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ローマ公教要理 秘跡の部 第八章 25-34 | 夫・妻の義務、婚姻の諸手続、夫婦行為について守るべきこと

 秘跡の部 目次

第八章 婚姻の秘跡

25 婚姻の善にいう奥義とは何か [1]

 第三の善は、奥義(Sacramentum)とよばれ、決して解消することのできない婚姻のきずなを意味するものである。なぜならば聖パウロが言うように、「主は妻に対してその夫を離れないように命じられている。もし妻が別れるならばふたたび嫁いではならない。そうでなければ、夫と和解するがよい。夫もその妻を離別してはならぬ」(コリント前7・10-11)からである。実際もし婚姻が奥義としてキリストとその教会との結合をかたどるものとすれば、キリストが決して教会を離れたまわないように、妻も婚姻のきずなという点から、その夫から決して離れないということが必要である。

 しかしこの聖なる結合がいさかいなしに、より容易な状態を保つために、聖パウロや使徒の頭である聖ペトロが書いているように、夫と妻との相互的義務を教えなければならない。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 49, a. 3 ; Sum. Contra Gentiles, lib. IV, cap. 78 参照。

26 夫の主な義務とは何か

 したがってその妻を寛大に、尊敬をもってとりあつかうことは、夫の義務である。ここでアダムが「私の連れとしてあなたがくださったあの女」(創3・12)と言った時、エワを「連れ」とよんだことを思い出すがよい。このためにある太祖たちはつぎのようにいうのである。女は男の足から作られたのではなく、男の脇から作られたのであり、また妻がその夫を支配すべきではなく、かえってこれに従わなければならないことを知るように、男の頭から作られたのでもなかった、と。

 さらに男はその家族に対し、その生活に必要なものを与えるために、また同様にあらゆる悪徳の源である怠惰の中で気力を失うことのないように、常に何か義しい仕事に従事していなければならないようになっている。

 最後に、男はその家族をよく指導し、全員の品行を正し、一人一人にその義務を果たさせるようにしなければならない。

27 妻の義務とは何か [1]

 これに対し妻の義務は、使徒の頭である聖ペトロのつぎの言葉の中に挙げられている。すなわち、「妻たちは夫に従うように、たとえ教えを信じない夫であっても、彼はあなたたちの清いつつしみ深い生活をみて、言葉ではなく、妻の行ないによって救われる。あなたたちは髪を結い、金の輪をつけ、服装をよそおうような外面ばかりのかざりをつけず、むしろかくれた内的な心のかざり、つまりやさしく静かな霊的なくちることのない清さをもて。これが神の御前に貴いものである。自分の夫に従って、神に希望をかけていた昔の賢い婦人たちの飾りもそうであった。たとえばサラはアブラハムに服従して、彼を主とよんだ。」(ペトロ前3・1-6)

 妻の主要な仕事の中、いま一つのものは、子供の宗教教育であり、家事を処理するための配慮である。彼女たちは、必要な場合を除いて、外に出ることなく、すすんでその家を守るように。外出の場合にも、その夫の許可がなければ決して行かないように。

 結局―この中に夫婦の結合は主としてあるのであるが―彼女たち(妻)は、神に従ってただその夫だけしか愛してはならず、また他人を夫より以上に重んじてはならないことを絶えず記憶しておくように。同様に彼女たちは、それがキリスト教的敬虔さに反しないかぎり、万事において喜びをもって、直ちにその夫に従い、服従しなければならない。

訳注
[1] Sum. Contra Gentiles, lib. IV, cap. 78 参照。

28 婚姻の諸手続について [1]

 これまでのべられてきた説明の補足として司牧者はさらに婚姻の際に守るべき諸手続をも教えなければならない。けれどもこの提要の中に守るべき掟が書かれてあると思ってはならない。というのは、すでにトリエントの公会議がこの問題において守らなければならないことを詳細かつ正確に定めているからである。司牧者たちは、この法令に無知であってはならない。したがって、ここでは、司牧者に対し、婚姻に関するトリエント公会議の教え(1)を知るために、あらゆる努力を払うべきこと、かつ信徒たちに注意深くそれを説明するようにすすめるにとどめるだけで十分であろう。


(1) Sessio 24, Decietum de Reformatione Matrimonii.

訳注
[1] 衆知のように、トリエント公会議の規定した諸手続は、一九一七年五月二七日聖霊降臨祭の〔〕教会法典の発布と、翌年五月十九日同じく聖霊降臨祭の日における、その効力発生によって、あるいは消滅され、あるいは修正を受けた。この時以来、すべての婚姻は教会法典の新規定によって結ばなければならなくなっている。

29 内密の婚姻(Clandestina matrimonia)は有効ではない [1]

 まず青年男女―― 彼らはその年齢のためにほとんど無反省であるが―― 婚姻の偽りの見せかけに惑わされて、放縦な愛情にすぎない契約を無分別にとり交わさないようにするため、司牧者はしばしばつぎのことを教えなければならない。すなわち主任司祭の面前であるいは主任司祭もしくは教会裁治権者(Ordinarius)の委任を受けた他の司祭と数人の証人との面前で、結ばれない結婚は、真の婚姻ではなく、それを有効なものとしてはならない、ということを教えるべきである。[2]

訳注
[1] Sum.Theol., Suppl., q. 45, a. 5 参照。
[2] トリエント公会議以前に、内密の婚姻(すなわち司祭と証人の立会いなく結ばれたもの)は、教会からきびしく禁じられてはいたが有効であった。一五六一年十一月一一日、この公会議の第二四集会の最中に、会議参加の聖職者たちは、婚姻の形式を修正し、これを明確にした法令「タメッシ」(Decretum “Tametsi”)を承認した。この法令によれば、婚姻は有効となるために、「主任司祭の前であるいは主任司祭もしくは教会裁治権者から委任を受けた司祭と、二ないし三人の証人の前で」結ばれなければならない。ここでいう婚姻がその面前での締結を必要とする主任司祭とは、配偶者の属するそれのことであって、つまり配偶者のいずれか一方がその住所、あるいは凖住所をもつ小教区の司祭を指している。

 また有効な婚姻のためには、主任司祭がそこにいるというだけで十分であり、彼がその面前で結ばれる婚姻を意識するだけで十分であった。つまり主任司祭の同意を得ることは必ずしも必要でなかったので、二人の男女が主任司祭の意に反して婚姻することもありえたのである。このようなやり方は種種の不都合を生じさせるので、教会は一九〇八年四月一九日付の法令「ネ・テメレ」(Ne Temere)によって修正した。この法令の主要な規定は、その後、〔旧〕教会法典の中にとり入れられた。以後、小教区内に裁治権を有する司祭の面前で結ばれるあらゆる婚姻は、それを結ぶ二人がたとえその小教区内に住所、あるいは準住所を持っていなくても、有効となった。けれどもこの婚姻は不法となることもありうる。現在の教会法によると、司祭は、暴力や大きな恐怖の強制なしに未来の配偶者同士が同意しているかどうかを教会の名によって問い、その答えをも得なければならない。したがって司祭は婚姻において、積極的な行為を演じなければならない。(カノン一〇九四-―〇九七)

※ サイト管理人注: [2] 現行の教会法の第1108条-第1115条参照。

30 同じく婚姻に対する障害をのべなければならない [1]

 けれども、また婚姻の障害についても説明しなければならない。悪徳と徳行について著作を出している最もすぐれた教会博士たちの大部分は、この問題も十分注意しながらとりあつかっている。従ってこれらの著作を捨てずに手許にとどめておくかぎり、司牧者それぞれは、博士たちがこの問題について書いたものをここで容易に利用することができるだろう。霊的親族関係や、公義障害や、私通のために生じてくる障害についてのトリエント公会議の諸規定(1)と同様に、司牧者がこれら博士たちの著作にある種々の教えを注意して読み、それを信者に伝えるようにする理由は、ここにあるのである。


(1) Ibid. cap. 2-4.

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 50-62; Sum. Contra Gentiles, lib. III, cap. 125 参照。

31 婚姻しようとするものの心がまえはどのようなものでなければならないか

 これまでのべてきたことから、信者が婚姻を結ぼうとする時に、どのような心がまえをもつべきかは容易に知られるであろう。旧約の太祖たちの例は、婚姻を結ぼうとするものがそれを世俗的なものと考えて近づいてはならないということと、逆にそれをまったく特別な心の純潔と敬虔さとを要求する神聖なものと考えねばならないということを十分に示している。太祖たちの婚姻は、秘跡の権にまで高められてこそいなかったが、彼らは常にそれを大きな敬虔さでとりあつかい、それを聖なるものとしなければならないと考えていたからである。

32 婚姻を堅固なものとするために親の同意が必要である [1]

 司牧者は、青年に対する種々の勧告の中で、とくに、彼らの両親と彼らの上に権威をもつ人々に敬意を表し、親の意に反して、またその反対を押し切って、あるいは親の知らないうちに婚姻を結ぶことのないように強くすすめなければならない。というのは、旧約聖書の中のむすこたちが、いつも父親から結婚させられていたということこそ注意すべきだからである。聖パウロも「娘を結婚させる人の行ないはよく、娘を結婚させない人の行ないはさらによい」(コリン卜前7・38)とのべており、この問題ではたいてい親の意志を尊重しなければならないと言っているようである。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 45, a. 5; q. 47, a. 6 参照。

33 夫婦行為について守るべきこと

 いまや婚姻の使用を論じる最後の部分が残されるだけとなった。この問題をとりあつかう際に司牧者は、信者の耳に達するにふさわしくないような言葉や、信者の純粋な霊魂を傷つけたり、その笑いを引きおこしたりするような言葉を決して口からもらさないように注意しなければならない。主のみ言葉が潔きみ言葉である(1)ように、キリスト信者に教えを説く務をもつものが、ある特別の威厳と、ある特別な全き純潔さとをおびた言葉を用いることは大いにふさわしいことである。ここで特別に二つのことが信者に教えられなければならない。すなわちまず第一には、婚姻は自分の肉欲と快楽とのためにではなく、前にすでにのべたように、神から定められた目的に従って使用しなければならないということである。ここで彼らに聖パウロの「妻のある人は妻がないように」(コリン卜前7・29)という勧告と、聖ヒエロニムスのつぎの言葉とを想起させるがよいであろう。聖ヒエロニムスは言っている。「賢いものは、その妻を情熱によってではなく、理性によって愛しなければならない。彼は肉欲への衝動を抑制するであろうし、官能的な交わりに身をゆだねることもないだろう。彼にとっては、その妻を姦通者のごとく愛すること以上に恥ずべきことはないであろうからである。」(2)


(1) 詩編11・7、なお一九四五年に出された新テキストでは、「主のみ言葉は真実だからである」となっている。
(2) Liber primus adversus Jovinianum, n. 49; P. L. XXIII, col. 281

34 夫婦は時としては婚姻の義務(夫婦関係)を差し控えなければならない [1]

 第二に、すべての善は重なる祈りによって神から得られるものであるから、神に祈り、恩寵を乞い求めるために、時として婚姻の義務を差し控えるように信者に教えなければならない。まず何よりも信者は、教父たちが賢明かつ敬虔の精神をもって命じているように、少なくとも聖体拝領前の三日間は婚姻の義務を差し控えなければならないし、また四旬節の荘厳大斉[2]の期間中もしばしばそうしなければならないことを知るべきである。[3] このように夫婦は、日々より大きな神の恩寵をちくせきしながら、婚姻の善が増加していくのを見るにいたるであろう。信心業を行なうことによって彼らはただ単に、秩序と平安との中に生涯を送るばかりでなく、「あざむくことのない」(ロマ5・5)神の好意による永遠の幸福を得る真の、確固とした希望によってささえられるのである。

訳注
[1] Sum. Theol., Suppl., q. 64, a. 5, 6, 7 参照。
[2] 普通は、全教会では四旬節中、毎週二回づつ大斉が定められており、これを荘厳大斉とよんでいる。日本では衆知のとおり、これは免除され、四旬節中大斉は聖金曜日だけになっている。
[3] トリエント公会議教理提要のこの言葉をはじめて読むものは、驚いてこれをきびしすぎると思うかもしれない。したがってこの言葉の意味を完全に理解させるには若干の説明が必要である。

 まず第一に興味深いことは、キリスト以前に書かれたユダヤ教のテキストが、土曜日に夫婦関係をもつことを禁じていることが知られている。したがって(A. Jaubert, La date de la Cène, Calendrier biblique et liturgie chrétienne, Gabalda, 1959, p. 30; R. H. Charles, Apocrypha and Pseudopigrapha of The Old Testament, vol. II Pseudopigrapha, Oxford, Clarendon Press, 1913, p. 81-82)使徒聖パウロが、コリント人に対し、祈りに従うために時々夫婦関係をつつしむように(コリン卜前7・5)すすめているとしても驚くにはあたらない。初代教会のある教父たちが同じ行為を信者たちにしばしばすすめたことも事実である。たとえば、五四三年に死んだアルルの司教聖セザリオは「大祝日がくるたびに、聖体拝領の効果をより多く受けるために、主の祭壇に貞潔な身体と純潔な心をもってぬかずこうとして、前もって何日間もその妻とともに、貞潔を守るものこそ、よきキリスト信者である」と書いている。さらに同じ司教はキリスト信者の夫は四旬節中およびご復活後の一週間、その妻との関係を差し控えるよう強く希望している.(Sermo CCXCII, De Castitate Conjugali; P. L. 39, col. 2298. Sermo CXVI, De Adventu Domini; P. L. 39,col.1976. Sermo CXLII, In Quadragesima; P. L. 39, col. 2024.)

 これより百年以上も前聖アウグスチヌスは結婚したものに、大斉の期間中夫婦関係の禁欲を守ることを真の義務として課したように思われる。すなわち「姦通と私通とは常に忌わしいものであるが、この四旬節中は妻との関係もつつしまなければならない」と彼は言っている(Sermo CCVII, In Quadragesima; P. L. 38, col. 1043)

 聖アウグスチヌスとその他のある初代教会教父たちは、常に信者の夫婦に、前述の期間中は夫婦行為をしないように、とくに肉の楽しみを満足させようとする目的の場合にはそうするように強く要求している。しかし彼らは同時期間中でも夫婦が子供を生もうとの目的で夫婦行為を行なうことには反対していない。実は初代教会教父たちが、夫婦に夫婦行為の節制を求めたのは、犠牲としてそれを捧げるようにとの意味であり、わが主と一致して、神の恩寵を受けるために、その魂をよりよく準備するようにとの意味であった。

 その後中世紀になって、ある神学者たちは、守るべき祝日に夫婦の義務を要求することは大罪であることを教えたが、他方では、たとえば聖トマスのごとくそれは小罪にすぎないと書いているものもいる。(Sum. Theol., Suppl., q. 64, a. 6)

 しかしながらここで注意しなければならないのは、これまでのべられたある初代教会教父や昔の著名な神学者の教えが何であろうとも、実際に守るべき祝日や、聖体拝領しようとする日の前夜、あるいは特別の犠牲を捧げる期間、たとえば四旬節などに、婚姻の使用を禁ずるところの教会の掟といったものは、現に存在しないし、またかつて存在したこともないということである。トリエント公会議教理提要のこの言葉の正確な意味を十分につかむには、このような公会議以前の、教父や神学者たちの教えを歴史的に考えてみなければならないのである。しかしながら多くの神学者の解釈によれば、トリエント公会議教理提要の著者は、聖体拝領前三日間の婚姻の使用を絶対的に禁じようとした・・・・・・・のではなく、夫婦がそれをつつしむように強くすすめた・・・・のであるとされている。

 以上のいくぶん厳格にすぎる教えはピオ十世聖下が、省令「サクラ・トリデンティナ・シノドウス」(Sacra Tridentina Synodus)–ASS, 38,(1905-1906)p. 400-406)を発布し、毎日の聖体拝領をすすめられた時以来緩和されるようになった。実際、シトー会のトーマス・ロース師のいうところによれば(Decretum Pii X “Sacra Tridentina Synodus” de frequenti communione doctrina S. Thomae illustraturn, Romae, Angelicum, 1937, p. 48-49)新しい省令のテキストは、適当な準備と心がまえをもった信者はだれでも聖体拝領台に近づくことを拒まぬよう要求しているとされている。そして同師は、この省令の規定が表面的には聖トマスの教えと異なるように見えることをも指摘している。

 この点に関する現在の教会の、伝統的な教えはどのようなものであろうか。現代の神学者たちは、とくに夫婦が祈りに専心しようとする日の前夜には、犠牲の精神から、婚姻の使用をつつしむことをすすめるよう教えている。しかしながら、省令「サクラ・トリデンティナ・シノドウス」の発布以来彼らは一致して、つぎのようにいっている。すなわち夫婦は前夜に夫婦行為を行なっても、その際に夫婦の貞潔を犯しさえしなければ、翌朝聖体を拝領できること、また夫婦が守るべき祝日に夫婦行為を求めても、いかなる罪をも、小罪すらをも犯すものではないと言っている。