第二章 洗礼の秘跡
目次
37 それでも常に延期すべきではない
しかしながら、時として正当なそして必要なある理由、たとえば大人が死の危険にあるとか、あるいはとくに信仰の奥義をすでに完全に修得しているとかいうような場合には、洗礼をのばしてはならない。それは聖フィリッポや聖ペトロがとった態度からして明らかである。聖フィリッポはエチオピアのカンダケ女王の従者に、また聖ペトロは百夫長コルネリオに、共に彼らが信仰を準ずることを公言するとすぐに延期することなく洗礼を授けたのであった(使8・36、10・47)
38 受洗のために必要な心構えについて
つぎに洗礼に臨むものはどんな心構えをもつべきかを教え説明せねばならない。心構えの第一は、洗礼を授かろうという望みである。(1) 人は洗礼によって罪に死し、新しい生命を受け、新たな生活をはじめるのであるから(ロマ6・2)その意思のないものまたはこれを拒むものには授けず、すすんでまた喜んでそれを受けるものにだけ授与するということは当然のことである。洗礼を授ける前に必ず、受洗の意思があるかどうかを尋ねる聖なるならわしがいまも保たれているのはそのためである。またこの意思が幼児に欠けていると考えてはならない。その場合、彼らに代わって答える教会によって彼らの意思は明白にされているのである。(2)
訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 68, a. 7; q. 69, a. 9-10 参照。
(2) 〔旧〕教会法第752条参照。
※ サイト管理人注: 以降、現行の教会法の洗礼に関する規定(第849条 ー 第878条)と異なる内容もございますことをご承知おき願います。
39 白痴は受洗できるか
白痴や狂人に関しては、それがある期間正常であって後に発狂し、その状態では受洗の意思をもつことができぬような人ならば、死の危険に瀕していないかぎり洗礼を授けてはならない。生命の危険の場合、彼らが発狂する前にこの秘跡を受ける望みを表明していたならば洗礼を授くべきである。しかし受洗の望みの表明がなかった場合には洗礼を授けてはならない。昏睡状態にある人についても同様に判断すべきである。生来の白痴や狂人で、決して理性の働きをもたなかったものについては、教会は理性の働きをもたない幼児と同様にとりあつかい、教会の信仰において洗礼を授けることを求めている。(1)
訳注
(1) 〔旧〕教会法第754条。
(2) Sum. Theol., III, q. 68, a. 12 参照。
※ サイト管理人注: 原文(日本語訳)を尊重するため、文中の表現はそのままとしております。
また、現行の教会法では第852条第1項にて「意思能力を欠く者は、洗礼に関しても幼児と同等とみなされる。」と規定されております。(『カトリック新教会法典』有斐閣、p.473)
40 その他の必要な心構えについて
しかし秘跡の恩龍を受けるためには受洗の望みのほかにその望みと同じ理由によって信仰が必要である。(1) というのは、主は「信じて洗礼を受ける人は救われ、信じない人は滅ぼされる」(マルコ16・16)とおおせられたからである。つぎにそのすべての罪や以前の悪い行ないをすべて真心から悔やみ、将来もはや罪を犯さないという固い決心をもつことが必要である。もしこれに反して罪の習癖をなおすことを拒み、それでいて洗礼を願うなら、その人は絶対に洗礼から遠ざけられるべきであろう。というのは罪の生活になんら終わりを告げようとしないような罪人の考えや心構えほど、洗礼の恩寵や効果に反するものは何もないからである。またわれわれが洗礼を願うのは、キリストを着(ガラチア3・27)彼と一致し奉るためであるから、その悪徳やあやまちを固執しようとするものを聖なる洗い清めから遠ざけることは当然のことである。それに加えて、キリストおよびその教会に属するものはすべて決して乱用さるべきではないのである。しかるに霊によらずして肉によって生きようとするものは(ロマ8・1)、このような不相応な心構えをもってしても、洗礼が正規に授けられ、また教会が授けるものを受けようという意向があるかぎり秘跡のしるしの点では、完全に受洗することは疑いないが、しかし成聖と救霊の恩寵に関するかぎり洗礼の秘跡を空しくするからである。だからこそ聖書のいうところによると、使徒たちの頭、聖ペトロは「いたく心をうたれ」(使2・37)彼や他の使徒たちに(救かりのために)なすべきことを尋ねた群衆につぎのように答えたのである。「悔い改めなさい、おのおの、罪のゆるしをうけるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい、そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう」(使2・38)と。また他の箇所では「あなたたちの罪が消されるように、悔い改めて改心しなさい」(使3・19)といっている。同様に聖パウロはロマ人への書簡において、洗礼を受けるものは絶対に罪に死なればならぬことを明白に示し、「したがって、死すべきあなたたちの体を、もはや罪が支配することのないよう、また、その欲に従うことのないよう」(ロマ6・12)にと忠告している。
訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 68, a. 8 参照。
41 以上の教えの有益なこと
信者たちはこれらの真理をしばしば黙想することによって、われわれの側からはなんの功績もないのに、ただその御慈悲の導くままに、これほどの格別な恩寵を与えたもうた神の無限のいつくしみを賛美するようになるであろう。また、かほどの賜物によって飾られた彼らの生活は、いかにすべての罪から縁遠いものでなくてはならないかを思い、とくにキリスト信者たるものは、毎日を洗礼の秘跡とその恩寵を受けたその日のように、清くまた敬虔さをもって過ごさねばならぬことを容易に悟るであろう。
42 洗礼の主な効果について
キリスト信者の心に真の信心の火をかきたてるために最も有効な手段は、洗礼の効果を明確に知らせることである。それゆえ信者たちが、洗礼によってきわめて高い品位を与えられていることをよりよく知り、また彼らをつき落とそうとする敵の詭計や暴力によってその品位を片時も失うことのないようしばしばこの主題に立ち返るべきである。彼らに知らせねばならぬ第一のことは、人祖から受けた原罪でも、あるいはわれわれ自身の意志によって犯した自罪でも(たとえそれが人の想像を絶するほどの極悪そのものであっても)洗礼の秘跡の感ずべき力によってゆるされ、消されるということである。主はずっと昔にエゼキエルを通じてこの効果を預言され、こうおおせられた。「私は、あなたたちの上に清い水をそそぐ、こうしてあなたたちは、すべての汚れから清められる」(エゼキエル36・25)と。また使徒聖パウロは、コリント人に対して罪の種類を長々と並べた後で、「あなたたちの中にも、そんな人があったが、主イエズス・キリストのみ名により、われわれの神の霊によって、自分を洗い、そして聖とされ、義とされた」(コリント前6・11)とつけ加えている。実際、このことは明らかに教会が常に教えてきたところである。(1) 聖アウグスチヌスは、幼児の洗礼についての書中で「肉体の出生によって人は原罪と結ばれるだけであるが、霊による再生によって原罪および自罪のゆるしを得る」(2)とのべている。また聖ヒエロニムスはオチェアヌスにあてて、「すべての罪は洗礼によってゆるされる」と書いている。(3) なおだれもこの真理について疑いをもたぬようトリエント公会議は他の公会議の教えを受けついで、以上の教えと異なったことを唱えるもの、あるいは「洗礼によって罪はゆるされるとはいえ、それは完全にかつ根本的に取り除かれるのではなく、その根はなお心の中に残すというふうにいわばつみとられるにすぎない」とあえて考えたり、主張したりする人々に対して破門を宣告したのである。なぜなら同じ公会議の表現を借りていうと、「神は再生したものの中に何も憎みたまわない。それは罪に死ぬために、洗礼によってキリストとともに真に葬られたもの(ロマ6・4)はもはや肉によって生きず、古い人間の皮を剥ぎ去ったもの、神によって送られた新しい人間の姿を帯びたもの(コロサイ3・9)、無垢にして、清く、汚れなく、神によみせられるものとなった人々には(エフェゾ4・24)有罪の宣告をなすべき原因が何もない(ロマ8・1)からである」。(4)
訳注
(1) Conc. Trid., sess. 5; Sum. Theol., III, q. 69, a. 1-2 参照。
(2) S. Augustinus, lib. 3 de peccat. remiss.
(3) S. Hieronymus, ep. 87.
(4) Conc. Trid., sess. 5, can. 5; Sum. Theol., III, q. 69, a. 1 参照。
43 受洗後に残る欲情(Concupiscentia)は罪か
公会議も同じ箇所で教えているように、欲情または罪の可燐物が受洗者の中に残存していることは認めねばならない。とはいってもその欲情は罪でない。(1) 聖アウグスチヌスは「受洗した幼児は罪としての欲情はゆるされるが、欲情そのものは彼らを鍛えるために残される」といっている。(2) 彼はまた別の所で「実際に、罪に由来する欲情とは、その本質からして理性に反する心の傾きであるが、しかしそれは、意志の同意または怠慢と結びついていないかぎり真の罪とは非常に遠いものである」と教えている。(3) 聖パウロは「私は、律法によらずには、罪を知らなかった。律法が『むさぼるな』といわなければ(出20・17)、私は邪欲を知らなかった」(ロマ7・7)といっているが、ここでいう欲情とは、欲情の動きそのものをさすのではなく、意志の欠陥を意味している。同じ教説は聖グレゴリウスの中にも見いだされる。「洗礼によって罪がただそのうわべだけゆるされると主張することほど非キリスト教的な考え方がありえようか。なぜなら信仰の秘跡によって、霊魂はその罪から全く解放され、ただ神にのみ結ばれているからである」と。(4) そして確言したことの証拠として、彼は聖ヨハネ福音書中の救い主のみ言葉を引用している。「すでに体を洗った人は、(足のほか)洗う必要がない。その人は全身清いからである。あなたたちも清い、しかし、全部がそうではない」(ヨハネ13・10)と。
訳注
(1) Conc. Trid., sess. 5, can. 5参照。
(2) S. Augustinus, lib. 1 de pecc. merit. et remiss.
(3) Idem lib. 1 de nupt. et conc. c. 25-26.
(4) S. Gregorius, lib. 9 reg. ep. 39.
44 罪のゆるしについて
もしこの真理について、何かの表象または比愉を望むものは、旧約聖書中に見られるシリアの癩病者ナアマンのことを思い浮かべればよい(列下5・14)。聖書の証言するところによると彼はヨルダン河で七回水浴し、その体は癩から清められ、子供の体と思われるほどになった。そのように洗礼の本来の効果は、原罪およびわれわれ自身のあやまちによって犯したすべての罪をゆるすことである。救い主が洗礼をご制定になられたのは実にこの目的のためであったのである。多くの引用ははぶくが、使徒聖ペトロだけに聞いてみよう。彼は「悔い改めなさい、おのおの、罪のゆるしをうけるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい」(使2・38)といっている。
※ サイト管理人注: 日本語訳の原文を尊重するため、文中の表現はそのままとしております。
45 罪と同様、すべての罰をゆるす
洗礼はすべての罪をゆるすだけでなく、神のかぎりない御いつくしみによって、同時に罪に由来するすべての罰をもまぬがれしめる。(1) キリストのご受難の功徳を分与するということはすべての秘跡に共通のことであるが、しかし聖パウロは、ただ洗礼についてだけ、われわれはキリストとともに死し、ともに葬られたのである(ロマ6・4)といっている。それゆえ教会は、洗礼によって清められたものに、聖父たちが償いの業とよんでいる信心業を負わせることは秘跡に対する大きな侮辱であるとしている。(2) しかしいま言ったことは、昔、受洗するユダヤ人に四十日間の断食を命じていた初代教会のしきたりに反するものではない。この断食は決して償いとして定められたものではなく、ただ受洗しようとするものにしばらくの間、絶えず断食と祈禱に身をゆだねることによってこの秘跡に対する敬神の念をもたせるための手段であった。
訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 69, a. 2 参照。
(2) S. Augustinus, lib. 1 de nupt. et concup. c. 34 ; Sum. Theol., III, q. 68, a. 5 参照。
46 とはいえ、民法による刑罰はまぬがれしめない
洗礼は罪によるすべての罰をゆるすとはいえ、裁判官が重大な犯罪のために犯罪人に課する刑罰から免除するものではなく、たとえば死刑に相当するものは、受洗したからといって、法律によって命ぜられた刑罰をまぬがれないのである。しかし秘跡における神の栄光をさらに光輝あらしめるために、受洗する犯罪人に恩赦を与え、その刑罰を免除するような君主の宗教心ないし信心はきわめて賞賛に値するといえよう。(1)
訳注
(1) Sum. Theol., III, q. 69, a. 2 ad 3 参照。
47 来世において償うべき罰もゆるされる
また洗礼は、この世での生涯の後に果たすべき原罪のすべての罪からわれわれを解放する。この恵みが得られるのはキリストのご死去によるものであり、前述したように、洗礼によって、われわれもキリストとともに死ぬからである。すなわち聖パウロが「われわれがキリストと一体となって、その死にあやかるならば、その復活にもあやかるであろう」(ロマ6・5)とのべているとおりである。
48 ではなぜすぐに人祖の罪以前の完全無垢の状態にもどらないのか
あるものはこう問うかもしれない、「ではなぜわれわれは、受洗後、直ちに、すでにこの世において、生命のあらゆる欠陥から解放され、人祖アダムが原罪以前にあった完全の状態に回復されないのか」と。それには二つの主な理由がある。(1)
その第一は、われわれは洗礼によってキリストの御体に合体し(ロマ6・5)その肢体となるのであるが、しかしわれわれがわれわれの頭(キリスト)以上の特権を授かることは適当なことではないからである。(2) 主キリストはその御やどりの最初の瞬間から恩寵と真理とにみちみちて(ヨハネ1・14)おられたとはいえ、一度お受けになられた人間の弱さを、ご受難の責苦とご死去とを経て不滅の光栄ある生命によみがえりたもうまで保たれた。それならば、すでに洗礼によって天上の義をもつ信者たちがキリストのためにあらゆる労苦を忍び、死の苦しみを味わって後はじめて、主とともに、永遠の至福を享受するにふさわしいものとなるため、なお滅ぶべくかよわい肉体をもっていることは、別に驚くにあたらない。
肉身の弱さ、病気、苦痛、欲情の衝動が洗礼後にも残されている第二の理由は、われわれがそれを修徳のための種子ないしは材料とし、他日より豊かな光栄とより多くの褒賞を得ることができるためである。すなわちあらゆる日常生活の不便を忍耐強く耐え忍び、神の御助けのもとに心のゆがんだ傾きを理性の指導に従わせていくならば、当然、使徒聖パウロとともに「私は、よい戦いをたたかい、走るべき道のりを走りつくし、信仰を守った。すでに私のために、正義の冠がそなえられている、かの日、正しい審判者である主は、それを私にくださるであろう」(チモテオ後4・7-8)と安心して期待することができるのである。主はイスラエルの子らに対しても同じようにされた(出14・24)。神はファラオとその軍隊を海に葬ってまで彼らをエジプトの奴役から解放されたが、すぐにはしあわせな約束の地に導き入れたまわず、その前に多くの試練をもって彼らを鍛えられた。そしてついに彼らに約束の地を所有せしめたもうた時も、その地に居たある住民は駆遂されたが、彼らが打ち破りえなかったいくらかの民族は、神の民に絶えずその勇気と戦力を行使する機会を与えるために残しておかれたのである(士3・2-3)。
以上の理由に加えて、もしも洗礼が霊魂を飾る天の賜物のほかに身体のしあわせを与えるとするならば、多くの人々は未来の栄光のためよりもむしろ、この世的な利益のために洗礼を受ける恐れがないとはいえない。しかし真のキリスト信者には目に見える偽りのまた不確実な幸いではなく、目に見えない真の、永遠の幸い(コリント後4・18)が提供されているのである。
訳注
(1) Conc. Trid., sess. 5, can. 5; Sum. Theol., III, q. 69, a. 3 参照。
(2) Sum. Theol., III, q. 69, a. 7 参照。