に叙階された司祭と解されねばならない。(1) それゆえ、この秘跡の授与は司祭にゆだねられているのである。しかし聖なる教会の規定からしてそれを授ける許可は無差別にすべての司祭ではなく、病人に対して裁治権をもっている主任司祭あるいは彼からこの権能の行使をゆだねられた司祭に与えられている。そしてとくに司祭は他の秘跡におけると同様に、この秘跡においても主キリストおよびその花嫁である聖なる教会の名において行動することを忘れてはならない。(2)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14 de Extrema Unctione, cap. 3 参照。〔
(2) 〔旧〕教会法第938-939条参照: Sum. Theol., suppl., q. 31 参照。

サイト管理人注:
該当箇所「この『長老』というのは『老人』または共同体の有力者ではなく、司教または『長老たちの按手』(1チモテ4・14);(第4条)によって、合法的に叙階された司祭を指している。」(第14総会、終油の秘跡について 第3章 終油の秘跡の授与者および授ける時間より)

H・デンツィンガー編、A・シェーンメッツァー増補改訂、浜寛五郎訳 『カトリック教会文書資料集』改訂版、エンデルデ書店、1982年、pp.299-300

14 終油の効果について

 もし信者たちをこの秘跡にひきつけるものが何もない場合、少なくとも彼らがこの秘跡がもたらす利益によって動かされるよう終油の効果についてくわしく説明すべきである。というのは利益を考えて行動するのがわれわれの常だからである。それゆえ、司牧はこの秘跡には罪をとくに一般に小罪とよばれる軽い罪をゆるす恩寵が賦与されていることを教えるべきである。というのは大罪は悔悛の秘跡によって取り除かれるからである。すなわち終油は第一義的に大罪をゆるすために制定されたものではなく、洗礼と悔悛だけがこの効果を生じる力をもっている。(1)

 終油の第二の効果は罪によって霊魂に負わされた衰弱と無力から霊魂を解放することである。ところでこのような治癒に最も適当な時は重病にかかり生命が危険に瀕している時である。なぜなら人間にとって死ほど恐ろしいものはなく、過去の罪の記憶はこの恐れをさらに増し、とくに良心の苛責はわれわれを激しく責めるからである。聖書にも「罪が数えられる時、彼らは恐怖におののく。犯した悪事が、彼らを訴えに立つその時」(知4・20)と書かれている。

 さらにいま一つの心配、考えが激しく病人を苦しめる。それはまもなく神の裁きの庭に立ち(ロマ14・10、コリント後5・10)最も厳しい正義によって自分に値する宣告を受けねばならないということである。しばしば見られるように、信者たちはこの恐怖にうたれ、非常に煩悶する。ところで死に臨んで平静を保たせるためには霊魂から悲嘆を遠去け、喜びに満ちた心で主のご来臨を待ち受けさせ、われわれに委ねられた寄託物を返却することを命ぜられるやすぐに喜んで主に返す心構えを準備させる(チモテオ後1・14)ことである。そして信者たちをこの不安から解放し彼らの心を敬虔にして聖なる喜びで満たすのが終油の秘跡である。(2)

訳注
(1) 普通、この秘跡は聖籠の状態にあるものに授けられるが、しかし告白できない病人にとっては痛悔をもっているかぎり(不完全の痛悔であっても)悔悛の秘跡の効果を生じ、大罪までもゆるす。Conc. Trid., sess. 14, de Extrema Unctione cap. 1 参照。
(2) Conc. Trid., sess. 14 de Extrema Unctione, cap. 2; Sum. Theol., suppl., q. 30, a. 1 参照。

15 悪魔に対する勝利をもたらす

 この秘跡はまたすべての効果の中で最大のものと思われるもう一つの利益をもたらす。すなわちわれわれが生きているかぎり、人類の敵(ペトロ前5・8)は、われわれの敗北と滅亡とを思いめぐらすことを決してやめず、しかもわれわれを滅ぼすために、できれば神の御慈悲に対するすべての希望を失わせようととくに最後の日が近づくのを知るや、余力をあげて努力する。それゆえ、この秘跡は敵の暴力と攻撃とをくじき、これに強硬に抵抗するための武器と力とを信者たちに与えるのである。実際、神の御慈悲に対する希望によって強められた彼は、病のすべての苦痛を軽やかに耐え忍び、そして彼を陥れようとする悪魔の罠と術策とにより容易に打ち勝つことができるようになる。

16 体の治癒について

 終油の最後の効果は、もし病者に利益となる場合には、健康を回復させることである。(1) 今日、身体の治癒が少ないのは、秘跡の欠陥によるのではなく、むしろその大部分の責任はあるいは塗油を受けるものの、あるいは授けるものの信仰が弱いことによると考えるべきである。福音史家は、主が、故郷の人々の不信仰のために彼らのもとではたいして奇跡を行なわれなかったと書いている(マテオ13・58)。またキリスト教が初代教会のころよりも深く人々の心に根をおろしている現在においては、昔ほどにこのような奇跡の助けを必要としないのだともいえる。とはいえこの点について信者の信仰を強くもやさねばならない。そして信者たちは、たとえ身体の健康について神の英知とみ旨がどんな決定をされたとしても、しかしこの聖油の力によって霊魂の健康を回復し、死の時が来る時、「主において死ぬ人々は幸いである」(黙14・13)という聖書のみ言葉を実現しうるという確固たる希望を保持すべきである。以上われわれは簡単に終油についてのべたが、もし司牧者がよりくわしく、また熱心にこれらの主要点を説明するならば、信者たちがこの教えから彼らの信心に大きな利益を得ることは疑いない。

訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 30, a. 2 参照。

編者注 この秘跡に関する変更については、使徒憲章 Sacram Unctionem Infirmorum(一九七二年十一月三十日)参照。