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ローマ公教要理 秘跡の部 第七章 13-24 | なぜ剃髪(トンスラ)をするのか、守門・読師・祓魔師・侍祭・副侍祭・助祭・外的司祭職について

 秘跡の部 目次

第七章 叙階の秘跡

13 剃髪の意味について

 他の秘跡の性質、本質を注意深く吟味した人は、それらの秘跡がみな、ある秘跡は叙階がなければ決して存在することも授けられることもありえず、またある秘跡は荘厳な俄式およびある定式や祭式を欠いてしまうというふうに、叙階の秘跡に依存していることに容易に気づくであろう。それゆえ司牧者は、秘跡に関する教えの中でとくに叙階の秘跡について教えることは、自分にとって義務であると銘記せねばならない。

 その時はじめて与えられる「聖職者」という名は、剃髪を受けるものが、主をその分けまえ、遺産としてもちはじめたということを示している。彼らはヘブライの民の中で神の祭儀に任ぜられていたものに似ている。神は彼らに「私こそ、あなたの分け前、遺産となる」(民18・20)とおおせられ、約束の地の分配において、なんらかの分け前をもつことを禁じられたのであった。もちろんこのみ言葉はすべての信者に適用されるものであるが、しかし神の聖職に身を献げたものにとくにふさわしいことである。

14 聖職者はなぜ冠状の剃髪(Tonsura)をするのか

 頭髪は冠に似せてその形にかられ、そして常にそれは保たねばならず、また聖階の段階を上るに従ってその冠の形も次第に大きくしていかねばならない。(1) 教会はこの慣例が使徒伝承に由来していることを教えている。そしてこのような剃髪についてはアレオパギダの聖ディオニジシウス(2)、聖アウグスチヌス(3)、聖ヒエロニムス(4)のような初代の最も著名な教父たちの著書の中に明らかな叙述が見られる。救い主のみ頭にかぶせられた茨の冠の記念としてこの慣習をとり入れた最初の人は使徒の頭聖ペトロであったともいわれている。すなわち不信心なものはそれを見てキリストの屈辱責苦に思い至り、使徒たちはそれを栄誉と光栄のしるしとし、同時に教会の聖役者にすべてにおいてわれらの主キリストの模倣、姿であるよう努むべきことを思い出させる手段としていた。

 またある人々によると、このしるしは主の遺産をつぐべく召されたものに最もふさわしい王的威厳を示すものである。聖ペトロは信者たちに向かって「あなたたちは選ばれた民族、王の司祭職、聖なる民であり、闇から輝かしい光にあなたたちを呼ばれたお方の不思議を表わすために選ばれた民である」(ペトロ前2・9)といっているが、こういわれたことが、ある特別な固有の理由で教会の聖職者にあてはまることは容易にうなずかれる。

 とはいえ、円の形は最も完全な形であるところから、円形の剃髪は、聖職者が引き受けたより完全な生活のしるしであると主張する人々もある。あるいは、体にとってある意味で余分ともいえる頭髪をかるところからして、剃髪はこの世のものに対する冷淡、地上的配慮の放棄を示すと考える人々もある。(5)

訳注
(1) あるカトリック国では今日でも、とくに修道者の間で実行されている。
(2) S. Dionysius Areopagita, de Eccl. Hieros., cap. 6, par. 2 参照。
(3) S. Augustinus, serm. 17 ad fratres in Eremo 参照。
(4) S. Hieronimus c. 44, Ecoch. 参照。
(5) Sum. Theol., III, q. 40, a.1-3 参照。

15 守門について

 剃髪の後、叙階に入る第一の段階は守門の聖階である。守門は教会の鍵と門を守り、ふさわしくないものが教会に入るのを防ぐ任務をおびている。昔は守門はミサ聖祭にあずかりながら、人々が余り祭壇に近づきすぎ〔て〕ミサ聖祭を挙行している司祭を妨げないように見張っていた。また守門の授階の定式にも見られるように、その他の聖務も託されていた。司教は祭壇の上から鍵をとり守門に叙階されるものの手に渡しながら「なんじ、この鍵をもって閉じられたるものにつき、神のみ前に会計をさし出すべきもののごとく行なえ」という。古代教会においてこの聖階が重大視されていたことは、その頃、教会内において行なわれていたことからしてわかる。すなわち宝物管理の任務は今でも教会の職務の中でも栄誉あるものであるが、その任務は、聖器具の番人であった守門に託されていたのである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 23, cap. 17 参照。

16 読師について

 叙階の第二段階は読師である。教会で、明瞭な、はっきりとした声で旧約、新約聖書をとくに夜の詩編の頌誦において読まれる聖書を朗読するのは読師の任務である。昔はまた、キリスト教の初歩を信者たちに教える役目をもっていた。それゆえ、司教は叙階式に参列している人々の面前で、この聖職に関することを含む書物を彼に渡しながら「なんじ、受けて神の聖言を伝うるものとなれ、なんじもしなんじの聖職を忠実かつ有益に果たさば、はじめより主の聖言のよき役者となりしものとともに報いにあずかるを得ん」という。

17 祓魔師について

 第三の聖階は祓魔師である。彼らは、悪魔に取りつかれたものの上に神のみ名を唱える権能を授けられている。それゆえ、司教は祓魔式を記した書を彼に渡しながら、つぎの言葉をのべる。「なんじ、受けてよく記憶せよ、悪魔につかれしもの、洗せられしものの上にも志願者の上にも按手する権を受けよ」と。

18 侍祭について

 下級聖階とよばれる聖階の第四段階の、そして最後のものは侍祭の聖階である。侍祭は祭壇の奉仕において上級の聖職者、すなわち助祭、副助祭につき従い、彼らに手伝う任務をおびている。そのほかミサ中、とくに福音の読誦中に点火したローソクを奉持して仕える。そこからして彼らは別名「ローソク持ち」(Ceroferarius)ともよばれる。それで司教は彼らの叙階式においてつぎの定式を守ってきたのである。まず司教は、彼らの聖職について注意深く勧告した後、「なんじ、ローソクとともに燭台を受けよ。かつ聖堂内に点火する義務のなんじに負わせられんことを知れ、主のみ名によりて」と言いながら各自にローソクを与える。ついで、ミサ中に水とブドー酒を入れる、空の祭瓶を渡しながら、「キリストの御血の聖祭にブドー酒と水とに捧持せんとて小祭瓶を受けよ、主のみ名によりて」とつけ加える。

19 副助祭の聖階とその授階について

 さて聖職者は、以上のべた下級聖階から上級聖階へと合法的にあげられ、到達するのである。上級聖階の第一段階は副助祭であり、この聖職は、その名の示すとおり、祭壇において助祭に奉仕するためにある。犠牲の奉献に必要な聖布、聖器、パン、ブドー酒を準備するのが副助祭である。今日、司教や司祭がミサ中に手を洗う時に水を注ぐのも彼である。ミサ中に、昔は助祭が読んでいた書簡を奉読するのもまた副助祭である。彼はミサ聖祭にいわば証人としてあずかり、ミサを捧げる司祭がだれからも邪魔されることのないように警戒する責任をもたされている。

 副助祭に属するこれらの聖職は、副助祭の叙階式の定式から知ることができる。司教はまずこの聖階に課せられた永久の貞潔の掟について彼をさとし、貞潔の義務に服するという真摯な意志をもたないかぎり、だれも副助祭の聖階に進んではならないことを宣言する。そして諸聖人の連禱を厳かに歌った後、副助祭の義務と責任とを列挙し説明する。それらが終わって各受階者は、司教の手からカリスとパテナを受け、また(副助祭が助祭に奉仕すべきことを悟らせるため)助祭長からブドー酒と水のはいった祭瓶と洗手のための布と受皿とを受ける。司教は同時に、「いかなる聖職がなんじにゆだねられるかを見よ。ゆえにわれ、なんじらが神のみ旨にかないうるようこれを行なうべきことを訓戒す」という。それから他の祈りをつけ加え、そして最後に司教は、副助祭の祭服を、それぞれの部に適した言葉と儀式とをもって着せた後、彼らに書簡集を渡しながら、「なんじ書簡の朗読書を受けよ。かつ神の聖会においてこれを生けるもののためにも死せるもののためにも朗読する権能を受けよ」とのべる。(1)

訳注
(1) Conc. Carthag., 4, can. 5 参照。

20 助祭について

 上級聖階の第二は助祭であり、その聖職は、より広くまた常により聖なるものとみなされている。助祭はいつも司教につき従い、説教の間に司教の側に仕え、司教および司祭が犠牲を捧げ、または秘跡を授与する際に、彼らをたすけ、さらにミサにおいて福音を読む。昔は助祭は信者たちにミサに注意するように促し、また両形色による聖体拝領をするならわしのあった教会では、主の御血を分っていた。そのほか助祭には教会の施物の分配がゆだねられており、生活に必要なものを各人に与えていた。

 またいわば司教の目として、だれが信心深くそして正しく生き、だれがそうでない生活をしているか、あるいはだれが定められた時にミサや説教に行くか、だれか欠席しているかを見張るのも助祭である。彼はそれらすべてのことを司教に報告し、もって司教が、より有益でより適当であると判断するところに従って、各々を個人的に勧め注意し、あるいは公に非難し訓戒しうるようにしなければならない。助祭はまた洗礼志願者の名を読みあげ、また叙階に叙せらるべき人を司教の前に導いていく。最後に司教や司祭がいない場合、福音の説明をすることもできる。しかしこの聖職者が自分の本来の聖職でないことをわからせるため、説教台の上からはしない。

21 助祭となるための資格

 この聖職にふさわしくないものを叙階のこの段階にあげることのないよう、どれほどの配慮をなすべきか、聖パウロはチモテオに助祭の品行、徳、公正廉直についてのべ(チモテオ前3・12)それを示している。そのことはまた、司教が授階のために用いる定式や荘厳な儀式によっても表わされている。司教は、副助祭の時よりも多くの、そしてより聖なる祈りを誦え、またさらに他の祭服を助祭に着せる。それに加えて司教は、最初の助祭を定めた時に使徒たちがしたように(使6・6)彼に按手する。最後に司教は、「なんじ神の聖会において聖福音を生けるもののためにも死せるもののためにも奉読する権を受けよ、主のみ名によりて」と言いながら彼に福音書を渡す。

22 司祭職の崇高さについて

 聖階の第三の、そして最高のものは司祭である。この聖階を授けられたものを、初代教父たちは二つの名でよびらならわしていた。ある時は、この聖階にきわめて必要な年令の成熟だけではなく、むしろその品行の重々しい、その知識、賢慮を示すために、ギリシャ語で老人を意味する「長老」という言葉でよんでいた。「ほまれある長寿は、生きた年数の長さにあるのではなく、年の数で計るものでもない。人間にとって、白髪は知恵であり、汚れのない生活が長寿である」(智4・8-9)と書かれているからである。またある時は、「司祭」(Sacerdos)とよんでいる。このSacerdosというラテン語は、彼らが神のために聖別されていることまた彼らが秘跡を授け、そしてすべての聖にして神的な事に従事するものであることを意味している。

23 旧約または新約における司祭職は幾種あるか

 聖書には、二つの司祭職、すなわち内的(internum)と外的(externum)の司祭職がのべられている。それゆえ司牧者が、ここで問題となっているのは、どの司祭職であるかを説明しうるよう、この二つの区別について説明しよう。

 たとえば、洗礼の水によって清められた信者はすべて司祭とよばれ、内的司祭職にあずかっている。とくに神の霊を有し、神の恩寵によって最高の司祭イエズス・キリストの生きた肢体となっている義人たちはそうである。実際彼らは愛徳にもえたつ信仰によって(ガラチア5・6)その心の祭壇上で神の霊的いけにえを捧げている。(ペトロ前2・5) すなわち神の光栄のためになされるすべての善業や正しい行ないがそれである。それゆえ、黙示録には「キリストはその御血によってわれわれを罪から洗い清め、その父なる神のためにわれわれを司祭の王国とされた」(黙1・5-6)と書かれている。同じ意味で使徒たちの頭も「活きる石としてあなたたちも、この霊の建物の材料となれ。こうしてあなたたちは聖なる司祭職をつとめ、イエズス・キリストによって神によみせられる霊のいけにえを捧げるであろう」(ペトロ前2・5)と言っている。また使徒聖パウロはわれわれの体を「神によみせられる、生きた、聖なるいけにえとして捧げるよう」にと勧めている。(ロマ12・1) より遠い昔にダヴィドは「神へのいけにえとは、痛悔した魂。ああ神よ、あなたは、悔い改め、へりくだった魂を軽んじられない」(詩50・19)と歌っている。これらはすべて明らかに内的司祭職に関して言われているのである。(1)

訳注
(1) Conc. Trid., sess. 23, cap. 4 et can. 1, 4, 6-8 参照。

24 外的司祭職について

 外的司祭職は、すべての信者に属するものではなく、ただ合法的に按手を授け、聖なる教会の荘厳な儀式で叙階されて神のために聖別され、固有の聖役に献身する一定の人々のものである。

 このような司祭職の区別はすでに旧約においても見られる。内的司祭職に関してダヴィドが語っているということはいましがたのべたばかりであるが、外的司祭職についていうと、それに関して神がモイゼおよびアアロンにどれほどの掟を授けられたかは周知のところである。(出28・1-41、レビ記全部)さらに神はレビ族全体を神殿の奉仕者とし、そして他のいかなる部族のものも、この聖職を横取りすることのないよう律法によって禁じられた。(民3・10) たとえば司祭職を奪ったオジアス王は、そのおうへいさと瀆聖の厳罰として神から癩病をもってうたれた。(歴下26・19-21) われわれは福音の法の中でも同様に二つの司祭職の区別を見出しうるのであるから。いまここで問題としているのはある一定の人々にだけ授けられる外的司祭職であることを信者たちに注意させねばならない。実際それだけが叙階の秘跡に関係しているのである。