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【御来日】教皇ミサに参列できない場合の気の持ちよう(1981年の記録より)

本年2019年11月にフランシスコ教皇様が御訪日され、日本で「教皇ミサ」をお献げになります。ですが、日本でのせっかくの教皇ミサに与ることができないと考えている方は少なくないと思われます。具体的に言うと、住んでいる地域が会場から遠い、交通費を捻出できない、病気療養中である、仕事を休むことができない、などの理由で参列したくともその見込みがなく、応募するつもりもないという方々です。

1981年教皇ミサの自席を、求道者のために喜んで辞退した方々のエピソード

ヨハネ・パウロ二世教皇様が御訪日された1981年当時のカトリック新聞を調べてみたところ、一面コラム「地の塩」に、やはり教皇ミサに参列できなかった方々に関するエピソードが紹介されていました。

教皇ローマを予定通り出発、寄港地のカラチで無事ミサをささげる。マニラの「列福式」では、長崎で殉教の16人に光、弾圧時代のものすごさを殉教資料が裏付ける。など、教皇の日程に併せて一般紙が、毎日のように宗教記事をのせている。これは日本新聞史の有史以来の出来ごと。このことだけでもヨハネ・パウロ二世の訪日は意義深い。日本到着後の紙面がたのしみだが、原稿提出の段階では取り上げられず残念である。(略)

▼日本でも、教皇ミサに参列出来ない信者の淋しさや無念さを、しつこいほど聞かされた。だが一方に、一般信者に席を譲った修道女、求道中の友人を一人でも多くと、喜んで辞退した方の美談が多く、みにくいエゴがむき出しの時代だけに、さわやかであった。その意味では予想を裏切るほど、収穫の多い教皇訪日であった。

▼だが、祭のあとの日常こそ、信者としての真価が問われる。今回、福者に列せられた殉教者たちは、約三百五十年ほど前、仲間の裏切りや密告に遭い、大阪、京都、沖縄で次々に逮捕、長崎に連行されて火あぶり、水責め、穴つるしにあって殉教した。壮烈という以外にない。(略) (Y)

ー 「地の塩」(1981年3月8日付けカトリック新聞)

※ ▼直前に句点を補っています。 

ここで申し述べたいのは、教皇ミサに応募できる方々に対して「このコラムの美談のように辞退して欲しい」ということでは決してなく(教皇ミサに与れば教皇様からの祝福も拝受できます)、参列できない方々の心の折り合いのつけ方、気の持ちようについてです。「この度は残念だけれども、自分が参列できない分、求道者が参列できる枠が増える」という考え方できるということを、私に言われるまでもないかもしれませんが、述べさせていただきます。

今回の教皇ミサは、1981年よりも抽選に外れる人が多くなるかもしれない ー 当時と今回との収容人数の比較等により ー

後楽園球場での教皇ミサ(1981年)

「3万6千人の信者を集めた後楽園での教皇ミサ。寒気のなか、熱気が場内をおおった。」(出典: 1981年3月8日付けカトリック新聞)

1981年2月24日(火)
後楽園スタヂアム
2019年11月25日(月)
東京ドーム
参列者
約3万6千人
収容人数
5万5千人
1981年2月26日(木)
松山競技場
2019年11月24日(日)
長崎県営野球場
参列者
約4万7千人
収容人数
2万5千人
?

1981年当時のカトリック新聞記事にて報道された教皇ミサの参列者数と、今回の会場の収容人数とを比較してみました。表の右側の「収容人数」は、コンサートのときの収容人数データを参照しています。長崎県営野球場の情報の精度については検討がつかないので、末尾に”?”と記載しています。

このコンサート時の収容人数が今回の教皇ミサでの収容人数と等しい場合、東京会場は1981年当時よりも参列可能人数が多くなり、長崎は当時の松山競技場(長崎市営陸上競技場)よりも少なくなる計算です。コンサートのようにアリーナ席(競技場部分に特設された非スタンド席)を多く設置しない場合は、教皇ミサでの収容人数は上の表の数値よりも少なくなります。

また、当時と比べて、日本に住む外国人信者の数が非常に増えていることから(現在は日本人信者より3~4万人も多いらしいです ※)、1981年の教皇ミサよりも応募者数が増える、つまりは競争率が高くなるのではないかと推測しています。

※ 福岡教区・美野島司牧センターWebサイトの掲載情報によると、日本人信徒数441,906人に対し、日本に住む外国人信徒は480,000人と、外国人信徒の方が約38,000人多いとのことです。(統計データの時期は不明ですが、「カトリック教会現勢2016」時点での日本人信徒数は441,107人です。)

以上のことから、教皇ミサに参列できる予定でも、抽選に外れる方は今回の方が多くなると考えられます。従いまして、そのような方々におかれましても、やはり上掲コラムの内容がご参考になるかもしれません。

1981年、吹雪の松原球場(長崎)での教皇ミサ

「吹雪の松山競技場で殉教者記念ミサに参加した四万七千人の信者」(出典: 1981年3月22日付けカトリック新聞)

長崎での舌による聖体拝領(1981年教皇ミサ)

長崎での「吹雪の中の聖体拝領(上)と寒さで倒れ救護所に収容される参加者(下)」(出典: 1981年3月15日付けカトリック新聞)

なお、1981年2月26日(木)の午前9時35分に開始された長崎での教皇ミサは、吹雪の中で献げられたようです。当日の写真は上掲の通りです。

当時のカトリック新聞には舌による拝領者の写真が掲載されています。1983年4月に、長崎大司教区長の里脇枢機卿様が「私は従来の舌での拝領を原則的には守らせています。このような拝領の仕方が、今のパパ様の要望に合っている事も承知しています。」と書簡中で述べられていることから(出典 1, 2)、1981年の教皇ミサでも、おそらく長崎の信徒達は御聖体を舌で拝領していたと思われます。

(粗い画像なので拝領者の顔にぼかしを入れていません。もしご本人様がこのページをご覧になり、掲載を取り下げて欲しいというご意向を持たれましたら、コメント欄にその旨をお書きいただけましたら幸いです。)

agnus dei

横道にそれましたが、本記事がどなたかのお役に立つことができましたら幸甚です。

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ああ、聖職の元后なるマリアよ、我等のために祈り給い、聖なる司祭を数多あまた我等に得しめ給え。


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