未信者・鈴木成高教授「日本においてカトリックは土着化できていると思う」(1962年)

前回に引き続き、雑誌『世紀』に掲載されていた「信仰の土着化」に関する記事を紹介します。「宣教再開100周年」であった1962年当時の記事です。
 ※ 横浜でジラール師による聖堂が建設された1862年から100年とのこと。


【座談会】 日本カトリック百年の歩み  (全文

『世紀』二月号 (昭和37年(1962年)2月1日発行、中央出版社)

 出席者
海老沢有道   (立教大学教授)
J・ロゲンドルフ  (上智大学教授)※イエズス会司祭
佐藤直助          (上智大学教授)
鈴木成高               (早稲田大学教授)
 ※ABC順。括弧内の肩書は当時のもの。

カトリックは日本において土着化できている(未信者・鈴木成高教授による見解)

カトリック信者ではない鈴木成高教授はカトリックのシンパとしての立場として座談会に臨んでおられますが(御令室はカトリック信者だと本文中にある)、その同教授が「カトリックは土着化できている。日本の伝統的な生活の中に、なんということはなしに同化できている」との旨を仰っています。

キリスト教の土着化 (pp.30-31より)

鈴木 久山君〔久山康; プロテスタントの宗教学者〕の「現代日本とキリスト教」でしたかね、キリスト教の日本における土着化ということを神父様がちょっとおっしゃいましたが、非常に問題にしておりますね。つまり日本社会の中に根を下すということですね、それができるかできないか。難しいというわけです。それを非常に問題にしますが、私は、カトリックは案外それができていると思うのです。

ロゲンドルフ 私もそう思いたいんですね。つまり、ことにカトリックの家庭生活を見ますと、――佐藤先生の家庭はその一例ですが――そこでは日本人の季節感に応じて、カトリックの聖暦年といっしょに生きていくわけです。カトリックは実にあったかい信仰で、日本人の持つ最も美しいところが、多くのカトリック信者の中に生きているに違いないんですね。その意味でカトリックは土着化しつつあるといえます。

鈴木 土着化ということは、伝統的な生活の中に同化されるということですが、それをカトリックはなんとはいうことなしにできていると思うんですがね。ところがプロテスタントの方は、伝統的生活に対して否定的というか、破壊する方向に発展したんですね。ところが日本の近代化は、伝統生活をこわすことが近代化ということで来たから、プロテスタントの影響は近代化という点で強かった。カトリックは、そういう役割を果たそうとしなかった、また果たすべきもんでないとも思いますね。そこに非常に違ったものが出てきたんじゃないかと思います。これは大切な点じゃないでしょうか。

なんかプロテスタントとカトリックは、伝統というものに対する態度に非常に違ったものがあるのではないか。日本の場合は、明治時代の伝統が動揺していたわけです。その中でプロテスタントは非常に影響があった。カトリシズムはそういう破壊的影響を与えないで、伝統の中に生きるという違いがありますね。だから今になってプロテスタントは土着化していないんじゃないかという疑問が起こってきて……。

本座談会は、日本での宣教再開から1962年までの百年間における、カトリック教会の歩みがテーマです。この中で、プロテスタントに比べてカトリックは文化貢献度および知識階級への影響が低かったこと、すなわち宣教の成果がそれほど現れなかったことと、その理由が様々な観点から述べられています。日本の国策により強国の英米文化が求められていたこと、対ロシア政策において、日本とフランスは利害相反する立場にあったこと、キリシタンに対する強い偏見が残っていたこと等が理由として挙げられているものの、「カトリックの典礼、文化は日本人にとって理解できない奇異なものだから」という意見は一切述べられておりません(このような筋違いの意見が出ないのは、至極当然ではありますが・・・)。

上記の引用箇所においても、宣教対象である未信者の鈴木教授が「カトリックは土着化できていると思う」とご発言され、これに対して、同じく未信者の海老沢教授は異を唱えておりません(別の話題では「お言葉を返すようですが…」とロゲンドルフ神父様へご意見されている)。ロゲンドルフ神父様は上記の通り「カトリックの家庭生活では、日本人の季節感に応じて、聖暦年といっしょに生きている。その意味でカトリックは土着化しつつある」と仰り、信者の佐藤教授も反論されておりません。従って、本座談会メンバーとしては「カトリックは土着化している」との見解にて一致しているといえます。

この見解は、第二バチカン公会議後の進歩派聖職者の意見とは全く相反するものです。

宣教再開後、プロテスタントに比べて宣教の成果がそれほど現れなかった理由

座談会で四氏が語られていた、日本における、プロテスタントによる文化貢献度(教科書、百科事典、聖書や賛美歌の翻訳の早さ)および知識階級への影響に比べて、カトリックによる宣教の成果がそれほど現れなかった理由6点を以下に示します。

なお、雑誌『世紀』(1949-1994年に発行)は知識階級を対象としたカトリック総合文化誌であり、座談会のメンバーも知識人であることから、宣教の成果度は「文化の担い手である知識階級への影響度」という視点で以て語られていることも明記しておきます。

① 日本の国策により、プロテスタント国である英米の文化が要求されていた
・明治維新期の、社会の要求するものが英米文化であった。フランス語を通して文化を摂取するというより、英語を通して文化を摂取するという明治時代の要求というものがあって、プロテスタントに幸いした。

・当時のプロテスタントは英・米・独などの進歩的な強国であり、一方その当時のフランスはプロシアに負けたばかりの弱い国だった。
 ※ 明治時代: 1868-1912、普仏戦争: 1870-1871

② 対ロシア政策の日仏相反により、フランス宣教師がブレーキをかけていた

・対ロシア政策において、日本とフランスは利害相反する立場にあった。日本とロシア間の利害関係が非常にデリケートであるなか、フランスはロシア側についていた。

・そのために、日本でプロテスタントが非常に発展するときに、他方でフランスの宣教師達はブレーキをかけていた。

③ キリシタンに対する偏見の強さ
・幕府が民間に徹底的に邪宗門観を教えていたため、キリシタンに対する長年の偏見の強さが布教の妨害になった。

④ 教育事業に関するカトリックとプロテスタントの方針の違い
・教育修道会が全然派遣されなかったことも、明治時代に教会が発展せず、カトリシズムと知識階級との出会いが行なわれなかった原因の一つ。日本国民が無我夢中で西洋文明を研究していた明治初期にこそ、教会は学校を多く設立しなければならなかった。

・プロテスタントは教育事業で非常に活躍した。

・明治時代にプロテスタントは青山学院、明治学院、関西学院を創立したが、カトリックの学校は暁星のみ。

⑤ 復活キリシタンへの司牧で手一杯だった
・復活キリシタンを司牧する仕事で手がいっぱいで、中央の知識階級に対して新しい布教が十分できなかった。

・そのため、日本の教会は信仰生活の面で有機的に伸びることができたが、文壇や教壇に立てるような知識人の信者がいなかった。

⑥ 日本人による近代の過大評価が、カトリックおよび宗教への下等評価に繋がっている
・日本人は近代というものを過信、過大評価している。その価値観から、カトリックを独断的、形式的、中世紀的、封建的と見なすのではないか。

・日本の近代化はセキュラリゼーション(世俗化)。非宗教的な考え方を一層極端にしてしまった。知識階級ほど信仰一途ということになりにくい。

・文化の担い手であるはずの知識人が文化の土台である宗教を軽蔑しているように思われる。
この『世紀』二月号の編集後記には、本座談会について「一般の読者、とくに若い方々には、あるいは耳新しいことが、かなりあるのではないかと思い、あえて御精読をお願いしたい。今後、カトリック教会が進んでいかなければならない道への視点ともなれば、それこそ編集部の意図したものである」と述べられています。実際、浅学の私にとって未知の内容が多くありました。
語られている内容の中には、同意しない点もあるのですが(天主、托身、聖体、玄義という用語への批判)、宣教再開当時の日本の国策や国際情勢を踏まえた見解について、大変興味深く拝読しました。

ロゲンドルフ神父様による「カトリックは聖暦年とともに生きるあったかい信仰」というご見解は、同意するとともに、今や大分取り去られているので(聖母関連の祝日・記念日でも、日本の教会で御ミサどころか言及もされないものばかり)、復興すべきだと思いました。

ついでに申し上げますと、日本人は近代化を過大評価しているというくだりは、進歩派聖職者のことを想記せずにはいられないです・・・。


座談会全文はこちら; 岩下神父様、戸塚神父様のことにも言及されています。

イエズス様

おまけ(個人的に興味深かったこと)

● プロテスタントの聖書引用が、知識層をとらえる上で影響している。

● 明治時代、すべての人を相手にして戦って論陣を張ったのはリギョール神父様(著作『秘密結社』により、日本に初めてフリーメイソンの存在とその陰謀について知らしめた神父様でもあります)であり、その手助けが前田長太(※)。ようやく大正になって岩下神父様が現れて、インテリとの接触が始まった。従って、岩下神父様はカトリックの日本の布教における大きな金字塔である。

※ 日本語Wikipediaではあるけれど、「前田事件」もご参照。「下層階級を対象にした慈善事業を中心とする宣教事業のみでは不十分であり、知識人や上流階級を主要対象とする宣教を行うことも望ましい」という考えを公然と主張した司祭であり、教会内で非難の対象となったとのこと。1907年に還俗し、結婚。

● 原敬首相(※)は、受洗したもののあまり信仰を守っていなかったが、暗殺されるまで自分の書斎に聖母マリア様の御絵を掛けていた。ある尊敬する神父からもらった御絵だった。また、函館教区のベルリオーズ司教様を非常に尊敬していた。
 ※ 10代後半に受洗、霊名は「ダビデ」。死後は岩手県・大慈寺に葬られた。

● 美術、建築などの方面でできるだけものを日本的にしようと考えるのは多くの場合、日本の信者より外国の神父様である。