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ローマ公教要理 十戒の部

 十戒の部 索引ページ

目次

第一章 十戒と神の掟について 1-14
第二章 第一戒 あなたをエジプトの地から、奴隷の家から導き出したあなたの神である主は、私だ 1-15 16-34
第三章 第二戒 あなたの神である主の名をいつわりのためによぶな 1-15 16-30
第四章 第三戒 安息日を守り、それを聖とせよ 1-11 12-28
第五章 第四戒 父母をうやまえ、そうすれば、あなたの神である主があなたにあたえる地で長生きするだろう 1-12 13-22
第六章 第五戒 殺すな 1-12 13-25
第七章 第六戒 姦淫するな 1-13
第八章 第七戒 盗むな 1-14 15-25
第九章 第八戒 あなたの隣人に対して偽証するな 1-13 14-23
第十章 第九・第十戒 あなたの近いものの家も、妻も、その男どれいも、女どれいも、牛も、ろばも、そのすべてのもちものも、むさぼるな 1-23

IMPRIMATUR:
Kyoto, die 29 Octobris, 1974
+ Paulus Y. Furuya
Episcopus Kyotoensis

岩村清太・訳編
昭和50年〔1975年〕1月20日初版発行
昭和59年〔1984年〕8月15日第2版
訳者 岩村清太
発行人 財団法人 精道教育促進協会


神の十戒
第一 われはなんじの主なる神なり。われのほか、何者も神となすべからず。
第二 なんじ、神の名をみだりに呼ぶなかれ。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、父母を敬うべし。
第五 なんじ、殺すなかれ。
第六 なんじ、かんいんするなかれ。
第七 なんじ、盗むなかれ。
第八 なんじ、偽証するなかれ。
第九 なんじ、人のつまを恋うなかれ。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。


第一章 十戒と神の掟について

1 十戒はすべての掟の概要である

 聖アウグスチヌスは、十戒はすべての掟の概要であり要約であると書いている。たしかに主は多くのことをお命じになったが、ただ二枚の石板だけをモイゼにお与えになった。その石板は「契約の板」と呼ばれ契約の櫃の中に納められるはずであった(出31・18、第9・10参照)。実際この二枚の石板を入念に調べまた正しく解釈するならば、神がお命じになった他のすべての事柄は、そこに書かれている十の掟に基づいていることが分かる。そしてこの十戒そのものは、全律法と預言者との基である神と隣人への愛という二つの掟によっているのである(マ22・40参照)。

2 十戒について学び、それを説明すべきこと

 このように十戒はすべての掟の概要であるので、司牧者は日夜これについて黙想し(詩1・2参照)、自分の生活をこの規範に合わせるだけでなく、自分に託された信者たちに主の掟を教えるようにしなければならない。「司祭のくちびるは知識を守らねばならない。人はかれの口に教えを求める。司祭は万軍の主の天使だからである」(マラ2・7)。ここで言われていることは、新約の司祭たちにとくにあてはまる。かれらはいっそう神に近く、いわば主の霊によってますます栄光の姿へと変わっていかなければならないからである(コ②3・18参照)。また主キリストはかれらに光という名称をお与えになっているのであるから(マ5・14参照)、かれらはやみの中にいるものの光、愚かなものの導師、幼いものの教師になるべきであり(ロ2・19~20参照)、もしある人の過失を見つけたならば、霊の人であるかれはその人を改めさせなければならない(ガ6・1参照)。

 かれらはまた告解の秘跡についても裁判官の立場にあり、罪の種類や大きさについて裁決する。したがって自分の不勉強のために自分自身と他人とを欺きたくないならば、この神の規範に従って義務の遂行や怠慢を裁くことができ、また聖パウロが言っているように、救いの教えすなわちいかなる誤謬も含まず罪という霊魂の病気をいやす教えを伝え(ティ②4・3参照)、信者たちを神によみせられ善業に熱心な民(ティト2・14参照)にすることができるよう、どれほど注意して神の掟の熟練した解釈者にならなければならないだろうか。

3 十戒を定めたのはだれか

 さて、このような説明において司牧者は掟に従うことを納得させる理由を自分および他の人々に示すべきである。ところで、人々の心をこの掟の命じることに従わせる理由のうちもっとも力があるのは、神がこの掟の制定者であるということである。この掟は天使をとおして与えられたと言われているが(ガ3・19参照)、掟の制定者が神であることはだれも疑うことはできない。その大きな証拠は、あとで説明される立法者のことばのほかに、司牧者がひんぱんに目にする聖書の無数の箇所にも見られる(たとえば出24・12、イ33・22など参照)。

 実際、善と悪、清廉なものとそうでないもの、正義と不正とを見分けるための掟を神が自分の心の中におかれているのを感じないものはだれもいない。そしてこの掟の力および性質は、書かれた掟と異なるものではない。したがって心にある掟と同様、書かれた掟の制定者が神であることをあえて否定しうるものはだれもいないであろう。

 したがって神がモイゼに掟をお与えになったのは、新しい掟をお与えになるというよりはむしろ、そのころ悪い習慣や慢性的な堕落によって鈍らされていた内的光をよりはっきりさせるためであったことを教えるべきである。それは信者たちがモイゼの掟は廃止されたと聞いて、十戒を守る必要はないと考えることのないようにするためである。これらの掟に従わなければならないのは、それがモイゼをとおして与えられたからではなく、すべての人の心に生来あるものであり、主キリストによって説明され確認されたからであることは明らかである。

4 掟の遵守を助けるもの

 掟を制定されたのは神であるという考えは大きな助けとなり、また大きな説得力をもっている。われわれは神の英知や公正さを疑うことはできず、また神の無限の力や能力からのがれることもできない。そのため神は預言者をとおして掟を守るようお命じになったとき、ご自分は主なる神であるとおおせられ(レ18・2-5、20・7-24参照)、また十戒の冒頭でも、「あなたの神である主は、私である」(出20・2)と言明され、別のところでは、「私が主であるのなら、私へのおそれはどこにあるのか」(マラ1・6)とおおせられている。

5 掟は大きな恵みである

 この考えは信者たちの心を神の掟を守るように動かすだけでなく、われわれの救いに関するご自分の意志を神がお示しになったことに対して感謝するように促す。そのため聖書は一度ならずこの広大な恵みについてのべ、信者たちに自分の品位と神の慈愛とを認識するようにすすめている。たとえば第二法の書ではつぎのように言われている。「それを守って実行せよ。そうすれば民々の前であなたたちは賢明で知恵深いものとなるであろう。これらの掟をみんなが聞いたら、かれらは『これほど賢明で知恵深い国民はいない。本当に偉大な国民だ』と感嘆するだろう」(第4・6)。また別のところでは、「どんな民もこうは扱われなかった、かれらには主の裁きが示されなかった」(詩147・20)と言われている。

6 あれほどの荘厳さをもって掟が与えられたわけ

 つぎに、司牧者が聖書をもとに掟が制定された時のことを説明するならば、信者たちは、どれほどの信心と従順とをもって神から授かった掟を守らなければならないかを容易に理解するであろう。

 掟が公布される三日前、神のご命令によってイスラエル人はみな衣服を洗わねばならず、また妻に触れてはならなかった。それはかれらが三日目には完全に清められ、掟を授かるための最良の準備をするためであった。主がモイゼをとおして掟をお与えになる山にかれらが着くと、モイゼだけが山にのぼるように言われた。神は最高の尊厳さをもってそこにおくだりになり、そこを雷と稲妻、火とあつい雲とをもって覆い、モイゼとお語りになり、かれに掟をお与えになった(出19・10~25参照)。神がその英知をもってこのようにすることをお望みになったのは、ほかでもなく、清い謙遜な心をもって主の掟を受け入れるべきこと、もしこの掟をないがしろにするならば神の正義による罰があることをお教えになるためであった。

7 掟を守ることは愛することである

 さらに司牧者は、掟に命じられていることは難しいことではないことを説明すべきである。そのため聖アウグスチヌスがのべているつぎの理由をあげることもできる。「人間にとって愛することすなわち慈しみに満ちた創造主、慈愛深い御父を愛し、また自分の兄弟たちにおいて自分の肉を愛することは不可能であると一体だれが言えようか。ところで、愛する人は掟を完全に守るのである(ロ13・8参照)」。(1) だからこそ使徒聖ヨハネははっきりと、神の掟は難しいものではないと言っている(ヨ①5・3参照)。実際聖ベルナルドも言っているように、これ以上の尊厳さをもったもの、またこれ以上有益なものを人間に求めることはできなかったであろう。そのため聖アウグスチヌスは神の最高の善意に感嘆し、つぎのように神に語りかけている。「私にあなたを愛するようにお命じになり、もし愛さないならば私に対してお怒りになり大きな不幸を与えるとおどされるとは、私はあなたにとって一体なにものなのでしょうか。もし私があなたを愛さないとしたら、そのこと自体、小さからぬ不幸ではないでしょうか」。(2)

 もしだれかが生来の弱さのために神を愛することはできないと言い訳をするならば、愛することをお命じになる神は、ご自分の聖なる霊をとおして心の中に愛する力をお注ぎになることを教えるべきである(ロ5・5参照)。そしてこの良き霊は願い求める人々に天の御父から与えられる(ル11・13参照)。したがって、「お命じになっていることをお与えください。またお望みのことをお命じ下さい」(3)という聖アウグスチヌスの祈りは道理にかなっている。このように神のお助けはわれわれに与えられ、とくに、この世のかしらを追い出したキリストの死以来(ヨ12・31参照)、そうであるから、だれも掟を守ることの難しさに負けてはならない。愛するものにとって何も難しいことはない。

訳注
(1) S. Augustinus, Sermo 47, de tempore
(2) S. Augustinus, Confessio, lib. 1, cap.
(3) S. Augustinus, Sermo 6, de tempore

8 すべての人が掟を守らなければならない

 また、必ず掟を守らなければならないことを説明することは、以上のことをいっそう納得させるために大いに効果があるであろう。このことは、やさしい掟も難しい掟も救いのためには必要ではないと、信仰に反してしかも自分自身に悪を招きつつあえて断言するような人々がいる今日においてなおさらそうである。司牧者は、かれらの不敬虔な唾棄すべき主張を聖書の証言をもって、とくにかれらが自分たちの主張の根拠としている同じ聖パウロの証言をもって反駁できるであろう。では聖パウロは何と言っているのか。かれは、「割礼は何でもないし、無割礼も何でもない。大切なのは神の掟を守ることである」(コ①7・19)と言っている。かれはまた別のところで同じことをくりかえし、ただキリストにおける新しい人だけが価値があると言っている(ガ6・15参照)。キリストにおける新しい人とは、明らかに、神の掟を守る人のことである。というのは主ご自身ヨハネ福音書において、「私を愛する人は私のことばを守る」(ヨ14・23)と証言しておられるように、神の掟を奉じこれを守る人は神を愛する人だからである(ヨ14・21参照)。たしかに人は個々の掟に外的行為をもって従うまえに義化され不信仰から信仰にうつりうるのであるが、しかし理性の働きをもっている人は、神の掟をすべて守るという心構えなしに義人になることはできない。

9 掟を守ることによって与えられる恵み

 つぎに司牧者は、信者に掟を守らせるための説明を何も省略することのないように、掟を守ることによってどれほど豊かで甘美な果実がもたらされるかを示さなければならない。このことは詩篇19にしるされていることから容易に証明できるであろう。この詩篇では神の掟の賛美が歌われている。天体はその輝きと秩序をもってすべての野蛮人を感嘆させ、こうして万物の創造者にして制定者であるお方の栄光、英知、権能を知らせるのであるが(ロ1・20参照)、神の掟はそれ以上にはっきりと神の栄光と尊厳さとを表わしている。ここに神の掟に対する最高の賛美が見られる。さらに神の掟は人々を神へと回心させる。われわれは掟をとおして神の道と至聖なる意志を知り、われわれの歩みを主の道へと向ける。また神をおそれる人々だけが真の知恵者であるが、掟は子供たちにその知恵を与える(詩19・8参照)。そして神の掟を守るものは神の神秘を知ることによって真の喜びと楽しみをもち、現世においても来世においても報いを受ける。

10 掟を守る人々に約束された報い

 さてわれわれが掟を守るのは、われわれの利益のためというよりはむしろ、掟をもってご自分の意志を人々にお示しになった神のためでなければならない。他の被造物が神の意志に従うのであるから、人間自身がそれに従うのはいっそう正しいことである。

 ところで神はなんらの報酬もなしにただご自分の栄光のために仕えさせることがおできになったにもかかわらず、ご自分の栄光とわれわれの利益とを結合させ、人間にとって有益なことはご自分にとっても栄光あるものとされたのであり、ここにわれわれに対する神の寛大さと慈愛の富が示されていることを見のがしてはならない。これはきわめてすぐれた偉大なことであり、司牧者は、詩篇作者が言っているように、掟を守る人には大きな報いがあることを教えなければならない(詩篇19・12参照)。

11 イスラエルの歴史と十戒

 この掟はシナイ山で神からユダヤ人に与えられたものではあるが(出19・11・20参照)、しかしそれよりはるか以前に自然がすべての人の心に刻みしるしていたものであり、したがってすべての人がそれに従うよう神がいつもお望みになっていたものである。であるから、モイゼを使者および代弁者として掟がヘブライ人に与えられた時のみことばと、神秘に満ちたイスラエルの民の歴史とを入念に説明することはきわめて有益である。

 司牧者ははじめに、神がこの地上に住むすべての民の中からアブラハムを先祖とする一民族をお選びになったこと(第7・6参照)、神はアブラハムがカナアンの地に旅人として来ることをお望みになり(創12・6参照)、その地を与えることを約束されたが(創13・14~17参照)、かれとその子孫は約束の地を所有するまで四百年以上の間あちこちを放浪したこと(創15・13参照)、神はこの放浪の間決してかれらをお見棄てにならなかったことを教えなければならない。かれらは民から民へ、国から他の国へと移って行った。しかし神は決してかれらが危害を加えられるのを許されず。かれらのために王をこらしめさえされた(詩105・13~14参照)、そして神はかれらがエジプトにくだるまえ、それに先立ってひとりの男をそこにおくられた。この男の賢明さによってかれらおよびエジプト人はききんから救われた。エジプトではかれらを慈愛をもって愛護されたのでファラオンがかれらに反対し滅ぼそうとしてもかれらは不思議なほど増えていった(出1・12~14参照)。そしてかれらがひどく苦しめられ奴隷として苛酷な取り扱いを受けたとき、モイゼをかしらとしてお立てになりその力をもってかれらを連れ出そうとされた(出3・9~10参照)。主は、十戒のはじめにある「あなたをエジプトの地から、奴隷の家から導き出したあなたの神である主は、私だ」(出20・2)というみことばで、この解放について言及しておられる。

12 イスラエルが神の民として選ばれたわけ

 司牧者はこれらの事柄のうちとくにつぎのことに注目させるべきである。神がすべての民の中からかれらをお選びになり、ご自分の民と呼びかれらにご自分を礼拝するようにお命じになったのは、ご自分でヘブライ人に注意しておられるように。かれらが義においてあるいは数においてほかの民にまさっていたからではなく、神ご自身がそうお望みになったからであり、むしろ貧弱で取るに足りないその民を増やし富ませ、こうしてご自分の権能と慈愛がすべての人にいっそうよく知られ明らかにされるためであった(第7・7~8参照)。神はイスラエルがどれほど惨めな状態にあってもかれらとともにあってかれらを愛し、天地の主であられながらかれらの神と呼ばれるのを恥とされなかった(第10・14~15参照)。それはほかの民に競争心を起こさせ、またすべての人がイスラエルの幸福を見て真の神を礼拝するようにさせるためであった。聖パウロも自分は異邦人の幸福とかれらに教えた神の真の知識とを示して、自分と同民族の人々の競争心をかき立てると言っている(ロ11・14参照)。

13 イスラエルが苦しめられたわけ

 つぎに神は、われわれがこの世の敵となり地上における旅人となってはじめてご自分の友となることを教えるため(ヤ4・4参照)、ヘブライ民族の太祖たちが長い間放浪することを許され、またその子孫もひじょうに苛酷な奴隷状態におかれて圧迫され虐げられるのをお許しになったことを教えなければならない。このようにわれわれは世間と共通のものがなければないだけそれだけ容易に神との親密さの中に受け入れられるのである。イスラエルが苦しんだのはまた、神の礼拝に予定されているわれわれに、世間に仕える人々よりも神に仕える人々がどれほど幸せか、それを悟らせるためであった。聖書もつぎのように言っている。「しかし(ユダヤの子らは)、シシャクに服従しなければならない。私に仕えることと、異国の王に従うこととはどれほどの違いがあるかを、自分たちで経験するがよい」(歴②12・8)。

 さらに、神は四百年以上たってはじめて、約束されたものをお与えになったが、それはイスラエルの民に信仰と希望を養わせるためであったことを教えなければならない。つまり、十戒の第一戒の説明で言うように、神はご自分の子供たちがつねにご自分に従属し、ご自分の慈愛に全希望をおくようにお望みになるのである。

14 十戒が授けられた時と場所について

 さいごに司牧者は、イスラエルの民がこの掟を授かった時と場所についてのべなければならない。授かった時は、かれらがエジプトから連れ出され砂漠に来てからであった。それはつい以前に与えられた恵みの記憶にひかれ、またかれらが居住している土地の厳しさを見て、掟を授かるためにふさわしいものになるためであった。実際、人間は好意を受けた人々に強くひかれ、またすべての人間的希望から見離されているのを知ってはじめて神のご加護に頼るものである。このことから信者は世間の魅力と肉の快楽から遠ざかれば遠ざかるほど、神の御教えをいっそう受け入れるようになることが分かる。そのため預言者イザヤは、「だれに教えようとするのか。だれに示しを説明しようとするのか。乳のみ子にか」(イ28・9)と言っている。