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ローマ公教要理 十戒の部 第十章 第九・第十戒 1-13 | 正しい欲望は有益、霊的欲望は禁じられていない、禁じられている欲望

 十戒の部 目次

第十章 第九・第十戒 あなたの近いものの家も、妻も、その男どれいも、女どれいも、牛も、ろばも、そのすべてのもちものも、むさぼるな(出20・17、第5・21参照)

1 第九・第十戒と他の掟との関連

 このさいごに命じられた二つの掟でまず注目すべきことは、ここには他の掟を守るための手段が与えられているということである。この掟は、これまでにのべた掟の命じることを守ろうとするものは、とくに「むさぼるな」ということを実行するように求めている。実際、むさぼらない人は、自分のもので満足していて、他人のものを欲しがらない。また他人の利益を喜び、不滅の神に栄光を帰し、深い感謝をささげる。安息日を聖とし、つまり永遠の休息を楽しむ。先祖を敬い、行いやことば、またその他いかなる方法をもってもだれにも危害を加えない。なぜならすべての悪の根源および種は邪悪な欲望〔concupiscence〕*であって、人々はそれに燃えてあらゆる種類の無秩序や罪に走るからである。これらのことに注目するとき、司牧者はこれ以後の説明にあたっていっそう熱心になり、また信者たちも、より注意深く教えを聞くようになるであろう。

*サイト管理人注:英語翻訳版ローマ公教要理 十戒の部 (Catechism of the Council of Trent for Parish Priests (1923))における「欲望」の翻訳を以下、括弧〔〕にて加筆しております。

2 第九戒と第十戒の違い

 この二つの掟の論拠が似ており、また教える内容が同じであるところから、二つをいっしょに取りあげたが、司牧者はそれらを教えまたすすめるにあたっては、自分が便利と思う仕方に従い、二つをいっしょにまたは別々に取り扱うことができる。しかし十戒の説明を考えているのであれば、この二つの掟の相違について、また二つの掟で言われている欲望〔covetousness〕の相違について説明すべきである。聖アウグスチヌスは「出エジプトの書注解」の中で、この相違についてのべている。

 ところで二つの欲望〔covetousness〕のうち、ひとつは有用で実益的なものを望ませる欲望であり、他は淫行や快楽に向かわせる欲望〔desire〕である。つまり土地や家をむさぼるものは、快楽というよりはむしろ利益や富を求めているのである。これに対して他人の妻を望むものは、利益ではなく快楽の欲求にひかれているのである。

3 二つの掟の必要性

 しかしこれら二つの掟は二重の意味で必要であった。二つの掟はまず、第六戒と第七戒の意味を説明するために必要であった。実際、姦通が禁じられていることから考えて、他人の妻を自分のものにしようという欲望 〔desire〕が禁じられていることは、自然的理性の光によっても分かる(そのような欲望が許されるならば、姦通も許されるはずである)。しかし多くのユダヤ人は罪のために盲目になっていて、神がお禁じになっていることを納得するまでにはゆかなかった。それだけでなく、この神の掟が公布され、それを知ったあとでも、掟の注解者を自認する多くの人々は、「あなたたちが知っているように、『姦通するな』と教えられていた。しかし、私は言う……」(マ5・27~28)というマテオ福音書の主のみことばから察せられるような誤りをしていた。

 これら二つの掟が必要であった第二の理由は、第六戒と第七戒の掟が一般的にしか禁じていなかったことを、くわしくはっきりと禁じるためである。たとえば第七戒は隣人のものを不当に望んだりあるいは奪おうとしてはならないと禁じている。しかしここでは、たとえ正当な仕方でまた合法的にそれを手に入れることができるとしても、そうすることによって隣人に損害を与えると思われるならば、決して望んではならないと禁じている。

4 ここには神の愛による配慮がみられる

 第九戒と第十戒の説明に入るまえに、これらの掟はわれわれに欲望 〔desire〕を抑制することを命じているだけでなく、さらにわれわれに対する神の無辺の愛を認識するように求めていることを教えなければならない。神はこれまでの掟をもって、だれもわれわれ自身およびわれわれのものを損わないよう、いわば一種のとりでを築かれたのであるが、さいごの二つの掟を加えられ、われわれが自分の欲望によって自分白身を害することのないよう、とくに配慮されたのである。実際、そのようなことは、何でも望み選ぶことが自由に許されるならば、容易にありうることである。そのため神はむさぼることを禁じるこの掟をお定めになり、普通われわれをあらゆる悪事にかり立てる欲望のとげがこの掟の力によっていわば鈍らされ、われわれを刺激しなくなり、こうしてこの欲望の煩悩から解放され、より多くの時間を神に対する信仰と敬神の務めに用いることができるよう、配慮されたのである。

5 真心をこめて掟を遵守すべきこと

 この二つの掟はさらに、神の掟は外的な義務の遂行によるだけでなく、心からの深い自覚をもって守らなければならないことをも教えている。これが人間による掟と神の掟との違いである。前者は外的な行為だけで十分であるが、後者は神が心をごらんになるところから、それを守る人の心の清さ、誠実さ、潔白さ、完全さを要求する。

 したがって神の掟は、われわれ人間性の悪習をうつし出す鏡のようなものである。望パウロは、「律法が『むさぼるな』と言わなければ、私はむさぼりを知らなかった」(ロ7・7)と言っている。実際、この欲望〔concupiscence〕はいわば罪の可燐物で罪から来たものであり、いつもわれわれの中に内在し、これによって自分が罪の中に生まれていることを認識する。そのためわれわれは、罪のけがれを洗い清めることのできるただひとりのお方に依り頼むのである。

6 二つの掟はそれぞれ二つの内容をもっている

 この二つの掟はそれぞれ、禁じられている内容と命じられている内容とをもっている点で、他の掟と共通している。禁じられていることについて言うと、だれも、肉に反対して霊を望む欲望〔concupiscence〕や(ガ5・17参照)ダヴィドが熱心に望んでいたように、いつも神の裁きを望みもとめる欲望のような罪悪でない欲望まで悪いと考えてはならない(詩119・20参照)。司牧者は、この掟で禁じられている欲望はどのようなものであるかを教えなければならない。

 ここでいう欲望とは、われわれが所有していない楽しい事柄へとわれわれをかり立てていく精神のある動きであり力である。われわれの精神の他の動きが必ずしもいつも悪くないように、この欲望もいつも悪いものではない。たとえば食べ物や飲み物を欲しがったり、寒いときに暖まろうとしたり、あるいは反対に暑いときに冷やそうとすることは悪ではない。このような欲望は正しいもので、神のお定めによって自然がわれわれに与えるものである。しかし人祖の罪の結果、歪められ、自然の限界を越えてしばしば精神や理性に反するようになったのである。

7 正しい欲望は有益である

 とはいえ、この力は節度と限界を保つならば、しばしば少なからぬ利益をもたらす。まず、われわれが強く望むものを、神への熱心な祈りをもって願い求めるようにさせる。祈りはわれわれの欲望〔wishes〕の代弁者である。したがって正しい欲望〔concupiscence〕がなかったとしたら、神の教会にはこれほど多くの祈りはなかったであろう。

 また神の賜物をわれわれにとってより価値あるものにする。なぜならあるものが欲しければ欲しいほど、手に入れるといっそう貴重なものになり、また満足をもたらすからである。

 さらに、望んでいたものを得たときに感じる喜びによって、人々はより深い信心をこめて神に感謝をささげるようになる。このように欲望〔動:covet〕は時として許されるのであるから、当然、すべての欲望〔concupiscence〕が禁じられているのではないと言うべきである。

8 「欲望は罪である」という聖パウロの言葉の意味

 聖パウロは、欲望〔concupiscence〕は罪であると言っているが、(ロ7・20参照)、それはモイゼが言おうとしている意味にとるべきである(出20・17参照)。実際かれの考えの中には、モイゼのことがあったのであり、それはかれの文面から明らかである。聖パウロはガラツィア人あての書簡では、この欲望を肉の欲望と呼んでいる。「霊によって歩め。そうすれば肉の欲〔lusts〕を遂げさせることはない」(5・16)。

9 霊的欲望は禁じられていない

 したがって、自然的で、節度があり、限界を越えない欲望〔concupiscence〕は禁じられておらず、肉に反する事柄の欲求へとかり立てる、正しい心のもつ霊的欲望〔desire〕はなおさら禁じられていない。聖書はこの霊的欲望を勧めて、「私の言葉を乞い求めよ」(知6・11)と言い、また、「私を慕うものはすべて私のもとに来よ」(集24・26ヴルガタ訳)と言っている。

10 禁じられている欲望

 このように、この掟では、善にでも悪にでも用いうる欲望〔desire〕そのものが禁じられているのではなく、肉の欲望〔concupiscence〕および罪の可燐物と呼ばれ、心の同意が伴うならば常に罪になるよこしまな欲望〔desire〕に従うことが禁じられているのである。つまり聖パウロが、「肉の欲〔concupiscence〕」(ガ5の16・19)と呼んでいるよこしまな欲望〔covetousness〕だけが禁じられているのである。このような欲望〔desire〕の働きは理性によって全く規制されず、また神がお定めになった限界にとどまらないのである。

11 欲望が禁じられているわけ

 このような欲望〔covetousness〕が断罪されているのは、それが悪つまり聖パウロがのべている姦通、酩酊、殺人、その他このような憎むべき罪を追い求めるからである。聖パウロは、「かれらがむさぼったように、私たちが悪をむさぼることをしないためである」(コ①10・6)と言っている。

 さらに、ある欲望が禁じられるのは、それ自体、悪くはないが、他の理由から望んではならないものに向けられるからである。そのようなものの中には、神と教会によって所有することを禁じられているものがある。なぜなら所有することが許されないものは、望むことも許されないからである。旧約の律法では、金や銀を望むことは禁じられていた。それらをもって偶像を鋳造していたので、神は第二法の書において、だれもそれらを望んではならないとお禁じになったのである(7・25参照)。

 これらの罪深い欲望〔desire〕が禁じられているもうひとつの理由は、それらが欲求する、家、男奴隷、女奴隷、畑、妻、牛、ろばおよびその他のものが他人のものだからである。それらは他人のものだからこそ、神の掟はそれらをむさぼることを禁じており、そのようなものに対する欲望は罪深いものであり、それに心の同意を与えるならば、重い罪をおかすことになるのである。

12 欲望が罪になる場合

 実際、悪い欲望の動きに従って心がよこしまな事柄を楽しみ、それに同意を与えたりまたはそれに抵抗しないとき、本当に罪になる。聖ヤコボは罪の起源とその進展についてのべながら、このことを教えている。「人は自分の中の欲望に誘われ、引かれ、まどわされる。その欲望がはらんで罪を生み、罪がおこなわれてから死が生じる」(ヤ1・14~15)。

13 この二つの掟の意味

 したがって掟は、「むさぼるなThou shalt not covet」と警告しているが、それは、われわれの欲望〔desire〕を他人のものからそらせなければならないという意味に解釈すべきである。他人のものに対する欲望という渇き〔thirst〕はひじょうに大きく、無際限で、決して満たされることはない。聖書にも、「富を好む人は富で得をすることがない」(伝5・9)とあり、またイザヤ書では、「……家に家を足し、畑に畑を加える。あなたたちは、わざわいなもの!」(5・8)と言われている。

 またこの掟のひとつひとつのことばを説明することによって、この罪の醜さと重さとがいっそうよく理解されるであろう。