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ローマ公教要理 十戒の部 第九章 第八戒 14-23 | 公正な裁判、被告・証人の務め、代理人・弁護について、偽りの言い訳

 十戒の部 目次

第九章 第八戒 あなたの隣人に対して偽証するな(出20・16、第5・20参照)

14 第八戒の第二の内容つまり公正な裁判について

 この掟の内容はまた、法律上の裁判を正しくかつ法律に基づいて行い、裁判を我がものにし歪めることのないよう求めている。聖パウロは他人のしもべを裁いてはならないと言っているが(ロ14・4参照)、それは事柄や問題を知らずに裁決することのないようにするためである。聖ステファノを裁いた司祭たちと、律法学士たちの協議会は、そのような過ちをおかしたのである(使七章参照)。またフィリッピの為政者たちも同じ罪をおかしている。かれらに向かって聖パウロはこう言っている。「私はローマ市民であるのに、なんの裁きもせずに、公然とむち打ち、牢に入れた。それなのに、いまひそかに出そうとするのですか」(使16・37)。

 金銭や贈物、憎悪や友情にほだされて、罪のない人を断罪したり、罪人を放免したりしてはならない。モイゼは民の審判者として立てた老人たちに向かってつぎのような忠告を与えている。「……人とその兄弟あるいは人と異国人との間に正しい裁きをしなさい。裁くときに、人を差別せず、勢力の弱い人にも、強い人にも耳をかたむけ、だれをもはばかるな。神の裁きだからである」(第1・16~17)。

15 被告の務め

 神は被告および犯罪人には裁判における正式の訊問に対して真実を告白するように求めておられる。なぜならアカンに真実を告白するようにすすめたヨズエのことばから分かるように、そのような告白は神の賛美と栄光の証しであり、いわば宣伝であるからである。ヨズエはこう言っている。「わが子よ、イスラエルの神である主に光栄を帰し、かれを敬え、何も隠さず、したことを打ち明けよ」(ヨズ7・19)。

16 証人の務め

 しかしこの掟はとくに証人に関するものであるので、司牧者はかれらについても入念に説明しなければならない。実際この掟の内容は偽りの証言を禁じているだけでなく、真実の証言をするように命じている。人間の諸問題において真実の証言はひじょうに大切である。われわれは証人のことばを信じる以外にどうしても知りえないことが無数にあるからである。したがって、われわれがいま知らないこと、また知りえないことに関する証言の真実性ということは何にもまして必要とされる。聖アウグスチヌスはこう言っている。「真実を隠すものとうそをつくものは、二人とも罪人である。前者は人のためになろうとせず、後者は人に害を与えようとするからである」。(4)

 時として真実をだまっていることもできるが、それは裁判以外でのことである。証人は裁判で法律に基づいて問われたならば、本当のことを明らかにしなければならない。そこで注意すべきことは、証人はあまり自分の記憶に頼りすぎて、はっきりしないものを確実なものとして断言しないことである。

 そのほか代理人、弁護士、代訴人、原告も同様である。

訳注
(4) Bernardus, de consid. ad Eug., lib. 2
グラチアヌスはこの文章を聖アウグスチヌスのものとしているが、これは間違いで、聖イシドルスの著作にもある。S. Isidorus, lib. 3, cap. 19

17 代理人や弁護士について

 代理人および弁護士は、人々が必要としているならばその奉仕と弁護を拒んではならず、貧しい人々を寛大に援助すべきである。不正な訴訟の弁護を引き受けてはならず、また中傷をもって裁判をおくらせたり、貪欲からそれを長びかせたりしてはならない。

 奉仕や弁護の料金は公正に取り決めるべきである。

18 代訴人や原告について

 一方、代訴人および原告は、愛情、憎悪あるいはその他の欲望から不正な中傷をもって、人を訴えるようなことのないよう忠告すべきである。

 さいごに神は、すべての人が交際や会話においてはいつも心からまことを語り、たとえ自分を傷つけ非難した人々であると知っていてもその人達の評判をおとさせるようなことを決して言わぬように命じておられる。かれらも自分と同じ体の肢体であって互いに一致と交わりをもっていることを思い起こすべきである。

19 偽りの醜さ

 信者たちがこの偽りを言う悪習からすすんで遠ざかるように、司牧者はかれらにこの罪のもつ大きな惨めさと醜さについて説明すべきである。聖書では悪魔がうそつきの父とされている。悪魔は真理において固まっておらず、うそつきであり、うそつきの父であると言われている(ヨ8・44参照)。

 これほどの罪を取り除くため司牧者は偽りによってもたらされる諸悪をあげて説明すべきである。その悪は無数にあるので、それらの災いや不幸の泉とも根源ともなるものをあげるべきである。まず、うそ偽りを言う人がどれほど神にそむきまた神に憎まれるかを示して格言の書はこう言っている。「神が憎む六つのことがある。神の御心がいとう七つのことがある。横柄な目、うそつきの舌、罪のない人の血を流す手、悪いことをたくらむ心、悪事に走る足、ざん言を吹聴する偽証人、兄弟の間を仲違いさせる人」(格6・16~19)。神がこれほどまでに憎んでおられる人を、果してだれが神罰から守ることができようか。

20 偽りは神に対する侮辱である

 つぎに聖ヤコボが言っている通り、泉が同じ口をとおして甘い水とにがい水とを出すかのように、同じ舌をもって主なる父を賛美しまた神をかたどって造られた人間を呪うのであるが(ヤ3・10~11参照)、これほどけがらわしくまた嫌悪すべきことがあるであろうか。実際先刻、神に賛美と栄光を帰していた舌が、今、うそをつくことによって、あらんかぎりの侮辱と誹謗とを神に浴びせるのである。

 そのためうそつきは、天の至福にあずかることはできない。これについてダヴィドは神につぎのように尋ねた。「主よ、だれがあなたの幕屋に入りましょうか」(詩15・1)と。これに対して聖霊はこう答えておられる。「心から真実を語り、舌でそしらない人」(詩15・2~3)と。

 ところで偽りのもっとも悪い点は、それが霊魂のほとんど不治の病であるということである。というのは、無実の罪をある人に着せたり、あるいは隣人の名誉や評判を傷つけたりしておかす罪は、中傷者が傷つけられた人に対してその侮辱を償わないかぎりゆるされないのであるが、すでに指摘したように、あやまった羞恥心や意味のない名誉心にかかずらっている人々にはそのようなことは難しく、したがってこのような罪の中にある人が、地獄の永遠の罰に処せられることは疑いないからである。実際、あるいは公に裁判において、あるいは個人的な日常会話において名誉や評判を傷つけられた人にまず償いをしないかぎり、だれも自分の中傷や悪口のゆるしを得ることができると期待してはならない。

 さらに偽りによる害はひじょうに遠くまで広がり、他の人々にまで及ぶ。つまりうそ偽りによって信用と真実とが取り除かれるのである。この両者は人間社会を団結させるもっとも固いきずなで、これが取り除かれるとき生活には大きな混乱が起こり人間は悪魔となんら異ならなくなる。

 また司牧者は、饒舌を避けるように教えるべきである。これを避けることはその他の罪をも避けることになるし、また偽りに対する大きな予防策になる。おしゃべりな人が偽りの罪を避けることは容易ではないからである。

21 偽りの言い訳をする人々について

 司牧者はまた、自分の偽りの言い訳をし、賢者たちの例を引いて自己弁護しようとする人々の誤りを正さなければならない。かれらによると賢者たちは適宜にうそをつくことをお手のものにしていたという。司牧者は、肉の賢明さは死であるという(ロ8・6参照)、きわめて真実なことばをかれらに伝えるべきである。そして信者たちに、困難や窮乏にあるときは神に信頼し偽りという技巧に走らぬようはげますべきである。なぜならこのような口実を用いる人は、神の御摂理よりも自分の賢明さに望みをかけていることをはっきりと示しているからである。

 自分の偽りを、先に偽りをもって自分をだました人のせいにするものに対しては、復讐は人間には許されないこと、悪に対して悪を返すべきではなく(ロ12・17、ペ①3・9参照)、また、たとえ復讐が許されたとしても偽りをもって復讐することはきわめて大きな害をもたらすものであり、自分に害を加えてまで復讐することはだれのためにもならないことを教えるべきである。

 また人間性の弱さやもろさを口実にする人に対しては、神のお助けを祈り求め、人間性の弱さに打ち負かされてはならないことを思い起こさせるべきである。さらに習慣をもち出す人に対しては、もし偽りを言う習慣があるならば、習慣や慣用によってうそをつく人は他の人々よりも重い罪をおかすのであるから、それとは反対の真実を語る習慣を身につける努力をするよう勧めなければならない。

22 他人の偽りは口実にならない

 また他の人々がいたるところでうそをつき偽証することを理由に自分のうそを弁護しようとする人がいる。かれらに対しては、われわれは悪人をまねるべきではなく、かえってかれらをいさめ改めさせるべきであり、もしわれわれ自身がうそをつくならば他人に対する忠告やいさめのことばは権威をもたなくなることをあげて、そのような考えから遠ざけさせるべきである。

 さらに真実を言うことによってしばしば迷惑をこうむったことをあげて自分のうそを弁解する人々に対して、司牧者はそのような言い訳は自己弁護というよりはむしろ自己非難であることを示してその誤りを取り除くべきである。キリスト者の使命はうそをつくよりはむしろ苦しむことにあるからである。

23 冗談や方便を偽りの口実にする人々について

 そのほかに自分の偽りを弁解する二種類の人がいる。そのひとつは自分は冗談でうそを言ったという人々であり、他のひとつは方便でうそをつくという人々、つまりうそなくしてはよい商売はありえないとする人々である。司牧者はこの両者をその誤りから引き出すよう努力すべきである。前者に対してはそのようなうそをつく習慣がどれほど罪の習慣を増大させるものであるかを教えることによって、またむだなおしゃべりはすべて清算しなければならないこと(マ12・36参照)を示すことによって、この悪習から引き離すべきである。後者に対しては、かれらを厳しく咎めるべきである。かれらは、「まず神の国とその正義とを求めよ。そうすればそれらのものも加えてみなお与えくださる」(マ6・33)というみことばを信頼せず、またその権威も認めないことを示しており、かれらの言う口実は自分の罪をいっそう重くするのである。