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ローマ公教要理 十戒の部 第二章 第一戒 16-34 | 聖画や聖像の使用は第一戒に背かない、聖画や聖像を崇敬すべきこと、「ねたみ深い神」とは

 十戒の部 目次

第二章 第一戒
あなたをエジプトの地から、奴隷の家から導き出したあなたの神である主は、私だ(出20・2、第5・6参照)

16 第一戒の後に続くことば

 この掟のあとには、「自分のために、なんの彫刻した偶像もつくるな、上は天に、下は地に、地の下は水の中にあるものの、どんなかたちのものも。それらの前にひざまずくことも崇敬を示すこともするな」(出20・4~5)と続いている。

 ある人々はこれをもうひとつの掟と考え、十戒のさいごの二つの掟をひとつにしようとした。しかし聖アウグスチヌスはさいごの二つの掟は別々のものであるとし、今のべたことばは第一戒に関連づけている。この意見は教会内で広く受け入れられているので、われわれも喜んでこれに従おう。またそのように考えさせるりっぱな理由がある。つまり第一戒とそれに伴う賞罰を同時にのべるのは当然のことである。

17 聖画や聖像を用いることは第一戒にそむかない

 さらに、第一戒によって聖画や聖像は禁じられていると考えてはならない。なぜなら聖画には神のご命令によって、ケルビム(出25・18、列①6・23~24参照)や、青銅の蛇(民21・8~9参照)の似姿や像をつくったことがしるされているからである。したがって像が禁じられたのは、それをあたかも神のようにして礼拝し、真の神への礼拝を損なわないようにさせるためであったと考えられる。

18 聖画や聖像の使用が第一戒にもとる場合

 さてこの第一戒について言うと、とくに二つの仕方で神の栄光はひどく損なわれる。そのひとつは、偶像や画像を神として拝んだりまたはそれらにある種の神性や力があると信じてこれを礼拝し、何かを祈願したり、それらに信頼したりすることである。このようなことはむかし異教徒の間で行なわれていたことである。かれらは偶像に自分たちの希望を託しており、聖書はいたるところでそれを非難している(イ10・10~11、40・18・25、知13・16~19、第4・16~19、使17・25など参照)。

 他のひとつは、神があたかも肉体の目に見え、色や形をもって表わせるかのように、なんらかの技巧を用いて神を形象化しようとすることである。聖ヨハネ・ダマスケヌスは、こう言っている。「目に見えず、体ももたず、決して空間に制約されることも、いかなる形象をもって描くこともできない神を、一体だれが表現できようか。」(4) この教えはニケア公会議でさらにくわしく説明されている。(5) 聖パウロははっきりと、異邦人は不朽の神の光栄を、朽ちる人間、鳥、けもの、はうものに似た形にかえた、と言っているが(ロ1・23参照)、それはかれらがそれらの像をつくり、それを神として拝んでいたからである。また子牛の像の前で、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの地から導き出した神である」(出32・4)と叫んでいたイスラエル人は、偶像崇拝者と呼ばれた。それはかれらが栄光の主を、かれ草をはむ牡牛の像にかえたからである(詩106・20参照)。

訳注
(4) S. J. Damascenus, de orth. fide., lib. 4, cap. 17
(5) Concilium Nicaenum II, Actio VII; DS 600-604

19 第一戒の第二部の意味

 そのため神は神々を礼拝することをお禁じになったのち、偶像崇拝を根絶させるため、青銅あるいはその他の材料を用いて神の像をつくることをお禁じになった。それについて預言者イザヤは、「神を、なにに、なぞらえ、どんな姿をとらせようか?」(イ40・18)と言っている。

 このような意味が第一戒に含まれていることは、第七の公会議でこのような解釈をした教父たちの著作だけでなく、第二法の書もそれを証明している。第二法の書によるとモイゼは民を偶像崇拝から遠ざけようとして、「ホレブで主が火のなかから話しかけられたとき、あなたたちにはなんの形もみえなかった」(第4・15)と言っている。この知恵に富む立法者がこう言ったのは、イスラエル人があやまって神の像をつくったり、神にささげるべき礼拝を被造物にささげたりしないようにするためであった。

20 三位一体のペルソナの聖画について

 しかしこのように言ったからといって、旧約聖書(創18・2、出33・23参照)や新約聖書(マ3・16、17・5参照)に出ているあるしるしを用いて三位一体のあるペルソナを表わすのは、敬神と神の掟にもとると考えてはならない。なぜならだれもその画像が神を具現していると信じるほど幼稚ではないからである。司牧者はその画像が、神に帰せられるある特性あるいは行為を示していることを教えるべきである。たとえばダニエル書(7・9~10参照)をもとに、日の老(お)いたおん者が座に着き、その前に本が開かれているのがえがかれているが、それは神の永遠性と、人々のすべての考えや行いを知りそれを裁く神の英知を表わしているのである。

21 天使の聖画や聖像について

 天使も人間の顔や鳥の羽をつけて表わされているが、それは天使がどれほど人間に対して好意的であるか、また神への奉仕においてどれほどすみやかであるかを信者たちに教えるためである。実際かれらはみな、救いの世嗣ぎになろうとする人々に奉仕するためにおくられた奉仕の霊である(ヘ1・14参照)。

22 聖霊を示す鳩について

 福音書(マ3・16~17参照)や使徒行録(2・3~4参照)に出て来る鳩や火のような舌の形象が聖霊の特性を示していることは明らかで、これについては長々と説明するまでもない。

23 キリストや聖人たちの聖画や聖像を崇敬すべきこと

 ところで、主キリストやその尊く清い御母、その他のすべての聖人たちは人間性を持ち、人間としての外見をもっておられたのであるから、かれらの聖画や聖像をつくり、これを崇敬することは第一戒によって禁じられていないだけでなく、いつも、熱心な魂であることの聖にして確実な証拠とされて来た。使徒時代の記念碑や諸公会議、また多くの博学な聖なる教父たちの著作も一致して、このことを証明している。

24 聖画や聖像の正しい用い方

 司牧者は、聖画や聖像に対する崇敬はその原型である人格に向けられるところから、それを教会に飾り、とうとびあがめることは許されていることを教えるだけでなく、ダマスケヌスが聖画および聖像について書いた著作や第七の公会議つまり第二ニケア公会議の教えから分かるように、この信心によってこれまで信者に与えられた大きな恵みについても教えなければならない。

 しかし人類の敵は欺瞞や陰謀をもっていとも聖なるならわしをすたれさせようと努めているのであるから、このことに関して信者たちの間になんらかの誤りがある場合には、司牧者はトリエント公会議の決議をもとにできるかぎりそれをただすように努力すべきである。そして事情が許すならば、決議そのものを信者たちに説明すべきである。また教養のない人や聖画や聖像の信心を知らない人には、聖画や聖像は旧約および新約の歴史を知りまたその記憶を幾度もくりかえし新たにするためにつくられたもので、われわれはこの神の恵みの記憶に刺激され神ご白身をよりいっそう熱心にあがめ愛するようになることを教えなければならない。教会内に飾られた聖人たちの聖画や聖像は、それによってかれらがあがめられ、またわれわれが聖人たちの模範にひかれてかれらの生活態度を自分のものにするようにさせるためである。あなたの神である主、私は、ねたみ深い神で、私を憎む人々の罪を、父の罪を三代と四代までの子孫の上に罰するが、私を愛し私のおきてをまもる人々に、その千代までもいつくしみを示す(出20・5~6)。

25 第一戒の説明として付加されたことば

 第一戒のさいごの部分においては、二つのことを入念に説明しなければならない。その第一は、この罰は第一戒にもとる罪の大きさを示し、この掟を破ろうとする人間の傾きを制するためこの箇所におくのは適切なことであるが、しかしこの付録はすべての掟に共通のものであるということである。なぜならすべての掟は賞罰をもってその規定することを守らせるからである。聖書にあれほどしばしば神による多くの約束があるのはそのためである。旧約聖書における無数の証拠は省くとして、福音書にはつぎのように書かれている。「あなたが命に入りたいのなら、掟を守れ」(マ19・17)。また、「天にまします私の父の御旨を果した人だけが、天の国に入る」(マ7・21)と言われ、さらに、「よい実を結ばない木はみな切りとられて、火に投げ入れられるだろう」(マ3・10)とある。さらに、「兄弟に怒る人はみな審判を受ける」(マ5・22)、「他人をゆるさなかったら、父もあなたたちの過失をゆるしてはくださらない」(マ6・15)ともある。

26 付録の説明の仕方について

 第二の点は、この付録の部分は完全な人々と肉的な人々には、それぞれ異なった仕方で説明しなければならないということである。

 神の霊によってみちびかれ(ロ8・14参照)、喜んですみやかにかれに従う完全な人々にとってこの付録はもっとも喜ばしい知らせのようなものであり、また自分たちに対する神のご好意の大きな証拠である。かれらはそこにある時は報酬をもってある時は罰をもって人々にご自分をあがめさせ、仕えさせようとする慈しみ深い神のご配慮を認め、またご自分の御名の栄光のために被造物を用いようとされる神のご好意を認めるのである。さらにかれらは、そのように認めるだけでなく、神はお望みのことをお命じになるとき、掟を守る力をもお与えくださるという確固たる希望をもっている。

 ところが、まだ奴隷の霊から解放されず、徳に対する愛着よりも罰を恐れて罪から遠ざかる肉的な人々にとって、この付録の内容は重苦しく厳しいものである。そのため司牧者は敬虔なすすめをもってかれらを助け、また、いわば手をとって掟のめざすところへと導いてゆくべきである。そして何かの掟を説明する機会があるごとに、今のべた事柄に留意して説明すべきである。

27 「力強い神」ということばについて

 さらにこの付録では、掟を守るように人々を刺激するいわば二本のとげが、肉的な人々のためにも霊的な人々のためにも与えられている。

 まず、「力強い神」と言われているが、これについてはつぎのように説明すべきである。しばしば肉は神のおどしを恐れず、神の怒りをのがれ示された罰を避けようとして、自分でいろいろな言い訳をつくり出す。しかし神は力強いお方であると心から納得するとき、ダヴィドとともにつぎのように言う。「あなたの霊を遠くはなれられようか。御顔からどこに逃げられようか?」(詩139・7)。また肉は時として神の約束に疑いをもち、敵の力を過大視して自分はとてもそれに耐えられないと思い込んでしまう。しかし神の力と権能に基づくゆるぎない確固たる信仰は何ものにも迷うことはなく(ヤ1・6参照)、かえって人々を活気づけ強める。「主は私の光、私の救い、私は誰をはばかろう」(詩27・1)と言われているとおりである。

28 「ねたみ深い神」とは

 もう一本のとげは、神のねたみである。時として人間は、神は人間のことには留意されず、われわれが掟を守ろうと守るまいと、それに気をおとめにならないと考えている(ヨブ22・13~14、詩73・11参照)。こうして生活に多くの不秩序が生じて来る。しかし神はねたみ深いお方であると信じ、それを黙想することによって、われわれは容易に義務の遂行に努めるようになる。

29 神のねたみとは何か

 ところで、神に帰せられるねたみは、決して魂の乱れを意味するものではなく、反対に、だれも罰されることなしにご自分から離れることを許さない神の愛と慈しみを意味している。実際、神を離れるものはすべて亡びるのである(詩73・27参照)。

 したがって神のねたみとは、誤った考えやよこしまな望みによって堕落した魂を遠ざけ、神との結合から姦通者としてしりぞける、いともおだやかで真摯な神の正義のことである。そしてこのねたみによって、われわれに対する神の最高かつ信じ難いほどの愛が示されるのであるから、神のねたみはわれわれにとっていともやさしく甘美なものである。人間の間にはこれほどあつい愛はなく、また結婚によって結ばれる結合もこれほど大きく強くはない。そのため神はしばしばご自分を婚約者や夫にたとえてねたみ深いものと呼び、どれほどあつくわれわれを愛しているかを示しておられる。したがって司牧者はここで、信者に、「私は万軍の神である主のために力のかぎり奮闘いたしました」(列①19・14)と言った人にならって、愛しているというよりはむしろねたんでいると言われるほど神の礼拝と奉仕に熱心でなくてはならないことを教えるべきである。こうしてかれらはまた、「あなたの家に対する熱心は私をくいつくすだろう」(ヨ2・17)と言われたキリストをまねるのである。

30 神の脅しの意味

 神による脅しにはつぎのような意味がある。つまり神は罪人を罰せずにはおかれず、あるいは親としてかれらをこらしめ、あるいは審判者として厳重に罰されるのである。このことをモイゼは別のところで、つぎのように言っている。「あなたの神である主が、まことの神であることを、あなたは知っている。ご自分を愛し、その掟を守る人々に対し千代までも、契約といつくしみをおあたえくださる忠実な神、ご自分を憎むものを直接に罰される神であることを」(第7・9~10)。またヨズエはこう言っている。「あなたたちは主に仕えることができまい。なぜなら主は聖なる神、ねたみ深い神であって、あなたたちの不忠実と罪とをゆるされないからである。もしあなたたちが、ほかの神々に仕えるために主を離れ去るならば、主はあなたたちに立ちむかい……わざわいをくだして、あなたたちを亡ぼしてしまわれるであろう」(ヨズ24・19~20)。

31 先祖の罪の罰は子孫にまで及ぶ

 付録では神の罰が罪人や悪人の子孫の三代、四代にまで及ぶと言われていることを信者たちに示さなければならない。しかしそれはいつも子孫が先祖の罪の罰を受けるというのではなく、罪人とその子孫が罪をおかした場合、その子孫全部が神の怒りあるいは罰を免れることはないであろうというのである。そのようなことはヨズィア王に起こっている(列②23・19~20、歴②35・24参照)。神はかれの格別な信仰をよみせられ、かれは平和のうちに死に先祖の墓に葬られ、かれの祖父マナッセの不信仰のためにユダとイエルザレムにふりかかろうとしていた後代の災いを見ないようにされた(列②24・3~4参照)。

32 子孫に及ぶことの意味

 さてこのみことばは、「罪をおかしたそのものが死ぬ」(エゼ18・4)という預言者のことばと、どのように合致するのであろうか。聖グレゴリウスは初代教会のすべての教父たちと口をそろえて、つぎのようにはっきりと説明している。「悪人の父の悪をまねるものはだれでも、父の罪に問われる。父の悪をまねないものは決してかれの罪を負わされることはない」。(6) つまり父と同じように悪人であるその子は、自分がおかした罪だけでなく、父の罪の分まで償わなければならない。なぜなら神が父の罪に対して怒っておられると知りながら、あえて父の罪に自分の罪を加えたからである。したがって厳格な審判者のもとにあって、悪人の父の生き方をまねたものが、現世において悪人の父の罪をも償わされるのは当然のことである。

 つぎに司牧者は、神の慈愛とあわれみがどれほどその正義を越えているかを思い起こさせなければならない。神は三代、四代にまでその怒りを及ぼされるが、しかしかれのあわれみは千代にまで及ぶのである(出20・5~6参照)。

訳注
(6) S. Gregorius, de Moral., lib. 25, cap. 31

33 掟を守らない人は神を憎んでいる。

 また付録では、「私を憎む人々」と言われているが、これによって罪の大きさが示されている。実際、最高の善、最高の真理を憎むこと以上に恥ずべきこと、憎むべきことがあるだろうか。しかしすべての罪人はそうしているのである。神の掟を保ち、それを守る人が神を愛するとするならば(ヨ14・21参照)、神の掟をないがしろにし、その命令を守らない人はまさしく神を憎んでいると言うべきである。

34 掟を守る方法と理由

 さいごに、「私を愛する人々」と言われているが、これによって、掟を守る方法および理由が示されている。つまり神の掟を守る人は、神に向かう同じ聖愛と愛をもって神に従わなければならない。このことはこれ以後のそれぞれの掟の説明においても思い起こすべきである。