1980-90年代の発行書籍では、虚偽が未訂正のままになっていた
上述のような堂々たる虚偽は、後でさすがに訂正されているのではないかと思っていましたが、かつてカトリック中央協議会が発行していた『カトリック儀式書 ミサ以外のときの聖体拝領と聖体礼拝』(日本カトリック典礼委員会編集、1989年6月1日初版発行)においても訂正されておりません。
当該書籍中に付録として「(三)聖体を手に授けるための手引き (典礼委員会編 カトリック中央協議会『会報』一九七〇年第六号)」が掲載されていますが、この手引き文章(1993年11月10日発行 第三版)を読んでみると、「指針」と「基準」を取り違えたままです。
「1 一般には典礼聖省の指針に従って、古代教会の伝統的な方法がすすめられます」(=典礼聖省書簡上の「基準」4番)と記されており、カトリック新聞記事通りの内容です。
◆ 2019年3月10日追記
2007年12月10日発行の上記儀式書「改訂新版」を確認したところ、「(三)聖体を手に授けるための手引き」ごと削除されておりました(掲載なし)。
カトリック新聞の編集・報道姿勢はプロパガンダそのもの
以上の虚偽報道に加えて、更に2つの記事を紹介いたします。
【1】 翌週1970年10月18日の新聞コラム「手は口よりも聖体を拝領するのに人間にふさわしい」
カトリック新聞は、聖体拝領の新方式を報じた翌週の一面コラムにおいて、新方式についての見解を述べています。
日本司教協議会が五月の定例総会で、聖体拝領に際して、聖体を手に授けることを決定してローマに申請していたところ、許可がおりたそうである。これは日本の風俗習慣からいって、当然このましいことであり、布教的にも未信者によい印象を与えることと思う。わが国には茶道があり、手の作法という点では実にこまやかな配慮が行なわれているが、手にする聖体拝領も、優雅な作法で行なわなければ、かえって粗野な感じを与えてしまうかもしれない▼そこで「手」というものの意味をもう一度考えてみることは興味深いことである。まず第一に、人手とか、男手とか、相手とかいうように、手は人間と同じであり特に活動する実際的な人間を代表する。誓う場合に人間は手をあげる。手形という経済用語も、もとは約束のしるしである▼手は口よりも聖体を拝領するのに人間にふさわしい。また手は技術ということ代表する。上手、下手とか、手ごころを加えるとか、やり手とかいうことばが示すように、聖体拝領をする手は神を把える手段になる。そして次に手は更に生産し、形成する手である。手のこんだ細工とひとは言う。拝領する手によって、人はひとつの信仰の世界を形成するのである▼手は更に、理解するということ、把握するということである。手にとるように判る、というが、手による聖体拝領がそのような性質をもったらすばらしいことである。 (H)
※ 赤マーカーによる強調は当サイト管理人による
手による聖体拝領の導入を「良し」とする結論ありきで詭弁を弄するコラムです。
【2】 聖体拝領台にて跪く信徒達の写真に「今も、ひざまずいている聖体拝領」とのキャプション
これは、1970年7月19日付けのカトリック新聞にて連載座談会「典礼の刷新と教会の未来像(5)」の記事枠内に掲載されていた写真です。この座談会は1970年6月21日から8月23日まで全8回にわたって連載されており、出席者は佐久間彪神父(荻窪教会主任)、松本正夫教授(慶應大学教授)、野村良雄教授(東京芸大教授)、土屋吉正神父(典礼司教委秘書)、寺西英夫神父(東京大司教館)です(3)。彼らが話す内容は、トリエント・ミサ含む第二バチカン公会議前の教会をけなす酷いものですが、座談会の全8回発言中に「聖体拝領のときの跪き」について非難する意見はありません(4)。上の画像が掲載された第5回では、聖体拝領にも跪きにも言及されていません。
座談会の内容に無関係な画像を、悪意ある「今も、ひざまずいている聖体拝領」とのキャプションつきで掲載しているのです。
1970年10月11日の「新導入」記事に加えて、これら【1】、【2】の資料も見てみると、新聞上で手による聖体拝領を良しとし、跪きをやめるようにミスリードしているとの結論に至るでしょう。(これを「プロパガンダ」と言わずとして何と言う。)
終わりに
本記事においては、カトリック新聞(5)の記事および『カトリック儀式書 ミサ以外のときの聖体拝領と聖体礼拝』にて虚偽が記載されていることと、同新聞のプロパガンダについて書き記しました。
日本の教会が、この堂々たる虚偽について訂正することを望みます。当然のことながら、『メモリアーレ・ドミニ』に反した「新方式」導入過程の検証と(あからさまな違反行為だからそれほど時間を要さずに検証できるだろうけれど)、手による聖体拝領の廃止についても。
聖マリア、我らのために祈り給え。
注釈
聖変化のときの跪きについて補足すると、1966年3月30日に発行された『新しい司式司祭の務め』(司牧典礼研究会編、企画編集 土屋吉正、執筆担当 目黒摩天雄)と、1967年2月5日に発行された『教会と典礼』(安斎伸、土屋吉正編)中の「日本司教団司牧指針による典礼刷新の実践(土屋吉正著)」においては跪きを肯定的に捉えており、「聖変化のときには跪く」とはっきりと書き記しています。わずか3年程度の間に、何があったのでしょうか。
「ひざまずくことは礼拝と償いの心をからだの姿勢に表す行為である。そのために外的礼拝行為としても心をこめて完全に行なうことがたいせつである。…(略)…聖変化のとき、また司祭または助祭が祈願の前に『ひざまずきましょう』という指示を与えたときには、両ひざでひざまずいてしばらく沈黙で祈る(司牧指針38参照)」
(『教会と典礼』中央出版社、1967年、p.278)
参照ページ: カトリック新聞Webサイト「沿革」