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ローマ公教要理 秘跡の部 第七章 1-12 | 叙階の秘跡の説明について、司祭職への召命、なぜ叙階とよばれるのか、聖階の数と分類

 秘跡の部 目次

第七章 叙階の秘跡

1 叙階の秘跡を説明することは大切である

 他の秘跡の性質、本質を注意深く吟味した人は、それらの秘跡がみな、ある秘跡は叙階がなければ決して存在することも授けられることもありえず、またある秘跡は荘厳な俄式およびある定式や祭式を欠いてしまうというふうに、叙階の秘跡に依存していることに容易に気づくであろう。それゆえ司牧者は、秘跡に関する教えの中でとくに叙階の秘跡について教えることは、自分にとって義務であると銘記せねばならない。

 この説明はまず彼ら自身にとって、ついで聖職にある他のものにとって、そしてまた信者にとっても非常に有益である。すなわち彼ら自身、この問題を取り扱っている間に、この秘跡によって受けた恩寵を盛んにする(チモテオ後1・6)ように刺激されるであろうし、また主の遺産のために召されている他の聖職者も同じく熱心な信心に駆り立てられると同時に、より上級の聖階に挙げられるために必要な知識を得ることができるであろう。また自分の子供をまだ幼いころから聖職に捧げようとの望みをもっている人、あるいは自分自身、自発的にそして自由意志をもってこの種の生活に関する事柄について未知のままに放置しておくことは決して至当なことではないからである。(1)

訳注
(1) 叙階の秘跡に関してはConc. Trid., sess. 23 と Conc. Carthag. sub Athanasio pontifice, no 489; 〔〕教会法第948-1011条 参照。

2 地上において司祭職の品位にまさるそれはない

 まず、この秘跡がその最高の段階すなわち司祭職において見た場合、どれほどの尊敬さと品位とをもつものであるかを教えねばならない。実際、司教や司祭は神のみ名において人々に神の掟および生活の掟を教えるいわば神の通訳または大使であり、地上における神の代理者である。そこからして彼らの聖職よりも、より偉大な職務を想像することができないことは明らかである。それゆえ彼らは「天使」(マラキ2・7)とよばれ、また彼らがわれわれの間において不滅の神の権能と霊とを有するところから、「神」(出22・48)ともよばれている。いつの時代にも司祭たちは最高の品位をもっていたが、しかし新約の司祭たちは、その栄誉において彼らの先任者にはるかにまさっている。なぜなら彼らに託されている、聖主の御体と御血を聖別し奉献する権能あるいは罪をゆるす権能は、人間の知能と理解を越えるものであり、地上においてこれに比較しうるものは何も見出しえないからである。

3 聖職に召されるのは誰か

 さて司祭は、われわれの救い主が御父から遣わされたもうように(ヨハネ3・17、5・23-24)、また使徒たちや弟子たちが主キリストによって全世界に遣わされたように(ヨハネ20・マテオ28・19)、毎日彼らと同じ権能を与えられて「聖徒たちをより完全にするため、聖職の業のため、キリストの体を建てるために」(エフェゾ4・12)働くよう遣わされている。それゆえかくも聖い任務の重荷は、無思慮にだれにでも負わすべきではなく、その生活の聖性、その学識、信仰、賢慮によってそれを支えうる人々にだけ与えられるべきである。すなわち「アアロンのように神に召されたもの以外は、このほまれを自分で受けることができない」(ヘブライ5・4)。神によって召されたものとは、教会の合法的な聖役者によって呼ばれた人である。不遜にも自分でこの聖役にありつき、聖職に入り込むものに関しては、「私はそんな預言者を送らなかったのに、彼らは走りよってきた」(エレミア23・21)とおおせられた神のみ言葉は、まさに彼らに向けられていることを教えるべきである。これらの人々ほど哀れで、みじめなそして教会にとってより有害なものは何もない。

4 召命の道にはいる人とはどんな人か

 人が企てるすべての行為〔に〕おいて、まずその目的を決定することは(最良の目的を定めることによって、すべてはよく秩序づけられるからして)最も大切なことである。それゆえ、聖職にはいろうと欲するものになすべき第一の勧告は、かくも偉大な聖職にふさわしくない意図を何ももたないということである。この点は、信者たちが習慣的にとっている今日では(訳注 以下のべる弊害はとくにトリエント公会議前後にひどかった)それだけより大きな配慮をもって教える必要がある。

 実際、あるものは衣食に必要なものを手に入れようとして聖職にはいり、最も俗な職業につくものの大多数がするように、司祭職に利得だけを求めている。確かに使徒聖パウロが教えているように、自然法および神法は、祭壇に仕える人が祭壇(の供物)によって生きること(コリント前9・13、申18・1-8)を命じてはいるが、しかし利得を目あてに祭壇に仕えることは大きな涜聖である。(チモテオ前5・18) また他のものは栄誉を渇望し、あるいは野心をとげるために司祭職に進もうとしている。あるものは富裕になるために聖職を求めている。その証拠に、彼らはある莫大な聖職録を付与されないかぎり、聖職については者えようとさえしない。これらの人々こそ救い主がおおせられたやとい人であり(ヨハネ10・12)また預言者エゼキエルが、自身を養うが羊を養わない(エゼキエル34・8)といった牧者たちである。彼らの卑しさと貪欲とは、信者たちの目に司祭の聖位を無上に賤しい軽蔑すべきものとするほどの大きなかげを司祭の聖階に与えるばかりでなく、彼ら自身その司祭職から、ユダがその使徒職から収めたもの、すなわちその永遠の滅びという結果以外の何ものも引き出しえないのである。それゆえ、正当に神から召され、神の光栄のために働くという唯一の目的のもとに聖職者の生活にはいるものだけが、いわゆる門から(ヨハネ10・1-2)教会にはいる人だといえる。

5 叙階によって教会に身を奉献したものには、信者以上の聖性が要求される

 しかし、だからといって彼らはみなに課された掟から免除されると思ってはならない。なぜならすべての人は神に仕えるために造られたのであり、とくに洗礼の恩寵を受けた信者は、心をつくし、精神をつくし、力をつくして(申6・5、マテオ22・37)この義務を果たさねばならないからである。しかし叙階の秘跡を受けようと望むものは、すべての事柄において神のみ栄えを求めるだけでなく(それはいま、いったとおりの人々、とくに信者に共通のものである)それぞれに託された教会の聖職務を「聖と義とをもって」(ルカ1・75)果たそうと決心すべきである。たとえば軍隊では兵士はみな皇帝の命令を受けているとはいえ、彼らの中にあるものは隊長であり、他のものは司令官であり、また他のものは他の任務を引き受けている。同様にすべての信者は(真に神をあがめる徳である)信心と心の清さを身につけるために全力をつくすべきであり、そして叙階の秘跡を受けたものは教会のある特別の聖務や機能を果たさねばならない。彼らは人々のため、自分のために聖なる秘義(ミサ聖祭)を捧げ(ヘブライ5・3)また神の掟を教え、信者たちにそれを喜んで、すすんで守るように勧めしつけ(レビ10・11)、またすべての恩寵を与え、保ち、増加させる主キリストの秘跡を授ける。(コリント前4・1) 一言でいうと、彼らは他のものから区別されて、すべての職務の中で最も偉大な、そして最もすぐれた聖職に身を委ねるのである。

 以上のべたことを説明した後で、司牧者はこの秘跡そのものの説明に移るべきである。そうすることによって聖職にはいろうと望む信者は自分がどのような聖務職に召されているか、また神が教会とその聖職者に与えられた権能がどれほどのものであるかを理解しうるであろう。

6 教会の権能は幾種あるか

 さて、教会の権能には聖職者と裁治権との二つがある。(1) 聖職者はあがむべき聖体における主キリストの真の御体を対象とし、裁治権はキリストの神秘体全体に対して行使される。すなわちこの権能はキリスト信者を治め導いて天国の永遠の至福に向かわせるのである。

訳注
(1) 〔旧〕教会法第196・210条参照。

7 聖職権の範囲について

 聖職権は聖体を聖別する力と権能を含むばかりではなく、なおこの秘跡を授かる人々の心を準備させ、それにふさわしいものとし、また少しでも聖体に関係のあるあらゆることに及ぶのである。聖書は多くの箇所でこの権能についてのべているが、とくに聖マテオおよび聖ヨハネにおける証言が最も明瞭であり、また、最も大切である。主は「父が私をお送りになったように、私もあなたたちを送る。聖霊を受けなさい。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされないであろう」(ヨハネ20・21-22)とおおせられ、また「まことに私はいう、あなたたちが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上でとくものはみな天でもとかれるのである」(マテオ18・18)とおおせられている。これらの箇所は、司牧者がそれを教父たちの権威と教えとによって説明するならば、いまのべている真理に非常に大きな光明を投げ与えうるであろう。

8 キリストの司祭職は自然法および律法のもとにおける司祭職にまさる

 このような権能は、自然法のもとで聖なる事柄にたずさわっていた人々に与えられていた権能にはるかにまさっている。すなわち成文による法以前にも確かに法があったことからして、また司祭とその霊的権能があったといわねばならない。というのは、司祭職が変わる時には必ず法も変わる(ヘブライ7・12)使徒聖パウロが証言しているとおり、法と司祭職とは不可分だからである。それゆえ、人々は自然の霊感に導かれて神をあがむべきことを感得し、その結果、いかなる国家においても選ばれたある人たちに聖なることおよび神への奉仕を委ねていたが、そのような権能はある意味で霊的権能を構成するものである。

 イスラエルも同じような権能をもっていた。それは自然法のもとにおける司祭たちの権能よりも品位においてすぐれていたとはいえ、しかし福音的掟の霊的権能にははるかに劣っていたといわねばならない。福音的掟のもとにおける霊的権能は天来のもので、天使たちのすべての権力さえも凌駕するものであり、モイゼの司祭職からくるものではなくアアロンによらず「メルキセデクの位に等しく」(詩109・4、ヘブライ5・6)司祭であらせられた主キリストからくるものである。すなわち恩寵を与え、罪をゆるす至高の権をもっておられた御者は、この権能を、秘跡というその効力を限定するものに託してではあるが、ご自分の教会に残したもう。そしてこの権能の執行のためにある人々がその聖役者として定められ、荘厳な儀式によって聖別される。この聖別が、叙階の秘跡あるいは聖なる叙階とよばれるものである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 23, cap. 1 参照。

9 叙階とはなにか、なぜ叙階(Ordo)とよばれるのか

 聖父たちは、神の聖職者の尊厳さと崇高さとをよりよく示すために、非常に広い意味をもつこの語を使用したのである。実際に叙階(Ordo)とは、その語の本来の用法と概念からいうと、互いに関連づけられうる上級のものと下級のものとの配置をさしている。したがって多くの段階、多くの異なった職能をもち、しかもすべてが一定の順序によって配置されているこの聖職に、叙階という名を与えたことは正しくまた適宜なことといえる。

10 叙階は奥の秘跡である

 聖なる叙階を教会の秘跡に数えるべきことは、トリエントの公会議が、いままでに何度もあげた理由によってそれを証明している。(1) すなわち秘跡は聖なる事物のしるしである。そしてこの聖別において外的に行なわれることは、聖別されるものに与えられる恩寵と権能とを意味している。そこからして、叙階が真のそして独自の秘跡であることはきわめて明らかである。司教は司祭に叙階されるものにブドー酒と水のはいったカリス、それとパンをのせたパテナとを渡しながら、「犠牲を奉献する権を受けよ……」と唱えるが、教会は常に、質料と結びついたこれらの言葉によって実際に聖体を聖別する権能が受階者に授けられ、またその霊魂は、この聖職を正しくかつ合法的に果たすために必要な恩寵をともなしうるしるし・・・を刻まれると教えている。(2) 使徒聖パウロは、それをつぎのように宣言している。「私の按手によって、あなたの内にある神の恩寵を盛んにするようにと勧める。神はわれわれに、恐れではなく、力と愛と節制との霊を与えられた」(チモテオ後1・6-7)と。

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 23, cap. 1, 3 et can. 3-5; Sum. Theol., III, q. 34. 参照。
(2) 叙階の質料と形相に関してピオ十二世はConst. Apost. “Sacramentum Ordinis”, 30 nov. 1947 (D. 3301)をもってつぎのように決定した。
「……司祭の叙階における質料は司教が無言のままにする、両手による第一の按手であって、『聖霊をうけよ、なんじがゆるす人の罪は云々』と言ってする右手だけの按手ではない。形相は序誦の言葉で、その中、有効性に本質的なものは、『全能の聖父、願わくはこの主のしもべに司祭の霊階を与え、彼の中において成聖の霊を新たになしたまわんことを。そは彼が主より授かる聖階を受け、その歩みの模範によりて、人々の反省をよびさまさんためなり。」 また聖器具を渡すことは、少なくとも今後、司祭叙階の有効性のために必要ではない。

11 聖階がいくつもあるのはなぜか

 聖なる公会議の表現をかりていうと、かくも崇高な司祭職の行使は神的なものであるから、それがよりふさわしく、またより一層の尊厳さをもって果たされるように、教会の最もよく順序づけられた秩序に従って各々に固有の職務によって司祭を補佐する、多くのそして異なった聖役者の階級(Ordines)を定めることは全く妥当なことだったのである。それらの聖階級は剃髪を受け、そして下級聖階を経て上級聖階にあげられるというふうに区分されている。

12 聖階の数と分類について

 つぎにこれらの聖階が全部で七つあること、そして教会は常にそう教えてきたことを説明すべきである。すなわち守門、読師、祓魔師、侍祭、副助祭、助祭、司祭である。そして聖階の数はミサの聖なる犠牲を捧げ、聖体を授けるためにとくに定められた必要とされる聖職によっているのである。これらの聖階は、上級聖階と下級聖階とに分けられる。上級聖階は、司祭、助祭、副助祭であり、下級聖階は侍祭、祓魔師、読師、守門である。これから、司牧者が、それらを受けるべく召されていると思う人々に説明しうるよう、それらの各々について少しのべることにしよう。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 23, cap. 2; 〔旧〕教会法第949~950条: Sum. Theol., III, q. 37, 参照。

注 編者注(二〇四頁)参照。
※ サイト管理人注: 叙階の秘跡34の末尾の編者注のこと。
“一九七二年八月十五日、パウロ六世教皇は、使徒書簡「ミニステリア・クエダム」で剃髪式・下級叙階・副助祭の制度を廃止し、新たに教会共同体奉仕のため「宣教奉仕者」と「教会奉仕者」の二つの役務を定められた。”

MINISTERIA QUAEDAM(バチカン公式サイト掲載文書へのリンク)