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ローマ公教要理 十戒の部 第十章 第九・第十戒 14-23 | 欲望によってもたらされる損失、とくに第九・第十戒の対象になる人々

 十戒の部 目次

第十章 第九・第十戒 あなたの近いものの家も、妻も、その男どれいも、女どれいも、牛も、ろばも、そのすべてのもちものも、むさぼるな(出20・17、第5・21参照)

14 家ということばの意味

 「家」という語はただ住む場所だけでなく、聖なる著者たちの用法や習慣から分かるように、財産全体を意味している。出エジプトの書では、神が助産婦たちのために家をおつくりになったとあるが(1・21参照)、これは神がかの女たちの財産を増し殖やされたことを意味している。このような解釈から、この掟は富をむしょうに望んだり、他人の財産、権力身分をねたんだりすることを禁じ、たとえ自分の身分が低くてもまたは高くても今の状態に満足すべきことを命じていることが分かる。また他人の名誉を羨むことも禁じている。なぜなら名誉も家に属しているからである。

15 牛、ろばということばの意味

 つぎに、「牛」、「ろば」ということばがあるが、これは、家、身分、名誉という重大なものだけでなく、それがそのようなものであれ、生きたものであれ無生物であれ、小さなものでも、それは他人に属するものであり、自分のものにしようと望むことは禁じられていることを示している。

16 男奴隷、女奴隷ということば

 つぎに「男奴隷」、「女奴隷」と続いているが、これは捕虜やいろいろな種類の奴隷をさすもので、これらも他人に属するものであるから、それをむさぼってはならない。またあるいは任意であるいは給料のためにあるいは尊敬と愛から、他人に仕えている自由人を決してことばや期待、約束、金銭をもって、かれらがすすんで身をささげた人から離れるよう買収したり誘ったりしてはならない。それどころか、もしかれらが奉仕すると約束した期日以前に主人のもとを去るようなことがあるならば、この掟をたてに、主人のもとに帰るようすすめなければならない。

17 隣人という語の意味

 またこの掟では、「隣人」のことが言われているが、それは、人間は普通、自分の身近にある畑や家、あるいはその他、自分の周囲のものをむさぼるという悪習があるからである。近くにあるということは友情の要素であるが、欲望という悪によって憎悪の要素に変わるものである。

18 正しい売買は禁じられていない

 ところでこの掟は、隣人が売物として出しているものを買おうと望んだり、あるいは正当な値段で買うことを禁じているのではない。このようなことは隣人に害を与えないことはもちろん、むしろ隣人を大いに助けることになる。なぜなら金銭は、かれが売りに出しているものよりも有益で利用価値があるからである。

19 第十戒について

 他人の物に対する欲望〔動:covet〕*を禁じる掟のつぎに、他人の妻に対する欲望〔covet〕を禁じる掟がある。この掟は、他人の妻と姦通しようという欲望〔desire〕だけでなく、他人の妻と結婚したいという望み〔wish〕も禁じている。実際、離縁状を出すことが許されていた時代には(第24・1~2参照)、ひとりが離縁した女をほかの人が妻にすることが容易にありえたのである。そのため主は、夫が妻を離縁しようという気持を起こさぬよう、また妻も夫に対して気むずかしくわがままにして、夫に離縁する原因あるいは必然性をつくり出すことのないようにするため、このような禁止の掟をお定めになったのである。

 現代ではこの罪はいっそう重い。それは、たとえ妻が離縁されたとしても、その夫が死なないかぎり、ほかの人がめとることは許されないからである。そして他人の妻を熱望する〔covet〕ものは、あるいはその夫の死を望むか、あるいは姦通を望むかの、いずれかの欲望〔desire〕にたやすく陥ってしまう。

 このことは婚約している女性についても同様である。すでに婚約している女性を自分のものにしようという欲望〔動詞:covet〕は許されない。それは、もっとも聖なる信仰による契約を踏みにじるからである。

 さらに、結婚している者を望むことが全く許されないのと同じく、神への奉仕と献身のために聖別された女性を妻にしようと望むことも決して許されない。

*サイト管理人注:英語翻訳版ローマ公教要理 十戒の部 (Catechism of the Council of Trent for Parish Priests (1923))における「欲望」の翻訳を以下、括弧〔〕にて加筆しております。

20 無知から他人の妻を望むことは罪ではない

 ところで、ある女性がほかの男性と結婚していることを知っていたならば妻にしようとは思わないのに、それを未婚であると思い、自分の妻にほしいと望む場合、その人はこの掟を破ろうとしていないことは明らかである。フアラオン(創12・15参照)とアビメレク(創20・2~3参照)の場合がそうであった。かれらは、サラはアブラハムの妻ではなく妹だと思い、かの女をめとろうと考えたのであった。

21 二つの掟によって命じられていること

 司牧者はこの欲望の悪を取り除くために調合された薬を明示するため、この掟のもうひとつの内容を説明しなければならない。それは、富を豊かにもっている場合にはそれに心を奪われることなく(詩62・11参照)、信仰と神的事柄のために犠牲にする心構えをもち、また困っている貧者を助けるために喜んで金銭を投げ出し(マ19・21参照)、一方、財産がない場合には、平静さと喜びに満ちた心をもって窮乏を耐え忍ぶことである。またわれわれのもちものを寛大に与えることによって、他人のものに対する欲望〔desire〕は打ち消されるであろう。

 なお、清貧の礼賛と富の蔑視について、司牧者は聖書と聖なる教父たちの著作から容易に多くのことを集め、信者に伝えることができるであろう(マ5・3、マル4・19、ル6・20、18・22~24、使4・34~35、5・1~4参照)。

 さらにこの掟は、主祷文の中で言われているように、われわれが望んでいること〔wishes〕ではなく神のお望み〔holy will〕がとくに実現されるよう、深い熱意と強い願望をもって願い求めることを命じている。神のお望みとはとくにわれわれが特別の努力をもって聖となること、われわれの心を真実のもの、なんのけがれもない清く完全なものとして保つこと、体の感覚とは相入れない心と精神の業にはげむこと、そして体の欲望〔appetites〕を抑制し、理性と精神に導かれて正しい生き方をし、さらにわれわれの欲望と欲情に材料を提供するあらゆる感覚の力を制御することである。

22 欲望によってもたらされる損失

 さて、これらの欲望からどのような損失を受けるのか、それについて考察することは欲望〔passion〕の激情を消すために大いに効果がある。

 第一の損失は、そのような欲望に従うことによって罪がその大きな努力と激しさをもってわれわれの心を支配するということである。そのため聖パウロは、つぎのような忠告を与えている。「罪の欲〔lusts〕に従うことのないように、死すべきあなたたちの体を罪に支配させるな」(ロ6・12)。実際、欲望〔passion〕に負けることによって、主をその御国から追い出し、その代わりに罪を迎え入れるのである。

 第二の損失は、聖ヤコボが教えているように(ヤ1・14~15参照)、この欲望〔concupiscence〕からいわば泉のようにしてすべての罪が生じることである。聖ヨハネも、「世にあるものはすべて、肉の欲〔concupiscence〕、目の欲、生活のおごりである」(ヨ①2・16参照)と言っている。

 第三の損失は、これらの欲望〔sensuality〕によって心の正しい判断が曇らされることである。人々は欲望〔passion〕のやみにとざされて盲目になり、自分が望むことはすべて正しく完全なものであると考えるようになる。

 さらに、あの偉大な農夫である神がわれわれの心にまかれたみことばは覆いかぶされてしまう。ルカ福音書には次のように書かれている。「またほかの人は、いばらの中に種をまかれた。この人もみことばを聞いた。しかしこの世の心遣いや、財宝への誘惑や、その他の欲〔lust〕に侵されて、みことばをふさがれ、それは実らないのである」(4・18~19)。

23 とくに第九・第十戒の対象になる人々

 さて他の人々以上にこの欲望〔concupiscence〕の悪習になやみ、したがってこの掟をいっそうよく守るよう司牧者が勧めなければならない人は、みだらな遊びに興じるものあるいは遊びに節度を保たないもの、また品不足や価格の高騰を期待したり、自分たちのほかに商人がいて思いどおりに高く売り安く買えないことを不快に思う商売人である。また自分が商売でもうかるように他の人々が窮地に陥ることを望むものも同じような罪をおかす。

 さらに掠奪をあてに戦争を期待する兵士たち、病人が出ることを望む医者たち、数多くの重大な事件や訴訟のあることを望む法律家たち、多くもうけるために日常生活に必要なあらゆるものの欠乏を望む職人も罪をおかす。

 また他人の評判を中傷することによって人々からの賞賛と栄誉を得ようと貪欲に望むものはひじょうに重い罪をおかす。そしてそれを望むものが卑劣で何の価値もない人間であるならば、なおさらそうである。名声や名誉は徳と努力の報いであり、無気力と怠惰の報いではないからである。