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サラ枢機卿様「教会は自身を『この世のもの』だと考えるのをやめなければならない」

今日はロベール・サラ枢機卿様(典礼秘跡省長官)の御誕生日ということで、前回の記事「サラ枢機卿様の御定年と今年5月の書間(御聖体、司祭の世俗化・冒涜、へりくだっての神に対する崇敬など)」に引き続き、サラ枢機卿様が執筆された文書を紹介いたします。

文書の内容は、「教会は、これまで『この世の機関』であることを証明しようとしてきたが、自身を『この世のもの』だと考えるのをやめなければならないこと。唯一の存在理由である『信仰』に立ち戻らねばならないこと」についてです。

掲載時期は2020年5月20日、媒体はル・フィガロ紙です(元記事へのリンク)。ということで、フランス在住の読者を想定して書かれたことと、フランスにおける新型コロナウイルスによる死亡者数累計は5月20日時点で約2万8千人(同日、日本は777人)(※)であることを念頭に置いて読むと、文書の背景がより分かるのではないかと思います。

※ 2020年6月15日時点ではフランスの死亡者数累計は約2万9千人(日本は925人)。なお、人口百万人あたりの死亡者数に換算するとフランス451人に対し、日本は7人です(フランスは日本の64倍)。
(6月15日時点のデータはworldometerの特設ページより)


ロベール・サラ:「COVID-19の流行は教会をその根本的な責任である『信仰』に立ち戻らせる」

教会は21世紀の伝染病が大流行する中においてもまだ、居場所があるのでしょうか? 過去数世紀とは対照的に、今ではほとんどの医療が国家や医療専門家によって提供されています。近代には白衣を着た世俗的なヒーローたちがおり、称賛に値する存在です。病気の治療や死者の埋葬に、慈善活動に集まる大勢のキリスト教徒はもはや必要ありません。教会は社会にとって無用な存在になってしまったのでしょうか?

COVID-19はキリスト教徒を基本に立ち返らせます。事実、長い間、教会は世界と歪んだ関係性を結んできました。教会の必要性を否定する社会と直面して、キリスト教徒は教育学を通して、自らが人々にとって有用である可能性を示そうとしました。教会は自らが教育者であり、貧者の母であり、パウロ六世の言葉を借りれば「人間性の専門家」(1)であることを示してきました。教会がそうするのは全く正しいことでした。しかしキリスト教徒たちは、次第にその専門知識の理由を忘れるようになってしまいました。人がより人間らしくあることを教会が助けられるとすれば、その理由は究極的には、教会が神から永遠の命の言葉を受け取ったためであることを、彼らは忘れてしまったのです。

教会はより良い世界のために全力で闘っています。エコロジー、平和、対話、連帯、富の公平な分配を適切に支援してきました。それらの闘いは全て正しいことです。しかしそれらが、「私の国はこの世のものではない(2)というイエズス様の御言葉を忘れさせてしまったのかもしれません。教会はこの世に対してメッセージを携えていますが、その唯一の理由は、来世への鍵を持っているからです。キリスト教徒たちは時に教会を、人間がこの世での生活を向上させるために、神から人類に与えられた助けであると考えてきました。そして、永遠の命に対する信仰は今世紀における正しい生き方にヒントを与えるため、そう考える根拠は十分にありました。

絶望と孤独の死

COVID-19は、教会を破滅させようとしている狡猾な病気を露わにしました。教会は自らを「この世のもの」だと考えました。自分の目と基準に従って、正統な存在だと感じることを望みました。しかし、根本的に新しい事実が現れたのです。勝ち誇っていた近代性は死の前に崩れ落ちました。このウイルスは、根底にある世界がその信頼性や安全性にもかかわらず、今でも死の恐怖に身をすくめていることを明らかにしたのです。世界は健康危機を解決することができます。きっと経済危機を解決するでしょう。しかし、死の謎が解決されることは決してありません。信仰だけがその答えを持っているのです。

この点について、非常に具体的な方法で説明しましょう。フランスではイタリアと同様に、老人ホームの問題で有名なEHPAD(3)が重要なポイントになっています。なぜでしょうか?その理由は、死の問題が直接的に起こったからです。絶望や孤独による死のリスクにさらされながら、高齢の入居者たちは部屋に閉じ込められるべきでしょうか?ウイルスによる死のリスクにさらされながら、家族と接触し続けるべきでしょうか?どのように答えるべきか、私たちは分かりませんでした。

希望を無視し、宗教を私的な領域へ戻すことを原則として選ぶ世俗主義に陥っていたフランスは、沈黙せざるを得ませんでした。フランスにとって唯一の解決策は、たとえ精神的な死を強いることになろうとも、何としてでも肉体的な死を免れることでした。唯一の解答となりうるのは、信仰の答えでしかありえません。尊厳と、そして何よりも永遠の命の希望を持って、ほぼ確実な死に向かう高齢者に付き添うことです。

伝染病は西洋社会の最も脆弱なポイントを襲いました。西洋社会は死を否定し、隠蔽し、無視するために組織されました。伝染病は正面玄関を通って堂々と入り込んできました!ベルガモやマドリッドでのあの巨大な死体安置所を見たことがない人はいるでしょうか? それらはまるで、拡張された(※「拡張」現実と同単語)不死身の人間を最近約束した、或る会社のイメージのようです。

恐怖を忘れる

テクノロジーの約束は恐怖を一瞬の間忘れさせてくれますが、死に襲われる時には、それは幻影に終わってしまいます。哲学でさえも、死の不条理に圧倒された人の理性にほんの少しだけ尊厳を与えるだけです。しかし、哲学は心を慰めることができず、明らかに心を奪われているよう見えるものに意味を与えることはできません。

死に直面する時、人間が持つ答えはありません。永遠の命の希望のみが、不名誉を克服できるのです。しかし、あえて希望を説教する人がいるでしょうか?思い切って永遠の命を信じるためには、神の啓示した言葉が必要です。自分自身や家族にとって、思い切って希望を持つには信仰の言葉が必要なのです。カトリック教会は、従って、その本来の責任に戻るよう呼ばれています。世界が教会に期待しているのは、死との対面のトラウマを克服させてくれる、信仰の言葉なのです。信仰や希望の明確な言葉なしには、世界はその状況の不条理さに対して、病的な罪悪感や無力な怒りにはまり込んでしまうかもしれません。信仰の言葉のみが、孤独のうちに死に、すぐに埋葬されてしまう愛する人たちの死に意味を与えるのです。

しかしその一方で、教会は変わらなければなりません。教会はショックを受けることや世の流れに逆らうことについて、恐れるのを止めなければなりません。自分自身を世界の機関だと考えることを断念しなればなりません。その唯一の存在理由である「信仰」に立ち戻らねばなりません教会はイエズス様が御復活によって死を克服されたことを告げ知らせる場所です。これが、「キリストが復活しなかったなら、私たちの宣教は空しく、私たちの信仰は偽りであり、私たちはすべての人の中で最もあわれなものである」(コリント人への第一の手紙 15・14-19(※短く改変されている))というイエズス様のメッセージの核心です。

(拙訳終わり; 以下略)
※ 文中の強調は当サイト管理人によります。


教会は「この世の機関」ではないというメッセージは、日本ではなかなか聞くことがないと思います。世俗化にいそしんでおり、且つ「解放の神学」の影響がいまだに根強い日本の教会も、真の信仰を伝える場所へと変わって欲しいのですが・・・。

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元記事: Robert Sarah: «L’épidémie du Covid-19 ramène l’Église à sa responsabilité première: la foi»
※ 翻訳にあたっては、アフリカはナイジェリアのカトリック系サイト「gospelbaze」(個人サイト?)の英語翻訳記事も参照しています。

(1) 聖パウロ修道会公式サイトの「5月29日 聖パウロ6世教皇(パウロ家族にとって義務の記念日)のミサ式次第」を参照。

(2) ヨハネ18・36

(3) EPFAD: Établissement d’hébergement pour personnes âgées dépendantes