第五章 悔悛の秘跡 〔(告解の秘跡、ゆるしの秘跡)〕
目次
61 内気な人々について
時として婦人は告白の時に罪を言い忘れた場合、ある大きな罪を犯していたのだと疑われはしないか、あるいは人並みはずれた信心の評判を集めようとしていると思われはしないかと恐れ、重ねて司祭のところに行こうとしないことがある。であるからたびたび、そのすべての行ない、言葉、思い全部を記憶しうるほどの人はだれもいないこと、したがって以前に忘れていた罪を思い出して再び司祭のところに行くのに何も妨げになるものはないことを公にあるいは個人的に教えねばならない。
以上が告白において司祭が守らねばならぬ一般的事柄である。つぎに告解の秘跡の第三部、償いの説明にはいることにしよう。
62 償いとは何か
まず償いという語と償いの本質について説明せねばならない。というのはカトリック教会の敵は、この償いに関することを利用してキリスト信者の非常に大きな破滅のもととなった分裂と混乱とをまいたからである。償いとは負債を完全に支払うことである。十分にもっている人は何も不足しない。(訳注 償い(satisfactio)は(satisfacere)満足させる、からきている) たとえば和解の場合に償いをするということは怒り報復しようとしている相手に与えた不正につりあうものを提供することである。言いかえると償いは、ある人になされた不正の埋合わせにほかならない。そしていまここで問題にしている償いについていうと、教会博士たちは、人が犯した罪のためにあるものを神に支払ってする補償を表わすために償いという言葉を用いている。(1)
訳注
(1) Sum. Theol., suppl., q. 12 参照。
63 償いの種類について
補償には種々、程度の差があるように罪の償いにもまた多くの種類がある。第一の、そして最もすぐれた償いは、神がわれわれをたとえ最高の正義をもって取扱われたとしても、罪のために神に負うすべてのものを十分に支払うことのできる償いである。これこそ神を宥め、われわれをその御憐れみに至らしめた償い、十字架上においてわれわれの罪の負債を支払われ神に対して十二分に償いたもうた主キリストによる償いである。いかなる被造物もかほどに重い負債からわれわれを解放するには大した価値はなく、聖ヨハネが書いているように「イエズス・キリストこそは、われわれの罪のためのとりなしのいけにえである。いや、ただわれわれの罪のためだけではなく、全世界の罪のためである」(ヨハネ一書2・2)。それゆえ、この償いは完全かつ豊かなもので、この世において犯されるすべての罪を償って余りある。その償いはまたわれわれの行為を神のみ前に価値あるものでとし、それなしにはわれわれの行為は全く無価値なものとなる。ダヴィドが自分をふり返りながら言ったつぎの言葉はこのことをさしているように思われる。「私に与えられた主の恵みに、何をもって報いようか」(詩115・12)と。そしてかほどの広大な恩寵への報いとしては、彼が杯とよんでいる償い以外にないとして、「救いの杯をあげ、主のみ名を乞おう」(詩115・13)とつけ加えている。
償いにはまた典礼的償いとよばれ、一定の期間になされるものがある。すなわち教会はずっと昔から告白者の罪をゆるすにあたってある罰を課する習慣があり、この罰を果たすことを償いとよびならしている。最後に司祭から受けるのではなく、われわれが自発的に罪の罰として受けるあらゆる苦しみも償いとよばれる。
64 悔悛の秘跡における償いについて
しかし、この最後の場合は、決して秘跡としての悔悛の部分を構成するものではない。悔悛の部分をなすものはただ司祭の命によって神に果たすべく課せられ、と同時に今後、全力をあげて罪を避けるという真剣な固い決心を心にもたせる償いだけである。一般に「償う」ということは「当然、神に捧ぐべき栄誉をつくすことである」と定義される。だが罪を絶対に避けることを決心しないかぎり、この栄誉を神に捧げえないことは明らかである。また「償う」ということは、罪の原因を根絶し、その誘いに心の入口を閉じることである。他の人々は同じ意味のことを、「償いは罪の汚れがわれわれの霊魂に残したあらゆるしみを消し、われわれに課されていた有限の罰を消すことである」と表現している。
65 償いの必要について
以上のことからして、この償いの業を実行することが告白者にとっていかに必要であるか、信者たちに納得させることは容易であろう。すなわち罪はその結果として汚れ(macula)と罰(poena)とを残すことを信者たちに教えねばならない。罪がゆるされると同時に地獄で受くべきであった永遠の死からもゆるされるが、しかしトリエントの公会議が宣言しているように、主がいつも罪の残りとそれに帰せらるべき有限の罰をゆるしたもうとはかぎらない。(1) その明確な証拠は、聖書の中に、たとえば創世記の第三章(3・17)、民数記略の第十二章(12・4)、第二十二章(22・33-34)その他多くの箇所にみられるが、それらの中で最も著名で感銘深いものはダヴィドにおける証明である。預言者ナタンはダヴィドに「主はあなたの罪をおゆるしになり、あなたは死をまぬがれるであろう」(サムエル下12・13)と告げた。
しかし、ダヴィドはすすんでいっそう大きな苦業を自分に課し、日夜、つぎのような言葉で神の御慈悲を乞い願うのであった。「たえず私の不義を洗い、私の罪を清めよ。私は自分の咎を認める。私の罪は常に私の前にある」(詩50・4-5)と。彼はこれらの言葉をもって、ただ罪だけでなく、罪の当然の罰からも赦免されること、また罪のすべての残りから清められ、以前の無垢と完全の状態に置かれることを神に懇願したのである。しかし彼のこの熱心な祈りにもかかわらず、神はダヴィドが特別に愛していた、姦通によって生まれた子の死をもって、アブサロンの背反と死をもってこらされ、また前もって予告していたその他の苦しみや災難をもって罰したもうた。
出エジプトにおいては、モイゼの祈りによって神はなだめられ、イスラエル人の偶像崇拝をゆるされたが、しかしその罪のために重い罰をもって復讐することを宣告された。そしてモイゼ自身神は三代、四代に至るまできわめてきびしくこの罪を罰したもうであろうと証言している。(出32・8-9)またこれらのことがカトリック教会の中に常に教父たちによって伝えられてきたことは、彼らの証言によって確かである。
訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 8, can. 12 et 15 参照。
66 洗礼の効果と悔悛の効果との比較
しかし悔悛の秘跡によって洗礼と同様すべての罰がゆるされないというのはなぜだろうか。トリエント公会議はつぎのような言葉で明らかに説明している。「神の正義は、洗礼以前に無知によって罪を犯したものと、一度罪と悪魔への隷属から解放され聖霊の賜物を受け、承知の上で神の神殿を汚し、聖霊を深く悲しませることを恐れなかったものとは異なった仕方で和解が与えられることを求めているように思われる」と。(1)
また神の御慈悲は、なんらの償いなしに罪がゆるされることをよしとされない。というのは、われわれは罪をきわめて小さなものとみなし、その機会あれば不正を働き、聖霊を悲しませ(エフェゾ4・30)怒りの日に自分のために怒りを積み重ねていく(ロマ2・5)のであるか、これらの償いは確かにわれわれに罪を思い止まらせ、いわば手綱をもって御し、将来に対していっそう注意深く、めざめさせてくれるからである。
以上のことに加えて、償いはわれわれが罪に対して悲しみを感じていることそしてその悲しみによってわれわれの罪のためにひどく背かれた教会に対して償いをしているという証拠のようなものである。なぜなら聖アウグスチヌスが言っているように、「神は悔い改め、へり下った魂を軽んじられない」(詩50・19)のであるが、しかし、心の悲しみは普通、他人には隠されており、また言葉や他のしるしをもって他のものに知らされることもないゆえ、教会の牧者たちが一定の償いの期間を定め、罪のゆるしを与える教会に対して償うようにしたのは最もなことである。」(2)
訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap.
(2) ibid. 参照。
67 償いが他の人々にもたらす利益について
他方、われわれの償いは、どのように生活を規制し、信心の業を行なうべきか、他人の手本となる。すなわち罪のために苦しみを忍ぶわれわれを見る人は、自分の生活態度に最大の注意を払い、その素行を改むべきことを納得するのである。それゆえ、教会は賢明にも、公に罪を犯したものに公の償いを課しそれを見る人々が恐れおののき以後注意して罪を避けるようにしむけたのである。
この掟は時としては、秘かに犯された罪でも、それが非常に重大である場合には適用されたのであった。(1) また公の罪に対しては公の償いを果たしてしまうまで罪のゆるしを与えないというのが慣例であった。そしてその償いの期間中、司牧者は神に痛悔者の救霊を祈り求め、また痛悔者自身にも同じようにするようせつに勧めていた。とくにこの点における聖アムブロジウスの熱心さと心づかいは著しいものであった。彼の涙によってどれほど多くの罪人が頑固な心のままで悔悛の秘跡に近づきながら感激させられ真の痛悔の悲しみをもりようになったことであろう。(2) 後代になって初代の厳格な規定はゆるみ愛徳もさめて、大部分の信者は罪のゆるしを得るためには霊魂の内的な悲しみや心の悲嘆は必要ではなく、ただ悲しみの外観があれば十分だと思うほどになってしまっている。
訳注
(1) S. Augustinus. de Civitate. Dei, cap. 26 参照。
(2) S. Ambrosius, lib. 1 de poenitentia, cap. 10 参照。
68 償いによってキリストに似奉ること
このような償いを果たすことによってわれわれは、試練を受けて苦しまれた(ヘブライ2・17)われわれの頭、キリストにあやかり似たものとなるのである。聖ベルナルドは、「茨の冠をかぶせられた頭の下にあるきゃしゃな肢体ほど不恰好なものは何もない」(1)といい、使徒聖パウロも「キリストの苦しみを共に受けるなら、キリストと共に世継ぎである」(ロマ8・17)と書き、また他の箇所では「われわれがもし彼と共に死ねば、また彼と共に生きるであろう」(チモテオ後2・11)と証言している。
訳注
(1) S. Bernardus, sermo 5 de omnibus sanctis.
69 罪はゆるされても償いは必要である
聖ベルナルドはまた罪には二つのこと、すなわち霊魂の汚れ(macula)と傷(plaga)が見られ、汚れは神の御慈悲によって取除かれるが、しかし傷をいやすためには、その薬として償いを用いることが大いに必要であると確言している。ちょうど負傷者はなおってもその傷痕が残り、なおさねばならないように、罪はゆるされても霊魂にはなお罪の残りがあり、それを清めねばならない。同じことを金口聖ヨハネはつぎのような言葉で言い表わしている。「身体から矢を抜き取るだけでは十分でなく、さらに矢によって作られた傷をなおす必要がある」と。(1) 同様に罪のゆるしを受けた後でも、償いをもって残っている傷を処置せねばならない。聖アウグスチヌスは、悔悛の秘跡において留意すべきことが二つある。すなわち神の御慈悲と義である。御慈悲は罪とそれからくる永遠の罰をゆるし、正義は有限の罰をもって人間を罰するのであるとしばしば教えている。(2)
訳注
(1) S. Joannes Chrysostomus, sermo 1 in Coena Domini, homil. 80 ad pop. Antioch.
(2) S. Augustinus, in psalm. 40 参照。
70 償いは神からの罰をまぬがれしめる
最後に、われわれは悔悛の秘跡の償いによって、われわれに課されるはずであった神の咎めと責苦をあらかじめ果たしてしまうのである。使徒聖パウロはそれをつぎのように教えている。「もしわれわれが自らわきまえるなら、裁きが下るはずがない。しかしその裁きは、われわれがこの世とともに裁きを受けることのないように、主がこらしめてくださるのである」(コリント前11・31-32)と。以上の説明を聞いた信者たちは償いへと激しく駆りたてられずにはいられないであろう。
71 償いがそれほどの価値をもっているわけ
償いの行為がどれほどの効力をもっているかは、それが主キリストのご苦難の御功徳から、そのすべての力を引き出していることからわかる。キリストの功徳は、われわれの善業に二つの大切な利益をもたらしてくれる。その一つは、主のみ名において与えられる冷水の一杯に至るまで報われ(マテオ10・42)不滅の光栄をえさせることであり、他はわれわれの罪を償うということである。(1)
訳注
(1) Conc. Trid., sess. 14, cap. 8, can. 13 et 24. sess. 6, cap. 16 参照。
72 キリストの償いとわれわれの償いの比較
しかしわれわれの償いは、きわめて豊かでかつ完全な主の償いの影をうすくするのではなく、それとは反対にかえってよりいっそう輝かしく、より光栄あるものとするのである。実際キリストの恩寵の豊かさは、その恩寵がわれわれに分与されるだけでなく、義人や聖人たちのためにも肢体に対する頭としてかちとられ与えられたことによってもわかる。またそこにこそキリスト信者の善業があれほどの価値と重要性をもつ理由があるのである。主キリストは頭がその肢体に生命を伝え(エフェゾ4・16)ブドーの幹がその枝に樹液を与えるように(ヨハネ15・4)、愛によってご自分と一致しているものにその恩寵を絶えずそそぎたもう。そしてこの恩寵はいつもわれわれの善業に先行し、それに伴ない、それに従っていて、この恩寵なしには、われわれは決して神に対して功徳をつむことも償いをすることもできない。このように義人には何も不足するところはない。彼らは、神の御助けのもとに行なう業によって、一方においては人間の弱さをもっていながらも神の御諚に対して償うことができ、他方においてはもし恩寵の状態において死ぬならば必ず与えられる永遠の生命をかちとるのである。主もつぎのように約束されている。「私の与える水を飲む者はいつまでも渇きを知らないだろう、私が与える水は、その人の中で、永遠の生命にほとばしる泉となるのだ」(ヨハネ4・14)と。